2014年8月22日金曜日

昭和9年の平七夕

 盆上がりに2~3日、自分の自由になる時間ができた。日曜日(8月17日)に夏井川渓谷から小野町へ駆け上がり、あぶくま高原道路を利用して、道の駅ひらたまでドライブしたほかは、あらかた家でじっと暑さをしのいでいた。

 月曜日。思い立って、いわき市立図書館のホームページを開き、戦前のいわき地方の新聞で「平七夕」の記事をチェックした。

 去年(2013)3月、図書館のホームページがリニューアルされ、<郷土資料のページ>が新設された。新聞・地図・絵はがき・企画展示・その他――の5つのジャンルがある。とりわけ、大正~昭和時代の地域新聞が電子化されたことで、当時の調べが容易になった。いちいち図書館へ出かけて閲覧の手続きを取らなくて済む。

 昭和初期10年間の新聞のうち、何紙かについて、8月に絞って目を通した。昭和9(1934)年8月18日付(17日夕刊)の磐城時報は、1面で「新名物の七夕祭/磯原、植田から団体見物/今夜最後の人出予想さる/中心は三町目新田町」と報じる=写真。15日付(14日夕刊)の予告記事には「本(町、が脱落?)通り一帯の/松焚は絶対禁止/盆名物の松焚に代って/明日の七夕祭」とある。

 平七夕まつりの起源について、大正年間ではなく、昭和初期としぼりこんだのは、いわき地域学會の小宅幸一さん。同学會の会報「潮流」(2014年4月刊)に発表した論考を基に、7月19日の同学會市民講座で「平七夕まつり考」と題して話した。

 8月5日付小欄でも触れたが、昭和9年・本町通りの舗装化で盆行事の「松焚き」が中止になる。それに代わる集客イベントとして「七夕まつり」が企画された。同10年には平商店街全体で七夕まつりを実施するようになる――小宅さんの論拠になった新聞記事を、図書館の<郷土資料のページ>で、いながらにして、即座に確認できた。

 お盆の一日、カミサンの実家で過ごした。書棚に『いわき市と七十七銀行――平支店開設70周年に当たって』(七十七銀行調査部、平成元年発行)があった。前にも読んだ記憶がある。小宅さんの話を聴き、ブログにも書いたばかりなので、再読した。
 
 平の七夕に関する記述は、本文にはなかった。が、掲載写真のうち2枚が平七夕関連だった。
 
 1枚は「七十七銀行平支店の七夕飾り(昭和5年)」のキャプションが付いており、宝船に乗った七福神と思われる七夕飾り(造形)を撮影したものだ。もう1枚は本町通りの七夕飾りを撮ったもので、キャプションには「昭和12年の平七夕、仙台市から昭和5年に移入した」とある。論拠は示されていないが、七十七銀行は「昭和5年移入」説をとっている。
 
 昭和10(1935)年8月6日付磐城時報には「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」とある。七十七銀行の記念誌と当時の新聞記事から、平七夕まつりは昭和5年以降に起源を求めるのが妥当だということがわかってくる。なにせ昭和9年時点ではまだ平の七夕は「新名物」にすぎなかった。
 
 七十七銀行が平支店を開業するのは大正8(1919)年。その開業年と平七夕まつりの起源がいつの間にかごっちゃになった――そのことをいよいよ確信した。何の疑いも持たずに前年の記事を踏襲して「大正8年」説を流布する新聞も、2~3時間調べれば、いや検索すれば、記事の間違いに気づくのだが。来年、より正確な記事が出ることを待つしかないか。

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