2010年11月4日木曜日

若松光一郎展


いわき市立美術館で「若松光一郎展――律動する色彩」がきのう(11月3日)始まった。午後3時から座談会「若松光一郎の思い出」が開かれる、先着40人、というので、2時半には会場の美術館3階セミナー室に入った。

出演者は妻の若松紀志子さん(音楽家)と娘の中川素直さん(音楽家)、それに鈴木邦夫さん(画家)。美術館の佐々木吉晴副館長が司会した=写真。座談はあっちへ転がり、こっちへ転がりしながら進み、たびたび笑いが起きた。

と書きながら(実際にはキーボードをたたきながらだが)、どうも「さん」では心苦しい。やはり、先生でいく(と決めた)。

福島高専がまだ平高専のころ、紀志子先生から音楽の授業を受け(1年生)、光一郎先生から美術の授業を受けた(2年生)。そのあと、学校で同人雑誌を始めた先輩らとしばしば、平・旧城跡の若松家にお邪魔した。先生に雑誌の表紙までつくってもらった(今思うと震えがくる)。ざっと45年前の話だ。

17歳か18歳だったわれら学生は、主として光一郎先生から、当時、先端をいく画家や音楽家を教えられた。画集を開いては「これが菅井汲」、LPをかけては「武満徹」「黛敏郎」……。

「菅井の絵を見なさい」「武満や黛の音楽を聞きなさい」ではない。こういう人間がいるよ――そんな“つぶやき”がかえって深く心に刻まれた。武満徹の音楽はそうして、LPを買うなどして聞いた。

一方の紀志子先生には、私が適当につくった私的な高専陸上競技部の歌(詩は1年先輩のもの)の楽譜をみてもらい、ピアノでぼろんぼろんとやりながら、「ここはこうでなきゃ」と言葉のアクセントと音の関係を教えられた。今ふと思いだしたが、「東」が「干菓子」の音になっている、というのだった。

座談会が終わり、1時間後の5時半に「若松光一郎展」のオープニングパーティーが始まった。あとで紀志子先生にあいさつに行った。95歳。こちらを見た瞬間、ニコッとして「道で会ったらすぐ思い出せる人間と、思い出せない人間がいるの。あなたはすぐ分かる」。そういえば、道で会うたびに「ああら、元気?」となる(なった)。ありがたいことだ。

両先生とは、10代は学生、20代以降は社会人として、折に触れて顔を合わせてきた。なかでも思い出深いのは、私が学校を飛び出して東京へ行ったあと、光一郎先生から毎年、個展の案内状が届いたことだ。20歳前後のことである。

東京であれば個展の会場へは行きやすい。行けば、多少は近況を報告する。それだけで、あとは静かに絵を見て、説明を受けたり、絵の感想を言ったりする。

あるとき、そこへパンナムのスチュワーデスが来た。ひととおり見たあと、私に声をかけた。「作者はあなた?」。画廊の従業員(女性)が「いいえ、こちらの方です」と、そばにいる光一郎先生を紹介した。

私は、はやりの長髪だった。一見、らしく見えたのだろう。が、スチュワーデスの次の言葉にみんなで大笑いした。「私もそう思ったわ、あなたは若すぎるもの」

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