近所の「みなし仮設住宅」(借家)に入居していたおばあさん(Kさん)が、福島県が建設した小名浜の復興公営住宅=写真=に引っ越した。
双葉郡から会津若松へ原発避難をして半年後、つまり4年弱前の2011年秋。仮住まいのアパートの騒音と夏の暑さに耐えきれず、やがて来る冬の雪にも恐れをなして、ふるさとに近いいわき市へ引っ越してきた。80歳だった。
カミサンが米屋をやっている。米のほかに塩や醤油その他の雑貨を売っている。店の一角に、移動図書館から借りた図書を住民に貸し出す地域文庫がある。奥さんたちが茶飲み話をする交流スペースにもなっている。というわけで、Kさんもやがて、毎日、わが家の文庫へ顔を出すようになった。
ほかにときどき、楢葉町から避難して来た女性、今は広野町に帰還した女性なども立ち寄る。茶飲み話の内容が年を追って変わってきた。「夫が引きこもったまま」「戻った当初は誰もいなくて怖かったが、今は地元で除染の仕事をしている」。明暗・悲喜の両極化が進みつつある。
Kさんの場合はどうか。胸の内をカミサンに明かすようになり、いろいろ考えた末の答えが小名浜にできた復興公営住宅への入居だったようだ。
さきおととい(6月25日)の夕方、小名浜の鹿島街道沿いの大型店へ出かけた。カミサンが買いたいものがあるというので、いつものように運転手を務めた。同じ道はできるだけ通りたくない、帰り道は海岸の道路で――と決めていた。すると突然、Kさんの新居に寄って行こうと、カミサンが言いだした。
場所はわかっている。発災直後、国内で初めて緊急救援活動に入り、今もいわきで被災者・避難者の支援活動を続けているNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が、一時借り上げ住宅入居者などへの生活支援プロジェクト(調理器具セット配布)を実施した。そのとき、小名浜の雇用促進住宅まで手伝いに行ったことがある。そのそばに建設された。隣にスーパー「マルト」がある。
何号棟の何号室、などという詳しいことは、カミサンも聞いていなかった。1階の表示を見て訪ねたら、Kさんがいた。4階の部屋から海が見える。海風も入ってくる。涼しすぎるので戸は閉めているという。
同じ町の人が入居しているとはいえ、知り合いはいない。隣の棟にいとこがいる。毎日会っているのでさびしくはない、というので一安心する。お茶とさくらんぼをごちそうになってから、変容する永崎~江名~豊間~薄磯の沿岸部を通って帰宅した。
ふるさとまですぐなのに、帰還はかなわない。ふるさとの土と友達と思い出と、土に眠る親たちと切り離されて、もう4年余。糸の切れた凧のように、知っている人の少ない土地でふわふわしている。「存在の耐えられない軽さ」を生きている――車を運転しながら、賠償金では満たされないKさんの内面を想像してみた。
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