2025年8月30日土曜日

胃袋の役目

                                
   晩酌は焼酎。まずはグイッと口に含み、すぐ冷たい水をチェイサーとして流し込む。最初から水割りにはしない。胃袋の中で水割りにする。

この夏は、冷えた水のほかに、「冷製味噌スープ」がチェイサーに加わった。水とスープを交互に流し込む。

冷製味噌スープの正体は、朝、カミサンがつくった味噌汁だ。いつもは鍋をそのままガス台に置き、宵にカミサンが温めて飲む。余れば捨てる。

ところがこの暑さだ。饐(す)えないよう、朝の残りを小さなどんぶりに移して冷蔵庫で冷やしておく。

それをたまたま晩酌のときに飲んだら冷たくておいしかった。特にナメコのキョロッとしたのど越しがたまらない。今は毎晩、冷製味噌スープを飲んでいる。

その延長で夜、残った焼き肉とかハンバーグも冷蔵庫で冷やしておく。翌晩、またこれらを冷たいまま晩酌のおかずにする。

熱いと汗をかきながらの食事になる。が、冷たいので、かえって食が進む。カミサンも晩の料理を作らないですむ。

そのまま残しておいたら廃棄されたかもしれない。生ごみを減らす一石二鳥のアイデアでもある。

若いときと違って、後期高齢者になった今は食べる量が減った。典型が日曜日のカツオの刺し身だろう。

今は過去形で語るしかないのだが……。行きつけの魚屋さんが閉店するまでの約40年間、日曜日の晩はカツ刺しで晩酌をした。

30切れはあった。それをさかなにチビリチビリやる。たまに3分の1ほど残ることもあったが、たいていは胃袋に収まった。

近年は、いつも半分近くが残る。翌朝、海鮮丼にしても余る。残りはにんにく醤油に漬けて、晩に揚げてもらう=写真。

ハマには生カツオの切り身を焼き、醤油を煮て冷ましたところに漬けて食べる「焼きびたし」がある。わが家ではその逆の「ひたし揚げ」だ。どちらにしても、カツ刺しを食べきる生活の知恵といってよい。

そうやって食べ終わると、必ず脳内に浮かぶ言葉がある。胃袋はエネルギーの生産工場であり、残り物の分解・処理工場でもある――。

要は、食べ物は残さずに食べきる。残ったものも食べ方を工夫すれば舌が喜ぶ。それで生ごみとして廃棄する量が減る。食器洗いも楽になる。

「モノを粗末にするな」。たぶん小さいころに母親や祖母から口うるさくいわれたことが影響している。

その「原点」とでもいうべきものが、ポツンと一軒あった山中の「バッパの家」である。今は杉林に変わった。

家の東側には、上の沢から木の樋で水を引いた池があった。そこで鍋釜や食器を洗った。水も汲んだ。

食事はめいめい自分の箱膳を出し、終わるとごはん茶わんにお湯を注ぎ、たくあんのあるときはたくあんで茶わんの内側をこすってきれいにする。お湯とたくあんは胃袋へ――これが当時の「茶わん洗い」だった。

それに比べたら今は、水がふんだんに使える。流水で茶わんを洗っているときだけ、多少罪悪感がわく。やはり「スズメ百まで……」のようだ。

2025年8月29日金曜日

朝ドラ、ファクションの妙味

                                         
 月に1回、移動図書館が隣(コインランドリー)の駐車場にやって来る。カミサンが、地域図書館として家の一角を開放しているので、平均30冊ほどを更新する。つまり、前に借りたのを返して別の本を借りる。

 今回借りた本の中に越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ――やなせ夫妻のとっておき話』(小学館、2025年)があった=写真。図書館スタッフに勧められたのだという。

 越尾さんは1992(平成4)年春、それまで勤めていた協同組合を辞める。そのことを、茶道の先生(漫画家やなせたかしの奥さん)に報告すると、「あら、うちで働かない?」即座に誘われた。

その年の秋にはやなせさんの会社に入り、以後、奥さん、次いでやなせさんが亡くなるまで、秘書として夫妻に寄り添ってきた。

その後は「やなせスタジオ」の代表取締役を務めている。秘書として20年余、折に触れて聞いた夫妻の話をまとめたのが本書である。

やなせさんに関しては、ノンフィクション作家梯久美子さんが書いた評伝「やなせたかしの生涯――アンパンマンとぼく」(文春文庫、2025年)に詳しい。

しかし、アンパンマンが最初はひらがなで書かれ、あとでカタカナになった理由は、越尾さんの本で初めて知った。

「アンパンマンは、弾むような響きでなくてはダメだ。ひらがなでは、そのリズム感がない。だからカタカナでなくてはと思ったから」その旨を出版社に伝えたという。

東日本大震災の前、常磐にある野口雨情記念湯本温泉童謡館で月に1回、童謡詩人についておしゃべりをした。金子みすゞや野口雨情などのほかに、やなせたかしについても調べて話した。

それもあって、朝ドラの「あんぱん」が始まると、これはやなせたかしと妻をモデルにしたドラマだと、すぐにわかった。

 その後、ブログの読者から梯さんの評伝が文庫で出たことを教えられ、さっそく買って読んだ。

 やなせ夫妻の実人生はそれであらかた頭に入った。『やなせたかし先生――』では、その人生を補強する「肉声」に触れた。

 モデルがいるとはいえ、テレビドラマである。ノンフィクションではない。いうならばファクション=実在の人物や出来事をフィクション化して描いた作品だ。

 特に今回は著名人が次々に登場する。役名は省略するが、手塚治虫、いずみたく、永六輔、立川談志、小島功などの漫画家連……。そして、耳になじんだ曲と歌詞。

8月27日には小4の女の子からのファンレターが紹介され、翌28日にはその女の子が祖父と「やない家」を訪問する。

子どもなのにかなり厳しい言葉を吐く。しかし、父親を亡くしたばかりで、「やないたかし」が書いた詩に救われたというあたりから、こちらの見方が変わっていく。

ファクションからいうと、「あんぱん」の脚本家中園ミホさんがモデルだそうだ。なるほど、大ファンだったのだ。

これからいよいよ佳境に入る。今回の朝ドラは史実とフィクションの交錯が不思議な魅力をかもし出している。

2025年8月28日木曜日

ミョウガの子がわんさと

                                
  8月に入ってすぐの日曜日、うっすら明るくなった庭に出ると、ミョウガの小群落に白っぽいものが落ちている。

 なんだろう? 近づいてよく見たらミョウガの子(花穂)だった。株元から生え出て、先端で薄黄色い花を咲かせていた=写真上1。

いつもは月遅れ盆が過ぎたころ、思い出してミョウガの小群落に分け入る。すると一つや二つ、黄色がかった白い花が咲いているのを見かける。それに比べたら今年(2025年)はずいぶん早い。

