2025年12月30日火曜日

カウントダウン

                                 
   この秋から冬にかけて、何度か日本晴れになった。雲一つない青空。つい吸い込まれるような気持ちがわいてカメラを向けた=写真。

日本晴れの空を仰ぐと、残響する言葉がある。雲のない青空は虚無に等しい。雲があるから青空が輝く――。

エミリー・ブロンテの『嵐が丘』で、登場人物の誰かがそんな意味のことを口にした。若いときに読んでうなった。それが影響しているのだろう。

湿潤な日本の風土では、日本晴れは束の間でも解放感の象徴になる。が、『嵐が丘』は違っていた。

気候的に厳しい環境がそんな考えを生んだのだろう。と、これは後年になってからの解釈。

 以来、雲一つない青空を見ても、複雑な思いを抱く人間がいることを思い浮かべるようになった。

 日本晴れの空はしかし、この年(後期高齢者)になると、どうも違って見える。最後は底が抜けるのか。いや、底が抜けてもいい、と。

去年(2024年)の秋、1歳年上の親友が逝き、1歳年下の義弟が亡くなった。2人が彼岸に渡ったあと、私ら夫婦もカウントダウンが始まっていることを悟った。そのことも影響しているに違いない。

今年(2025年)の春あたりから、メディアが伝える訃報、新聞折り込みの「お悔み情報」を見て、影響を受けた著名人や付き合いのあった身近な人たちを、「カウントダウン」というフォルダの中にメモしてきた。

 年末になると、新聞はその年に亡くなった著名人を振り返る。暮れの「回顧ジャーナリズム」でもある。今年は「墓碑銘2025」だ。

 その回顧ジャーナリズムが私の中にも残っていた。著名なところでは、いしだあゆみ、長嶋茂雄、和泉雅子、コニー・フランシス、上條恒彦、ハルク・ホーガン、橋幸夫、ロバート・レッドフォード、仲代達矢、内館牧子、そしてブリジッド・バルドー。いずれも人生の節目、節目で記憶に残った人たちだ。

 親しく付き合っていた仲間では、いわき地域学會のあの人この人。いわきキノコ同好会の冨田武子会長。それからカミサンの友人のご主人など。佐藤栄佐久元福島県知事とも会って話したことがある。

 記者になる前から受け入れてくれた親友の叔父の奥さん、草野美術ホールで知り合った元中学校美術教諭(最初の赴任校がふるさとの中学校で、兄たちが教わった)も彼岸へ渡った。 

 そして、区内会のつながりで知ったよその行政区の役員、同じく文学館の集まりで出会った人、フェイスブックで友達になった福井県の人も……。

他クラスだったが、同学年で寮が一緒だった仲間も2人、彼岸へ渡ったと聞いたのは8月。

親の世代はとっくに終わり、年上の兄弟の世代、あるいは年下の人間も加わって、カウントダウンが続いている。

いつ終わるかは神のみぞ知る。それまでは、晴れたり曇ったり、雨が降ったりする空の下で生きる。雲一つない青空を迎えるのはそのあとでいい。

※おことわり=12月31日~1月4日までブログを休みます。

2025年12月29日月曜日

カラスの行水


  そうか、カラスは今の時期、午後の3時過ぎには浅瀬で行水をするのだな――。妙に納得した。

師走に入って間もない日の午後2時過ぎ、いわき駅前の総合図書館へ行って本を借りた。借りたい本は決まっている。が、「貸出可」なのに、書架にはない。前々日に行ったときもそうだった。

 「貸出可」の本はいったいどこへ消えたのか。前にも同じことがあった。図書館の都合で、借りたい本が一時、書架から消えていたのだ。

帰りはいつものように夏井川の堤防を利用した。堤防へは平神橋を渡ったあとに出る。左岸の鎌田から国道6号の夏井川橋の手前まで、ゆるゆると川を眺めながら進む。

 堤防に出るとすぐ波消しブロックの並ぶ岸辺がある。浅瀬でカラスの集団が水に浸かり、羽をブルブルやっていた。その都度、しぶきが飛び、周りの水が白く泡立つ=写真上1。

 そこ(鎌田)は夕方、ねぐらに戻る途中のカラスがいったん集結して一休みするエリアだ。一休みの様子は、たとえばこんな具合だ(拙ブログから)。

  ――夕方、平の街から帰るのに夏井川に架かる平神橋を渡り、大学のある丘(鎌田山)のふもとを回って堤防へ出たとき。

堤防に沿って伸びる電線に続々とカラスが現れては止まる。ねぐらは別にあって、そこへ戻る前に一休みをして「会議」を開いているような雰囲気だ。

前からそうだったかもしれない。が、前はこんなに止まっていなかったような……。もしかして、そばの河川敷にあったヤナギとヤマザクラが切り倒されたからではないのか――。

――令和元年、台風19号が平・平窪地区を中心に甚大な被害をもたらした。再び人命と財産が失われないようにと、夏井川の河川敷の除草・伐採・土砂除去が行われた。ヤマザクラとヤナギの木も伐採された。

カラスは工事が始まる前も、ヤナギの大木のほかに電線で一休みをしていた覚えがある。休み場である大木が消えても、「群れの記憶」は生きているのだろう。

平神橋の東たもとには送電鉄塔が立つ。その電線にも、夕方になるとカラスが現れて、ほぼ等間隔に止まる。

ねぐらはどこにある? これは勝手な想像だが、市街地から見える西方の山々ではないのか――。

12月18日の夕方、図書館の帰りに堤防に出ると、おびただしい数のカラスが電線=写真上2=と堤防の土手、浅瀬に集結していた。浅瀬では、羽を水に浸けてバシャバシャやっていた。

