2010年3月12日金曜日
東京灰燼記
大曲駒村(おおまがりくそん=1882~1943年)の『東京灰燼記――関東大震災』(中公文庫)=写真=を読んでいるさなかに、チリ大地震が起きた。古今と東西の違いはあっても、大災害に襲われた人々の悲しみや苦しみ、怒りや無念さに変わりはあるまい。チリ大地震、あるいは先のハイチ地震と関東大震災を重ね合わせながら『東京灰燼記』を読み終えた。
『東京灰燼記』は、駒村が見聞した惨状の記録と新聞記事などの資料からなっている。震災翌月の10月には早くも仙台の印刷会社から刊行された。「死せる都の傍より、生ける田園の諸君へ」震災の全貌を伝えようとした真情の書でもある。
この本を手に取ったのは、しかし単に駒村の文章を読んでみたかったからにすぎない。駒村は福島県浜通りの小高町(現南相馬市)に生まれた。俳人にして銀行マン、のちに浮世絵と川柳研究で名をなす。小高町時代、この欄でも触れたことのある憲法学者鈴木安蔵の、父(俳人にして銀行マン)や俳人の豊田君仙子と交流があった。
鈴木安蔵と、山村暮鳥のお隣さん(新田目家)とは深い関係があった。「暮鳥とお隣さん」の縁で豊田君仙子、大曲駒村まで石が転がって行き、豊田君仙子については、お孫さんが開いているスナックに行ったこともあって、その顛末をこの欄で書いた。そのとき、駒村にも少し触れた。
『東京灰燼記』に浜通りから見舞いに駆けつけた人間のことが書いてある。
「九月四日、即ち大震第四日目の朝、夜警の疲れで床の中に倒れていると、ドヤドヤと福島県の田舎から見舞の人が遣って来た。相馬の旧友たち六人である。(略)六人が六人とも、大きな荷物を重そうに背負っていた。中には白米五升は勿論のこと、種々の罐詰、味噌、松魚節(かつおぶし)等が這入っているという」
「午後から新宿を訪なうこととした。(略)牛込まで来る途中、平からやって来た遠縁の者二人に逢う。いずれも大きな布袋を背負うてウンウン唸って歩いていた。この体で川口から四里半も歩いて来たので、疲れ切ったと言う」
首都圏に住む親類の窮状を知り、食糧を持って各地から上京する人たちがいた。相馬と平の知人・縁者の例から、そんな人が群をなしていたことが分かる。
話変わって、いわき地方史研究会は昭和47年、『大曲駒村遺稿 福島県日本派俳壇史』を刊行している。その序で豊田君仙子が振り返っている。「私は大正二年に福島師範を出て郷里に帰り、半谷絹村と共に駒村等の浮舟会の句会に出た」。駒村はそのあと、勤めていた小高銀行を辞めて別の銀行へ移り、やがて上京して大震災に遭遇する。
駒村は生前、よく仲間の句集出版などに尽力した。それを知ったいわきの俳諧研究者、故雫石太郎さんが駒村顕彰の志を引き継ぎ、公刊の思いを温めていたところ、いわき地方史研究会の事業として出版が実現した。図書館には「読まれるのを待っている本」がある。私には、この『福島県日本派俳壇史』がその一冊となった。
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