2009年4月7日火曜日

里見さんから学んだこと


わが家の床の間に、江戸時代後期、磐城平藩・山崎村の専称寺で修行した出羽国生まれの俳僧一具庵一具(1781~1853年)の句幅が飾ってある=写真。初代のいわき地域学會代表幹事・里見庫男さんが11年前、古書市場で入手したのを「研究の材料に」とプレゼントしてくれたのだった。

ざっと25年前、調査・研究のイロハも知らずに誘われて、発足したたばかりのいわき地域学會に入会した。すぐ夏井川下流域の総合調査が始まった。里見さんの指示で一具を調べることが決まった。一具とは何者? その時点では、知識はゼロに等しい。『いわき市史』や歴史が専門の知人に聞いて、おぼろげながら一具の輪郭を頭に入れた。

どうしたら「一具の人と文学」をとらえることができるのか。知人に『一具全集』を借り、別の知人には関連する資料の提供を受けて、あれこれ模索を重ねているうちに、「俳諧ネットワーク」という視点でなら門外漢でもなんとかやっていけそうだ、という見通しがついた。

一具と俳人Aは会っていないだろうか。一具は俳人B・C、あるいは小林一茶とどこかでつながっていないだろうか(つながっていた)。次々に推理しては図書館のネットワークを利用して文献を漁った。初期の段階で里見さんから「仮説を立てて調べることの大切さ」を教わったのが、大きかった。

句幅には一具自身の筆で「梅咲(き)て海鼠腸(このわた)壺の名残哉」という発句が書かれてある(「槑」は「梅」、下五の漢字も当て字なので、作品の表記は全集に倣った)。春を告げる梅が咲いた、壺に入っていた「このわた」も減ってこれが最後か、名残惜しいなぁ――とでもいう意味だろうか。

「このわた」はナマコの腸を材料にした塩辛で、江戸時代から「天下の珍味」として知られる。一昨年だったか、すし屋で初めて口にした。塩辛を好まないのだが、里見さんにもらった一具の句幅を思い出して箸をつけた。こりこりした舌触りが好ましかった。磯の香りもした。うまかった。なるほど「天下の珍味」だわい、と思った。

里見さんからはほかに、「古書市場から入手した」と一具の自画自讃の軸物、『一具全集』をちょうだいした。さらに、自身が館長を務める「野口雨情記念湯本温泉童謡館」で毎月1回、誰か詩人について調べたことを話すように、という宿題も与えられた。

それで、去年後半からはいわきがらみ・雨情がらみの視点で草野比佐男や金子みすゞ、西條八十について語ってきた。

すると、今度は童謡詩を含む「近代詩ネットワーク」とでもいうべき視点で大正~昭和初期の文学史を調べてみようか、という気になった。暮鳥・雨情を軸に、茨城といわきの文献を調べていけば、なにか面白いものが見えてくるかもしれない。里見さんから与えられた宿題が、いつの間にか自分の研究課題になっていた。

きのう(4月6日)正午過ぎ、里見さんが亡くなった。ある集まりの席で倒れ、救急車で運ばれてから10日余り。享年68だった。集まりには私も出席していた。その席で二言三言、事務連絡のようなやりとりをしたのが最後になった。

里見さんには、公私にわたって目をかけてもらった。地域研究の面白さも教えられた。なかでも、後世に正確な記録を残そうと精力的に地域学會で展開した出版活動は、私にとって得難い経験になった。四半世紀に及ぶ恩愛に感謝、そして合掌。

2009年4月6日月曜日

滝の上のアカヤシオの花


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)のアカヤシオ(岩ツツジ)の花が間もなく満開になる。

金曜日(4月3日)には数カ所にすぎなかったピンク色の花のかたまりが、きのう(4月5日)は目を凝らさなくともそれと分かるようになった。2日たって開花した本数は3倍に膨らんだ。そうなると加速度がつく。次から次に花が開いて、急斜面はピンク色の花を点描した一大キャンバスになる。

対岸から花を眺めるだけではつまらない。この十数年は毎年、対岸に分け入ってアカヤシオの花の下に立つ。少し足を延ばしてアカヤシオの花の上に立ってみようか――対岸の小道を歩いているうちに気持ちが動いた。

夏井川渓谷の最大の名勝「籠場の滝」の対岸は岩盤がむき出しになっている。アカヤシオの群落の1つでもある。その岩盤の奥に尾根越えの小道がある。てっぺんに立てば、アカヤシオの花と夏井川と籠場の滝が眼下に見える。急坂だがゆっくり行けば疲れることはない。