 人間と違って、カラスの行水は、体に着いた寄生虫を洗い流し、清潔な体で眠りに就くための大切な儀式なのだ、とあらためて納得する。 

2025年12月27日土曜日

リサイクルの中継地

                              
 春に転居するという知人から電話が入った。「瀬戸物がいっぱいある。要るものがあれば持って行って」という。

 「ダンシャリして出たものは引き取るから」。前にカミサンが伝えていた。で、指定された日時に、アッシー君をして出かける。

 知人の家に入ると、空き部屋になっていた広い1室に、大小さまざまな紙箱が足の踏み場もないほど並べられていた。中には陶器や漆器、シーツやタオルなどが入っている。

 カミサンが「回収」するものを選び、私がそれを車に積み込む。1回では収まらないので、いったん家に持ち帰ったあと、また引き取りに行った。

車のトランクと後部座席に積み込むこと2回、ダンシャリで出たリサイクル品をわが家の茶の間に運び込むと、6畳2間の半分が「物置」になった=写真。

夜中に茶の間の明かりをつけるとき、そして玄関から出入りするとき、つまずかないように「通路」だけは確保して寝る。

翌朝、カミサンが食事のあとにこれらを整理した。陶器は陶器、漆器は漆器、シーツ類はシーツ類と、分けられて収まるところに収まったのだろう。

 食器類は店の一角に並べられ、必要な人に引き取ってもらう。善意のおカネがたまれば、あとでシャプラニール=市民による海外協力の会(東京)に寄付する。

 震災後はとりわけ、こうしたリサイクルやダンシャリが増えた。そのために小名浜へ、平の団地へ、旧市街へ、双葉郡広野町へと、行き先も広範囲にわたった。震災がらみの解体、原発避難がらみの移動に伴う整理が多かった。

 不思議なことに、いったんは集まったモノがいつの間にかなくなっている。わが家はリサイクルの中継地、あるいは「ハブ空港」のようだ。今度の食器なども飾るとすぐ、「いいわねぇ」などと言って少しずつ引き取る茶飲み友達が現れた。

古い布やタオルは、義弟が利用していたデイケア施設に贈る。施設では、利用者の体の一部をふくのに布類が欠かせない。いくらあってもいいという。

古着は袋に入れて、店の前のかごに入れておく。必要な人がときどき、買っていく。不要になったからと持ち込んで来る人もいる。

古着が一番多い。個人の家では保管するにも限度がある。たまると、市役所駐車場の「古着回収ボックス」に運ぶ。

前は古着リサイクルのNPO法人ザ・ピープルのスタッフが回収に来た。それが滞っているために、同団体の古着回収ボックスまでこちらから運ぶようにしている。

 さて、今回のダンシャリ回収では、知人の家の庭から柵をはさんだ駐車場へ、そしてわが家の庭から玄関へと、わずかな距離の積み込み・積み下ろしだったが、歩数計では1500歩になった。

なにしろモノの数が多い。1回往復30歩として計50回は積み込み・積み下ろしをした計算になる。これだけでヘトヘトになった。

2025年12月26日金曜日

南端の夕日

                                  
   冬至(12月22日)の翌日午後4時過ぎ。国道6号の夏井川橋を渡って、対岸の県道甲塚古墳線へ出る。

行き先は平南白土の「みんなの食堂」だ。が、その前に夕日がどこに沈むか確かめたい。そのための写真撮影をカミサンに頼む。

夕方のラッシュアワーを控えた時間帯で、路上に車を止めるわけにはいかない。車で移動しながら、助手席からカミサンが赤く燃える西空をパシャパシャやった。

平市街の西方には、南から湯ノ岳~三大明神山、好間川をはさんで閼伽井嶽~水石山のスカイラインが伸びる。

冬至の翌日である。西の山に沈む夕日は1年で最も南端にある。その場所は? 湯ノ岳からかなり南にずれた平市街南方の小丘(もしかしたら「21世紀の森公園あたり?)が赤々と燃えていた=写真上1。

 撮影時間は4時18分。夕日が小丘に没したばかりなのは、紅蓮の中心が一部、金色に輝いているのでわかった。

夏井川に合流する新川を渡るとほどなく「みんなの食堂」(旧「レストラン シェ 栗崎」)に着く。

月に2回、午後2時にオープンし、2時間ほどは子どもの宿題と交流タイムに充てる。4時から7時までは大人もOKの食事タイムになる。

12月2回目のこの日はクリスマスを兼ねて開かれた。2学期の終業式が終わり、翌日からは冬休みという開放感もあってか、いつもより子どもたちの数が多い。

冬至、そしてクリスマス。そういえば、前日には知り合いが冬至だからと、ユズをいっぱい持って来てくれた。

ユズは高専の後輩からも届いた。こちらは2回目の白菜漬けに風味用として皮をみじんにして加えた。冬至の日に届いたユズはさっそく風呂に浮かべて香りを楽しんだ。

みんなの食堂に行くと、スタッフでもある知人が店の前の路上に立っていた。ユズを持って来てくれた知人とは共通の友達だ。

そのユズの知人が初めて「みんなの食堂」に顔を出すという。道に迷うにちがいない。だから、立っているという。実際、迷い迷い、やっとたどり着いた。

知人も、私らも全員、80歳前後のシルバーだ。みんなの食堂は、若いころ頻繁に行き来し、あるいは飲んだり食ったりしたかつての仲間の「再会」の場にもなっている。

「子ども食堂」は同時に、「シルバー食堂」、つまりは「コミュニティ食堂」なのだと、あらためて思った。

まさに「一陽来復」。人生もまた冬至と同じ。翌日、クリスマスイブの晩には「孫」の親と久しぶりに、大人だけの「ほうれんそう鍋」を楽しんだ=写真上2。

2025年12月25日木曜日

絶滅寸前季語

                               
   このごろは図書館へ行くと必ず「大活字本」のコーナーをチェックする。

眠りに就くときは眼鏡をはずす。寝床では、小さな活字だとぼやけて読めない。裸眼で読める本といったら、大活字本しかない。

 寝床で大活字本を読む――。最近の就眠儀式である。前よりすんなり本を読み、それでいて睡魔にもスーッと誘われる。

 最近は夏井いつき『絶滅寸前季語辞典・下』を読んだ。「上」ではなく、「下」にしたのは、「秋・冬・新年」の絶滅寸前季語が収められているからだ。

 寒さが身にしみる今、どんな季語が絶滅しそうなのか、寝床で読み進めると、「皸(あかぎれ)」や「湯婆(ゆたんぽ)」「練炭(れんたん)」といったものが現れた。

 「皸」(晩冬)の説明。「寒さで血液の循環が悪くなることによって起こる、皮膚の亀裂。『皸』と『胼(ひび)』はどう違うかというと、その亀裂の深さによる区別。亀裂の浅いものが『胼』で、出血するほどの亀裂が『皸』だと思えばいい」