夏井川渓谷の隠居の庭にもミョウガの小群落がある。わが家の庭で初収穫をした同じ日、隠居のミョウガをチェックすると、やはりミョウガの子が生えて花を咲かせていた。

このときから3週間。8月24日に隠居へ行くと、すぐカミサンがミョウガの子を収穫した。

それがザルに入って坪庭の水場にあった。私も手伝わないといけない。ホースで水をかけながらごみやしおれ花を取り除き、いつでも調理できるような状態にした=写真上2。数えると64個もあった。これまでで一番の収穫量ではないか。

 わが家では、ミョウガを年2回楽しむ。春、ミョウガタケ(茎)が芽生えて15センチほどになったとき。そして初秋、ミョウガの子が茎の根元に現れ、花を咲かせ始めたとき。どちらも汁の実や薬味にする。

咲き始めなら花も食べられる。「エディブルフラワー」(食用花)である。一日花なのですぐしおれる。しおれ花は土やごみと一緒に取り除く。

今一番気に入っている食べ方は甘梅酢漬けだ。花も咲き始めなら一緒に漬けられる。

甘酢に彩りとして、シソで赤く染まった梅酢を加える。梅酢とミョウガの香味が口の中でからみあい、溶けあって広がる。採りたてなので、シャキシャキしてやわらかい。初秋、晩酌のおかずになくてはならない逸品だ。

糠漬けもいいのだが、肝心の糠味噌が猛暑とコバエのためにおしゃかになった。こちらは、今季はあきらめるしかない。

刻んだカブやキュウリに、みじんにしたミョウガの子をまぶす一夜漬けもいいが、急には食材がそろわない。

 これはいつも書き加えておくのだが、香味の正体は「α―ピネン」と呼ばれるもので、物忘れどころか集中力を高める効果があるそうだ。加熱すると香りは大きく減じるというから、やはり甘梅酢漬けが一番だろう。

 とはいえ、ほかに料理法はないものか。カミサンが後日、あるところから聞きつけてきた。

ミョウガの子に大葉とキュウリを加えて刻み、そのまま「ごまだれ」をかけて食べる。さっそく晩酌のおかずになって出てきた。これもまたさわやかな土の味だった。

2025年8月27日水曜日

コウノトリの足環情報

                                
   先日、若い仲間が来て、「コウノトリが3羽、平・馬目(まのめ)に現れた。野鳥の会いわき支部のホームページに写真が載っている」という。

さっそくホームページの「最近の出来事」欄を開く。8月5日の項に、稲穂の間に立つ3羽の写真がアップされていた=写真。

会員から情報が寄せられ、朝9時ごろ現地に着いて探したら、田んぼにいた。暑い中、3羽がそろうのを待って撮影した、とある。

 馬目といえば、わが家からも、仲間の家からも近い。それこそ、灯台下暗し、である。「最近の出来事」欄をスクロールし、6月以降のコウノトリの情報を探った。

3羽だけではない。別の個体の写真もアップされていた。小川・三島の夏井川に現れたコウノトリについても紹介している。

それぞれの足環の番号を記しているところが野鳥の会らしい。番号を手がかりに、いわきへ飛来したコウノトリの生まれた場所を追った。

 参考例として、震災前の2010(平成22)年2月、夏井川の堤防を散歩中に見たコハクチョウの首輪の話を少し――。

「緑色の首環と足環を付けたのがいる。重くはなさそうだ。首環には細いアンテナが付いてんだ」

新川合流部で越冬するコハクチョウがピークの250羽前後に達したころ、まだ健在だった「白鳥おじさん」から教えられた。

番号は「169Y」。2009年10月、北海道・網走のクッチャロ湖で首環と足環が装着されたコハクチョウだった。

無線送信機は衛星で移動経路を追跡するためだろう。足環は右が緑色、左がアルミニウムらしい銀色だった。

さて、いわきで目撃されたコウノトリの場合は、たとえば三島に現れた個体は「J0771」というふうに、「J」から始まる。

ネットのコウノトリの足環装着一覧表によると、「J0771」は去年(2024年)4月に京都府綾部市で生まれた雄だった。

 馬目の3羽は前々日には近くの四倉・長友にあるトマトランド付近で目撃されている。足環の番号はそれぞれ「J0843」「J0844」「J0845」である。

新潟県上越市で今年生まれたばかりのきょうだいらしい。それで頭に浮かんだのが、いわき市原子力災害広域避難計画だ。

平地区の場合、「避難・一時移転」市町村として、茨城方面のほかに新潟県魚沼・南魚沼・見附・長岡・小千谷・十日町・柏崎各市と出雲崎・湯沢・津南各町が明記されている。

上越市は十日町市や南魚沼市の西の方に位置する。避難とは逆コースを飛んで来たことになる。

ほかに富岡町で目撃された個体は足環が「J0728」で、こちらは去年、石川県津幡町で生まれた若鳥である。

いずれにしても、コウノトリは長距離をものともせずに(転々とだろうが)移動する。ひんぱんにいわきに現れるようになれば、なかには……と期待を抱かせるが、そうは問屋が卸してくれない?

2025年8月26日火曜日

『われらをめぐる海』

                                            
   菌類(キノコ)を採ったり、調べたりしているうちに、地球の歴史や地質、海洋、古生物などを対象にした地学関係の本も読むようになった。

地球はいつ誕生し、菌類はいつ生まれたのか。そのへんが始まりだった。今では現実の気候変動を踏まえて、地球はこれからどうなるのか、そんな問いまで頭をよぎる

これは一般書からの受け売り――。地球が誕生したのは46億年前。シアノバクテリアが生まれ、真核生物が現れ、さらに海中で動物と同じ祖先から菌類が枝分かれするのが10億年前という。

菌類はミクロの世界。しかし数年前、いわきの山中で熱帯のキノコであるアカイカタケが見つかったとき、マクロレベルでの気候変動を実感した。

 そうしたなかで、レイチェル・カーソン(1907~64年)の『われらをめぐる海』(日下実男訳=早川書房、2004年16刷)を読んだ=写真(同書では「カースン」だが、ここでは「カーソン」で統一する)。カーソンは『沈黙の春』で世界的に知られたアメリカの作家・海洋生物学者だ。

