2017年3月18日土曜日

硫黄島の日章旗

 両親のきょうだい、つまりオジ・オバは7人。うち1人は母親の実家の鴨居に飾られた軍帽・軍服姿の遺影で知っているだけ。母の兄だ。
 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年2月19日、米軍が硫黄島に上陸を開始する。それからおよそ1カ月後の3月17日、大本営は同島守備隊の玉砕を発表する。実際にはその後も戦闘が続いた。組織的な戦いが終結するのは同26日(ウィキペディア)。鴨居のオジはこの島で戦死した。母は「兄が夢枕に立って言った」ので病死、と信じ込んでいた。

 先日、いわき市暮らしの伝承郷を訪ねた。ロビーに硫黄島戦没者の日章旗が展示されていた=写真。

 解説文によれば、戦いが終わったあとに米兵が日章旗を持ち帰り、平成18(2006)3月、硫黄島で行われた日米合同の戦没将兵追悼式でアメリカから返還された。

 旗には「縣社飯野八幡神社」「縣社子鍬倉神社」「閼伽井嶽」といった文字が墨書されている。戦前、平・祢宜町にあった田辺製作所(軍需関連の鉄工所)の従業員らの名前が記されている。戦地へ赴く故人に職場の同僚または友人が名前や短歌を寄せ書きし、贈ったものと推測されている。

 引き取り手のない遺品は靖国神社に奉納される。で、平遺族会が「所持者ゆかりの地のいわきに」とはたらきかけて、アメリカ大使館から日章旗の引き渡しを受けた。父親が硫黄島で戦死した私の年長の友人らが尽力したのだろう、遺族会がいわき市教委に寄贈し、伝承郷で保管されている。3月の硫黄島の戦いを思い起こし、死者を追悼する意味合いを込めた展示でもある。

 22年前、「硫黄島五十回忌」を前に書いた拙文から――。同島の戦いでは、日米双方に2万人を超える戦死傷者が出た。福島県人も854人が死んでいる。硫黄島の戦没者は、大多数が玉砕を報じられた3月17日が命日だ。その日を前に、友人が五十回忌の記念誌を編んだ。「歳月がいかに流れようとも、戦争で肉親を失った者の感情は決して風化されはしない。私にとっての『戦後』は、まだ終わっていないのである」

 生前ついに言葉を交わすことがなかった子が、父の生きたあかしを記録にして残す。それは父を知り、父と対話する心の旅でもあった。その友人の歌。「父の果てし島にようやくたどり来ぬ出征の日の乳飲み子われは

 今、「硫黄島」に「東日本大震災」を加えて、3月の悲しみを思う。

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