 そうか、私も冬になると足のかかとに「胼」ができる。寒くなる。血行が悪くなる。それを意識して、毎朝、かかとに軟膏を塗るようにしている。

 「湯婆」(三冬)は「中に湯を入れて、冷たい布団のなかの身体を暖めるために使う ブリキ製や陶器の亀の子形容器」だ。

 ブリキの湯たんぽは、子どものころ使った記憶がある。が、それこそ製品としては「絶滅」したのではないだろうか。

 陶器製の湯たんぽは、朝ドラの「ばけばけ」にも使われたようだが、現物を見たことはない。

 今、わが家にあるのはポリエチレン製=写真=で、この冬は1回使ったあと、「あったかソックス」をはいて寝ているため、常用までは至っていない。

 「練炭」(三冬)。「縦長の空気穴がいくつも空いている円筒形の炭。その穴が煙突の役目をするので、火がつきやすく、しかも一定温度を長時間保てるので重宝がられた」

 電気ごたつが普及する前、こたつの熱源と言えば練炭だった。木炭を使っていた記憶もあるが、はっきり思い浮かぶのは「練炭七輪」だ。七輪に火のついた練炭を入れ、下部の送風口を開閉して温度を調整した。

 冬といえば、私の中ではこの3つがすぐ思い浮かぶ季語だが、江戸時代の俳僧一具庵一具(1781~1853年)を調べていて覚えた正月の季語もある。

「御降(おさがり)」。『絶滅寸前季語辞典』によると、「元日、あるいは正月三が日に降る雨のこと。雪を指す場合もある」。

一具は出羽の国で生まれ、磐城平の專称寺で修行し、幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした。

『一具全集』から3句。「御降りや西丸下のしめるまで」「御降や小袖をしまぬ歩行(あるき)ぶり」「城山や御降ながら暮(れ)かゝる
 句意としては、雨が降っても、雪が降っても、要は晴れていても、そうでなくても正月はめでたいのだ。そういうことだろう。

確かに、現代では「御降」といっても、ピンとくる人はまずいない。私がそうだ。

2025年12月24日水曜日

岸辺のヤナギ

                                 
 この冬2回目の白菜漬けをつくった。白菜を買ったのは日曜日(12月14日)。翌日は晴れたが風があった。翌々日も晴れ。風は? 弱い。

 よーし! 朝食後、すぐ白菜2玉を割って縁側に並べた。干したら待ったなしだ。夕方にはなにがなんでも漬け込む。

それまでにほかの用事を済ませる。図書館の開館時間に合わせて本を借りに行き、その足で銀行に寄った。

帰りは午前11時ごろ、いつものように夏井川の堤防を利用する。ハクチョウは、この時間帯には郊外の田んぼに移動していていない。

なんということもない川の光景ではある。が……。水鳥のいない浅瀬から対岸の河川敷に目を転じたとき、驚いた。

 こんなに生えていたのか! 岸辺のヤナギの若木である。河川敷は全面、枯れ草色だが、岸辺に沿ってうっすら緑色の帯ができていた=写真上1。ポツン、ポツンではない。ビッシリだ。

「令和元年東日本台風」を機に、河川敷の土砂除去と立木伐採が行われた。今も工事の続いているところがある。

わが生活圏では右岸の工事のあと、11月末まで左岸堤防の改修工事が行われた。それで平日は堤防の通行ができなかった。

ヤナギの若木が生えているところは右岸・山崎。ブルドーザーが入ったあとは、サッカー場が2つできるくらいの「空き地」になった。

そこを緑の草が覆い、一段低い岸辺には、大水になると上流から種が流れ着いたのか、あっという間にヤナギの幼木が現れた。

それが1年前だったか、2年前だったか、記憶が定かではないが、もう人間の背丈を超えるくらいには生長している。

周りの枯れ草同様、ヤナギもやがて葉を枯らして裸になるが、淡い緑色は今もよく目立つ。

夏井川の「リバーウォッチング」を始めてから何十年がたつだろう。対岸では、これまでに2回は土砂除去と立木伐採が行われている。

岸辺にヤナギが現れ、林になるまでそう時間はかからない。20年もたてば、大木になる。

今回もいったん見晴らしはよくなったが、岸辺はすでに草とヤナギで土が見えなくなった。工事のたびに繰り返される光景ではある。

それともう一つ。「銀橋」(下水道橋)の上流左岸高水敷に、伐採されずに残った雑木=写真上2=が何本かある。竹林はともかく、なんでその木が残ったのか、よくわらない。

ま、そんなことより、帰宅したら「白菜仕事」だ。岸辺の木の不思議はそのくらいにして、夕方には甕(かめ)に漬け込まねば――。ということで、今は16日に漬け込んだ白菜を食べている。

2025年12月23日火曜日

辛み大根をおろしに

   夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギと辛み大根を栽培している。正確には、辛み大根は自生に近い。不耕起のうえに、ほとんど手をかけない。

初夏に種の入ったさやを回収する。が、あまりにも数が多いので、いつも途中でさや摘みをやめる。あとは枯れるがまま。枯れた茎だけになった夏、引っこ抜いて片付ける。

さやは、近年は袋に入れたままだ。まけば芽が出るのはわかっている。しかし、取り残したさやも、初秋になると土に帰って発芽する。

ある年、月遅れ盆が終わって種をまこうとしたら、すでに10株ばかり双葉が出ていた。それで、辛み大根は「ふっつぇ」で増えることを知った。

「ふっつぇ」は「自然に生まれた」を意味するいわき語。シソやミツバもこぼれ種から生える「ふっつえ」だ。

以来、辛み大根は種をまかずに、「ふっつぇ」で出てきたものを育てる。といっても、周りの草を1~2回引き、気が向けばパラッと肥料をまく。その程度のことはする。

今年(2025年)は「ふっつぇ」の発芽が旺盛で、菜園の3分の1を埋めるほどになった。

三春ネギの苗づくりに失敗したので、例年だとネギのうねをつくるあたりでも発芽した。それもそのままにしておいた。

なかには広く大きく葉を広げ、周りの葉を覆い隠すものも現れた。11月末に根元の土をほぐし、根がどのくらい肥大しているかチェックした。

11月最後の日曜日、根元が4センチ、長さ15センチほどの「むっくり」形を初収穫した。大根おろしにすると辛かった。師走に入ると、辛み大根はさらに肥大する。

2年前、普通の大根のように太くて長い辛み大根が採れた(ずんぐりむっくりも、もちろんあったが)。

それぞれおろしにして味を比べた。ずんぐりむっくりはとても辛い。なのに、立派な大根は辛みに強弱がある。どちらかというと、辛みが弱い。

大根はアブラナ科だ。アブラナ科の植物は交雑しやすいという。いつの間にか普通の大根と交配して、形質が変わってしまったのかもしれない。

で、根元に指を突っ込んで土をかき分け、大根の首をつかんでねじるようにして引っこ抜くと、すぐ形状を確かめる。

この冬はまだずんぐりむっくり形が多い=写真(細いのは未熟なまま終わった「ふっつぇ」)。そのための不耕起栽培だからそれでいいのだが、やはり太くて長いタイプだと喜んではいられない。