早朝は薄曇り、やや強い風だったのが、昼前には晴れて強風になった。ビュービュー風が木々を揺らしている。無量庵の下の小流れにいたカミサンには「ボキッ、ボキッ」と木の枝の折れる音が聞こえたという。その中を、帽子を押さえながら尾根のてっぺんに立つ。峠まで上るのはごみ拾いを兼ねた昨年11月の「紅葉ウオーキングフェスタ」以来である。

谷底では、花は頭上にある。尾根道では目と同じ高さに、眼下に花が展開している。ここまで来れば被写体には事欠かない。青空の下、V字谷にこぼれ落ちるようにして咲いているアカヤシオの花にレンズを向けた=写真

淡いピンク色の花が尾根道に落ちていた。今にも開こうとする濃いピンク色のつぼみも落ちていた。「花散らし」どころか「つぼみ散らし」の強風だ。風はV字谷になだれ込んで凶暴になるのか。

厳しい環境を選んで群落を形成してきたアカヤシオだから、「つぼみ散らし」の強風も織り込み済みなのだろう。「富まず減らさず」で現状維持を続ける、滅びを避ける――それがアカヤシオの戦略だとしたら、大したものだ。

2009年4月5日日曜日

大久保草子木版画展


駆け出しのころ、「サツまわり」が一緒だった1歳下の「同業他社」氏から定年退職のはがきが届いた。その前に、共通の知人の消息を尋ねる電話があった。知人は90歳を超えている。「生きてますか」「生きて、通信高校生をやってるよ」。「インターネットは?」と聞けば「やらない。パソコンが壊れてからはそのまま。必要ないでしょ」と潔い。

届いたはがきの欄外コメントに苦笑した。閑職についたこの2年間は各種のコンサートを楽しんだ。一番好きなのは井上陽水。去年、いわきで行われたコンサートへは行けなかったが、6月の福島公演を楽しみにしている。コンサートの聴衆の大半は白髪・はげ・デブです――。おいおい、お前さんは白髪で、おれはサバンナじゃないか。

あちらはコンサート、こちらは画廊巡り。きのう(4月4日)、カミサンが行こうというので車を飛ばした。いわき市の鹿島町にある創芸工房「刺繍・織り・染め――鈴木智美の世界展」から始まって、泉町のアートスペース泉「現代工芸福島会展」、ブラウロート「カジ・ギャスディン展」、そしてギャラリーいわき「大久保草子木版画展」=写真=を巡る。 いずれもオープン初日ないし3日目と始まったばかりだ。

カジ・ギャスディンはバングラデシュの画家。少しばかりバングラデシュ関連のNGOにかかわっているので、見に行こう――というカミサンの提案で画廊巡りをしたのだった。故若松光一郎さんばりの色彩の音楽が好ましかった。

大久保さんは何日か前、ダンナさんと一緒にわが家へやって来た。息子と知り合いで、息子が話をする待ち合わせ場所にわが家を指定したらしい。その間、こちらは「良寛さん」になって孫のお守りをする。

大久保さんの木版画はファンタジックな要素に満ちている。が、そこには観念ではない、ちゃんとした観察に基づく自然が息づいている――そういうことを感じさせるに十分なリアリティーを持っている。

もっともっと懐の深いいわきの自然を見たらいい。「一度、夏井川渓谷の埴生の宿へ来ませんか」。カミサンが大久保さんに言う。夏井川渓谷のアカヤシオ、あるいはシロヤシオを見てインスピレーションが湧くこともあるだろう。

絵はがきのような木版画はいらない。いわきの自然と向き合うことで深く豊かに独自性を増す幻想――そんな作品をいつのまにか私は求めているのだった。

2009年4月4日土曜日

アカヤシオ咲く


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)に春を告げるのは、アカヤシオ(岩ツツジ)の花ではない。そこに暮らしている人間にとっては、墓参りに係累がやって来る春分の日、ワサビの花、少し遅れて凍みがゆるんだ畑にジャガイモを植えたとき、あるいは地べたに生えるように咲くキクザキイチゲ、かもしれない。当然ながら、1人ひとり違う。

が、アカヤシオの花はそれら一切を含んで夏井川渓谷に春がきたことを告げる、圧倒的な力を持っている。モミと松(下部の赤松、上部の五葉松)の緑を背景に、同じ落葉樹が裸のうちにピンク色の花を次々と咲かせる。ゴツゴツした急斜面を自分のキャンバスにして壮大な点描画を展開する。全山満開時の絵は、ちょっと言葉では表せないほど美しい。

きのう(4月3日)見たら、3カ所でアカヤシオの花が咲いていた。最初に咲く場所は決まっている。わが埴生の宿・無量庵の対岸左斜め前方、岩盤が張り出したあたり。次はちょっと下流、籠場の滝の近く=写真。最後は江田駅に近い椚平の対岸だが、ここは山が遠い。