 本は1950年、オックスフォード大学出版会から出版された。つまり、75年前。この間、地球の歴史に関する研究は飛躍的に発展し、放射性年代測定によって地球の誕生は46億年前(あるいは45億年前)と認識されるようになった。

 カーソンがこの本を書いたころ、「地球誕生は25億年前」が普通だったようだ。現代から見ると明らかな誤りだが、それを「46億年前」に置き換えて読み進める。最初の「海の起源」も、新たな知見を踏まえながら読むとおもしろい。

 地球誕生。「母なる太陽から、もぎとられたばかりの新生地球は、旋回するガス体からできた、ものすごく熱いボールであった」

それが冷えていく過程でガスは液体に変わり、重いものは中心へ移動し、軽いものはその周りを取り巻き、それよりもっと軽いものは外殻を形づくるようになった。

この地球の変化が完成する前に月が生まれる。「月そのものが、地球物質の大きな潮汐波(ちょうせきは)のために空間にもぎ取られ、誕生した」

「分裂」説である。が、今はこの説は退けられ、別の天体が衝突して散らばった破片が集まった「巨大衝突」説が有力らしい。

地殻が十分に冷えると、雨が降り始めた。「何年も、何世紀も降り続いた」。大陸塊の岩石はその雨に溶け、中から鉱物質が滲出し、海へ運ばれた。海はそれでだんだん塩辛くなった。海で生命が誕生するのはそのあと。

 文体が詩的で美しい。想像力が刺激される。こうした表現に出合うと、「ネイチャーライティング」という言葉を思い出す。

米国で、1970年前後に確立したジャンルで、『われらをめぐる海』はその先行作品といえる。

今度の満月は9月8日である。科学と抒情が融合した、カーソンの月の物語を肴(さかな)に、月見酒といくか。

2025年8月25日月曜日

サンダルが熱い

                                             
   8月20日の夏井川流灯花火大会は、家にいて花火の音を聞くだけだった。それでも夜の川を流れる灯籠と平神橋上のにぎわいを想像して、夏から秋へと気持ちを切り替えた――。

と言いたいところだが、今年(2025年)は「残酷暑」続きで、そんな感傷に浸るヒマはない。

 8月23日も暑かった。山田では最高気温が36.6度と観測史上最高を記録した。わが家の茶の間も午後の3時台には室温がこれまでの最高と同じ36.4度に達した。

 夏至から2カ月がたち、秋分の日まではおよそ1カ月。太陽の位置が南下し、だいぶ日が短くなってきた。

 そのためだろう。午前中は南に面した玄関のたたきに日が差し込むようになった=写真。サンダルを入れて、光と影の具合を撮ろうとしたとき、「なるほど」と思った。

 手前には蚊取り線香がある。たたきの踏み台には「さくらネコ」のゴンが長々と伸びている。そこが一番涼しいのだろう。

 庭先には青柿が落ちて散らばっている。ここ数日、特にそれが目立つ。その直撃を避けるために、車はそばの物置跡に止めた。

 車は車で、運転席と助手席の窓を開け、ハンドルにはタオルを掛けておく。でないと、車に乗り込んだとき、空気が超高温になっている。ハンドルもやけどするほど熱い。

 エアコンなし。窓という窓、戸という戸を開けて、扇風機を最強にしておく。一方で、昼も夜も蚊取り線香が欠かせない。その象徴のような写真だ。

 この日、とうとう蚊取り線香のスペアがなくなったので、近くの店に行って緑色の大巻きを買って来た。ほんとうは茶色の中巻きが欲しいのだが、それはマチの某店にしか売ってない。

 それよりなにより、この「残酷暑」に驚いたことがある。お昼が近づいたので、近所のコンビニでサンドイッチなどを買おうと玄関のサンダルをはいたら、「アチチチー」思わず叫んだ。かかとがやけどしそうなくらいに熱かった。

7月に滋賀県の小学校で6年生が水泳の授業中、尻にやけどを負ったというニュースがあった。

プールサイドにマットがある。そこに座っていたら尻が赤くなった。軽いやけどという診断だった。前もって水をまいたそうだが、太陽に熱せられたマットには効果がなかった。

また7月の別の日、1歳の女の子が滑り台で尻にやけどを負った。それと同じで、こちらは「サンダルでやけど」ではないか。

熱中症だけではない。「危険な暑さ」が至る所にひそんでいることを、身をもって知った。

それでも季節は巡る。いわきでは8月24日で子どもたちの夏休みが終わった。「まつりの夏」が終わって 「選挙の秋」がきた。いわき市長選が8月31日告示、9月7日投開票で行われる。