もともとはもらいものである。震災翌年の2012年夏、豊間で津波被害に遭い、内陸部の借り上げ住宅で暮らしながら、家庭菜園に精を出している知人(女性)から、種の入ったさやが届いた。種はもともと会津産だという。

原発事故が起きて、三春ネギ以外は家庭菜園を続ける気持ちが萎(な)えていたころだった。よし、辛み大根で再出発だ、となったのだった。

2025年12月22日月曜日

木守の柿

                                
   5年前の秋に庭の柿の実について、こんなことを書いた(数字は5年分プラスしてある)。

――柿の木の下に、用済みになって25年もたつ犬小屋がある。そのトタン屋根に柿の実が当たる。車の屋根にも落ちる。「コツン」。こちらは乾いた音だ。車の屋根がでこぼこになっても困るので、止める場所を替えた。今度は「グシャッ」、もろに地面に落ちて低い音を出す――。

柿の実は、今年(2025年)は生(な)り年だった。いつものことながら、青柿のうちから落下が始まった。赤く熟してからは拾って皮をむき、浅いざるに並べて「置き干し柿」にした。

そして、いよいよ師走も後半。葉はすでに散ってない。12月15日は、見ると枝に付いている熟柿は3個だけ。翌16日には1個が落ち、1個が朝日を浴びていた=写真。

「木守の柿」ではないか! 義父の俳句を通じて知った季語である。それについても、同じく5年前に書いている。

――(私ら夫婦が住んでいる家は、平・久保町で営業していた米屋の支店)。昭和43(1968)年、義父が土地を買い、家を建てた。庭には柿の苗木を植えた(のだろう)。

舌頭で「あ・お・が・き」と音を転がせば、義父が所属していた句会「青柿会」が思い浮かぶ。

俳号は素子(そし)。三回忌に合わせて発刊した素子の句集が『柿若葉』。編集は友人に頼み、「あとがき」に代わって、「素子の句作」について小文を書いた――。

『柿若葉』を引っ張り出して拙文を読み返す。そのなかに義父の若いときの作品を紹介したくだりがある。

「木守(きのもり)の柿残照に燦(さん)として」。NHKのラジオ文芸に投稿し、入選した作品である。賞品としてもらったアルバムにこの句が記されてあった。

こんな句もあった。「うれかきにからすの来たるこくたしか」。漢字にすると、「熟れ柿に烏の来たる刻確か」。

まさにこの時期、柿の実が孤愁をまといながらも毅然として宙に浮いている。

16日に落ちていた熟柿は、皮が一部破けて中身がえぐられていた。カラスが枝に止まってつついているうちに落下したのだろうか。

秋の収穫後も、柿の木に1個ないし数個の実を残しておくのが日本の伝統的な風習と、ネットにあった。それを「木守の柿」と呼ぶ。

来年の豊作を祈りつつ、冬の鳥たちへの食料として残す意味もあったという。「きのもり」のほかに、「きまもり」「きもり」とも読むようだ。

義父の句は「残照」、冬になっても残っている柿の実にふさわしい光景だが、私が見たのは日が出て間もない早朝の柿。「木守の柿朝の日に燦として」である。

夕日・朝日の違いはあっても、葉を落とした枝先に1個、熟れ柿が残っている光景は、やはり情感を誘う。義父は、柿には特別な思いを抱いていたようである。

ついでながら、19日には朝日に照らされた1個が落ちてなくなっていた。20日には最後の1個が消えた。車も樹下に戻した。そして、きょう22日は冬至。

2025年12月20日土曜日

「うつろ舟」が時代劇に

                                         
   大河ドラマ「べらぼう」最終回の余韻がどっかへ吹き飛んだ。

NHKBSで早めに「べらぼう」を見たあと、そのままテレビをつけていたら、時代劇「大富豪同心スペシャル・前編」が始まった。

冒頭、常陸の国に漂着した円盤形の小型船の絵が登場する。「うつろ舟」だ! 「うつろ舟」を題材にドラマが展開されるのか!

ドラマを見終わって、急いで情報を集める。それで時代劇(再放送)の輪郭が少し見えてきた。

原作は作家幡(ばん)大介の人気シリーズ『大富豪同心』で、原作者も作品も寡聞にして知らなかった。

時代小説である。図書館に『大富豪同心 漂着 うつろ舟』があったので、さっそく借りて読んだ=写真上1。

「常陽藝文」(2023年2月号)の特集に刺激されて、ブログで「うつろ舟」を取り上げたことがある。まずそれを要約・再掲する。

 ――「常陽藝文」が、UFOのような円盤状の舟について特集した=写真上2。題して、藝文風土記「常陸国うつろ舟奇談」の謎。

 江戸時代後期の享和3(1803)年、常陸国の海岸に円盤に似た舟が漂着する(正確には、沖に漂っているのを浜の人間が見つけ、船を出して引き揚げた)。

船内には奇妙な文字が書かれ、箱を持った異国人のような美しい女性がひとり乗っていた。そんな前文から特集が始まる。

 江戸時代のミステリー「常陸国うつろ舟奇談」は、舟の漂着から20年ほどたった文政8(1825)年、滝沢馬琴が編纂(へんさん)した奇談集『兎園(とえん)小説』に収められたことで広く知られるようになった――。

 そのときにも驚いた。図書館で「うつろ舟」関連の本を探すと、風野真知雄『耳袋秘帖 妖談うつろ舟』(文春文庫、2014年)があった。澁澤龍彦も小説に仕立てていた。これも借りて読んだ。

 「うつろ舟」は作家の想像力と創造力をいたく刺激するらしい。舟に乗って漂着した青い目の若い女性の名は、風野真知雄の本では「まりあ」(ただし、異国風だが日本女性)、幡大介の本では「アレイサ」となっている。

