2011年4月18日月曜日

墓参り


「春分の日」には西郷村の那須甲子青少年自然の家にいた。「原発難民」だった。いわき市平の、カミサンの先祖の墓参りができなかった。1カ月余り遅れたが、日曜日のきのう(4月17日)、死んだ人たちに会いに行った。

死んだ人もコミュニティの一員。ときどき、私は死んだ人たちと話をする、いや、したつもりになる。死んだ人を思い浮かべ、こういうときにはどうしたらいいか――こうせよ、ああせよ、という答えはもとよりかえってこない。が、顔を思い浮かべるだけで対話をし、答えをもらったつもりになる。すると、現実に立ち向かう力がわいてくる

巡った墓は五つ。カミサンの先祖とその係累、家族でよく会いに行った老彫刻家、大正時代に若くして死んだ詩人、元職場の会長。

行って呆然とした。少なくない数の墓石が倒れ、落ちていた。五つの墓のうち、ほぼ無傷だったのは、戊辰の役で亡くなった先祖の係累、若者(信士)の小さな墓だけ。義父母たちが眠る墓は、一つを残して竿石がすべて倒れていた=写真。義弟から話は聞いていた。が、現実は想像を超えていた。墓地は魂のやすらぎの場ではなくなっていた。

「春分の日」に墓参りができた家はどのくらいあっただろう。花のない墓がほとんどだった。「3・11」直後に発生した福島第一原発の水素爆発に、市民は生存の危機を感じた。逃げてしばらく帰らなかった、という人がかなりいる。私たちもそうだった。「春分の日」には遠く避難先から手を合わせるしかなかった。

日曜日、私たちと同じように墓参りに来た女性と連れ合いがいた。知らない人だ。すれ違うと、「こうして墓参りに来られるのはいい方だよね」。なぜか高揚した口調で語りかけてきた。

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