この告示日に地区の市民体育祭が開かれる。雨天の場合は中止になる(次の日曜日は、会場の小学校が市長選の投票所になるため)。せめて曇りであってほしいのだが……。

2025年8月23日土曜日

残暑の間に「酷」が入る

                                             
 残暑。いや、残暑の間に「酷」が入る。「残酷暑」だ。言葉遊びではなく、ほんとにそう思いたくなるほどの暑さが続く。

 むしろ盛夏にはおとなしかったミンミンゼミがこのごろ元気に鳴いている。しかしなかには、夜、茶の間に飛び込んで来たと思ったら、翌朝、息絶えているものがある=写真。

 死んだミンミンゼミを庭の草むらに帰すと、今度は次の日、アブラゼミが茶の間でひっくり返っている。これもそっと草むらに戻す。

 茶の間を庭の続きと思っているのは、チョウやガ、セミだけではない。ある日、小さなアリが座卓を動き回っていた。

 座卓にはアリが群がるような食べカスはない。が、これが何日も続く。おかしい、こんなことは初めてだぞ――。

 理由がわからずにいたある日、ふとそばの屑籠(くずかご)を見ると、アリがうごめいていた。コンビニから買って来たサンドイッチの袋にたかっているではないか。

 そうか、サンドイッチの袋には、ゆで卵その他の食材が少しは付いている。それを庭からかぎつけて、列をなして入り込んだのだろう。

 このところ毎日、昼はコンビニからサンドイッチやコーヒー牛乳、野菜ジュース、その他を買って来る。

カラになるとそばの屑籠にポイ――アリたちにはそれが好都合だった。とりあえず、屑籠の中身を全部ごみ袋に移してカラにする。

その後は、食べ物の空き容器やシールはごみ袋に入れて、屑籠は紙くずだけにした。当たり前といえば当たり前だが、アリは「獲物」がなくなるとすぐ姿を消した。

カミサンの台所仕事を減らすために、昼はコンビニから買って来る。「残酷暑」で「ガリガリ君」を食べる。そんな「新習慣」がアリを呼び寄せたのだと知る。

糠床の異変もまた「残酷暑」の一例だろう。漬けるものがなくても毎朝糠床をかき回す。でないと糠床はすぐにカビが生える。

ところが……。ある朝、糠床のフタを開けると、小さな穴がいっぱい開いていた。海岸ならマテガイ採りの気分だが、糠床にはあってはならない事態だ。

やられた! いつ? 心当たりはない。が、たぶん新しい小糠を投入したときだろう。フライパンで火を通さずに生のまま糠床に入れた。

小糠が大好きなコバエが卵を産み落としていたらしい。糠床で虫たちがかえり、1センチ強に成長していた。

前に一度同じ目に遭っている。糠味噌は廃棄処分にした。こんどもそうするしかない。

無駄な抵抗かもしれないが、糠味噌を何度もかき回し、次から次に現れる虫を除去した。翌朝にはやはり穴が開いている。それであきらめがついた。

今の糠味噌は3代目だ。2014年から使っている。わずか11年でおしゃかになった。毎朝糠床が熱を帯びているのを感じてはいた。それも関係していたのだろう。こちらはまた一からやり直しだ。

2025年8月22日金曜日

ラジオ体操

毎朝7時前、カミサンのアッシー君を務める。行き先は近所の接骨院だ。そこで腰や足のマッサージ、つまり「手当て」をしてもらう。

月遅れ盆が明けた8月18日は、車のエンジンをかけると「新しい朝がきた」が流れた。

6時半。ラジオ体操の始まりを告げる歌だ。これは、私が子どものころから全く変わっていない。

道路を東進して「くすりのマルト」の前を通過すると、駐車場を会場に子どもたちがラジオ体操をやっていた。夏休みとはいえ、もう後半だ。後半もやっているとは驚きだ。

私が小学生のころは、会場(小学校の校庭)に集合して体操をするのは、夏休み前半の7月だけだった。

地域や子ども会によってはやったりやらなかったり、あるいは期間も短かったり、長かったりするのだろう。

ざっと目視したところでは、保護者が3人、子どもが7~8人だった(注・8月22日には全体で15人前後にふくらんでいた)。

高齢化だけでなく、少子化が進んで久しい。いわきの方言でいうところの「ささらほさら」(まばら)だ。

ブログで17年前、同じ場所のラジオ体操を紹介した。当時は朝晩の散歩を日課にしていた。小学校が夏休みに入った直後、偶然、ラジオ体操会に出くわしたのだった。

写真には40人ほどの子どもと保護者が写っている。参考のためにそれを再掲する=写真。文章も抜粋して載せる。

――ある日、いつもの時間より小一時間遅れて散歩に出た。と、近くの県営アパートの内庭に子どもたちが集まっているのが見えた。その先、スーパー(くすりのマルト)の駐車場にも子どもと親たちが集まっている。

すぐ音楽が聞こえてきた。「新しい朝が来た 希望の朝だ」。懐かしい歌である。「ラジオ体操会」が始まったのだ。

散歩コースの中では何カ所でラジオ体操会が行われているのだろう。偶然目にして分かったのは3カ所、いずれも新興住宅地だ――。

今の「ラジオ体操の歌」は1956(昭和31)年3月に発表された。作詞藤浦洸・作曲藤山一郎。その年の夏休みに私も初めて耳にした。以来、朝6時半になると、変わらずこの歌がラジオから流れる。

その意味では唯一、世代と地域を超えて共有されている歌と体操なのかもしれない。

地区の体育祭(今年は8月31日に開催される)では準備運動として、全員でラジオ体操をする。これだけは老人になってもなんとかこなせる。体が覚えている。

 それもあって、ささらほさらのラジオ体操会を見ると、寂しくなる。自分が子どものころ、自分の子どもが小さかったころとは比較にならない。まさに少子化の現実を突きつけられた思いがする。 

2025年8月21日木曜日

500円記念硬貨

                             
   このところちょくちょく近所のコンビニを利用する。昼の買い物が多い。それでわかったのだが、いつもご同輩(高齢者)がいる。

持病の腰痛からくる足の痛みで、カミサンが動けなくなったときがある。それで、ベッドから指示が飛んだ。「朝はあるもので食べて」「昼はコンビニから買って来て」

家事も家計もカミサンにまかせっきりだ。そのカミサンが立っているときついという。当然、台所仕事は省略が多くなる。で、言われたとおりに動く。

スーパーへも一人で行った。そのことをブログに書いた(8月12日付「初めてのお使い」)。

――カミサンが本棚を片付けているうちに無理をしたらしい。左足に痛みが走り、日曜日(8月10日)は朝から横になっていた。

カミサンが分担していた家事のすべてを、そして「さくらネコ」のゴンのえさやりも含めて、「お願いね」という。

コンビニはともかく、スーパーへはアッシー君として行き、買い物かごを持ってついて回るだけだった。それを全部自分でやらないといけない。確かに、初めてのお使い、ではある。

どこに何があるかわからない。必要なものにたどり着くまで時間がかかる。レジもセルフではなく対面レジを選んだ――。

別の日、コンビニでの買い物を指示される。言われたとおりに、カミサンの財布から千円札と500円硬貨、100円硬貨を数個取って出かけた。

サンドイッチといなりずし、アイスクリーム、ガリガリ君と、買い物は簡単だった。が……。レジで精算機に千円札を入れ、500円硬貨を投入した瞬間、機械がストップし、画面の表示が変わった。

レジのおばさんも戸惑った様子だ。そこへ若いバイトの店員が飛んで来た。精算機には詳しいらしい。投入口のカバーを開けると、入れたばかりの500円硬貨が現れた。通常の500円硬貨ではない。記念硬貨だった。

家に戻って通常の500円硬貨と記念硬貨を比較する=写真。記念硬貨は、表面が「特別御料儀装車」の絵柄を囲むように「日本国 五百円」と印され、裏面は「菊の御紋と束帯の紋様」を「御即位記念 500円 平成2年」の文字が囲んでいる。

平成天皇の即位記念硬貨だった。上皇后ファンとしては「お守り」を兼ねて財布に入れておいたのだろう。

ネットでサイズを調べる。通常の硬貨は、平成12年製(2代目)で直径が26.5ミリ、重さが7.0グラム。これに対して記念硬貨は直径が30.0ミリ、重さが13.0グラムと、一回り大きくて重い。

 精算機は記念硬貨を硬貨とは認識しない設計になっているのだろう。それで、「お守り」は手元に残った。ま、これも社会勉強のひとつにはちがいない。

それよりなにより、コンビニは今や高齢者には欠かせない存在だ。路線商店街の真ん中にあるので、マイカーのない高齢者も歩いて行ける。日常の食べ物を調達できる便利さを再認識した。