 ドラマでは、同心仲間が名前を聞いて「アラエッサッサー」などとおどける。いや、英語とは無縁の日本語圏で生きている人間には、そうとしかとれかったのだろう。

しかし、原作も、ドラマも話はそこまで。その後の展開が見えないと思っていたら、続きがあった。

原作の方は、『大富豪同心 大統領の密書』でその後を描いている。図書館の本はしかし、「貸出中」になっていた。私と同じでBSの時代劇を見て、原作を読みたくなった人がいたのかもしれない。

なら、しかたない。まずは12月21日の「大富豪同心スペシャル・後編」を見る。それから、図書館の本が「貸出可」になるのを待つ。

2025年12月19日金曜日

もちと馬の置物

                                
 12月15日は今年(2025年)最後の回覧資料配布の日。実際は年内にもう1回、元日付の回覧資料(「広報いわき」など)が残っている。

元日に仕事をするのは野暮というもの。役所も年末年始休に入るから、年内最終週の29日か30日に元日付の回覧資料を配って、ゆっくりした気分で新年を迎える。

15日の早朝、カミサンを接骨院へ送った足で回覧資料を配った。帰って店を開け、ごみネットとごみ袋を出してから、ブログの原稿を入力した。

朝食はカミサンが戻ってから取り、一休みすると、今度はもちを切った。もちは前日の日曜日、カミサンの実家でついたものだ。

何年か前までは私ら夫婦も、もちつきを手伝った。私は蒸籠(せいろ)の火の番。「釜(かま)じい」だ。今は夕方、できたてのもちをもらいに行くだけ。

もちは電気もちつき器でつくる。1キロごとにポリ袋に入れ、ほぼ20センチ四方のかまぼこ形にする。

もらってくる数は事前に連絡してある。歳暮としてすぐ届ける家もある。わが家で食べるもの、あとでひとり世帯に届けるものは、私が食べやすい大きさに切る。

切り方は簡単だ。真ん中から2つに割り、さらに2センチ幅で包丁を入れる。もちは一夜寝かせると、少し硬くなる。日をおくともっと固くなって、包丁で切るのに難儀する。切ったもちはすぐ、カミサンが新聞紙にくるむ。

大根を切るようなわけにはいかない。それこそ滑りをよくするために、ときどき大根に包丁を当てて表面をぬらす。

前は革手袋をはめてやったが、今年はハーフフィンガーをはめている。そのまま左手で包丁の峰をグッと押し込む。

今年はできたてに近かったせいか、手のひらが痛くなることも、赤く峰の跡が残ることもなかった。

それが終わって茶の間でくつろいでいると、玄関の方から聞き覚えのある声がした。ハマの近くに住む知人が手製の「馬」の置物=写真=と日本酒を持ってきた。

このところ、毎年暮れになると、糸ノコを操作してつくった干支(えと)の置物が届く。令和4(2022)年の虎(寅)が最初だったろうか。以来、兎(卯)、龍の落とし子(辰)、蛇(巳)と続き、今回は馬(午)がやって来た。

 一目見ただけでも躍動感がある。力強く前進するように、という思いが込められているのだろう。さっそくテレビのわきの本棚の上に飾った。

早朝、回覧資料を配ると弾みがついたように、もちを切り終えた。そこへ来年の干支の馬がやって来た、一気に正月の準備を終えた気分になった(ただし、年賀はがきはまだだが)。

2025年12月18日木曜日

シルバー喫茶店

                                
 いわき市立美術館で企画展「コレクションの輝き」が開かれた=写真(チラシ)。閉幕1週間前の12月7日、展示作品を見た。

朝は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをし、マチへ戻るとすぐ文化センターの地下にある喫茶ハニーで昼食をとった。私らと同じシルバー世代でびっしりだった。これについては後述する。

同美術館は、1945年以降の現代美術を収集の大きな柱にしている。その収蔵作品の中から、「風景」と「人間」をキーワードに選んだ作品を展示した。

なじみのある作品が多かった。「なじみ」があるとはこういうことだ。企画展とは別の常設展をはじめ、過去の企画展、地域紙での紹介など、いわきでは現代美術作品を見る機会が多い。

イブ・クライン、アンディ・ウォーホル、アンソニー・グリーン、ホルスト・アンテス……。いわきゆかりでは、物故作家の若松光一郎、山野辺日出男、松田松雄、熊坂太郎、田口安男など。

現役バリバリの吉田重信さんの「1994年4月30日 Bordeaux」という映像作品(特別出品=作者蔵)がおもしろかった。

フランスはボルドーへの移動の途中、車窓に映る風景を虹色の光としてとらえたもので、前にフェイスブックかなにかで見た記憶がある。

現代美術家は常に現れる。無名の作家の作品をいち早く評価して購入し、やがて作家が世界的に知られる存在になる。

昭和59(1984)年4月の開館から41年がたった今、まさにその方針が価値を帯びてきた。

作家の評価が定まることで美術館の「含み資産」(収蔵作品の経済的価値)はかなりのものになっている。今回も懐かしい思いでクラインの「人体測定」と対面した。

そして、これは現代美術とは関係がないが、しかし個人的には「美術つながり」としてもくくられる人と時間との結びつきを感じさせる体験だった。喫茶ハニーのことである。

この店は文化センターが開館したときからそこで営業している。経営者の父親とは、平・南町にあった草野美術ホールで出会った。

以来、同センターで展覧会があるとハニーで一休み、というケースが多かった。道路向かいに美術館が開館してからは行く機会もなくなったが、それでも喫茶ハニーは「古き良き時代の喫茶店」として脳裏に生きていた。

「ハニーで昼食を」。カミサンがそう決めていたのは、友達から昼のにぎわいを聞いていたからだ。実際、行って驚いた。シルバー世代で席が埋まっていた。

注文を取り、水を運び、食べ物とコーヒーを運ぶ女性もシルバーだ。カウンターの中にいるのはマスターと、私が現役のころ、取材先でもあった社協に勤めていた弟さん。

シルバー世代がこうして集い、食事をして談笑する――。そんな空間があること自体、「奇跡」ではないか。元ブンヤとしてはつい「これはマチダネになる」なんて考えてしまうのだった。

