2015年6月5日金曜日

定期購入サービス

 5月28日のNHKニュース9で「広がる毎月お届け」(定期購入サービス)を見たとき、越中富山の置き薬サービスが先行例として紹介されていた=写真。江戸時代に始まるこのネットワークに興味があって、仕組みを探ったことがある。

 富山インターネット市民塾推進協議会によると、富山には3大ネットワークがあった。①立山信仰(立山曼荼羅=まんだら=を使った全国出張レクチャー)②北前船(きたまえぶね=北海道から沖縄・東南アジアまで結ぶ交流貿易ネット)③売薬(全国に薬を配置する「売薬さん」のネットワーク)――で、今のことばでいえば、さしずめSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だろう。
 富山藩は、前田氏2代藩主正甫(まさとし)のもとで、反魂丹(はんごんたん=かくらん・解毒などの万能薬)を主とする調合薬の製剤・販売を組織化する。その結果、幕府や諸藩の領域にまで販路が拡大し、支配の枠を超えて全国規模で「越中富山の薬売り」が一般化したという。
 
 阿武隈の山のなかにも「越中富山の薬屋さん」がやって来た。今からざっと60年前の昭和30年代、小学生になるかならないころの私は、家にやって来た「薬屋さん」が、家の薬箱をチェックし、足りない薬を補充する姿を覚えている。子どもにくれる景品が楽しみで、薬屋さんのそばから離れなかった。景品の一つが紙風船だった。
 
 このSNSには、立山信仰も関係していた。修験者(御師=おし)が立山産の熊の胆(い)や黄蓮(おうれん)を、全国の檀那場(得意先)廻りの際、護符とともに配り歩いたという伝統を基盤として、“置き薬”方式を採用した。しかも、「先用後利」(先に薬を使用し、代金は後で払う)で信用を積み上げたのだそうだ。
 
 富山商工会議所会報「商工とやま」2008年6月号からは次のようなことを知った。江戸時代、売薬人教育が重視された。寺子屋では読み・書き・そろばんのほかに、行商地の地理・歴史・薬の知識を教え、一般教養や徳育にも力を入れた。
 
 代表的な寺子屋に、明和3(1766)年、小西鳴鶴が富山西三番町に開いた小西塾(臨池居=りんちきょ=ともいった)があった。日本三大寺子屋といわれたほど大規模で、明治の学制発布後も廃止されず、明治32(1899)年まで続いたとか。
 
 その売薬で力を蓄えた経済人が明治以後、製薬会社、金融機関(北陸銀行の前身)、水力発電会社(北陸電力の前身)、薬業専門学校(富山大学薬学部の前身)などの設立に重要な役割を果たす。

 ニュース9では、消費者の難しい要望にこたえる老舗酒店、ビールサーバーを家庭に貸し出し、高品質のビールを月2回宅配するビールメーカーなどの例が紹介されていた。ビールサーバーは「越中富山の薬屋さん」でいうと薬箱だろう。1人ひとりの心に届く宅配サービスは時代を超えて存在する。

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