6月25日、木曜日。夕方、小名浜から平のわが家へ帰るのに、海辺の道を通った。塩屋埼灯台のふもとにも立ち寄った。美空ひばりさんの歌碑と遺影碑、「永遠のひばり像」のある「雲雀(ひばり)の苑(その)」に花が飾られていた=写真。
ひばりさんの命日(6月24日)に近い日曜日の6月21日に、彼女の27回忌供養祭が行われた。そのときの名残だろう。献花者の名札も立っていた。
彼女が亡くなったのは平成元(1989)年6月24日午前零時28分。その日の夜の自分のふるまいを覚えている。
土曜日。たぶん朝のニュースで彼女の死を知った。夜はいわき市川前町の鬼ケ城山腹にある、「いわきの里
鬼ケ城」でまちづくり団体関係者の合宿が行われた。そこに加わり、夜を徹して酒を飲み、議論し、夜明け前の野鳥の合唱に誘われて、男2人、外に飛び出した。うっすら明けかけた空の下、「ホー、ホケキョ」とさえずりながら、バンガローが並ぶキャンプ場をうろついた。
「舌頭に港町十三番地ひばり逝く」。酔いが醒めたあと、字余り五七五がポロリと口をついて出た。無意識のうちに彼女のヒット曲「港町十三番地」を歌っていた。
団塊の世代は彼女より一回り年が若い。「港町十三番地」は小3のときにはやった。小学校に上がる前のヒット曲「悲しき口笛」「私は街の子」や「お祭りマンボ」もメロディーを覚えている。好き嫌いを超えて、美空ひばりさんが体にしみこんでいる。
長期入院を余儀なくされたあと、ひばりさんは塩屋埼の海をモチーフにした「みだれ髪」「塩屋岬」で復活する。それが縁で「みだれ髪」の歌碑が建てられた。東日本大震災では灯台の南・豊間と北・薄磯の集落が大津波で壊滅的な被害に遭ったが、「雲雀の苑」の一帯だけは海に突き出た岬に守られたのか、無事だった。
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