2025年8月20日水曜日

ラーションの『わたしの家』

                             
 夏井川渓谷にある隠居の台所を改築したとき、壁に棚を作った。すぐ本が並んだ。別の壁には本箱を置いた。それもほどなく埋まった。

 現役のころは週末(土曜日)に泊まって、翌日曜日に土いじりをした。時間はたっぷりあった。土いじりに疲れると、隠居で本を読んだ。

 それとは別に、カミサンが自分で読むために持ち込んだ本がある。そのなかの1冊がカール・ラーション(1853~1919年)の『わたしの家』(講談社)だ。

 ラーションはスウェーデンの国民的画家で、『わたしの家』は家族の日常風景を描いて高い評価を得た水彩画集である。妻(画家)のカーリンのアイデアで生まれたといわれる。

 妻や子どもたち、家と家具、壁や屋根の色、庭のシラカバの木と草花、湖、雪……。田舎暮らしの四季が生きいきと描かれる。

 渓谷の隠居から平の街へ戻る途中、窓枠が赤く塗られた北欧スタイルの住宅に出合って以来、隠居ではラーションの画集をパラパラやるのがクセになった。

 朝から30度を超す猛暑の日曜日、なにもやることがなくてゴロンとしていたら、『わたしの家』が思い浮かんだ。

 『わたしの家』はウィルヘルム・菊江編著で、1989年に2刷が出た。「解説」を読むのは初めてだ。

 解説からネーム・デー、長男ウルフの夭折、8月15日のザリガニ捕りを知った。家の内外と家具のデザイン・色彩も、絵をじっくり見ることでいちだんと印象が強まった。

 まずはネーム・デー。向こうでは、誕生日とは別に「名前の日」を祝う習慣があるそうだ。

 365日、名前がカレンダーに印刷されている。日本でいえば、さしずめ「太郎の日」「花子の日」などで、その日は全国の太郎や花子がお祝いを受ける。『わたしの家』ではお手伝いのエンマを子どもたちが仮装して祝うシーンが描かれる。

 ラーションには長女・長男・次男・次女・三女・四女・三男の7人の子どもがいた。長男は18歳でこの世を去った。

『わたしの家』には、湖畔に寂しそうにたたずむ妻の絵が載る。その解説に、絵だけではわからない母親の悲しみが広がる。

8月15日のザリガニ捕りは、人々が待ちに待った行事だという。日本では終戦の日と月遅れのお盆中で、ところによっては盆踊りなどで盛り上がる。

クリスマスやイースターのように特別の日なのは、この行事を境に寒い冬を迎える準備に入るかららしい。湖畔に網を掛け、ザリガニを捕って料理し、みんなで食べて楽しむ。

家の内外に赤色や白色が目立つのは、「長く暗い冬のあいだ、せめて室内を明るく」というラーションの考えからだった=写真。

それは北欧人一般の感覚でもあるのだろう。還暦記念に同級生の病気見舞いを兼ねて仲間と北欧を旅した。そのとき、やはり建物の色の鮮やかさに目を見張った。

2025年8月19日火曜日

久しぶりの堤防

                                  
 平のマチへ行くと(もちろんマイカーで)、帰りは必ず夏井川の堤防を利用する。鎌田~塩~中神谷のざっと3.5キロ区間だ。

 ここが5月下旬から堤防工事のために通行止めになっている。それでこの3カ月は全く利用していない。

 月遅れ盆2日目の8月14日、カミサンの実家で故義弟の供養をすませたあと、家に戻って一休みした。

 そのあと気分転換をしたくなったのか、カミサンが「図書館へ行こう」という。私も返す本があった。

地元の区長さんによると、日・祝日と朝晩は堤防の通行ができる。この日はまだお盆休み期間中だ。工事は休みのはず。行きも帰りも利用することにして、旧国道6号バイパスの終点から堤防に出た。

天端のアスファルト道路にはところどころに「通行止め」の立て看があり、そこに「休工中」のシールが張られている。「通れる」というサインだ。

前に一度、夏井川の水量を確かめるために、途中まで堤防を利用したことがある。その先の鎌田まではほんとに久しぶりだ。

「堤防をなおす工事をしています」という標識も立っている。5月26日から10月31日まで、工事中(8時半~17時)は通行止め、とあった。

「令和元年東日本台風」で、いわき市では夏井川水系の平窪(平)を中心に、甚大な被害が出た。その復旧と国土強じん化工事が進められている。

 具体的には河川敷の伐木・土砂除去と堤防補強などで、私が利用する堤防の対岸(右岸=北白土)では、仕上げにコンクリートブロックによる護岸工事が行われた。そして今度はこちら側、左岸の堤防工事に入ったというわけだ。

 3カ月ぶりに見る夏井川の岸辺の風景には、やはり驚いた。すさまじい緑の繁殖。頭にまず浮かんだのがこの言葉だ。

 土砂が除去され、地面が露わになっていた河川敷がすっかり草に覆われている。その草が丈高く伸びている。岸辺には早くもヤナギの幼樹が見られる。

 堤内(人間が住んでいる側)のネギ畑には、3カ月前はなにもなかった。そのあと、ネギ苗が定植され、生長して緑の帯が何列もできていた。1回目の追肥と土寄せはまだのようだ。

 なかでも驚いたのは、途中から堤防天端の両側にロープが張られ、ところどころピンクのテープが付いていたことだ=写真(帰り、鎌田からの眺め)

 ロープだけではない。工事用の杭と板がそこかしこに見られる。天狗巣(てんぐす)病で伐採されたソメイヨシノの並木跡もこの中に含まれる。堤防工事のために伐採されたのだと、あらためて理解できた。

春夏秋冬でいえば、ひと夏はここ夏井川の風景を見なかったことになる。ツバメは早くから渡って来た。オオヨシキリはどうだったか。「ギョギョシ、ギョギョシ」を聞いたことはあったか、なかったか。川面には留鳥のカルガモがいるばかり。

川の自然の移り行きから遠ざかっていると、こちらの季節のアンテナがさびて鈍くなる。工事が休みの日にはできるだけ堤防を利用することにしよう。

2025年8月18日月曜日

盆が終わる

                                
 これは福島県中通りの山里の記憶。家々のごみは可燃物がほとんどだった。レジ袋もプラスチック容器もなかった。

 たいていのごみは家で燃やした。川に流したこともある。月遅れ盆の精霊送りはどうだったか。やはり川を利用したのではなかったか。

 それからすでに半世紀以上。浜通りのいわき市では、精霊送りの供物を市が収集する。川や海には流さない。環境を守る意味から当然だろう。

 供物の特別収集は月遅れ盆最終日(8月16日)の朝と決まっている。わが行政区では、県営住宅集会所前の庭に臨時の祭場を設け、当日の早朝、区の役員が出て供物を引き受ける。それが終わったあとの9時ごろ、収集車がやって来る。

