図書館の新刊展示コーナーに鳥やキノコなど生物関係の本があると、だいたい手に取る。石塚徹『歌う鳥のキモチ』(山と渓谷社、2017年)=写真=も、そうして借りて読んだ。
動物社会学・行動生態学が専門の著者が鳥の歌と行動を観察してきた。それからいえること――。鳥類の90%以上を占める「一夫一婦」制の種にも、“スキあらば”組がいる。「一腹(ひとばら)の卵」(一回の繁殖で産む卵)の中に別の父親の子が交じることは、珍しいことではないのだそうだ。いかにも仲のよさそうなツバメやモズの夫婦でも、5~6羽の子の中に、1羽いるかいないかの確率で父親の違う子がいる。
ノビタキのオスについては、著者は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩形を借りる。
「東に産卵期のメスがいれば、行って積極的に浮気を誘い、西に卵を捕食されたばかりのメスがいれば、行って今度は俺とやり直そうと言う」。オスは「常に繁殖集団のメスたちの体の受精可能性を知っていなければ、大事な一シーズンを棒に振ってしまう」。
いやはやけなげというか、ご苦労さんというか。鳥の愛のあり方も単純ではない。
繁殖期のオスのキモチはさておき、本では鳥の歌の「聞きなし」にも触れている。鳥のさえずりを人間はどう聞きなしてきたか――。
時代によって異なることはなんとなくわかっていた。江戸時代の俳句。「うれしなきのこゑや鶯のきちよ吉兆」(釈任口)。ウグイスは「ホー、ホケキョ」のさえずりのほかに、ときどき「ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ……」の<谷渡り>を入れる。江戸時代の人間にはこの「ケキョ、ケキョ」が「吉兆(きっちょう)、吉兆」と聞こえた。
著者は言う。平安時代にさかのぼると、人は「ホーホケキョ」ではなく「ウークヒ」と聞きなした。それで、ウグイスと呼ばれるようになった。法華経が日本に流布するのはいつごろだろう。日蓮以前は少なくとも「ウークヒ」ではなかったか。そんなことを連想させるエピソードではある。
聞きなしにからんでもうひとつ。きのう(12月22日)宵、民放のニュース番組のなかでB・J・ノヴァク著/大友剛訳「えがないえほん」(早川書房)が紹介された。「え」はひとつも出てこない。オノマトペ(擬音・擬態語)の文字が視覚的に配されている。それを大人が読み聞かせる。就学前の子供たちがゲラゲラ笑う。
「ずらし」もある。♪かえるのうたがきこえてくるよ……の次の歌詞は、「クワクワクワ」ではなく、「にゃんにゃんちゅうちゅうめ~め~……」だった。カエルがニャーと鳴く? ここでも子どもたちは大笑いだ。先入観や偏見から自由な子どもの感性がうらやましい。
歌は世につれ人につれ、という。平安人には「ウークヒ」、現代人には「ホーホケキョ」でも、未来人には「オーケー、ベンキョウ」と聞こえるかもしれない。歌う鳥に向かい合う人の目と耳は、キモチはいつも同じではない。
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