2024年11月16日土曜日

福島師範の植物研究

                     
 図書館の新着図書コーナーに、福島県・いわき市関係本として、阿部武『福島師範の植物研究――根本莞爾と師弟たち(2024)』(非売品)があった=写真。

 著者の名前を見て思い浮かんだ人がいる。石川郡に住む阿部さんに違いない。奥付で、発行者でもある著者の住所を確かめると、そうだった。

 福島県きのこの会会長である。いわきキノコ同好会にも所属している。植物の研究者でもあったか。

 もっとも、植物と菌類は切っても切れない関係にある。圧倒的多数の植物が根を介して菌類とつながっている。

その関係の始まりは5億年前にさかのぼる。水中から陸に上がった最初の植物には根がなかった。菌類がその根の役目を果たした。

そんな関係を知ったばかりなので、福島県をエリアに植物・菌類両方にまたがって研究する阿部さんの仕事の意義・大切さがよくわかる。

 私が初めて阿部さんと言葉を交わしたのは、6年前、いわきキノコ同好会の観察会が市内小川町の山中で行われたときだ。ブログを参考にしながら当時の様子を振り返る。

林道のそばで南方系のキノコであるアカイカタケを採取した。パッと見には16本の触手を持った赤いイソギンチャクで、一口大のケーキのようにも見えた。

平たい頂部には、凝固しかかった血液、あるいはゼリーのような層がある。かぐと腐臭がする。これが、胞子の運搬役のハエを呼ぶ。

いわきキノコ同好会会長の冨田武子さんに見せ、阿部武さんにも聞いて、「福島県内にも関東にも記録はない、非常に珍しいキノコ」(阿部さん)であることを知った。

さらに、観察会から2日後、阿部さんから手紙が届き、吉見昭一著『おどるキノコ――イカタケのひみつ』(岩崎書店、1983年)という児童図書があることを知った。

さて、阿部さんの最新論考は福島師範(現福島大学)の博物学教諭だった根本莞爾とその教え子たちの植物研究をまとめたものだ。

実はこの論考を借りる気になったのは、阿部さんが旧知の人だっただけでなく、参考資料として平成6(1994)年8月17日付いわき民報「交差点」が収録されていたからでもある。

筆者は菅原金男さん(宮城県本吉町)=元小学校長=で、「根本莞爾先生のこと」と題して、根本の先祖の地がいわき市遠野町であること、県花の「ネモトシャクナゲ」の「ネモト」は根本莞爾からきていることなどを紹介している。

 牧野富太郎とは当然、関係があった。いわき市出身の英語教育者小野圭次郎も根本の教え子だったという。

論考はもちろんだが、今回は著者の阿部さんを含めて、周辺情報に興味が引かれて、それを紹介した。

2024年11月15日金曜日

カメムシは冬ごもり

                       
   夏井川渓谷の隠居で土いじりをするために服を着替え、手袋をはめる。と、袖の中からパラパラこぼれ落ちるものがある。手袋の中でモゴモゴやっているものもいる。カメムシだ。

カメムシは寒さに弱い。気温が下がるとすぐ何かにもぐりこむ。このパラパラ・モゴモゴを、今季は初めて11月3日の文化の日(日曜日)に経験した。

夏が長かったためか、いつもよりは少し遅いパラパラ・モゴモゴだった。これからはそれが春まで何度も繰り返される。

近所の家では、カメムシ対策として網戸やガラス戸に忌避剤を噴霧し、すきまをテープでふさぐ。

わが隠居でも3年前の正月、後輩からクスノキの薪をもらって、茶の間などに置いた。防虫剤の樟脳(しょうのう)はクスノキが主成分だ。

クスノキ本体を置けば、強烈な香りに負けてカメムシが逃げていくのではないか。そんな期待を抱いたのだが……、甘かった。

隠居は冬、いつもの「カメムシの宿」になった。雨戸のすき間、座布団と座布団の間、畳んだゴザのすき間と、至る所にカメムシがもぐりこんだ。

そこへ日曜日ごとに人間が現れ、石油ストーブを焚く。部屋が暖まると、いつのまにか1匹、また1匹とカメムシが現れる。独特の臭気に支配されることもある。

暖房が効いて畳にポトリ、またポトリは、今年(2024年)すでに10月後半に始まった。

長居するときはほうきでさっと外へ掃き出すが、ちょっといてすぐ街へ下りるときにはそのままにしておく。

このパラパラ・モゴモゴと関連するわけではない。が、妙に一致する事象がある。同じ日、カミサンが隠居の庭の草むしりをしていて、ウツギの切り株にキノコが生えているのを見つけた。スギタケの仲間だった=写真(2021年撮影)。

