2014年12月10日水曜日

白鳥になったMさん

 日本野鳥の会いわき支部の前事務局長Tさんが奥さんとわが家へやって来た。カミサンと奥さんは古布でつながっている。カミサンに用があるのだろうと思ったら、私に――だという。

 夏井川のハクチョウ越冬地のひとつ、平・塩~中神谷で、対岸から軽トラでえさやりに来ていたMさんが平成24(2012)年6月に亡くなった。もう2年半前のことだが、知らなかった。

 そのことを知らせに来たのがひとつ。というのは、11月下旬に小欄で鳥インフルエンザのことを取り上げた。そのなかでMさんに触れ、「今、どうしているだろう」と書いた。現支部長と「Mさんが亡くなったのを知らないのではないか」という話になったのだという。現支部長ともしばらく会ってはいないが、付き合いは長い。
 
 もうひとつは、Tさんが支部の機関誌「かもめ」に来年、Mさんのことを2回に分けて掲載する予定で、すでに原稿を書き上げた。私のブログも引用しているので了解を、ということだった。むろんOKした。
 
 塩~中神谷地内にハクチョウが越冬するようになったのは、翼をけがして残留した「左助」が上流の平窪から流れ着いたことに始まる。やがて、同じようにけがをした「左吉」が加わり、ピークには夏場、4羽のコハクチョウが残留した。Mさんが夏も冬も、一日も欠かさずこの残留コハクにえさやりを続けた。冬にハクチョウたちが飛来すると、そのえさも確保しなければならなかった。
 
 朝6時半前後、軽トラで堤防に現れる。ちょうどそのころ、私もカメラを首から提げて堤防に出る。えさをやっているところを写真に撮り、言葉を交わしているうちに、出会えば必ずあいさつするようになった。「Mさん」のキーワードで自分のブログを検索したら、この7年間で50回近くMさんについて書いていた。
 
 特に記憶に残るのが、梅雨のさなかの2008年6月25日だった。そのブログ「『左助』と再会」を再掲する。
                 ☆
 夏井川から残留コハクチョウ4羽の最古参「左助」が姿を消して、きょうでちょうど1カ月になる。今朝、何げなくいわき市夏井川白鳥を守る会のHPを見たら、「左助」が仁井田浦(仁井田川河口)にいるという記事が載っていた。仁井田浦は横川で夏井川河口とつながっている。すぐ車を走らせて「左助」と対面した。
 
 5月26日朝、いつものようにMさんが夏井川へえさをやりに行くと「左助」の姿が見えない。Mさんは河口から上流、さらに支流の新川まで丹念に探したが、分からずじまいだった。それを、朝の散歩がてらコハクチョウの撮影をしていて、なじみになった私に告げた。

「左助」がいたためにえさやりを始めて8年目になるMさんには、「左助」はたぶん孫と同じくらいの気持ちとエネルギーを注ぐ対象のように思われる。ほかの3羽をないがしろにするわけではないが、「左助」を語るMさんの口調はやはり特別だ。

「左助」はこれまでにも突然、姿を消すことがあった。同じコハクチョウでも個性がある。「孤独が好きで、わがまま」。それがMさんの「左助」評だ。にしても1カ月の不在は長い。「非在」と化して、魂は空を飛んでシベリアのふるさとへ帰ったか――などと思うときもあったが、どっこい生きていた。

「左助」の写真を撮っていると、Mさんがやって来た。6月11日に野鳥の会から連絡があって、えさやりを再開した=写真=と言う。夏井川の河口はともかく、横川の先まで足を伸ばすなどということは、これまでの「左助」では考えられないことだった。それで「発見」が遅れたのだ。

「左助」と同じく、Mさんに会ったのも1カ月ぶりだ。「『左助』は海辺が涼しいことを知ってるんでしょうね」「ここは静かで居心地がいいみたい。ヨシも茂っているし、青草を食べてたんでないの。とにかく辛抱です」。Mさんは「どちらが倒れるか」と付け加えて笑った。
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 Tさんの原稿をここで紹介するわけにはいかないが、ひとつだけ引用させてもらう。Mさんの戒名には、本人の希望で「白鳥讃誉――」と「白鳥」の文字が入っている。Mさんは死んで白鳥になった。それほど晩年をハクチョウのために生きた。あっぱれな人生だった。

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