これは私見でしかないが――。東日本大震災後、夏井川渓谷のアカヤシオの花見客が激減した。一番の理由は原発事故。今はお年寄りを中心に回復しつつあるとはいえ、往時のような“路駐”は見られない。原発事故のほかに考えられる理由はひとつ。同じ小川町にある諏訪神社のシダレザクラに花見客が集中し、上流の渓谷まで足をのばす人が少なくなったのだ。
先の日曜日(4月16日)、渓谷の隠居で満開のアカヤシオと向き合ったあと、草野心平記念文学館で春の企画展「草野心平の詩
料理編」を見た。その帰り、ふもとの諏訪神社に寄った。人であふれていた。
境内の一角に青竹のアートがあった=写真。一本の竹を根元近くまで十六に割り、それを半円状に曲げて地面に差し込んである。見た目は「竹噴水」。ネットで似たようなものを見た。そちらは「竹火山」。水が噴く、あるいは火が噴く。どちらであれ、スケールの大きい竹のアートだと感心した。
夜の闇が降りると、このアートに灯がともる。桜のライトアップに合わせて、中心と周りの十六の根元に明かりがおかれ、円く点々とほのかな光がきらめく。いわき市総合観光案内所のスタッフブログでわかった。にくい演出だ。
小川がふるさとの草野心平の詩に「故郷の入口」がある。平駅(現いわき駅)から磐越東線のガソリンカーで小川へ向かう。赤井と小川の境の切り通しを過ぎると、夏井川に連なる竹やぶが見えてくる。「切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」。今も変わらない小川の入り口の風景……。
以前、拙ブログでこんなことを書いた。川岸の竹林内はうっそうとして暗い。間伐した竹を利用してなにか細工する。例えば、竹炭。ただの竹ではない。心平の詩に出てくる「長い竹藪」の竹だ。いくらでも活用する方法があるのではないか――。
それが可能かどうかは別にして、「長い竹藪」は折れたり倒れたりした竹で少々見た目が悪い。それらを片づけるだけでもすっきりするのではないか。
と、ここまで書いてきて、ひょっとしたら、と思う。竹灯籠は心平の詩を意識したものだった? そうであれば、心平と「竹藪」をもっと前面に押し出してもいい。「竹と心平と小川の物語」になるのだから。
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