2015年6月13日土曜日

大滝根山の基地公開

 6月7日の日曜日に神谷(かべや)地区の球技大会が開かれた。わが行政区はソフトボール(男性)で準優勝した。昌平中・高の人工芝のグラウンドで試合が行われた。
 グラウンドから東方に新舞子の海が見える。晴れて朝から気温が上がったが、グラウンドで応援しているかぎりは海の方から吹き寄せる風で冷たいくらいだ。初戦に勝ち、2試合目(準決勝)はさらに相手を圧倒した。午前10時ごろ――安心して観戦していると、爆音がすぐ頭上から降ってきた。戦闘機が2機、北へ向かって行く=写真。少したってまた2機が同じ方向へ飛んで行く。

 後日、フェイスブックに田村市の自衛隊に関する情報が載った。大滝根山頂に航空自衛隊の分屯(ぶんとん)基地がある。ホームページを初めてのぞいた。なぜ戦闘機が日曜日に飛んだのかがわかった。

 分屯基地は、つまりはレーダー基地だ。毎年6月最初の日曜日、基地が一般に公開される。「飛行展示」という出し物があった。そのための戦闘機にちがいない。方角からみると、茨城県の百里基地~いわき~阿武隈高地といったコースで飛来したのだろうか。

 初めて分屯基地の沿革がわかった。今からちょうど60年前の昭和30(1955)年、1193メートルの山頂に米軍のレーダー基地ができた。翌年には航空自衛隊の部隊が移動してきた。その3年後の同34年、米軍から航空自衛隊に移管された、とある。

 大滝根山の北側の町で生まれ育った。実家が床屋をしている。昭和30年、小学1年生のときに米兵が大挙、散髪にやって来た。金髪の白人兵のほかに黒人兵がいた。店の前の道路(現国道288号)に止まったのは、タイヤが10本ある、通称「十輪車」の幌付き大型トラック。ジープもよく行き来していた。

 父親がはさみを入れるたびに金色の髪の毛が床に落ちる。「金は高価なもの」と刷り込まれていたから、そして金塊とはどんなものか知らなかったから、色だけで「高いんだろうな」と見入っていたのを覚えている。

 翌31年4月に町が大火事に遭うと、米軍からどっさり救援物資が届いた。食糧のほかにGパン(ジーンズ)が配給された。子どもにはぶかぶかだった。やがてGパンは日本人が普通にはくものになった。もしかしたら、私たちは日本で、いやいや福島県で最初にGパンをはいた子どもたちだったのかもしれない。

 山頂の基地は福島第一原発の西方約30キロに位置する。建屋が爆発で吹っ飛び、原子力災害現地対策本部が設置された際、本部長(経済産業副大臣)が市ヶ谷の防衛省からヘリで大滝根山のヘリポートに降りたち、基地の車で現地に入った。福島県内の自衛隊員も過酷事故の最初期、暴走する原発に立ち向かった。

 大滝根山はふるさとの山。日曜日、北へ向かう戦闘機と山頂にある自衛隊基地の一般公開がつながり、さらに60年前の奇妙な記憶まで浮上した。

 道路でばったり会えば、物欲しげに「ギブ・ミー・チョコレート」。丘の上で遊んでいるときに町なかをジープが通れば、「ヤンキー・ゴー・ホーム」。通りまで聞こえないのをいいことに、絶叫マシーンと化した。そんなことも思い出した。

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