「おやじが高等小学校を卒業するときに書いたものらしい」と兄が言う。父親は大正4(1915)年に生まれた。ということは、尋常プラス高等で昭和の初めに小学校を出た。
実家の仏壇の上の鴨居に、今までなかった習字の額が飾られていた=写真。四字熟語の「共同一致」で、わきに小さく「卒業記念」の文字と自分の名前を書き添えてある。
よく見ると、「記」の右側が「己」ではなく「巳」になっている。「巳(み)は上に、己(おのれ)己(つちのと)下につき、半ば開(あ)くれば已(すで)に已(や)む已(のみ)」。そんな区別がつくようになったのは、記者になって文字の書き間違いを繰り返した末のことだ。
初めて見る父親の少年期の“遺品”だが、家は昭和31(1956)年4月17日夜、町が大火事なったときに焼け落ちた。父親の同級生の家に残っていたとかで、兄がコピーをもらって額に入れた。古くて新しい“家宝”でもある。
生きていれば今年(2017年)、102歳。阿武隈の山里で生まれ、育った13歳前後の少年はどんな思いで「共同一致」の文字を書いたのだろう。それがなぜ他人の家に残っていたのだろう。息子である私は、自分の孫の字でも見るように、少年だった90年前の父親の字を見ている。線は細い。が、ていねいに書かれている。
15歳で家を離れた私は間もなく、親の期待に反して進路を変更する。そのとき、父親から何通か手紙をもらった。「東京の中央本線沿いだけでも文学青年は何万人もいる」。軽挙妄動を戒めることばを今も覚えている。
それはそれとして、「共同一致」という言葉が、今の私には身にしみる。毎日が晴れの日とはいかない。さざなみが立ったり、停滞したり、小雨が降ったりする。所属するコミュニティや団体、あるいは家族・きょうだいは「共同一致」を旨とせよ――そう諭され、背中を押されたような気持ちになっている。
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