2011年2月10日木曜日
磯貝弥は郡山育ち
大正元(1912)年9月、磐城平に赴任した山村暮鳥は「キリスト教」と同時に「文学」の伝道を開始する。それに呼応した一人が文学少年の磯貝弥(わたる)だった。弥は暮鳥に将来を嘱望されるが、数え25歳で病没する。
おととし(2009年)の春分の日、カミサンの先祖の墓を詣でたら、かねて「磯貝弥は大伯父」という知人に遭遇した。すぐ近くに弥の墓があった。そのいきさつは去年、春分の日が近づいた3月19日に小欄で「磯貝弥の墓」と題して書いた。きょうはその続編。
先日、知人が弥ほか墓誌名にある先祖の没年月日と法名・俗名をメモした紙片をわが家に持参し、聞き知っているかぎりの話をしてくれた。
この2年間、折に触れて磯貝弥関連の資料を探索したものの、成果はまったく得られなかった。が、灯台下暗し。四半世紀も前に故里見庫男さん(当時は旗揚げして間もないいわき地域学會の代表幹事)からいただいて、そのままにしておいた大正~昭和初期の同人詩誌(コピー)をぱらぱらやっていたら、手がかりがあった。
大正13(1924)年1月15日発行の「みみづく」第2年第1号(通巻3号)=写真=に、弥と同じく暮鳥に師事した佐々木顕が「磯貝弥氏の書簡」と題して、顕あて9通の書簡を紹介している。書簡には短いコメントが付されていて、これが大いに役立った。
知人がやって来たときに、「みみづく」で得られた疑問をぶつける。弥自身については、それほどの進展はなかったが、周辺情報は一気に増えた。
現磐城桜が丘高(旧磐城女子高)は、明治37(1904)年に開校した私立磐城女学校が前身。その初代校長川島至善の長女が弥の母親だった。つまり、弥は至善の孫だ。長女は現郡山市湖南町の磯貝家に嫁ぎ、男3人を産む。弥は次男。やがて母親は子どもたちをおいて離婚し、郡山で助産婦の資格を取り、磐城へ帰って綴町(現いわき市内郷)で開業する。
弥は父のもとで育ち、長じて磐城の母のもとへやって来る。佐々木顕のコメントからはそのへんの消息がうかがえる。弥が亡くなると、今度は弟(三男)が母のもとへやって来た。知人の祖父にあたる。縁故のない土地で社会的地位を得たが、そのための刻苦勉励は大変なものだったろう。
細かいことは省略する。弥の墓、つまり磯貝家の墓は川島家の墓に併設されたこと、弥は死の直前、磐炭会社綴製作所(現常磐製作所)に勤めていたことを紹介して、ひとまず筆をおこう。
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