3年前は10月31日に、やはりパラパラ・モゴモゴとスギタケの仲間の発生を確認した。今年も同時だった。

同じモエギタケ科にヌメリスギタケモドキがある。二十数年前、立ち枯れの大木に大発生しているのに出合った。このとき初めてコウモリ傘を開いて逆さにし、柄の長い小鎌でこそげ落とした。

 これは食菌としての、ヌメリスギタケモドキだからこその採り方だ。が、隠居の庭のそれがヌメリスギタケモドキかどうかは判断がつかない。

 で、3年前も採取はしたものの、食べるところまではいかなかった。今回も採取~いしづきカット~塩水につけて虫だし・ごみ落としまではしたが、結局、食べるまでにはいかなかった。

同じ仲間のツチスギタケやスギタケモドキは中毒するという。よくわからないものは食べない、という「鉄則」に従った。

2024年11月14日木曜日

大谷翔平「101の軌跡」

                            
   若いときはともかく、今はスポーツのテレビ中継を見なくなった。が……、大谷翔平が出るとなると別だ。

プロ野球の最高峰であるMLBのワールドシリーズは、大谷の所属するドジャースがヤンキースを破って優勝した。

同シリーズは日本時間の10月26日に始まった。BSで朝から生中継を見た。ドジャースは初戦から強敵を突き放し、4勝1敗と危なげない戦いぶりで頂点に立った。

その余韻を引きずるように、カミサンが移動図書館から借りた大谷翔平選手の本=写真=を読んでいる。

『ドジャース大谷翔平 新たなるチャレンジ101の軌跡』(インテルフィン、2024年9月)で、「100」ではなく「101」であるところがミソらしい。

『草野心平日記』は心平生誕101年を記念して刊行された。それと同じで、「100」では当たり前すぎて目に留まらない、「101」にしようとなったのか。

ドジャース入団後の新しいエピソード集といってもいい。「新発見」よりは「再確認」に近いだろうか。新聞記事で読んだり、テレビの情報番組で紹介されたりしたものが多い。それでも、聞き逃したものや見逃したものはある。

大谷がホームランを打ってベンチに戻ってくる。と、大谷の顔面にパッとヒマワリの種をまく選手がいる。テレビもそのシーンをよく取り上げる。

ともに今年(2024年)、ドジャースに移籍したテオスカー・ヘルナンデス選手の、ホームランを祝うパフォーマンスだという。

ヘルナンデス選手は2021年のオールスター戦で大谷と仲良くなり、今は毎日、大谷から新しい日本語を教えてもらっているのだとか。

そして、ヒットで塁上に出たときの、あのポーズ――両手を上げて上体を傾けながら左足を上げる――あれはもう一人のヘルナンデス、エンリケ・ヘルナンデス選手の決めポーズが原型らしい。

こちらの選手は愛称を「キケ」という。そこからとられた名前が「キケポーズ」、なのだとか。

というわけで、テレビでおなじみのシーンやポーズなど、「ドジャース大谷翔平」にまつわるエピソードが1ページ単位で101回繰り返される。写真と漫画もあって、中学生なら十分楽しめる構成になっている。

この出版社はすでに大谷本を複数出している。タイトルは省略するが、『――101の秘密』『――100の秘密』と、本のつくりはパターン化されているようだ。

大谷の人気はすさまじい。近々、また大谷本が出版される予定らしい。大谷はすでに大リーグの頂点に立つ。その大谷を軸にした経済効果は、こうした周辺のパターン本にも及ぶ。

