2017年4月5日水曜日

45年前の海難事故

 会社を辞めて間もない後輩が遊びに来た。雑談をしているうちに、「きょう(3月31日)は母の命日なの」とカミサンがもらした。忘れていた。すると、後輩も応じた。「私もけさ、父親の墓参りをして来ました」。命日が一緒だったか。
 いわきにゆかりのある作家真尾悦子さん(1919~2013年)が『海恋い――海難漁民と女たち』(筑摩書房)を著したのは、昭和59(1984)年。<あとがき>に、本を書いた経緯を記している。
 
 漁村の女性の日常を知りたくていわきの浜で取材を重ねているうちに、「同じ船で夫を亡くした人、ふたりと知り合いになった」「北海道花咲沖で遭難した大型漁船が、船ごと、乗組員二十六人行方不明のまま、六年経っていた。しかし、未亡人たちはいまでも夫の死を信じてはいない」。その後、真尾さんは「見えない糸に引っぱられて花咲港へ通い」続け、作品を仕上げる。
 
 後年、真尾さんと親しく言葉を交わすようになった。そのなかで後輩も真尾さんと交流があることを知った。<あとがき>にある「ふたり」のうちの1人が後輩の母親だった。それが頭にあったので、父親の墓参りをしたと聞いたとき、3月31日が遭難日だと了解したのだった

『海恋い』を読み返したくなった。家にあったはず。私より本のありかに詳しいカミサンが探したが、見つからない。しかたない、図書館から借りてきて読んだ。最初の章<花咲へ>に「昭和四十七年に遭難した夫は、この、花咲沖に眠っているのだった」とあって、海難事故が起きた年月日がわかった。

 現実の事故はどうだったのか――図書館のホームページを開いて、電子化されたいわき民報の記事を探す。第一報は昭和47年3月31日付「第八協和丸消息断つ」、詳報は翌4月1日付「26人をのんだ“吹雪の海” 第8協和丸 いわきでは最大の海難事故」で、以後、同14日の合同慰霊祭まで関連報道が続く=写真。

 45年前の今ごろ、私は記者生活1年目を終えたばかりで、取材は先輩たちがした。26人が一瞬のうちに犠牲になるという事故の大きさに、胸の詰まる思いがしたことだけは覚えている。
 
 記事によれば、遭難したのは小名浜漁協所属の遠洋底引漁船で、乗組員26人の多くは山形県人、いわき在住者は4人だった。後輩のお父さんは当時28歳の機械長。後輩はまだ10歳にも満たない女の子だったか。真尾さんと『海恋い』のおかげで、あらためてそれぞれの「その後」に思いがめぐった。

0 件のコメント: