2011年9月10日土曜日
大正の女性記者
いわき総合図書館に「三猿文庫」(諸橋元三郎収蔵資料)のコーナーがある。なんとはなしに本の背表紙をながめていたら、磐城民報社発行の『御家庭を訪れて』=写真(コピー)=が目に留まった。本の大きさはA5よりやや大きい菊判。筆者は比佐邦子(比佐クニ)。いわきの詩風土に種をまいた詩人山村暮鳥の取り巻きの一人だ。
いわき地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんが調査し、まとめた資料によると、比佐邦子は明治30(1897)年、湯本町に生まれた。磐城高女第2回卒という才媛で、短歌などを手がける文学少女でもあった。進取の気性に富んだ女性だったらしい。
暮鳥の詩集や同人誌の表紙絵を担当した広川松五郎(のちの東京芸大教授)と親しくなり、上京後、広川の紹介で出版社の雑誌記者となった。別の出版社の男性と結婚したものの、関東大震災で夫と家を亡くし、子どももいないことから帰郷した。
このあと、平の磐城新聞社に入社したのだろう。おそらくいわき地方での女性記者第一号だ。のちに福島民報社に転じ、年下の同僚長谷川幸太郎と結婚し、昭和12(1937)年、40歳でこの世を去った。
「御家庭を訪れて」は半年ほど磐城新聞に連載された。それを別会社の磐城民報社が本にして出すからには、相当の摩擦があったと思われる。
本の奥付には①大正14(1925)年5月20日印刷、同25日発行②非売品③編纂者・磐城民報社編輯部、発行者・蓮沼龍輔、発行所・磐城民報社④印刷者・福島市大町、山口保治――とある。発行所と発行人の住所は、「福島縣石城郡平町田町卅六番地」で同じだ。蓮沼の自宅に磐城民報社の看板を掲げたのだろう。
いわきの同人誌「詩季」第48号(2003年7月発行)に菊地キヨ子さんの論考「『常磐毎日新聞』紙上からみる郷土文学録 一」が載る。当時の蓮沼、比佐らの動静が紹介されている。
それによると、大正14年3月3日付常磐毎日新聞は、磐城新聞で現・旧社長の間が円滑を欠き、現社長の知遇を得た副社長蓮沼龍輔、編集長坂本茂雄、編集部員永久保照雄、比佐邦子が連袂辞職をした、と報じた。
翌4日付の常磐毎日新聞に蓮沼の転居通知と、次のようなあいさつが載る。「私共今回事情により磐城新聞社を連袂辭退する事と相成申候/就ては来る三月十五日より日刊磐城新報を發刊する事と致し目下準備中に之有候につき前同様將来とも御聲援と御指導を御願申上度略儀紙上を以て御通知旁々御願まで如斯に御座候 早々/三月一日」
磐城民報社から『御家庭を訪れて』が発行されるのは、わずか2カ月余あとだ。随分手回しがいい。菊地さんではないが、すでに磐城新聞で発行する段取りになっていたのを、「私が書いたのだから」とそのまま企画を持ち出したか。著作権は当然、磐城新聞にある。が、そのへんの自覚と認識はあったかなかったか。
創刊の予告をした「磐城新報」が「磐城民報」に化けたのか。蓮沼は磐城新聞を辞めるとすぐ磐城民報社を旗揚げし、比佐はその編輯部員になった。ただし、磐城新報ないし磐城民報が発行されたかどうかはわからない。
さて、そんな状況の中で発行された『御家庭を訪れて』である。いわき地方の知名人の妻・母・お嬢さんら女性だけ161人が登場する。
比佐邦子の磐城高女の同級生の金成きみ子様(金成医院長金成忠義氏夫人)。詩人中野勇雄・大次郎兄弟の母、中野きよ子様(中野洋品店主夫人)。のちに数奇な運命をたどる新田目まつ子様(新田目善次郎氏令嬢)……。
大正ロマンとデモクラシーの空気が86年の時空を超えて伝わってくる。女性だけという視点が、現代からみても新鮮だ。
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