カミサンの実家が平・久保町にある=写真。「久保町は中世の城下町」ということは聞いていた。が、それを物語る文章をまったく読んでいなかった。
作家吉野せい(1899―1977年)を知るために、短編集『洟をたらした神』の“注釈”づくりをしている。どんどん横道にそれる。今はせいや夫・吉野義也(三野混沌)とその子どもたちが、自宅の好間から平の町へと行き来したはずの道と、その途中にある久保町について調べている。
まず、『歴史の道 岩城街道 本宮―平』(福島県教育委員会、昭和60年)から――。久保町は中世(戦国時代)の岩城氏の居城・大館城の城下町。近世の磐城平藩時代にも、長橋・鎌田とともに城下の出口で、「三方出口番所」のあった要地だった。
江戸時代、磐城平城の北西、三坂や好間からは久保町を経て八幡小路の坂を東進したあと、飯野八幡宮の前を直角に南下して「ねずみ坂」を下り、古鍛冶町、研町(とぎまち)、紺屋町と進んで、土橋(今の才槌小路)から一町目、二町目、三町目、四町目、五町目へと行くのが本道だったそうだ。
『いわき市史 第1巻 原始・古代・中世』(昭和61年)には、こんな記述がある。慶長7(1602)年作製と伝える「絵図は、久保町のあたりを『城下町』と表示している。三坂・郷戸(合戸)から好嶋西庄を東に進んだ道と、小川から今新田(いまにいだ)を経て南下した道と、さらに湯本・御厩(みんまや)を経て北上した海道が合流する久保町の辺は、城下町として繁栄する要件を備えていたとみてよい」
いわき民報が平成7(1995)年に連載した「しんかわ流域誌」の第24回では、中山雅弘さんが「戦国大名岩城氏と城下町」と題して寄稿している。「岩城氏が戦国大名になると、拠点を白土から大館に移します。現在、大館はいわき市平の大館と好間町の大館と二カ所が隣接していますが、岩城氏一族が主に住んでいたのは平の大館で、好間町・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)です」
なるほど。居城の高台、平・大舘からみると、久保町は北麓の城下町だ。居城の周囲には寺がはりついている。門前町でもあったか。平・大舘と好間・大館は、今は切り通しで分けられ、下を磐越東線・国道49号が通る。平・大舘も八幡小路との間に切り通しができた。
いわき市観光協会ポシェットブックス3『いわき文学碑めぐり』(2002年)から――。
平の松ケ岡公園の東麓を北へ向かい、踏切を渡ると、久保町へと続く道は徐々に勾配を増して切り通しになる。その道のかたわらに巌谷小波の句碑「馬も来ぬむかしをかたれ萩の花」がある。句碑は、昭和6年11月、山崎與三郎などの努力によって菅ノ沢の道路開削が完成。開通を記念し、かつての往来の苦しみを後世に伝え、また、人々の切り通し開通の喜びを表すために建立された。
久保町を経由する中世・近世・近代の道がある。『洟をたらした神』の「水石山」には、せいの昭和30(1955)年の“プチ家出”の体験が記される。日が沈む前、マチでサンマを買い、バスには乗らずに帰る。乗らないバスのルート・時刻表を調べたり、せいがどの道を使って帰ったかを想像したりした。
久保町の住人の記憶によれば、三坂・好間方面のバスは菅ノ沢の切り通しが完成し、平市街と久保町が直結されたあと、古鍛冶~久保町経由で運行が始まった。
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