いわき市フラワーセンターの展示温室で見た熱帯植物の花=写真(黄色いハイビスカス)=の数々が、まだ頭のなかに焼きついている。強烈な色彩に、たまったストレスが少しほぐれた。とはいえ、行事に追われる忙しさは変わらない。世の中もざわついている。
70、80代が中心の生涯学習サークルがある。リーダー格は90歳のKさん。私の自宅からバス停で3つか4つ離れたところに住む。私が現役のころ、職場にやって来てコラムの感想を述べたのが、知り合った最初だ。もう10年くらいのつきあいになるだろうか。土曜日(7月4日)の夕方、外出から帰って休んでいると来訪した。歩いてきたのかと思ったら、自転車で、だった。
いわき地域学會の公開行事が2つある。7月18日・大熊町の「熊川稚児鹿舞(ししまい)」練習見学会と、10月の「いわき学検定」だ。地域学會の事務局を引き受けているので、このごろ、毎日のように申し込みのはがきが届く。Kさんは「いわき学検定」の方だった。たぶん最年長の受検者になるのではないか。
はがきではなく、直接申し込みに来たのは、胸の内にたまっているものを吐きだしたかったからでもあるようだ。「私はみなさんに生かされて、やっと90歳になりました」。「やっと」がつつましいKさんらしい。
そのあとに、「アベさんは……」と切り出した。「日本を戦争できる国にしようとしている。見てられない。日本が70年前に戻るような感じで怖い」と、戦争体験者としての率直な思いを語った。
今年90歳だから玉音放送を聞いたのは20歳のとき、ということになる。「終戦間際に召集された。上司たちの話を漏れ聞いているうちに、日本は戦争に負けるのだなとわかった。戦争が終わって、これからは言いたいことが言える時代になる、と喜んだ」「戦死した先輩や同僚のことを思うと涙がとまらなくなる」
Kさんは、思想的には右でも左でもない。勤め人としての人生を全うし、今は生涯学習に生きがいを見いだしている、ごく普通の市民だ。戦争の悲惨も、平和のありがたさも身に染みてわかっている。「戦後70年」の節目が「70年前の戦争」の記憶と直結しかねない――90歳の危機感に圧倒された。
今年元日の小欄で、こんなことを書いた。――床の間の厨子のわきに硫黄島の海岸の黒い砂が入った小瓶がある。父親がその島で戦死したいわき地域学會の先輩が慰霊の旅に加わり、遺骨代わりに持ち帰った。同じように母の兄もその島で亡くなった。遺骨代わりに分けてもらい、田村市の実家と伯父の家の仏壇に供えた。
「戦後70年」は「玉砕70年」「空襲70年」「原爆70年」でもある。あるいはそれぞれの兵士の死から71年、72年、73年……でもある。硫黄島の黒い砂を見つめ、孫の未来の時間に重ねて思うのは、「戦後」がずっと続いていくように、ということだ。――
硫黄島にはブーゲンビリアやハイビスカスが自生しているそうだ。太平洋戦争中、最激戦地のひとつになったその島で、兵士たちには原色の花に見とれるような瞬間があったのかなかったのか。フラワーセンターで見た熱帯植物の花の下に、遺影でしか知らない伯父が立っている、そんなイメージが浮かんだ。
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