2017年3月31日金曜日

震災記録誌「わすれなぐさ」

 勿来まちづくりサポートセンターが震災記録誌「わすれなぐさ」を発行した=写真。先日、恵贈にあずかった。
 勿来地区では平成23(2011)年4月、市民が主体になって災害ボランティアセンターを立ち上げた。その後、復興プロジェクトに移行し、今も活動を続けている。記録誌には6年間の活動経過、被災者37人と復興プロジェクトスタッフ19人の証言が載る。インタビューを行ったのは、筑波大の学生を中心にした震災記念誌プロジェクトで、印刷にかける前の最終段階でサポセン代表から校正を頼まれた。

 勿来には縁がある。昭和56(1981)~59年の3年間、いわき民報社の勿来支局に勤務した。そのとき、代表と知り合った。震災後、少しばかり同地区の災害ボラセン活動にかかわった。勿来は知った土地、知人たちが頑張っている、という思いがあったのが大きい。

 東日本大震災では、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が初めて国内支援に入った。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。で、震災からおよそ半月後の3月27日、シャプラのスタッフと合流し、市社協、市本庁、市勿来支所を巡って、津波被災現場の錦・須賀海岸でサポセン代表らと会った。宇部市の先遣隊もいた。
 
 以後、宇部市役所とシャプラは勿来サポセンのパートナーとして協力を続ける。記念誌には、代表あいさつの次に両団体の寄稿文が載る。地元団体としての謝意が感じられた。

 災害ボラセンは、本来は社協が軸になる。勿来は、いわき全体がてんやわんやのなか、社協の協力を得ながら市民主体で地区災害ボラセンを開設・運営した。代表あいさつのなかに「被害の少ない者が甚大な被害を受けた方のお手伝いをする」を合言葉に活動した、とある。こうした“市民力”は、いわきの旧5市のなかでもダントツだった、と私は思っている。

 校正中、赤ペンを握ったまま体験談に引き込まれる、ということが何度かあった。一例、「涙も出なかったよね。一軒だけならばな、涙も出っけど。みんなだから、涙も出なかったの」。勿来の沿岸部・岩間地区では半分近い家が流失するなどして全壊し、7人が死亡、3人が行方不明になった。

 震災体験は一人ひとり違う。だからこそ、個別・具体の姿を記録に残す必要がある。記録誌づくりはそれにかかわった学生の気づき・学びにも貢献したことだろう。

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