2024年11月9日土曜日

曲がりネギの味噌汁

                      
 街からの帰り、夏井川の堤防沿いにあるネギ畑に目をやる。例年、師走に入ると収穫が始まる。まだ11月だが、気持ちのうえではカウントダウンに入った。

 平地のネギは「いわきネギ」、隠居のある夏井川渓谷のネギは「三春ネギ」。三春ネギは田村地方から種と苗が伝わってきたらしい。どちらにしてもこれからが旬である。

 紅葉時期になると、小野町のNさんが日曜日、JR磐越東線の江田駅近くに直売所を開く。

10月半ばの日曜日朝、県道沿いの空き地でNさんがパイプの支柱を組み立てていた。1年ぶりの再会である。「長芋は、今年はよくない、曲がりネギは大丈夫」。そんな話になった。

 直売所のオープンは例年、10月末か11月初めだ。今年(2024年)は11月3日に違いない。

そう見当をつけて9時半過ぎに江田駅前を通過した。店開きをしたばかりらしい。先客と長芋やゴボウの話をしていた。

曲がりネギがひとかたまり、シーツの上にあった。それをまとめて買う。シーツは隠居からの帰りに返した。

上流の錦展望台でも、土地の管理者に勧められて直売所を開くようになった。こちらは奥さんが担当している。

紅葉見物のマイカーが次々にやって来て、露天の直売所をのぞく=写真。対岸の紅葉はいまひとつだが、地場野菜の直売は好評のようだ。

 渓谷では、ヤマザクラやツツジなどがまず紅葉する。それが対岸の斜面を彩る。今年はその紅葉が遅れ気味だ。夏から秋の高温が影響しているのかもしれない

マイカー組のお目当ては県道沿いの谷間にあるカエデだろう。すでに紅葉したカエデもあるが、大半はまだあおい。もみじ葉が燃え上がるのは11月中旬以降か。

 この時期の楽しみは、紅葉よりも曲がりネギだ。4日朝、今季初めてジャガイモと曲がりネギの味噌汁にしてもらう。

ジャガイモと曲がりネギのやわらかさが混じり合い、ネギの香りと甘さが口内に広がる。それだけではない、少年時代の味の記憶も重なって、舌が喜ぶ。

 ネギジャガの味噌汁は毎朝口にしてもあきない。曲がりネギは加熱するとやわらかくなる。このやわらかさに魅かれるのだ。

 江田駅前ではNさんの直売所のほかに、テント張りの食べ物屋が出る。ここも3日にオープンした。

以前は山菜やキノコの塩漬けを並べた地元のおばちゃんたちの露地売りもあったが、今はどうだろう。震災以後、記憶があいまいだ。

隠居の庭では、三春ネギのそばで辛み大根が群生している。大きく葉を広げたものもある。三春ネギの邪魔になるのを引っこ抜くと、まだ細かった。が、おろすとやはり辛い。

初冬の楽しみはネギジャガの味噌汁と辛い大根おろし、次にカエデの紅葉。それが終わると、渓谷の森は葉を落として冬の眠りに入る。

※おことわり=予定が立て込んでいるため、何日かブログを休みます。

2024年11月8日金曜日

脳トレ本

                      
   カミサンから『大人の脳トレ本』を渡された。「もう使わないから」と、知人が持ってきたのだという。

開くとすぐ、人間の体で人間の顔を表現した歌川国芳の浮世絵が登場する。「絵の中に描かれている人物は何人か」

 同じ国芳の猫の絵を見せて「ことわざを完成させよ」というのもある。たとえば「猫に□□」=「猫に小判」など。

脳トレ・運動・食事、これが脳によい三本柱だという。脳トレなら脳トレだけでなく、ウォーキングや家事労働、バランスのいい食事などにも心がける。

それらを総合的に組み合わせ、脳を活性化させることで認知機能の低下や認知症の予防につながるのだとか。

いつもそうするわけにはいかないが、そばにいる相手ともめるだけで脳にはトレーニングになるともいう。

脳トレ本に刺激されて、図書館の新着図書コーナーにあった山口道宏『老いは孤立を誘う』(はる書房、2024年)を借りて読んだ=写真。

こちらは認知症うんぬんよりも、孤立死が増える「無縁社会」に光を当て、今日的な老いの営みが孤立に至る背景と課題を探っている(はじめに)。

核家族、団塊の世代(昭和22~24年生まれ)として、この半世紀余り、胸底から消えない言葉がある。その言葉を重ねながらこの本を読んだ。

日本では少子高齢化だけでなく、単身化も進む。国の見通しでは、団塊ジュニアが65~70歳を超える「2040年問題」に、介護や医療のインフラが追いつかない。ひとり暮らし予備軍の「老老世帯」はその前兆だという。