2025年12月17日水曜日

救急車が隣に

                                  
   ヒイラギは漢字で「柊」と書く。文字通り「冬の木」だ。その花=写真=に気づいたのは、会津の山沿いに雪が降り、中通り北部の福島市でも初雪が観測された11月19日。

阿武隈高地の東側(浜通り)は冷たく乾いた空気に見舞われた。さすがに庭で歯を磨く気にはなれなかった。

それから10日もすると寒い師走がきた。西高東低の気圧配置になれば、いわき地方は冷たい西風に見舞われる。寒さに震える日がこれから増える。

先日も朝から晴れて寒風が吹き荒れた。こういう日には、散歩は休むに限る(休む理由を見つけるのは簡単だ)。

いわき駅前の総合図書館に返す本がある。屋外ではなく屋内を散歩しよう。午後、「ラトブ散歩」をすることにして、茶の間でノートパソコンを開き、調べものをしたり、本を読んだりしていた。

 すると、西の方から「ピーポー、ピーポー」の音が近づいてくる。いつものように家の前を通り過ぎるだろうと思っていたら、近くで音がやんだ。

 ん⁉ カミサンと目を合わせる。カミサンが通りに出る。と、隣のコインランドリーの駐車場に救急車が止まっていた。

しかも、救急車に担ぎ込まれたのは近所の知り合いのAさんだった。カミサンとはPTA仲間であり、私とは区内会の役員仲間でもあった。長くひとり暮らしをしている。

救急車が来たのはこんな状況からだったらしい。寒風が吹き荒れる中、Aさんは日課の散歩に出た。わが家の近所まで来たところで道路の縁石につまずき転倒した。

通りがかりのドライバーがこれを見てAさんを助け起こし、コインランドリーの利用者にあとを託した。

利用者が救急車を呼んだが、知った人ではない。カミサンが行ってAさんとわかった。すぐカミサンが戻って来て、「Aさんの住所は?」と聞く。

家にある資料をパラパラやって、該当する個所を救急隊員に示し、さらに本人が持っていたケータイから娘さんにつながり、救急車の行き先が決まった。

老化は足から――。これを防ぐためにAさんは毎日散歩を欠かさないのだろう。

「準散歩」を始めたばかりの私も、先日、路上でばったり顔を合わせた。そのときはいつものAさんよりは、少し歩き方が遅いようだった。それから半月ほどたってからの転倒事故である。強風が影響したのだろうか。

救急車の「ピーポー、ピーポー」は、私らを含めて地域に高齢の夫婦、あるいはひとり暮らし世帯が増えた今、身近な音になった。

わが家の隣家に住んでいた義弟も亡くなる直前、救急車の世話になった。近所の人たちも何人か世話になった。

後日、Aさんの娘さんがやって来た。幸いAさんは顔を打っただけですみ、その日のうちに退院したという。なにはともあれ、大事に至らなくてよかった。

2025年12月16日火曜日

電源プレート

                                            
 わが家に「ティファール電気ケトル」という、魔法瓶に似た「やかん」(湯沸かし器)がある=写真。容器に水を入れ、電源プレートに載せてスイッチを入れると、すぐお湯が沸く。

 店の一角に喫茶室を兼ねた地域文庫がある。ケトルはカミサンが来客に出すコーヒー、紅茶、緑茶用だ。

 そのケトルの電源プレートに関して、ビックカメラグループ(ビックカメラ、コジマ、ソフマップの3社連名)から、リコール(無償交換)を知らせるはがきが届いた。

 2021年10月~2024年7月に製造されたティファール電気ケトルのうち、特定の製造ロットで、電源コードの「不適切な使用方法」(カギかっこは私)によって電源プラグが破損し、場合によってはコンセント付近で発煙・発火の可能性があるという。

 販売元はビックカメラグループだが、対応窓口はグループセブジャパンというところだ。フランスに本社を置くグループセブの日本法人で、ここが輸入元なのだろう。

 実は先日、地元の公民館から隣組に配る臨時の回覧資料が届いた。内容ははがきと同じで、リコールを伝えるものだった。抽選会で電気ケトルが当たった人は公民館まで連絡を、対応資料を渡します――。

 8月31日に地区の市民体育祭が行われ、終わって「大抽選会」が開かれた。抽選会の景品の一つにティファール電気ケトルがあった。

 公民館から回覧資料が届くとすぐ、カミサンがはがきを見せた。それで前から家にある現物を確かめ、はがきの指示に従って、ケトル底面に表記されている「製品品番」と「4ケタ番号」をチェックした。

ついでに生産国を確かめる。フランス製かと思ったが、「メイド・イン・チャイナ」だった。

 対象製品が多いためか、該当製品の一覧はホームページでどうぞという。手元のケトルの製品品番と4ケタ番号をリコール製品の一覧と照合する。どれにも該当しない。

つまり、対象外。電源プレートを交換することなく、今まで通り使用できるということだ。

わが家の場合はそれで一件落着だが、抽選会のケトル当選者は同じように製品品番と4ケタ番号をチェックして、該当製品かどうかを確かめる必要がある。

 もちろん公民館に連絡するのが一番だが、いながらにして確認するには「電気ケトル リコール」で検索しても、ティファール公式サイトにたどり着く。私もそれで確かめた。

 にしても、と思う。電源コードの「不適切な使用方法」って、何を指しているのだろう。使う側(消費者)の扱い方次第のような表現がどうにも引っかかる。

2025年12月15日月曜日

はなのころ作品展

                                 
 心身に障がいを抱えながら表現活動に励んでいる「はなのころ」のメンバーと、それを支援する作家のチャリティー作品展が12月6日から14日まで開かれた。

 会場はいわきニュータウンの一角、住宅を転用した「アートサロンいわき」で、主催者のNPO法人はなのころの西山将弘理事長から、作者(メンバー)と作品の説明を受けた。

 はなのころは今年(2025年)4月、平・三倉に交流ギャラリースペース「はなのころBASE(ベース)」を開設した。

 10月下旬だったか、カミサンのアッシー君を務めながら、通称「はなベー」へ出かけた。

西山理事長とは縁があって前から知っている。いろいろ説明を聞く中で、興味を引くものがあった。

 絵はがきとブローチで、「混乱」というタイトルが付いていた=写真上1。作者は「碧(あおい)」さん。

解説資料に「エネルギッシュなモチーフや和の作品、落ち着いた風景画など、何でも自由に描いて、自分のスタイルを追求している」とあった。

 技法的にはデジタルイラストと呼ぶらしい。太い線を駆使した画面から、アメリカの現代美術家、キース・ヘリングに通じるものを感じた。

 へリングの作品を見たときには驚いた。これも美術なんだ! 軽やかなタッチと解放感。現代美術の表現の多様さを知った。

 碧さんの「混乱」にも同じような自由さを感じた。こりかたまったこちらの感性が解き放たれる。コミュニケーション(わかる・わからない)ではなく、共振・共感のバイブレーションが起きる。絵はがきとブローチを買った。

