2017年12月6日水曜日

背戸峨廊(せどがろ)のいわれ

 JR磐越東線江田駅の近くで江田川が夏井川に合流する。江田川は別名・背戸峨廊(せどがろ)。台風21号の大雨の影響で登山道の一部が損壊し、トッカケの滝から先が入山禁止になっていた。きのう(12月5日)、それが解禁された。
 同じ日、県紙に大学名誉教授の長文エッセーが載った=写真。背戸峨廊と草野心平をたたえるものだった。「背戸峨廊」に「せとがろう」とルビが振ってある。がっくりきた。また誤読・誤称が読者の間に広がる。

 近年、「せとがろう」から本来の「せどがろ」に正す動きが出ている。市役所や観光まちづくりビューローが発行する冊子、ネット発信情報には「せどがろ」とルビが入ることがある。NHKは3年前(2015年)の10月23日から「せどがろ」に変わった。いわきの地域紙も「せどがろ」だ。そのへんの動きには敏感な県紙のはずだが、悪しき前例踏襲がネックになっているのか。

 おやっと思ったのがもう一つ。エッセーに添えられた水彩画は夏井川渓谷の「籠場(かごば)の滝」である。わきを通る県道小野四倉線からの景色そのものだ。背戸峨廊なら「トッカケの滝」だが、トッカケは滝が高く、滝下の流れも透明で浅い。

「背戸峨廊」の読みが「せどがろ」である理由を、拙ブログで何度か言及した。今度もしつこく再掲する。
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 草野心平のいとこに、長らく中学校の校長を務めた草野悟郎さん(故人)がいる。「縁者の目」という随筆に「背戸峨廊」命名のエピソードを書き残した。

 敗戦後、心平が中国から帰郷する。すぐ村を明るくするための集まり「二箭(ふたつや)会」ができる。地元のシンボル・二ツ箭山にちなんだ名前だ。
 
 二箭会は、村に疎開していた知識人の講演会や、村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の制作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などの文化活動を展開した。夏井川の支流・江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、悟郎先生は明かす。

「元々この川(引用者注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた」

 加路川流域に住む人間には、裏山の谷間を流れる江田川は「背戸の加路(せ
どのがろ)=裏の加路川」だった。探検に加わった当事者の一人の、貴重な記録である。「この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

 つまり、「せどがろ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた、滝や淵の名前は確かに心平が命名した――命名までの経緯をみればそうなる。
 
 最初は「せどがろ」だったのが、いつからか「せとがろう」と間違って呼ばれるようになったのだろう。第一、「背戸」は広辞苑でも「せど」であって、「せと」ではない。

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