2011年2月23日水曜日
天平という人
去年暮れ、いわき市立草野心平記念文学館から「草野天平の作品とふるさと」というテーマでしゃべってくれ、という電話が入った。「オレは天平を読んでないよ」と言っても引き下がらない。「天平のいた小川の自然について語ってください」。それならば、というわけで引き受けた。
今度の日曜日(2月27日)午後1時半から、小川町の「心平生家」=写真=でしゃべります。PRです。時間があったらおでかけください。
天平は心平の弟。心平同様、詩人だ。マイナーが当たり前の詩人の世界で、心平はとびぬけてメジャーになった。天平はマイナーな詩人のなかでも、さらにマイナーな存在だ(と私は認識している)。要は、知る人ぞ知る。いや、知らない人が多い。
あまりにも「詩」を信じすぎている。「言葉なんて覚えるんじゃなかった」という詩人の対極にある。そう思っているので、私は天平のいい読者であるはずがない。それに、天平の詩を読むと打ちのめされる。ますます読まない。
それはこういうことだ。言葉を削って削って、もう言葉がないというぎりぎりのところに詩句が展開している。すごいことだが、俗世間にどっぷりつかっている私は、ついつい「ねばならない世界」を感じてしまって敬遠する。「ここまで自分を追い詰めなくてはだめなのか」。そんなことを感じてめいってしまうのだ。
が、逆も真なり。こちらがぼろぼろになっているときに天平の詩を読むと救われる。頑張らなくては、というエネルギーをもらえる。同じ詩句でも、そのときの心のありようで受け取り方は全く異なる。不思議なものだ。
そんなことが10年にいっぺんくらいはある。20代で読み始め、敬遠して間歇的に立ち返り、文学館から言われて初めて、本気になって天平の詩と向き合った。発見したことがある。
私は「歩く人」が気になって仕方がない。ウオーカー(散歩者)を尊敬する。天平も、同じ小川ながら平地から夏井川渓谷まで平気で歩くウオーカーだった。その一点にしぼって話すことにした。
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