 それから2カ月近く。新聞でチャリティー作品展の開催を知った。今度もアッシー君を務めた。碧さんの作品は? ちょっと見当たらなかったが、代わりに面白い発見をした。

新聞の折り込みに「お悔み情報」(主にA4判・片面コピー)がある。私はこれを取っておき、真っ白の裏面をメモ用紙として使っている。

震災前からの習慣で、「規格」が同じだから「カード式」の日記になる。現にそうして、15年以上書き続けてきたので、けっこうな分量になっている。

一日の主な出来事や植物・動物・菌類のこと、本を読んだ感想、その他もろもろ、なんでも書き付けておく。それをヒントにキーワードを探し、ブログの構成を考える。

はなのころの小野広美さんは、このお悔やみ情報の真っ白な裏面を画用紙に見立てて作品をつくる=写真上2。

はなのころの会報誌によると、小野さんは「記憶している文字を即興で書く」のが得意だとか。それに季節の果物や生き物、花火などのイラストを添える。文字は漢字が多い。

ここでもバイブレーションが働いた。私と同じ素材を使っている。私はカード式の日記用紙として、小野さんは画用紙として。方法こそ異なるものの、表現に利用しようという思いは同じ。それを知ってうれしくなった。

2025年12月13日土曜日

「菌類世」?

毎日2千歩前後は歩くと決めてからは、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の総合図書館へ行く、スーパーのマルトへ行くというとき、「ラトブ散歩」「マルト散歩」を意識するようになった。

 それまでは目当ての本や品物には一直線に向かい、手にしたらすぐ貸出機やレジに直行する。ほかは見向きもしなかった。

しかし、一直線だけが時間の使い方ではない。図書館にはおびただしい本がある。マルトにもたくさんの商品がある。

世代や男女、仕事や趣味、その他もろもろの需要にこたえるための本が、商品が用意されている。

頭ではわかっていても余計な時間はかけたくない、いつもそんな意識がはたらいていた。

散歩しているのだと思えばいい。最近はそんなふうに意識を切り替えて書架をながめ、商品棚をチェックする。

一直線のときにはこんなこともあった。マルトでは私がカートを動かす。レジの列に並ぶと、なぜかカミサンがいなくなる。

どこへ行ったのかな――。いぶかっているうちに、レジの順番がくる。こちらは財布を持っていない。どうするんだ。内心焦っているところへカミサンが戻って来る。突然買うものを思い出すのだそうだ。

一直線から散歩感覚に切り替えたのには、これもあった。入館・入店したときから健康を意識してフロアをあちこち移動する。

ラトブでは図書館だけでなく、階下の書店やショップもぶらつくことが増えた。買うかどうかはともかく、なにがあるのかを「ラトブ散歩」で確かめる。

ほかの大型店へ行ったときにも散歩感覚で店内を巡る。それで100円ショップでは「数独」の練習帳を売っているのを「発見」した。

図書館の話に戻る。ラトブの総合図書館は、4階が子どもと生活・文学フロア、5階がいわき資料と歴史・科学フロアだ。

これまでは一直線のほかはカウンター前の新着図書コーナーをのぞくだけだった。最近は5階も4階も巡り歩く。

そうした「ラトブ散歩」で自然科学系の書架から見つけたのが、キース・サイファート/熊谷玲美訳『菌類の隠れた王国――森・家・人体に広がるミクロのネットワーク』(白揚社、2024年)だ=写真。

現代の地質年代を「人新世」と呼ぶ言い方がある。しかし、「私たちの住む世界は菌類の世界である。(略)人類の影響がどれだけ大きくても、菌類の影響にはとてもかなわない」(序文=ロブ・ダン)。

で、現在は「『菌類世』とも呼ぶべき大きな時代の、風変わりな一時期」なのだとか。「菌類世」? ロブ・ダンはそういう視点で本書を読むことを勧めている。

 本書は、菌糸体の特質を応用した新素材・新製品、菌類の代謝産物から生まれる新薬・石油化学製品の代替製品、プラスチック分解……。マイコテクノロジー(菌工学)の可能性にも言及する。

    散歩は夏井川の堤防であれ、図書館であれ、予期せぬ出会いを秘めている。そこがおもしろい。 

2025年12月12日金曜日

終活・朝活・脳活

 パッと思い浮かぶ「○活」がある。終活・朝活・脳活。若い人なら終活よりも就活、そして婚活だろうが、後期高齢者は部屋の片付けさえ即、終活になる。

 先日、座いすのわきに山積みにしておいた資料の整理をした。カミサンが座卓にこたつカバーを掛けるため、資料を移動して掃除機をかけた。それに合わせてダンシャリせざるを得なくなった。

 ブログを書くのに必要だからそこに置くのだが、終わってもそのままにしてしまう。「何年も前の資料まで必要なの?」ということで、春にこたつカバーを外すときも含めて、年に2回は資料の整理を余儀なくされる。

言われたとおりに振り分ける。あらかたはごみ袋行きになる。「これだって終活だから」。確かにそういう年齢になったのだと、妙に感心する。

当たり前の片付けが「終活」を兼ねるとなれば、甘い判断はできない。「もうこれはいい」。わりと厳しくダンシャリをする。

朝活は、カミサンが足の神経痛で横になっていたとき、店の開け閉め、ネコのエサやり、ごみ出しを「代行」したことから意識するようになった。

炊飯、料理はそのままカミサンが担当しているが、それ以外のことは指示されれば従う。

最近の習慣としては、早朝、カミサンを近所の接骨院へ送っていく。前は連絡がきて迎えに行ったが、このごろは送るだけでよくなった。

そもそも、朝は4時半には起きる。早寝だから早起きになるのは当然だ。起きるとノートパソコンを開き、翌日以降にアップするブログの原稿を入力する。

当日のブログは真夜中、一度目が覚めたときに起きて、日付が替わったことを確認してアップする。そして、遅くとも9時ごろまでには朝活(家事手伝い・入力)を終える。

日中は区内会その他、地域の用事があればそれをこなし、週に1~2回はいわき駅前の総合図書館へ行き、帰りは夏井川の堤防経由でハクチョウをウオッチングする。

堤防は工事のために通行止めになっていたが、11月30日で終了し、師走に入ると自由に行き来できるようになった。

朝9時以降はひとまず自由時間だが、ブログの仕上げと調べもの(ネット検索)をし、読書と「数独」(ナンプレ=ナンバープレース)を交互に繰り返す。散歩にも出る。

「数独」は脳活になるというので、今年(2025年)2月に始めた。まずは初級である。ルールを覚えながら、少しずつ慣れていった。

90歳になる近所のおばさんが数独をやっている。「慣れよ、慣れ」。その言葉を信じて続けたら、今では中級を越えて上級に挑戦する気持ちがわいてきた。まだ壁は厚い。が、攻略できたときの達成感は、ハンパではない。

