2014年8月10日日曜日

豊間の夜は更けて

 若いときからつきあいのある豊間の大工氏から、電話がかかってきた。東京から人が来る、いつものように作業所で飲み会を開くので、来られるなら来て――という。きのう(8月9日)のことだ。

 大工氏の家は残ったが住めない。隣接する作業所も津波に襲われた。彼は日中、その作業所で仕事をし、夜は内陸部の借り上げ住宅に帰る。いわきで支援活動をしているシャプラニールとつながり、私ら夫婦と3人で東京へ行って話をしたり、東京からツアーで来た人たちを迎え入れたりした。
 
 被災から満1年の2012年3月11日夜、豊間海岸でキャンドルナイトが行われた。闇夜に明るく「と」「よ」「ま」の文字が浮かび上がった。その燭台をつくったのが大工氏だ。彼の仲間も、急きょ「とよま龍灯会」を結成し、イベントの裏方として奮闘した。その日、陣中見舞いを兼ねて作業所を訪ねると、手伝いを頼まれた。そのままイベントの終了まで豊間にいた。

 シャプラニールの縁、大工氏の縁で、東京と豊間に新しい友達ができた。東京の友達はすっかり「いわきリピーター」になった。豊間を毎年訪れている。きのうやって来たのは、そのうちの3人だ。龍灯会のメンバーとも「旧知の間柄」で、3人は近所の家にホームステイをした。

 作業所にはさまざまな角材が積み上げられ、板材が立てかけられている。毎度のことで、長い作業台が飲み会の食卓に変わる。倉庫兼仕事場といった雰囲気が、客人をリラックスさせる。豊間の壮年組にとっても格好のたまり場になる。
 
 命からがら逃げた大工氏本人の津波体験談は前に聞いた。作業所はどうだったのか。1.5メートルほど浸水したという。飲み会の食卓として利用している作業台は完全に水没した。作業所の内外がガレキなどでめちゃくちゃになった。

 その話に刺激されて、最初のキャンドルナイトの晩、作業を手伝いながら聞いた「龍灯会」の面々の問わず語りを思い出した。「去年の今ごろは……」。前にも書いたことだ――大津波が押し寄せ、一帯はガレキの山と化した。ずぶぬれになり、血だらけになって歩いている人がいた。ガレキの中で息絶えている人がそこかしこにいた。
 
 そして、それから1年後のキャンドルナイトの会場で――。「こんなに明るいんだから、おばちゃん、(海から)出てきな」。そう海に語りかける人を、カミサンが目撃した。
 
 私ら夫婦はゆうべ、10時には辞去したが、作業所はその後もしばらく明かりがともっていたことだろう。豊間の夜は更けて、語らいはいよいよ佳境に入って……。帰路、塩屋埼灯台の光だけが時折、闇を切り裂いていた。

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