私は、高度経済成長と核家族化の流れにのって大家族から飛び出し、近くに血縁者のいない街で仕事に就き、結婚して子どもを育てた。

そのころ、つまりまだ20代後半のころ、核家族は「生存の危機」と隣り合わせである、といった意味のことを識者が新聞に書いていた。

識者の名前は忘れたが、生存の危機という言葉はずっと胸にあった。若いころは観念にすぎなかったが、年をとった今は、それが現実になりつつある。

老老世帯である。どちらか一方が病気になって何日か寝たままになったとする。「『お年寄りは三日間寝込んだだけでも、寝たきり、認知症予備軍になりかねない』とはリハビリを担う専門家の常識」と同書にある。

現実問題としてよくわかる。で、今はトイレに行ったら、必ず階段を利用して足の屈伸運動をする。危機は足からくるからだ。

それも含めて、老老世帯のどちらかが欠けて、ひとり暮らしになり、やがてひとりで死を迎える――今は生存の危機をそんなイメージでとらえている。

こんなくだりもあった。「『自助』より制度の見直しだ。あまつさえ『裏金問題』が表面化し政治家の姿勢が問われているいま、『政党が 先に公助を 受けている』が正鵠(せいこく)を得ている」

総選挙が終わったばかりだけに、この川柳(作者名は省略)は妙に納得がいく。川柳もまたいい脳トレにはちがいない。

2024年11月7日木曜日

松本清張の未刊行短編集

                              
   移動図書館「いわき号」から借りた本に、松本清張『任務――松本清張未刊行短編集』(中央公論新社、2022年)があった=写真。

あれだけ多作で人気のある作家に、未刊行作品があった? その一点だけで読んでみる気になった。

まずは「帯」のキャッチコピーを借りる。「自身の従軍体験を反映した表題作から実在の事件をモデルにした作品まで、国民的作家が終生追い続けたテーマ『組織・社会と個人との葛藤』を凝縮した全10篇」なのだとか。

それぞれの主人公、あるいは主要な登場人物が独特というか、一般にはなじみの薄い仕事に就いている。

地方紙の広告担当責任者、大衆娯楽雑誌の元編集者、プロの棋士、贋作をつくった陶芸家、速記法を編み出した人物、戦場特派員……。

なかに、年配者なら「ああ、あれだ」とピンとくる作品がある。プロ棋士の舛田幸三と木村義雄名人の対局を描いた「悲運の落手」、「永仁の壺」事件をモデルにした「秘壺」がそうだろう。

将棋は(碁もだが)、私はわからない。が、「悲運の落手」では2人の棋風、性格、対局の様子などが丹念に描かれる。

巌流島ではないが、武蔵と小次郎の真剣勝負のような緊張感が伝わってくる。舛田、優勢。ところが、最後に「命取りの悪手」を指してしまう。どんでん返しで作品は終わる。

 「秘壺」は、国の重要文化財に指定され、やがて人間国宝の陶芸家加藤唐九郎が「自分がつくった」と告白し、指定が解除された「永仁の壺」事件をモデルにしている。

 指定を推薦した文部技官や、疑惑を追いかける新聞社の学芸部員、偽物をつくったとされる陶芸家などが登場する。

 解説によると、「秘壺」が発表されたのは、贋作の疑いが濃厚だったものの、まだ決定的とはいえない段階のころだった。

 唐九郎が、自分が作った贋作だと告白するのはそのあとで、やがて事件は国の重文指定解除、文部技官の引責辞任という形で決着する。

 清張自身の体験に基づく作品もある。表題作の「任務」は、戦時中、朝鮮で衛生兵として軍務に就いていた経験を踏まえたものだという。

「ヨーチン」(ヨードチンキの略)と軽く見られていた主人公の衛生兵が、貧相な病兵の死に直面する。

遺体を「屍室」に運ぶため、看護婦と一緒に担架にのせて抱えると――。「屍体の重量がずしりと肩のつけ根から腕先にきたとき、はじめて私は任務らしい感情が充実しました」。階級社会の兵隊と戦争の悲しい断面が浮かび上がる。

 日本語の速記法を編み出した田鎖鋼紀の伝記小説「電筆」はいささか変わっている。解説によると、清張は膨大な執筆量から「書痙」になり、速記者を専属にして口述筆記をした。