新聞にもよく数独の問題が載る=写真。なにが脳にいいかというと、まず記憶力がアップするらしい。

   10カ月のビフォー・アフターでいえば、モノ・ゴトの記憶の輪郭がはっきりしてきた。やはり脳活にはなっているようだ。 

2025年12月11日木曜日

「きょうは来ないの?」

                                         
 毎月第2・第4火曜日に「いいのみんなの食堂」が開かれる。9月の第4火曜日、スタッフに加わっている知人から連絡があって、初めて出かけた。以来、月2回は「カミサンが夕食をつくらなくてもいい日」にして通っている。

11月の第2火曜日は昼、カミサンが「女子会」に参加するというので、マチへ送って行った。

 終わって迎えに行くと、余った食べ物と、「通りで売っていたので買った」というサラダ白菜を持っていた。

 「みんなの食堂」に行く時間(夕方4時過ぎ)になると、「行くの?」という。持ち帰った食べ物を含めて、おかずが余っている。

 それを食べれば、カミサンは夕食をつくらないですむ。老夫婦2人だけでは、余ったおかずを食べるだけでも大変だ。ここは「みんなの食堂」へ行くのを休んでおかずを始末しなくては――となった。

 するとほどなく、知人から電話が入った。「きょうは来ないの?」。行かない理由を説明する。「おかずが余って、それを食べちゃわないと」

 11月の第4火曜日は、その2日前の日曜日にイベント兼ねて実施する、ともいう。「日曜日は刺し身なんだよ」。というわけで、11月は2回とも「みんなの食堂」へ行くのを休んだ。

 そんな電話があったあとだけに、夜は少し厳粛な気分でおかずを食べた。おかずは女子会で出たてんぷら、ドレッシングをかけたサラダ白菜とキュウリ、前日からのおからの煮物、朝の残りの味噌汁=写真。

 焼酎のつまみとしては余るほどだ。おかげで、いつもよりは少し焼酎の量も増やし、時間をかけて残さずに食べた。

 サラダ白菜は初めてだった。定期的に届く特製のドレッシングがからみあって、いい味になっていた。レタスやキャベツよりサラダ白菜の方が私の口には合っているようだ。

 このごろはどういうわけか晩酌のおかずが多い。先日量ったら、体重が増えていた。食べ過ぎの自覚があったので、「やっぱり」である。

 11月をパスしたあとの、師走第2火曜日。「みんなの食堂」の日が近づいたある日。知人から「9日は『おにぎりと豚汁』くらいになる、それでもよかったらどうぞ」というメッセージが入った。

 実は、食べる方は抑えてもいいかなと思っていたときだけに、喜んで出かけた。豚汁は、今まで口にしたことのない新感覚の味だった。

子どもたちのお母さんといえば、30~40代だろう。私らから見るとわが子よりは若い世代である。その若い世代がつくった豚汁だという。

カミサンが直接その女性においしかったことを伝えると、大喜びしていた。こういう交流も「みんなの食堂」ならでは、なのだろう。

2025年12月10日水曜日

後発地震

                                              
 夜中に一度目が覚める。12月8日は深夜の11時15分、ユラユラ長く揺れる地震と同時に覚醒した。いやな揺れだった。

 トイレから戻ってテレビをつけると、北海道から東北の太平洋沿岸に津波警報・注意報が出されていた。

ほどなく市から貸与されている防災ラジオも、海岸や河口付近にいる人はただちに退避を――と呼びかけた。放送は何回も繰り返された。

 やがて気象庁から「北海道・三陸後発地震注意情報」が発表された。後発地震? そうだった。3・11の東日本大震災がそれだった。

 3・11の2日前、マグニチュード7.3の大きな地震が発生した。今思えば「前震」だ。そのあと、マグニチュード9.0の超巨大な「本震」がきた。「後発地震注意情報」はそれを機に新設され、今回初めて発表された。

 自分のブログでこの注意情報の運用方法について触れていないか検索したらあった。

令和5(2023)年1月に回覧網を通じてチラシを配布していた。忘れていた。後発地震の怖さを再確認するためにも要約・再掲する。

――令和4(2022)年12月16日、「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用が始まった。それを知らせるチラシ=写真=が同5年1月、回覧網を通じて隣組に配られた。そこで「前発地震」と「後発地震」を知った。

本震のあとに余震がくる。これは一般の人でも承知していることだ。が、本震の前にも地震があることを、東日本大震災のときに初めて知った。

平成23(2011)年3月9日は水曜日だったが、たまたま夏井川渓谷の隠居にいて、揺れを体験した。

間もなく正午、というときに、家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたか、と思うくらいに、揺れは外からやってきた。

「地震かな」。軽い身震いのようなものがしばらく続いた。そのうち、全体が揺れ始めた。「やっぱり地震だ」。横揺れだった。長かった。

こたつで本を読んでいた。真正面の対岸は岩盤の露出した急斜面だ。県道も含めて、しょっちゅう落石がある。

地震の影響(落石)がないものか。目前の山に神経を集中した。見た目では、「崩れ」はなかった。

ラジオ(NHK)はすぐ特番に切り替わり、津波への警戒を伝え、臨海の役場に電話を入れて状況を聞き始めた。

これといった被害はなかった。それもあって、ブログをアップした翌11日、千年に一度ともいうべき超巨大地震に見舞われるとは思いもしなかった――。

 後発の巨大地震が必ず起きるというわけではない。が、起きる可能性もあるということである。

少なくともこの1週間は3・11の記憶を反芻しながら、しかしいつものように日課をこなそうと思っている。