準備から片付けまで、2日がかりだ。集会所の庭は道路に面している。集会所前に車が止まっていると支障をきたすので、14日には「駐車ご遠慮を」の立て看を路上に置く。

それを入れると3日がかり、いや、杉の葉の調達などを加えると、数日間は精霊送りが頭から離れない。

集会所に備え付けの長い座卓3脚を出して供物の受け取りスペースにする。それを囲むように竹を四隅に立て、縄を張り、間に杉の葉とホオズキを飾る――のだが、数年前からは正面だけに簡略化した。

これだと竹は2本、杉の葉とホオズキもそこだけですむ。江戸時代の絵を見て思いついた。役員全員が高齢なので、簡素化も絶えず頭に入れておかないといけない。

祭場をつくるのは15日夕。まずは草引きだ。草は茂ったままになっている。祭場になるところだけでも払わねば……。

実はごみの散乱も覚悟していた。ちょっと前、集会所の敷地内にある区の防災倉庫を点検したとき、集会所前で若者が数人、座り込んで飲み食いをしていた。そのあと別件で行くと、空き缶・空きボトルが草むらに散乱していた。

それも片付けなくてはと覚悟していたら、レジ袋が集会所の前に置いてある。「ここに座るな、ごみを持ち帰れ」といった意味の張り紙がしてあり、中に空き缶・ボトル類がまとめられていた。同じ思いの人がいるのだろう。

おかげで、こちらは草引きだけに集中できた。スニーカーに靴下、長ズボン、ハンドカバーに手袋。残暑が厳しくても手を抜けない。軽装は禁物だ。カマでけがをすることがある。蚊も現れる。

今年(2025年)はなぜかネコジャラシ(エノコログサ)が密生していた=写真。ネコジャラシは一年生草で根が浅い。すぐ抜ける。あらかた草が消えた時点で作業を終えた。

16日は早朝5時半、型通りにセットして供物の受け取りを始める。すでに供物を置いていった人がいる。毎年のことで、6時開始の予定が年々早まっている。

今年も9時前には収集車がやって来た。それでやっと盆の務めから開放された。盆は休み――そんなゆるやかな感覚は、区の役員になってからは全くない。

2025年8月16日土曜日

ヒトツバタゴ

        
 日本野鳥の会いわき支部の元事務局長氏から手紙が届いた。昨年末までいわき市に住んでいたが、今は千葉県の娘さんの家に近い老人施設にご夫婦で入居している。

 ネットのいいところで、いわきを離れても毎日欠かさず拙ブログを読んでいる、とあった。

 先日はそのブログにコメントが届いた。2023年6月13日付の拙ブログで八重咲きのドクダミの花を紹介した。たまたま最近それを読んだのだろう。

自分も8年前、いわきで八重のドクダミの花を撮影し、自作の俳句を添えてNHK福島放送局に投稿し、「はまなかあいづ」の中で紹介されたことを思い出したという。手紙には、そのときの写真のコピーなどが同封されていた=写真。

――と、ここまで書いて、ずっと中断したままになった。忙しかったのと、カラ梅雨で酷暑が続いたために、手紙の返信を兼ねたブログはなかなか書けなかったのだ。

8月9日は、起きると室温が26度だった。涼しい。扇風機が要らない。「真夏日」になる前に「宿題」をやらなくちゃ。それでまず、中断したブログの文章と向き合うことにした――。

NHKに投稿された写真と文に添えられていた俳句は「吉相か八重どくだみに足を止め」。そもそもが画像と俳句を募る視聴者投稿欄だったとか。

いわきの自宅付近を散策中、ドクダミの花が咲いていた。なかに八重の花があった。それを見つけたときの心躍る様子が伝わってくる。

手紙では、投稿に使ったハンドルネーム「なんじゃもんじゃ」についても触れていた。「なんじゃもんじゃ」は俗称で、和名は「ヒトツバタゴ」という。いわきには自生しない。

有名なのは明治神宮外苑のヒトツバタゴ。その木は、今は3代目だ。初代、2代と続いた経緯を説明する同神宮外苑の広報文が添えられていた。

 同じ団地内に植えられていたヒトツバタゴに魅せられた元事務局長氏は、家を建てる際、同外苑庭園課から種の提供を受け、自宅の庭で育てた。

 ところが芽生えたのは雄株だったため、造園会社経由で雌株を取り寄せ、見事採種にこぎつけた。

 主のいなくなったいわきの家の庭では今年(2025年)もヒトツバタゴの花が咲いた――知人から満開のヒトツバタゴの画像が送られてきたという。

 ヒトツバタゴの花を見たことはない。ネットにある写真の印象を言うと、花は白く細長い4弁花のようだ。満開時には木全体が白く包まれる。

この花の印象から「なんじゃもんじゃ」になったのだろうか。いやいや、木自体が珍しい。よくわからない。わからないから「なんじゃもんじゃ」の木になったのだろう。

「なんじゃもんじゃ」の連想で、似たような言葉が不意に浮かんだ。「うどんげ」。クサカゲロウの卵で、何かの葉のヘリから垂れるようにして空中に浮かんでいるさまが不思議を誘う。

ついでながら、わが家の庭のドクダミは、今年も、去年も八重はなく、普通の花ばかりだった。

2025年8月15日金曜日

戦後80年

                                               
   8月に入ると決まって故義父の句集『柿若葉』を開く。三回忌に合わせて1999(平成11)年4月に出版した。

なかに「八時十五分車中で合掌原爆忌」がある=写真。その前後には「原爆忌老兵いまだ消えざりし」と「敗戦の記事の破れし古新聞」が載る。

8月。6日広島。9日長崎。そして、15日敗戦。今年(2025年)は「戦後80年」、つまりは「被爆80年」に当たる。

6日の広島平和記念式典はいつものようにテレビの生中継で見た。こども代表の「平和への誓い」、広島市長の「平和宣言」、首相と県知事の「あいさつ」を聞いた。

なかでも知事のあいさつには共感した。(翌日すべての文章が新聞に載ったので、切り抜いて保存し、時々読み返すことにする)