速記者はすでに田鎖の生涯を調べ上げていた。清張が依頼原稿を書きあぐねているとき、田鎖関連の資料を提供したのだという。

速記者の名は福岡隆。のちに『人間・松本清張 影武者が語る巨匠の内幕』を出版する。「影武者」に驚きながらも納得した。

2024年11月6日水曜日

馬と暮らし展

                     
   いわき市暮らしの伝承郷で企画展「馬と暮らし」が開かれている(1月26日まで)。

馬は、かつては農耕や荷物の運搬を担い、人々の暮らしを支えてきた。その馬が暮らしの中で果たした役割、馬に関する信仰などを、関連する道具や写真で紹介している。

3連休初日の11月2日に始まった。翌3日、伝承郷に用があるカミサンのアッシー君を務め、ついでに企画展をのぞいた。

伝承郷は民俗学的な視点に立つ施設だが、近年は歴史学にも踏み込んだ企画展示をしている。

「馬と暮らし」展では、民俗のなかに文学を取り入れていて驚いた。山村暮鳥や草野心平の馬の詩を紹介している。

メーンは同じ詩人の猪狩満直と馬のかかわりだろう=写真。伝承郷にはかやぶきの古民家が5棟ある。山を背負った手前3棟の中央が満直の生家だ。

その縁から満直と馬を、満直とつながりのあった暮鳥と心平の作品を取り上げた、というわけだ。

ちなみに、心平の馬はカエルを主題にした第百階級以前の作品で、『空と電柱Ⅰ』から「月夜の馬」、『BATTA』から「馬になる」を、詩集とともに紹介している。暮鳥の馬は最後の詩集『雲』から連作3編を紹介した。

北海道開拓時代の満直と馬が映った写真と文章には記憶がなかった。帰宅して『猪狩満直全集』(1986年)を開く。が、どこにも見当たらない。翌日も調べ直したが、やはりわからない。

ここは伝承郷へ出向いて直接、出典を確かめるしかない。というわけで、2日連続、「馬と暮らし」展を見た。

旧知のスタッフから説明を受けてわかったのだが、満直の写真と文章は、平成30(2018)年10~12月、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた「生誕120年記念 猪狩満直」展で公開されたものだった。

そのときの図録に写真と文章が載っている。絵解きには「満直が、平町のマルトモ柴田書店店主、柴田徳二に送った写真と文面(いずれも複写)。満直がプラオ(西洋式犂)を操っている。文面では、馬を2頭所有していること、それらの経費で700円を要したことなどが記されている」とある。

大正末期から昭和初期、開拓農民として北海道で暮らした満直の目に映った馬はこんな感じだった=全集所収の「手記」(北海道開墾生活の実状)から。

「北海道の農夫は馬を中心として、馬によりかかって仕事をするのである。また年々子を産む。所謂、米櫃である。だから馬を大事にする。子供が病気しても中々医者にみせるやうなことをしないが、馬が病気すると早速獣医のところにかけつける」

暮らしの場こそ北海道だが、農耕に、運搬に馬が欠かせなかった様子がよくわかる。

阿武隈の山里でも昭和30(1955)年前後までは通りを荷馬車が行き来していた。馬車の持ち主が子供らをかわいがって、荷物と一緒に乗せてくれたこともある。

道はまだ舗装されず、かやぶきの農家には牛や馬の小屋があった。小屋を脱走して通りを駆け抜ける馬もいた。そんな時代が確かにあった。

2024年11月5日火曜日

色紙で遊ぶ

                     
   子どもが小さかったころ、大人も一緒になって遊んだ。いや、逆か。大人はしょっちゅう、街で酒を飲んでいた。たまり場があった。

で、罪滅ぼしを兼ねて家で飲み会をする。その際、子どもたちも呼んで自由に遊ばせる――。

 たとえば、夏。狭いわが家で「カツオパーティー」を開く。大人はアルコールと雑談にふけり、子どもたちは食事をして、庭で線香花火をしたり、別の部屋で絵本を読んだりした。

