2011年9月3日土曜日

スポット展示河林満


「河林満のスポット展示が始まりました。ぜひ見に来てください」。いわき市立草野心平記念文学館の学芸員氏から電話がかかってきたのは、8月上旬だったか。雑事に追われて気がついたら、もう9月だ。8月30日、夏井川渓谷の無量庵へ行くのに合わせて文学館を訪ねた。

河林満は昭和25(1950)年12月、いわき市植田町に生まれた。立川市役所に勤めるかたわら、創作活動に取り組み、平成2(1990)年、「渇水」で文學界新人賞を受賞した。同作品は芥川賞候補にもなった。

それに先立つ昭和61(1986)年には、「海からの光」で吉野せい賞奨励賞を受賞している。平成3(1991)年には同賞選考委員になり、その4年後、同人誌「文藝いわき」を立ち上げた。私が河林さんと知り合ったのは、たぶんこのころ。

平成10(1998)年には立川市役所を退職し、以後、ヘルパーやガードマンの仕事をしながら小説を書き続けた。平成20(2008)年1月、脳出血のため急逝。享年57――の報に接して、晩年は苦闘の連続ではなかったか、という思いを禁じ得なかった。

文学館のスポット展示は8~9月の2カ月間で、今がちょうど折り返しの時期。単行本の『渇水』をはじめ、作品掲載雑誌・同人誌、創作ノート、若いときの詩集『風景その呪縛』などが展示されている=写真

朝日新聞出版のPR誌「一冊の本」は見当たらなかった。河林さんは同誌の平成11(1999)年1月号に小説「ある護岸」を発表している。その年、たぶん吉野せい賞の選考委員会が終わったあと、「ちょっと時間がたちましたが」と雑誌を携えてわが職場にやって来た。ここからは古巣の新聞に書いた文章の抜粋・要約。

「ある護岸」は、河林さんの生まれ故郷でもある、いわき市佐糠町を舞台にした「鮫川物語」だ。鮫川で溺れ死んだいとこの33回忌に佐糠町を訪れた「わたし」は、鮫川べりに立つ水難供養塔に出合う。そこには廃仏毀釈によって「墓地の墓石のことごとくを川岸に沈め、もって護岸の強化を念じた。断腸の功あってか、鎮魂力宿って川は鎮まり……」とある。

妙にこの碑文が気になった「わたし」は歴史に詳しい市役所の職員と鮫川の源流を訪ね、職員から廃仏毀釈の実態を聴いたり、明治初期の文書のコピーをもらったりする。コピーには「父祖代々ノ霊ノ眠ル墓石ナレド 止ムナシ 鮫川ノ左岸ニ沈メテ コレ 護岸トナサント……」とあった。

だが、鮫川は戦前まで氾濫を繰り返した。それを知って「わたし」は驚く。「あの供養塔は、いったい何を伝えようとしているのか」と――

河林さんから「墓石護岸」の話を聞いたのは、小説になる何年か前のことだった。その作品化のために、いわき地域学會が発行した『鮫川流域紀行』などをひもときながら、長らく想を練ったのだろう。

作品の末尾に「参考文献」として、『鮫川流域紀行』が紹介されている。本の編集者としては望外の喜びというほかない。スポット展示をながめながら、そんなことを思い出した。

私が読んだ作品は、「ある護岸」のほかには「渇水」「穀雨」「海からの光」と少ない。いわき出身の明治の歌僧天田愚庵を取り上げた短編「我が眉の」はぜひ読んでみたいのだが、今のままでは無理だろう。『河林満全集』があったらいいな、とも思った。

そうそう、文学館の企画展にも触れておこう。「長野ヒデ子絵本原画展 ぶんがくかんにいきタイ」が9月11日まで開かれている。会場には「金魚」のようなタイがあふれていた。その連想からか、ドジョウのように泥臭い政治をするという野田さんの顔が思い浮かんでしかたがなかった。

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