「国守りて山河なし」。原詩は中国の詩人・杜甫の「春望」で、五言律詩の最初の1行に「国破れて山河あり」が出てくる。ネット上の解説を借りる。

国は滅びてしまったが、山や川は昔と変わらずにある。戦乱や災害などで国が破壊されても、自然はちゃんと残っている――。

知事はこれを逆転して用いた。「もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます」

続けて「概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味があるのでしょう」。

地球温暖化が言われて久しい。自然環境が悪化し、先々懸念される事態になってきた。「山河なし」は、まずそのことを象徴する言葉としてとらえることができる。

そして、核抑止力を声高に叫ぶ人たちが増えていることへの懸念。「歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです」

ずっとあった頭の中のモヤモヤが一気に晴れた。そうだ、これなんだ!という、発見にも似た思い。

「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力」。この三つ目の民衆と呼応しあうのは、私もメシを食ってきたマスコミだ。

半藤一利『新版 戦う石橋湛山』(東洋経済新報社、2001年)から、先の戦争の「愛国報道」を拾う。

「当時の日本人が新聞と放送の愛国競争にあおられて『挙国一致の国民』と化した事実を考えると、戦争とはまさしく国民的熱狂の産物であり、それ以外のものではないというほかはない」

メディアはお先棒をかつぎ、国民もまたそれに呼応して愛国を叫ぶ。権力にとっては好都合の状態だった。それを忘れてはいけないということだろう。

「戦後」が「戦後」としてずっとあるためには何が必要か。国民的熱狂には染まらない。まずはその覚悟を持つことだと自分に言い聞かせる。

2025年8月14日木曜日

シベリア学

                                                
    総合図書館の新着図書コーナーに高倉浩樹『シベリア3万年の人類史――寒冷地適応からウクライナ戦争まで』(平凡社、2025年)があった=写真。

著者は社会人類学、シベリア民族誌学を専攻する、いわき市出身の東北大学教授だ。

若いとき、シベリアに抑留されたアマチュア画家と親しくなり、強制収容所の暮らしを記録した絵と文章を、画文集として出版する手伝いをした。

広沢栄太郎著『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』。絵を残すまでの本人の執念に心を揺すぶられた。以来、時折シベリアのことが頭に浮かぶ。

画家は朝鮮半島で敗戦を迎えたあと、ソ連軍によってシベリアへ抑留される。ラーゲリ(収容所)では過酷な労働を強いられた。食事は粗末だった。仲間はそれで次々と衰弱して死んだ。

詩人の石原吉郎も抑留を体験した。仲間が亡くなる前、ラーゲリの取調官に対して発したという最後の言葉を記している。

「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

「あなた」とはソ連のスターリニズムそのものだったろう。そしてそれは、今のロシアにもいえることではないか。

画家は鉛筆で小さなザラ紙に数百枚のスケッチを描きためた。それを、帰国集結地ナホトカの手前で焼き捨てた。没収されるのがわかっていたからだった。

復員するとすぐ2カ月をかけて、2年半余の強制収容所生活を50枚の絵と文にまとめた。

 それから四半世紀がたって、当時、いわきの先端的なギャラリーだった「草野美術ホール」で個展を開いた。「シベリヤ抑留記」も展示した。

記者になりたてだった私は、取材でかかわったのを機にホールのおやじさんらと画集出版の話に加わり、編集を担当した。

2016(平成28)年8月、高専の仲間4人でサハリン(樺太)を旅した。対岸シベリアのアムール湾とウスリー湾にはさまれた半島の先端・ウラジオストクと、その東方にあるナホトカの港も巡った。

同級生の一人が学校を出ると、船で横浜からナホトカへ渡り、さらにシベリア鉄道を利用して、北欧のスウェーデンにたどり着いた。

彼はそこで仕事を見つけ、家庭を築き、死んだ。その原点がナホトカだった。ナホトカでは若いときの同級生を思い、シベリアから帰国するいわきの画家の幻影を追った。

これらシベリアがらみの極私的体験がよみがえり、さらにシベリアの今を知りたくて、新着図書を手にした。

 人類史的研究の本題はこれからじっくり味わうとして、地球温暖化が進むと「寒冷地」はどう変化するのか、まずその章を読んだ。

 永久凍土の融解で地面の凸凹が大きくなり、道路などのインフラに影響が出ている。川面の凍結期間が縮小し、「冬道路」としての利用期間が減った。「解氷洪水」が増大している――という。しかも、それらはほんの一例らしい。

 地球温暖化は地域温暖化であり、シベリアではそれが大地と暮らしのひずみとして現れている。なんということだろう。

2025年8月13日水曜日

「白骨」の森

 万緑の夏。確かに山は緑一色だ。が、谷間の木の1本1本がわかるところまで近づくと、ため息が漏れる。

 いわき市平の平地から「地獄坂」を超えて夏井川渓谷に入り、磐越東線の江田駅付近まで進むと、対岸(右岸)の森に「白骨」が目立つようになる。

 白骨は立ち枯れて白くなった木の幹である。この立ち枯れ木が年々増えている印象が強い。

 どんな木が枯れたのかはよくわからない。が、この30年見続けてきた結果として、二つだけはっきりしていることがある。

 一つは松枯れ。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995(平成7)年初夏から、渓谷の隠居に通い続けている。そのころは、対岸のアカマツはまだ元気だった。

ところが、そのあと次第に変化が現れる。常緑の松葉に黄色いメッシュが入り、「茶髪」に変わったと思ったら、樹皮の亀甲模様もやがてはげ落ち、白い幹と枝だけの「卒塔婆」になった。

「針葉樹は酸性雨に弱い。夏井川渓谷の松枯れはそれだろう」「松くい虫が原因」。専門家の意見は分かれたが、結果として渓谷では大きな松がほぼ消えた。

それで松枯れはいったん収まったが、東日本大震災の前後からまた変化が現れた。松枯れ被害を免れた若い松に茶髪が目立つようになったのだ。

隠居の対岸、一番手前の尾根のてっぺんにある一本松が最近、茶髪に変わった=写真上1。これからまた渓谷では松枯れが始まるのだろうか。

それと、もう一つ。渓谷では「ナラ枯れ」が広がりつつある。最初に気づいたのは2020(令和2)年8月の月遅れ盆のころだった。

平野部から高崎地内に進み、これから渓谷に入るというあたりで、広葉樹の葉が数本枯れていた。夏なのに、なぜ? 日本海側で発生した「ナラ枯れ」が太平洋側でも目立つようになったのだった。