肉眼では、それぞれ4~5本のアカヤシオが鮮やかな花をつけている程度。双眼鏡で確認すればその2、3倍は赤くつぼみを膨らませているはずだが、あえてそこまではしない。翌日、あるいは翌々日には開花し、肉眼でもはっきりと見えるようになるのが分かっているからだ。

3カ所に共通しているのは、たっぷり夕日を浴びる場所だということ。日暮れになると罪を告白したくなるような少年には、アカヤシオの花は見るだけで救いになるかもしれない。

アカヤシオの花と同時に咲き出すのが林床のイワウチワ。「木守の滝」の上、急斜面の奥に群落がある。無量庵から対岸を眺めながら、このごろは<咲いているだろうな、きれいだろうな>と、イマジネーションをはたらかせるだけになった。

さて、アカヤシオの花が満開になるのは1週間後、4月12日前後だろう。今度の日曜日(4月5日)あたりから、わが無量庵の周辺はにぎやかになってくる。隣家の所有者は古い家を解体して行楽客のための「展望台」にした。秋の紅葉と同様、吸い寄せられるように車と人がやって来るはずである。

2009年4月3日金曜日

ジャガイモを植えに


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)でも種イモを植える時期がきた。と、思っているのは私だけで、住民はとっくにジャガイモを植え終えたのかもしれない。

いわきの平地と違って、牛小川では3月が終わろうとするかしないかという時期にならないと、種イモを植えない。早く植えると、芽が出たころ晩霜にやられる。そのために植える時期を少し遅らせるのだ。

最初から植えずに、去年取り残して地中に眠っている子イモが育つのを待つ、と冗談をいう人もいる。「ふっつぇイモ」という。確かにその通りで、渓谷の埴生の宿・無量庵の菜園でも、毎年「ふっつぇイモ」が芽を出す。育ててみると少しは収穫がある。

いつまでも「ふっつぇイモ」に頼るわけにはいかない。今年はちゃんと種イモを買って植えなくては――。きのう(4月2日)夕方、四倉の種苗店をのぞいた。「メークイン」と「キタアカリ」は売り切れ、「男爵」と「アンデス」が残っていた。

私がジャガイモを栽培する最大の理由は、味噌汁にしたときの「三春ネギ」との相性のよさからだ。三春ネギの甘み・風味・軟らかさ、これが煮崩れしかけたジャガイモとまざりあって絶妙な味を醸し出す。三春ネギとジャガイモの味噌汁に限って言えば、私は煮崩れするジャガイモが好きだ。

「メークイン」は煮崩れしにくいタイプ。「男爵」はホクホクして煮崩れしやすいタイプという。「男爵」系の「キタアカリ」がない以上は「男爵」を選ぶしかない。「男爵」1キロを250円ちょっとで買った=写真。イモを買うのは何年ぶりだろうか。3年、いや4年?

うねの3分の1はいつでも種イモを植えたり、春野菜の種をまいたりできる状態になっている。種イモを買った以上は即、行動だ。きょう、街の歯医者で「親知らず」の治療をしてもらったあと、無量庵へ直行して種イモを植える。

そうして春の畑仕事を始めることで、残ったうねには三春ネギの苗を植え、さらに余ったうねには何の種をまくかが決まる。既にサヤエンドウはうねの一角で越冬し、芽を伸ばし始めている。5月にはキュウリとナスと激辛トウガラシの苗を買って植える。これは定番だ。

時期を逃すことなく、逃したらおしまいだから、頭の中で秋口までを見通した栽培計画を立てる。決まったら一気に種をまいたり、苗を植えたりしてうねを埋める。農的な想像力が試されるときだ。

2009年4月2日木曜日

神谷の戊辰戦争


慶応4(1868)年の新政府と佐幕諸藩の戦いは、鳥羽伏見から江戸へ、東北地方へと拡大する。磐城平藩など奥羽越25藩が列藩同盟を結ぶと、これを討つべく新政府は西藩連合の大軍を北へさし向けた。

西軍は陸路・海路2コースに分かれて進攻した。海からの軍勢は平潟に上陸した。磐城で西軍と東軍が対峙し、「磐城の戊辰戦争」の戦端が切られる。が、東軍は敗走し平城も炎上する。市街戦の兵火によって多くの家が失われた。(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)

いわき市民の圧倒的多数は、戊辰戦争を磐城平藩など列藩同盟の敗北として認識している。ところが一部、笠間藩分領で陣屋が置かれた旧神谷村の受け止め方は違う。本藩が西軍に加わったために、陣屋兵約50人は四面楚歌の戦いを余儀なくされた。陣屋や領内・四倉の名刹薬王寺、農家などが東軍に焼き払われた。が、ともかく勝ち組に入った。

