2010年3月9日火曜日
雨情生家
野口雨情記念湯本温泉童謡館での、月一回のおしゃべりも今月で終わる。研究者でもない身で、あれこれ童謡詩人のことを調べて報告する。「たかが童謡」が「されど童謡」になり、「童謡」に生涯をかけた人たちの存在を知って、しばしば厳粛な気持ちになったものだ。
磐城平に5年あまり住んだ詩人山村暮鳥については、17歳のころから作品に親しんできた。野口雨情については、常磐湯本温泉で暮らしたことがある、といってもほとんど関心がなかった。童謡館の開館準備段階で目録づくりを手伝ったのを機に、調べ始め、情に厚い人となりを知るにつけ、全集だけでなく関連する本も読み漁るようになった。
そうすると、同時代の暮鳥との交流度合いが気になる。二人は何度か会っている。『定本野口雨情 第六巻』によれば、雨情が最初に暮鳥に会ったのは、暮鳥の磐城平時代だ。同じころ、雨情は湯本温泉で雌伏のときを過ごしている。そして、最後に会ったのは大正10(1935)年秋、大洗ホテルに滞在中だった親友を訪ねたとき。
「暮鳥氏の最も尊いところは、すべての物を真直ぐに見ることの出来たことです。この点に於て、又その境遇に於て、石川啄木と、人としても芸術としても一致点の多かったことを思はれて、ゆかしくなります」
それ以前のつながりはないものか。検索をかけたら、文芸誌「劇と詩」の明治44(1911)年6月号に名前を連ねていることが分かった。いや、筑波書林のふるさと文庫、野口存弥著『父 野口雨情』にちゃんとそのことが載っている。
雨情は詩「相馬宿場」を、暮鳥は詩「虞美人草」を発表した。2人は直接会わずとも、「劇と詩」を通して名前は承知していたはずだ。
「劇と詩」に作品を発表していた西宮藤朝、白鳥省吾らは、のちに暮鳥が平で発行する文芸誌「風景」の寄稿者になる。中央の雑誌を介したつながりが、暮鳥を触媒にして磐城平の雑誌を彩りあるものにした。
雨情が人と人とをつなぐ労をいとわなかったように、暮鳥もまた中央と地方とをつなぐネットワーカーとしてはたらいた。
過日、野口雨情の生家を見ておこうと思い立って、北茨城市へ出かけた。敷地の一角に、雨情も毎日見て暮らしただろうと思われる大木があった=写真。シイかカシか、はたまたクスノキか。照葉樹には特にうといので、樹種は分からなかった。が、蓄積された野口家の時間を象徴するような古木ではあった。
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