50年近く前から知っている喫茶店「純」(最初は平駅前、今は内郷にある)でのこと。先代の三遊亭円楽そっくりだったマスターが亡くなったあとは、ママさんが店を切り盛りしている。われわれが「団塊の世代」だからだと思うが、モーニングコーヒーと同時にフキ・ワラビ・タケノコ・厚揚げの煮物が出た=写真。
平高専(現福島高専)の同期(3期)生がいわきをエリアに、5月23~24日と旅行会を開いた。首都圏組と地元いわき組、合わせて12人が参加した。常磐の温泉旅館に泊まった翌朝、「純」へ足を運んだ。前夜、親戚でもある仲間の一人がママさんに連絡した。それで、煮物をつくって待っていたのかもしれない。
旅館では広間で懇親会、部屋で2次会が開かれた。私のブログを読んでいる人間が半分はいる。深夜、それぞれの部屋に戻って3次会になった。私らの部屋は5人。最後は3人で私のブログの話になった。ほめられたり、けなされたりした。
その前、2次会のときだったと思う。学生のころや会社に入りたてのころの話になった。「コンピューターを設計する(といったと思うが)のに、そろばんと筆算でやった」。アナログからデジタルへ――そんな時代の変革期を仲間は生きてきた。私は早々と文系に切り替え、3行の原稿用紙に鉛筆で記事を書く仕事に就いた。
飲み会の席では面白い話が次から次に飛びだす。箸袋でも、茶菓子を載せた紙でもいい、余白にピンときた言葉をメモする。40年来の習慣だ。
そのひとつが「そろばんと筆算」だった。「こういち3万円→シャプラ寄付したい」もあった。「こういち」は学校の同窓会長だ。「シャプラ」は「シャプラニール=市民による海外協力の会」のことだ。バングラデシュやネパールで活動している国際NGOで、東日本大震災で初めて国内支援に入り、いわきで交流スペース「ぶらっと」を運営している。
私ら夫婦が関係しているのをブログで知り、平高専の人間がNGOの創設に関係していることを知ったからこその、「寄付したい」だったのかもしれない。
きのう(5月26日)の夜、そのメモを見て「こういち」に確認の電話を入れた。ネパール大地震から1カ月がたったことも、頭にあった。「震災のときに世話になったからな」という。彼が直接、シャプラニールの世話になったわけではない、いわき市民、あるいは相双の避難民が世話になった――そういう意味でシャプラの恩をネパールに返す、という気持ちになったらしい。
フキやワラビの煮物もうれしかったが、ネパール支援のためにシャプラに寄付したい――という仲間の気持ちがもっとうれしかった。
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