2011年4月5日火曜日

大災害のあと


「3・11」以来、繰り返し胸中に浮上してくる記憶がある。55年前の昭和31(1956)年4月17日、ふるさとの現田村市常葉町を襲った大火事の「残像」だ。

『市民が書いたいわきの戦争の記録――戦中・戦後を中心に』(旧題『かぼちゃと防空ずきん』=発行・いわき地域学會、発売元・歴史春秋社)に寄稿した拙文から、抜粋・整理して紹介する――。

夜7時10分。東西に長く延びた一筋町にサイレンが鳴った。祖母が台所に立ち、こたつを囲んで晩ご飯を食べようという矢先だった。消防団に入っていた父が飛び出していく。母と弟は親類の家に出掛けていない。残ったのは祖母と小学5年生の兄、そして私だけ。私は小学2年生だった。

火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒々しくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

犬が吠え続け、人間のシルエットがせわしなく行ったり来たりしている。これは手におえないと大人たちはすぐわかったに違いない。「◎◎ちゃん、なにしてんだ」。パーマ屋のおばさんが怒鳴った。私はハッとわれに返り、家に入ってランドセルを背負うと、おばさんたちとともに家並みの裏の段々畑に避難した。

通りからは100メートルも離れていない。烈風を遮る山際の土手のそばで、みんな(といっても10人前後だったか)、かたずをのんで炎の荒れ狂う通りを眺めている。知った顔も、知らない顔もいる。黒毛の和牛もいる。大事なものを少しばかり手に持っているほかは着の身着のままだ。

やがて炎はわが家のあたりをなぶりにかかった。わが家の柱が燃え、倒れるのをこの目に焼きつけながら、私は<買ってもらったばかりの自転車が、自転車が>と、のどぼとけの奥でつぶやくしかなかった。赤ん坊のときから小1までの写真も、ペッタも、何もかもが灰になった。(オレはどんな顔をした赤ちゃんだったのかと、還暦を過ぎた今も思う)

わずか5時間で住家・非住家約500棟が焼失した。一夜明けると、見慣れた家並みは影も形もなかった。一面の焼け野原である。あちこちで焼けぼっくいがくすぶっているほかは、すべてが灰になった。灰の町になって、遠くの方まで見渡せる。初めて見る風景の異様な広大さだ。

――大地震と大津波に襲われ、集落全体ががれきと化した東日本太平洋沿岸部の凄惨な光景(写真=いわき市平豊間地区)に、テレビが映し出す被災地の惨状に、55年前の「残像」が重なる。

大火事では、少し心身が不自由だった隣家のおばさんが焼死し、重軽傷者が数人出たほかは、人的被害はなかった。損害額は当時のカネで3億7,000万円。東日本大震災は、それとは比較にならないほど死者・行方不明者の数が多く、損害額も大きい。

復旧のテンポはどうか。がれきの町は灰の町の何倍も遅いだろう。更地同様の灰の町と違って、がれきの町は更地にするまでが一仕事だ。そのうえ、いわき市は壊れて放射線物質を出し続ける原発の直近である。文字通り「天変地異」の重苦しさを抱えながらの作業となる。

当事者としての経験からいうと、大災害はあとあとまで影響する。当初の物質的、経済的な困窮は、これは仕方がない。それはいずれ解決する。といっても、8歳の少年には、そんなことは理解できなかったが。

その後の家族の歩み、つまりそれぞれの人生――これは、神様が与えた試練だったのだと、半世紀がたった今は思うのだが、しばらくは、いや大人になってからも心穏やかではいられなかった。親たちはその何倍も心塞ぎ、ため息をつき、打ちひしがれたことだろう。現に、理容師の父親は家の再建のために小名浜への出稼ぎを余儀なくされた。

大火事の一夜を境にして、それぞれの家の暮らし向きが変わった。それぞれの人間の生き方・考え方が変わった、あるいはいやおうなく定まった。東日本大震災でも事情は同じだろう。子どもたちがやがて大人になり、自分の人生を振り返るころ、東日本大震災を境になにかが変わったことを知るはずである。

ヒロシマの原爆を体験した原民喜の「夏の花」にこうある。

<たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。苦悶の一瞬足掻いて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。(略)さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである>

大火事のあとにも、超現実的な家畜の焼死体をいっぱい見た。わが家のあった灰の中から、とろけてぐにゃりと曲がった十円玉も拾った。火と水の違いはある。にしても、大津波のあとの風景もまた超現実的だった。

大火事の記憶はいつも胸底から不意に現れる。思い出したくなくても、不意にやって来る。その繰り返しの中で世界観の一部が培われてきたように思う。一切は灰になる。形あるものは壊れる。

阪神淡路大震災がおきたときに、初めて私は幼いときの大火事と向き合えるようになったのかもしれない、と思った。それは、圧倒的な人的・物的被害に射すくめられたからだろう。東日本大震災はそれをはるかにしのぐ。震え、おののき、助かった。そして、再び灰の町の記憶に学ばなければならないと感じている。

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