きのう(12月6日)アップした「震災アーカイブ展」で触れた<記録と記憶>の続き。手元に「常葉大火の記録と記憶」という小冊子がある=写真。秋に父親の27回忌で田村市常葉町の実家へ里帰りをしたとき、兄からもらった。
昭和31(1956)年4月17日夜、東西に延びる一筋町(国道288号沿い)から出火し、折からの西風にあおられて住家・非住家合わせて530棟余が全焼した。冊子の表紙に「私たちは、1956.4.17を永遠に忘れない……/田村市消防団常葉地区隊」とある。発行は今年の4月17日。デジタル技術に精通した団関係者が主にネットから情報を集めて編集したようだ。
大火発生時の気象概要・当日の天気図・気象データ、国会での建設大臣の答弁、ニュース映像を紹介している。ほかに、汽車で修学旅行から帰る途中、町の大火を知った中学生の日記が載る。手前の町で足止めされ、一夜明けて町へ帰ると「旅行に出る前に在った町並みのすべてが消え去り、すべてが焼け野原……」になっていた。
小欄の文章も2つ転載されていた。6年前の還暦同級会と、去年、いわきで開かれた65歳の同級会にからんで、当時小学2年生に進級したばかりの7歳が見た大火事の様子をつづった。それはまあしかし、付録のようなものだ。
常葉大火から55年後、原発震災が起きた。一時、常葉町へ避難した双葉郡大熊町の住民の文章も載る。東電社長にあてた手紙の中に、常葉大火に触れた部分があった。その抜粋――。
震災翌日の朝、「西に向かって避難してください」という役場職員の指示に従って、手紙の主は妻とともに車で阿武隈高地を越え、田村市都路町に入る。避難所はすでにいっぱいだった。さらに西へ行くように言われ、常葉町にさしかかったとき、消防団の誘導で体育館に避難することができた。
「常葉町の人たちは私たち避難民を暖かく迎えてくれました。寒い時期でしたが毛布、布団などもたくさん用意していただき、暖房器具、食料品なども用意していただきました。こんなにうれしい事は今まで経験したことはありませんでした」
少したってから、男性はボランティアで来ていた町民に尋ねる。「なぜこんなに親切にしてくださるのですか」「昔、常葉大火の時に大熊町の消防団にはすごくお世話になりました。ですからその時のお礼をしなければと思いました。こんなことは平気です。私たちは当たり前のことをしているだけです」
年上から受けた恩は年下に返すのが流儀だが、それは、恩を返そうと思ったときには、すでにその人が亡くなっているからだ。
それと同じで、大火事のときに駆けつけてくれた大熊町の消防団の人たちは、おそらくもう亡くなっているだろう。常葉の町民も大火事のあとに生まれた人間が大半だろう。代は替わっても受けた恩義は忘れない。記録と記憶が引き継がれてきたからこその、「55年後の恩返し」だった。
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