2011年4月3日日曜日
原発難民⑦
【帰還】
避難所暮らしが5日目に入るころから、帰宅を考えなければ、という気持ちが強くなってきた。目安は3連休最終日の春分の日だ。墓参りがある。服用している薬も残り少ない。息子のヨメサンも3月23日で「自宅待機」が終わる。それらが重なって心は「帰還」へと傾いた。
それでも、ためらいがある。「孫のヘルパー」が理由とはいえ、自治会(区)の役員をしていながらいわきを離れた、という後ろめたさもある。いろんな感情が波のように寄せてはかえっていく。
で、春分の日にはぐずぐずとなって帰還を見合わせた。避難所の国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家からいわきの方に手を合わせ、墓参の代わりとした。私ら夫婦は、春分の日までに帰ることを息子一家に告げていた。息子たちは? ヨメサンは私らと一緒に帰るという。それで逡巡した。
息子と孫2人が避難所に残るという選択肢もある。が、父親は母親とは違う。辛抱強く子どもたちと向き合えるだろうか。どちらもストレスがたまるのではないか。若い夫婦で話し合ったのだろう。23日、そろって帰ることが決まった。
さて、帰るとなると、車のガソリンが心配だ。燃料計の針は「E(空っぽ)」からわずか4つめの目盛を指しているに過ぎない。車載の取扱説明書を初めてじっくり読んだ。
で、ガソリンの容量は42リットルあることを確かめる。次に、燃料計の目盛を数える。25あった。25で42を割れば、一目盛当たり約1.8リットルということになる。車はフィット。「リッター20キロ」としてガソリン残量7.2リットル、140キロ超は走行が可能だ。いわきへの最短コース、国道289号を利用すればガス欠をせずに帰宅できるだろう。
午前10時。相部屋になったいわき市四倉町のご夫妻(わが孫たちの「第三のジイバア」)にあいさつし、20年ぶりで再会した後輩にはケータイで別れを告げ、事務室にいとまごいをして施設をあとにした。息子たちは白河市の知人に会って帰るというので、最初から別行動をとる。
西郷村は阿武隈川の源流域。国道289号に出ると、名勝「雪割橋」の案内標識があった。289号から少し入ったところにある。川にこだわる癖が出て寄り道をしようかと思ったが、ガソリンがギリギリだ。カミサンが眉をひそめる。状況がよくなったら、あとでゆっくり訪ねることにして先を急ぐ。
ただひたすら南東方向のいわき市へ――。西郷村~白河市~棚倉町~鮫川村へと進んだところで、燃料計のスタンドマーク(燃料残量警告灯)が点灯した。
警告灯は残り7リットル前後で点灯すると、取扱説明書にあった。ということは、油は10リットルほど入っていたのではないか。少なくとも取扱説明書からはそんな計算が成り立つ。フィットの性能を信じているから不安はない。
いわきへ入り、国道6号バイパスにのる。ガス欠になるならバイパス沿いの「いわき清苑」あたりがいい。若い知人がいる。そこに飛び込めばなんとかなるだろうと思いつつ、正午すぎにはバイパス終点近くのわが家へ帰還した。
水道は断水したままだった(25日には復旧=写真)。あしかけ9日間の避難所生活はひとまず終わり、すぐさま放射線物質を浴びる生活が始まった。4歳と2歳の孫を第一に考えながらも、やること、やらなければならないことがある――開き直って、「平常心」という言葉を胸に刻んで、暮らすことにした。
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