 画家や陶芸家、書家、新聞記者、市職員、カミサンのPTA仲間と子どもたち、総勢30人前後が居間と庭を行ったり来たりした。

 あるときは、ハマに近い友人の家で「タケノコパーティー」を開いた。やはり大人は酒を飲み、子どもたちはそばで遊び回った。

張り替えを予定していた押入の襖(ふすま)をキャンバスにしたこともある。「さあ、なにを描いてもいいぞ」。号令をかけると、子どもたちは自由に筆を動かした。

襖の落書きは大人もやった。新しく建てられた友人の家で飲み会が開かれたとき、無地の襖に画家が墨で絵を描き、私も即興で1行詩をつくり、書家がそれを絵に書き添えた。

アルコール抜きで合作をしたこともある。2点が額装されてわが家にある。そのうちの1点、色紙が東日本大震災で倒れ、ガラスにひびが入った。

それを先日、カミサンが額縁・画材専門店に持っていった。飾っておいたわけでもないので、そのまま放置していたが、家の中を片付けているうちに取り換える気になったのだろう。

若いころ、取材を兼ねて草野美術ホールに出入りした。美術ホールは、今はない。画家や書家とはそこで出会った。彼らを介して額縁・画材専門店の経営者とも知り合った。

カミサンが店を訪ねると、ガラスではなくアクリル板を勧められた。額縁に合わせてカットするので少し時間がかかる。

連絡がきて、カミサンのアッシー君を務めた。応対した女性と色紙の作者の話になったそうだ。

灰色の空と、葉を落とした雑木の雪山、そのふもとを人間が一人歩いている――。シンプルだが静かで深遠な感じのする絵だ=写真。作者は画家の故松田松雄(敬称略、以下同じ)。

文字は「金木犀の匂いと/駄菓子屋と/青白いシリウス/人は気圏の底に/うごめいて/中秋/立待ちの月」。絵とは季節感がずれるが、私がつくり、書家の田辺碩聲(せきせい)が筆を執った。

画材店にとっては、松田は特に親しい存在だったようだ。同店で絵画教室のようなこともしていたのではなかったか。書家もまた書道教室を開いていたような記憶がある。

女性は松田から私のことを聞いていたそうだ。「この詩をつくった人は……」となって、「私の夫です」。カミサンが応じた。

アナーキーといえば、アナーキーな遊びだった。子どもだけでなく、大人にとっても落書きは楽しい。

額装された色紙は、今思えば30代前半までくっついていた青春の抜け殻のようなものだったか。

2024年11月2日土曜日

尾根に立つ風車

            
   わが家からいわき駅前へ向かうとき、あるいは日曜日に夏井川渓谷の隠居へ出かけるとき、平市街の西方に屏風のように連なる山が見える。

 南から湯ノ岳~三大明神山~鶴石山などと続く。なかでも三大明神山の尾根には風力発電の風車が立ち並ぶ。

 1年前、風車のタワー2基が立ったのに気づいた。やがて山稜にニョキニョキとタワーが並び、今では肉眼でも9基の風車が回っているのがわかる。

中塩(平)の田んぼ道に出ると、必ず風車の数を確かめる。そして、阿武隈の中山間地域だけでなく、市街地でも風車が目に入るようになったことを、どう受け止めたらいいか迷う。

阿武隈高地は風力発電の一大基地になりつつあるようだ。自分が生まれ育ったふるさとの山々に巨大風車が立ち並ぶ光景を、私はできれば見たくない。

再生可能エネルギーの必要性を認めながらも、少年時代の記憶が、尾根の景観が傷つけられたようでたまらなくなる。

すでに震災前、大滝根山と矢大臣山の間に風車の列ができていた。同じ田村市の桧山にも風車が立った。

実家への行き帰り、風車を見るたびに、昔の古老が大滝根山の「こぶ」(自衛隊のレーダー基地)を見て嘆いた、という文章を思い出す。

 先日、夏井川渓谷にある隠居から「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)を利用して、知り合いの古民家カフェ(下川内)を訪ね、直売所(上川内)で買い物をした。

 気分転換を兼ねた日曜日のドライブで、上川内から下川内へ戻る途中、東方の里山に巨大な風車が立っているのが目に入った=写真。

 令和2(2020)年、古民家の所有者である陶芸家の友人が亡くなった。上川内で葬儀が行われた。同4年にはその古民家が娘さんの手でカフェに生まれ変わった。どちらのときにも川内へ行ったが、風車はなかったか、あっても気づかなかった。

