2010年11月21日日曜日

弥生山


私の兄事する知人から、「『弥生山』考」と題する冊子の恵贈にあずかった。「いわき地方史研究会」第47号に発表した文章の別刷りである。いわきの歴史を研究する知人が、江戸時代に書かれた「弥生山記」(漢文)を読み下し、その文章の成立過程と作者、文章が語ること、弥生山の位置などについて論究している。

「岩城の城主内藤忠興の嫡子、内藤義概が領内を巡り歩いて、城から三里ほどの処に、憩いくつろぐ場所として相応しい山を見出した。雑木を切り開くなどして山を整地し、桜の木を植え、この山を弥生山と名づけた。そのいただきにあずまやを設える事となり、それに因む文章を書くよう地図を示され、元良が依頼された」

知人が読み下し文をさらにかみくだいた「弥生山記」の冒頭部分だが、これだけでもかなりの情報が盛り込まれている。「岩城」は「磐城平藩」、内藤義概は俳号風虎、いわゆる「俳諧大名」だ。その風虎が城から少し離れたところにある雑木山を桜の山に変えた。江戸時代初期に早くも「桜の名所」づくりが行われたわけだ。

元良は「弥生山記」の作者で、義概と親交のあった臨済宗の僧(京都・南禅寺の274世住職)だという。徳川家康のブレーン、崇伝の後継者だったそうだから、当時、一流の知識人でもあったろう。

東日本国際大学のある鎌田山=写真=が「弥生山」と称されていたのは、歴史家の故佐藤孝徳さんから聞いていた。しかし、なぜ「弥生山」なのかがわからなかった。「『弥生山』考」でようやく納得がいった。

知人の文章にはこうもある。「かつて、鎌田山の植生を調査された植物学者湯沢陽一氏は、この山は確かに他と異なったところがある、と話していた由(佐藤孝徳氏談)。とすれば、江戸初期に行われた大量の桜の植栽が、その因をなしているのであろうか」

かつて、湯沢陽一、佐藤孝徳さんと私とで、田町(平の飲み屋街)に繰り出したことがある。湯沢さんが「鎌田山はちょっと不思議なところだ」と切り出し、佐藤さんが「鎌田山は別名弥生山、内藤の殿様が花見に興じた」と反応した。その酒席での語らいが、あるいは知人の文章に反映されているのかもしれない。

たまたまその酒席での様子を書いた20年前の記事があるので、抜粋して紹介する。

平・田町は、とある飲み屋のカウンター。週末の気安さもあって、高校の生物の先生と歴史研究家と三人でビールを飲みながら、いわきの植物研究史の話になった。

先生は植物の専門家。その先生からみると、平の鎌田山はちょっと不思議なところだという。ここからはバラ科のマメザクラ、モクセイ科のソウマシオジが発見されているが、それ以外の場所では自生の報告がない。つまり、この二種は鎌田山だけにポツンと存在していたことになる。

先生はそこで、ここに磐城平藩の「御薬園」があったのではないか、もしそうだとすると、この地にだけソウマシオジとマメザクラがあった理由も納得がいく、と推測する。

この仮説に歴史研究家が反応した。鎌田山は別名弥生山。平藩主内藤公がサクラの花を眺めて風韻に興じた場所だった、と。そのためにマメザクラが植えられた可能性はあるだろう。藩主の一族の内藤露沾に、「弥生山花」と前書きされた「えぼすうく花散しけり山桜」という句がある。鎌田山に遊んだ際の吟詠である。

弥生山、つまり鎌田山は、今でこそ新旧国道の切り通しで三つに分断されているが、昭和11年ごろまでは一つの山だった。同13年に旧国道の切り通し、およそ30年後の同42年には新国道(鎌田バイパス)の切り通しが完成している。

この工事で東南に切り離されてしまった弘源寺は、縄文前期の貝塚があったところとしても知られている。露沾はまたこの寺を「桜寺」と詠んだりした。そんなことを考え合わせると、鎌田山はいわきの俳諧史上でも、重要な位置を占める場所である。

酒場の止まり木から飛び立った夢想は江戸時代を駆けめぐり、弥生山を満開のサクラで埋めつくした。今は幻のソウマシオジやマメザクラだが、鎌田山はその昔、内藤公のためによく管理された“森林公園”だった。そんな気がしてならない。

――以上のような文章だが、これに知人の論考を重ね合わせると少しは「弥生山」の輪郭がはっきりするのではないだろうか。蛇足ながら、参考までに紹介した。

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