志賀伝吉著『神谷村誌』にこうある。――奥羽連合軍の中にあって官軍として戦い抜いた陣屋兵の雄渾な精神は新政府からも高く評価され、平城が落ちてからは平藩内外の守備の任に就くとともに新政府との連絡に当たり、通達事項はみな神谷陣屋を経て行われた。

もとは同じ磐城平藩。藩主の国替え時に天領となり、笠間藩の分領(一時磐城平藩預かり)となって、明治維新を迎えた。勝っても負けても庶民にとっては迷惑な戦いだった。それに変わりはあるまい。

今はいわき市平中神谷になった旧神谷村に住んでいる。で、このごろ、笠間藩の視点から旧神谷村を見る癖がついた。次もその1つ。

朝晩、一定のコースを散歩する。そのコースの中で、いち早く開花した寺のサクラの木の下に古びた顕彰碑があるのを見つけた。戊辰戦争時、神谷陣屋の責任者だった武藤甚佐衛門をたたえる碑(いしぶみ)だ=写真

いわき総合図書館から『郷土誌』(昭和8=1933=年・神谷尋常高等小学校編纂)を借りて来て読んだ。碑と同じく、「郷土開発の功労者」として時の「郡宰」武藤甚左衛門が紹介されている。要は戊辰戦争時、賊軍(東軍)に囲まれながらよく耐え、勝ち残ったのは武藤甚佐衛門のリーダーシップのおかげ、ということなのだろう。

『郷土誌』の文章は碑の漢文を読み下したものと思って、デジカメで撮った碑文と比べ始めたら随分意訳・翻訳がある。碑の引用であることは断っていない。参考にはしたが、編纂委員(訓導=先生)が自分なりに簡潔にまとめたようだ。

戊辰戦争がらみではほかに碑が2つあるらしい。立鉾鹿島神社境内西側に立つ「為戊辰役戦病没者追福」碑(昭和7年建立)、そして陣屋があった現平六小(旧神谷小)の校庭内に旧笠間藩士が建てた「奉公碑」(大正6年建立)。追福碑は確認できたが、奉公碑はどこにあるか分からなかった。

自分の住む地域を3次元ではなく、時間軸を加えた4次元で見ると、また違った地域像が形成される。ゆっくりゆっくり記録されたものを読んでいこうと思っている。

2009年4月1日水曜日

マグロの切り落とし


このごろ、よく「マグロの切り落とし」=写真=を食べる。夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵で一夜を過ごすときの酒のさかな兼ご飯のおかずに、途中のスーパーで買ったのが始まり。

スーパーでは冬もカツオの刺し身を売っている。冷凍ものなので食べる気にはならない。マグロの刺し身も好きではない。赤身の刺し身に関しては、生ガツオが水揚げされるまで「封印」する――去年まではそうして我慢してきた。

それが突然、マグロの切り落としを見たとき、「海鮮丼の具は、これではないか」と閃いた。自分流に「ご飯のねた」にすればいいいのだ。買って食べたら正解だった。醤油につけた切り落としにわさびをちょいとのせて、温かいごはんと一緒に食べたら、うまかった。病みつきになった。酒のさかなにもなる。

まず値段が安い。1人で食べる分には399円で済む。ちょっと多めで500円。きのう(3月31日)、カミサンとスーパーへ買い出しに行ったついでに500円の切り落としを買った。レジに並んで、見るともなしに前の男性客のかごを見ると、399円の切り落としが2パック入っていた。ご同輩?だ。

世界同時不況の世の中、よけいな出費は避ける。見た目のきれいさよりも中身を、堅実さを選ぶ。そうした「生存本能」が広く、無意識のうちに作用し始めているのか――。ご同輩の存在に、自分の嗜好の変化もからめて、そんなことをちらりと思った。私と違って世間にはもともとマグロ嗜好が強いのかもしれないが。

酒のさかなとしては初ガツオの便りが届いたあとの生が一番、という思いに変わりはない。行きつけの魚屋さんに冷凍ガツオが入っても、我慢してイカやタコ、ヒラメなどの白身の刺し身を買うようにしてきた。

カツオは初夏から晩秋にかけて、ほぼ毎日曜日、食べる。一筋(4分の1)はさばいてもらう。多少は尿酸値を気にして焼酎をちびりちびりやりながら、しみじみといわきに住む至福に浸る。酔う。カミサンも一食分、料理の手抜きができて楽だという。

これに、この年になってスーパーの「マグロの切り落とし」が加わった。経済が安上がりにできているのを浄土の親に感謝しよう。