 村では確か、水や自然を大切にするイメージ戦略からかけ離れているとして、風車の建設には反対の立場をとっていたはずだが……。東日本大震災と原発事故がそれをひっくり返したか。

 スーパー林道は川前(いわき)の神楽山の中腹を縫って伸びる。隠居から駆け上がるとほどなく、林道からの登山道に風力発電所を知らせる看板が立っていた。

 同じ水源地帯にある別の山はいわきで唯一、コマドリやコルリの繁殖地として知られる。

日本野鳥の会いわき支部は、コマドリだけでなく、ほかの希少種や渡り鳥への影響、環境保全の観点からも問題が大きいとして、風車建設の適地・不適地を明確にするゾーニングの条例化を求める要望書を市・県・国に提出した。

巨大風車を尾根に建設するには機材を運ぶための道路が必要になる。そのための森林伐採が進めば保水力の低下が懸念される。

水源地帯の問題は下流域の問題でもある。自然環境を守り、土砂災害や水害を防ぐためにも、メガソーラーを含めた再生可能エネルギーのゾーニングが必要になる。台風や低気圧はもはや昔の比ではない。

2024年11月1日金曜日

いのちを結ぶ

           
    新しい朝ドラ「おむすび」は、ヒロイン米田結(ゆい)が栄養士として人の心と未来を結ぶ「平成青春グラフィティ」だとか。

今は自立する前の少女編で、視聴者を引き付けるほどの事件は起こらない、と思っていたら動き出した。

ヒロインは福岡県・糸島に住む高校生だが、幼いころ、神戸で阪神・淡路大震災に遭遇した。家が倒壊したために、家族で父のふるさと糸島へ移り住む。そこでの、神戸の回想シーン。

幼い結は震災直後、母、姉とともに避難所にいた。厳寒期で周りの人も、結たちも寒さと空腹を我慢している。そこへおばさんが炊き出しのおむすびを持って来る

避難者が多いので、2人で1個を分け合うしかない。おむすびは冷たくなっていた。状況を理解できない結は一口食べると、「おばちゃん、チンして」とねだった。

困ったおばさんは避難所へたどり着くまでの様子を語ってきかせる。街も、道路もめちゃめちゃになって、避難所までの道のりが険しくて時間がかかったのだ、と。

そのうえで「おばちゃんな、生まれも育ちも神戸やねん。大好きな神戸の街が、あんなんなるの見たら……」と涙ぐむ。

朝ドラのタイトルが「おむすび」とあるワケは、そしてヒロインが歩む人生の「原風景」は、たぶんこれだろう。

ヒロインの名前もそうだ。名字に「米」が入っている。名前は動詞にすると「結ぶ」。名は体を表すで、「おむすび」そのものだと、勝手に直観が告げる。

この直観はどうやら、おむすびをつくるおばあさんの写真を表紙にした本を読んだかららしい。

「おむすび」が始まるとほどなく、カミサンが「こんな本があるよ」と持ってきた。佐藤初女『いのちをむすぶ』(集英社、2016年)=写真=で、手に取るのは初めてだった。

本文の最初の文の冒頭に「食はいのち、食材もまたいのち。/食は生活の基本です」とあり、著者のてのひらにおさまった海苔のおむすびの写真が隣のページに収められている。

同書によれば、佐藤初女は大正10(1921)年、青森市に生まれた。小学校教員になり、結婚を機に退職したあと、ろうけつ染めを習って作品を発表するようになる。この間、カトリック教会で受洗している。

彼女の人柄と手料理を慕って自宅を訪ねる人が増え、自然に悩みごとの相談を受けるようになる。多くの人の協力で自宅に長期滞在のできるスペース「弘前イスキア」ができた。

さらに平成4(1992)年には岩木山麓に「森のイスキア」を建設。龍村仁監督のドキュメンタリー映画「地球交響曲第二番」にも出演し、脚光を浴びた。彼女は同書の出版直前、94歳で亡くなった。

本文の冒頭の続き。「心が苦しみで詰まっている人は/なかなか食べることができません。それでもひとくち、ふたくちと食べ進み/“おいしい”と感じたとき、生きる力が湧いてきます」

「おむすび」は「いのちを結ぶ」もの、つまりは食の原点。それこそが朝ドラの主調低音にちがいない。あらためてそう思う。