ナラ枯れは、体長5ミリほどのカシノナガキクイムシ(通称・カシナガ)が「犯人」だ。雌がナラ菌やえさとなる酵母菌などをたくわえる「菌嚢(きんのう)」を持っている。雄に誘われて大径木のコナラなどに穿入(せんにゅう)し、そこで産卵する。菌が培養される。結果として木は通水機能を失い、あっという間に枯死する。

カシナガの幼虫は孔道内で成長・越冬し、翌年6~8月、新成虫として一帯に散らばるので、被害もまた拡大する。

渓谷の県道沿いでも、崖側、谷側と両方で大木がナラ枯れを起こし、倒木・落枝の危険が増した。

 事故の未然防止のために伐採された崖の大木もある。さらには先日、逆さになって崖の金網に引っかかっているものがあった=写真上2。途中から車が通れるように切断されている。その直径だけでも30センチ近くはあるようだ。

    しかし、車が通れるからいい、ではすまされない。いつ落下するか。ちょうど車が通ったときに、ドサッときたら……。毎回ひやひやしながら通る。 

2025年8月12日火曜日

初めてのお使い

                               
    接骨院に通っているカミサンが本棚を片付けているうちに無理をしたらしい。数日前から左足に痛みが走り、日曜日(8月10日)は朝からベッドで横になっていた。腰痛と関係しているのだろう。

  平日には平日の、日曜日には日曜日の家事がある。三度の食事の用意、これは毎日のことだが、日曜日はさらに夏井川渓谷の隠居での土いじり、刺し身の買い物が加わる。

カミサンが分担していた家事のすべてを、そして「さくらネコ」のゴン=写真=のえさやりも含めて、「お願いね」という。

 この日は朝から曇天で、時折、小糠雨が降った。隠居へ行くのは断念し、一日家で文章読みの「仕事」を続ける。

 朝は卵焼きと味噌汁が定番だ。おかずはほかに糠漬けと市販の味噌漬け。ご飯は前日の残りがあった。冷や飯である。味噌汁はつくらない。卵は焼かずに、卵かけご飯にした。

 ほかに、サンドイッチや牛乳などが冷蔵庫にある。カミサンが何か食べようと思えばなんとかなるだろう。

 昼は、カミサンの注文でコンビニからおにぎりとサンドイッチ、トマトジュースなどを買って来た。

サンドイッチは私、おにぎりとトマトジュースはカミサン。カミサンはしかし、トマトジュースを少し飲んだだけで、またベッドに戻った。

どちらも後期高齢者だ。今のところ自分の足で動き回り、自分の手で食事も仕事もできる。

介助・介護はいずれ必要になるかもしれないが、現時点ではまだ遠い話だと思っていた。

が……。突然、カミサンが歩けないほどの痛みに襲われた。カミサンの仕事が、それでこちらに回ってきた。

とにかく三度の食事の用意が大変なことがわかった。しかも、すぐその時間がくる。夕方には、あらためて声がかかった。「刺し身を買って来て」

いつもは魚屋さん(7月25日で店を閉めた)であれ、スーパーであれ、夫婦で行く。今回はひとりだ。

刺し身のほかに、欲しい飲食物を書いたメモを渡される。リポビタンD、カロリーメイト。ほかにアイスクリーム。「『はじめてのおつかい』みたいだね」と言って送り出された。

コンビニはともかく、スーパーへはアッシー君として行き、買い物かごを持ってついて回るだけだった。それを全部自分でやらないといけない。確かに、初めてのお使い、ではある。

どこに何があるかわからない。必要なものにたどり着くまで時間がかかる。レジもセルフではなく対面レジを選んだ。

夜、「モモが食べたい」というので、皮を付けたまま出そうとしたら、むくように言われる。

モモは種が大きい。リンゴみたいに真っ二つにはできない。すこし考えて、種をギリギリで迂回するように包丁で果肉を切った。皮を指ではがすと果肉がボロボロになる。あわてて皮も包丁でカットした。

主婦は三度の食事の用意だけでエネルギーと労力を費やす。そのことを、身をもって知る。これが連日となると……。ま、先のことは考えないようにしよう。

2025年8月9日土曜日

眼鏡のレンズを新調

                                 
   今度は目か。何度も引用して恐縮だが、江戸時代中期に生きた尾張藩士で俳人の横井也有(1702~83年)の狂歌が頭をよぎった。

「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」「手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる」

 先日、遠近両用レンズを新しくした=写真。この何年か、度数が合わなくなっていた。車を運転するときには眼鏡をはずした方がかえってよく見える。しかし、いつまでもそんなことをしているわけにはいかない。

 レンズが合わなくなっていると感じたのはいつだったか。2年前、後期高齢者として初めて運転免許を更新した。そのころから眼鏡をはずしたり、かけたりしていたのを覚えている。

 そうこうしているうちにレンズの曇りが取れなくなった。眼鏡用の布でふいても、ティッシュペーパーでやっても、きれいにならない。きれいにしようとすればするほど、曇りが拡大するようだった。

レンズはコーティングされている。そのコーティングがはがれるとそうなる、とネットにあった。

新しいレンズにしよう。7年前に眼鏡を新調した店で視力を計り、それに見合った遠近両用のレンズを選ぶ。

眼鏡の汚れを取るにはクリーナーでシュッとやり、指で軽く回したあと、ティッシュペーパーで泡をふき取る――。

最初からティッシュペーパーでこするのではなく(それ自体レンズにはよくないそうだ)、泡をふき取るのに利用する。スタッフが実演するのを見て、なんとレンズによくないことばかりしてきたことか、と反省する。

也有の自虐ネタではないが、肉体の老化が止まらない。今年(2025年)は歯の治療をした。経過観察中の歯もある(いずれまた行かないといけない)。

それに続く目だ。新しいレンズにすると、驚くほど世の中がはっきり見えた。ピントが細かいところまで合って明るい。

「プ」と「ブ」、「6」と「8」と「9」がはっきり区別できる。すると、頭の中のもやもやも晴れた。

次はなんだ? 也有の狂歌を反芻していたら、すぐ思い当たった。「耳」である。「毛は白うなる」である。

ひげは3日ごとに電気カミソリを当てる。若いころは毎日剃った。日をおくと、もみあげからあごにかけて、すぐ黒くなった。それが3日たっても目立たない。

ちょっと伸びたのを鏡で見たら真っ白だ。これでは昔話に出てくる「翁(おきな)」と同じではないか。

白いひげは、日常生活には別に影響がない。が、耳はトンチンカンの原因になる。別用のついでに立ち寄った90歳の「お姉さん」に、カミサンが耳の聞こえがおかしい話をした。すると、「長生きするわよ」。なんともうれしいような、悲しいようなコメントが返ってきた。