2010年10月8日金曜日
毒キノコ
やはりきちんと毒キノコと向き合わないと、という気持ちになったのは、いわき市のとなり・平田村の道の駅で販売した「山キノコ」を買って食べたいわきの女性2人が吐き気と下痢をおこした、というニュースに接したからだった。
そのことは、一般論としてきのうのブログの最後に書いた。いわきキノコ同好会に入って勉強したから、ウラベニホテイシメジ(食)とクサウラベニタケ(毒)の違いが分かるようになったのだ、と。
それもあって、いわきキノコ同好会が実施した観察会で、最初にパチリとやったのはクサウラベニタケ=写真=だった。この習性はたぶん、若いときから変わっていない。新聞記者としていわきの歴史と自然を丸かじりしたい、という思い。それは、OBになった今も同じだ。
いわきの歴史を知りたい。で、いわき地域学會に入る。いわきの自然について知りたい。で、野鳥の会の行事に参加する、いわき地域学會の自然部会の行事に参加する。そうしてこの四半世紀以上、いわきを知るために、一介の市民としてアフタファイブを市民団体とかかわってきた。
私はそれで随分、助けられた。いわきの歴史や自然に関する疑問が生まれると、電話でだがチョウチョウのようにあの人に聞き、この人に聞きして答えを得た。
福島県内では10月6日から7日にかけて、テレビ・新聞でキノコ中毒が繰り返し報道された。「道の駅」で毒キノコが売られていた、ということが「ニュース性」を高めたのだろう。長野では、毒キノコのニガクリタケを食用のクリタケとして売ってしまった、というニュースもあった。そのことも作用したのかもしれない。
自然に関するマスコミの知識は豊かとはいえない。今度のできごとで、取材記者は、少しはキノコの奥深さ、ひいては自然の不可思議さに気づいたかな、そうだといいな、という思いを抱く。
一過性の取材ではなく、個人としてキノコでもいい、野鳥でもいい、植物でもいい、なにか自然についての勉強を重ねてほしい。そう思う。単なる「キノコ中毒」では、読者・視聴者には具体的なキノコの姿が刻印されない。
栃木県の人間が夏場、福島県内にキノコを採りに来て転落死する。それが毎年、繰り返される。なぜそうなのか――となれば、単に「キノコ採り」という記事にとどまっていてはいけない。栃木県民が愛する「チチタケ」を採りに来て死んだ、というところまでより具体的に書かないとだめだろう。それが今年夏、初めてそこまで踏み込んだ記事に接した。
クサウラベニタケに関する記事も同じだ。単に「キノコ中毒」では警鐘にならない。「道の駅」が絡んだために、キノコの具体名にも踏み込んだ。
記者の勉強力が絶えず問われている、ということを、ときどきは自分に問うてみることも必要だろう。勉強すればするほど、疑問は深く幅広くなる。すると、いよいよ面白くなる。そういうものだ。
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