2025年2月28日金曜日

酒のつまみ

                      
   立春を機にアルコールを再開した。日本酒をそば猪口で2杯。これを1時間以上かけて飲む。いや、なめる。

ドクターからは一般的な目安として、日本酒は1合、焼酎は0.6合、ビールは500ミリリットルまで、といわれている。

そば猪口にはおよそ0.4合入る。量でいえばビールだが、チビリチビリではおいしくない。後味とのど越しのやさしさから日本酒にした。

 断酒していたときには、晩の食事はものの15分もたたないで終わった。現役時代の「早めし」の癖はなおらない。

朝は台所のテーブル、昼と晩は茶の間のこたつで食事をとる。おかずの白菜漬けは私が甕から出して切る。

晩は食べ物をお膳に並べてこたつに運び、昼と同様に片付けをする。それ以外はカミサンにお任せだ。

 当然、箸を持つのは私が早い。カミサンが席につくころには、もう終わりかけている、ということもある。

晩酌が復活したおかげで、それがなくなった。カミサンの食事が終わっても、まだ酒をなめている。

早めしどころか、だらだらと1時間余り、つまみをほおばりながら、ほろ酔い気分に浸って……。そんなほぐれた時間にブログの下書きをつくる断酒前の習慣も復活した。

下書きづくりもコロナ禍で変化した。コロナ禍の前は、下書きをつくって晩酌を終え、寝る前に入力して早朝、清書したのをネットにアップする、というやり方だった。

コロナ禍が起きると、ブログの新聞(古巣のいわき民報)転載が始まった。活字になって残る怖さがよみがえり、今は一日早く、日中にブログを仕上げるという、現役並みのやり方に替わった。

チビリチビリやりながら原稿の骨組みをつくる。すると、気持ちも開放される。そんなときのつまみは軽いものでいい。

量ではない、少なくてもいいからいろんな味を楽しみたい――。酒の専門店へ行って、つまみも調達するようになった。

で、ある晩にはチーズやクッキー、ポップコーンなどが並んだ=写真。別の日には干し柿やブロッコリーのドレッシング、そして残りのチーズが。

日曜日は刺し身がメーンだ。晩酌を再開したのは、刺し身を楽しむためでもある。2月の前半には早くも今年(2025年)の「初ガツオ」を口にした。

今はカミサンの要望を聞いて、メジマグロやヒラメ、タコの盛り合わせにしてもらう。ヒラメはカミサン用だ。

日本酒ではなく、焼酎を適量の倍以上飲んでいたときには、そばにお湯入りのポットを置いていた。

糖質・プリン体ゼロの焼酎をなめ、すぐお湯を口に入れる。いわゆるチェイサーで、胃の中でお湯割りにした。

それが懐かしいわけではない。が、今は日本酒に含まれている糖質・プリン体が足の親指にどう作用するか、様子見といったところでもある。

2025年2月27日木曜日

図書館再開

                     
 2月3日から25日までの23日間、いわき市内の6図書館と2台の移動図書館が休館した。情報システム機器を更新するためだった。

 26日朝、図書館に返す本を車に積んで、街の歯医者さんへ出かけた。治療をすませると10時だった。ちょうど図書館が開館する時間だ。

 そのままいわき駅前に移動し、総合図書館が入居するラトブに車を入れた。図書館は4、5階に入居している。エレベーターで4階に直行すると、入り口に人の列ができていた。

 長い休館を見越していっぱい本を借りた。私もそうだ。返す本が多いうえに、一斉に人が詰めかけた。それで長い列ができたのだろう。

 列には並びたくない。エスカレーターで5階に行くと、先客が1人いた。すぐカウンターに招かれて、そちらで本を返す。

本は7冊。数が多いこともあってか、「読み取りが遅くて」とスタッフがすまなさそうに言う。

返却はこれまで通り。なんの変更もない。貸し出しは? 自動貸出機を操作したときに少し戸惑った。

いつもの場所に本を置き、画面を押すと「本を探す」「本を借りる」という表示が現れた。初めて見る表示だ。

ためらいながら「本を借りる」をタップし、図書館利用カードに印刷されている自分の利用者番号バーコードを読取機にかざそうとしたら……。読取機が見当たらない。

どこだ? 少し戸惑ったあと、モニター画面のそばに、なにやらトランジスタラジオのような黒いモノが置いてある。それにちがいない。

その通りだったが、こちらは立っている。カードを縦長ではなく、横長の状態でかざすとすんなり処理できるような感じだった。

新しい機器を利用して思ったのは、スーパーのセルフレジと同じではないか、ということだった。

スーパーではバーコードは商品の袋に印刷されているが、図書館では本のバーコードと利用者番号カードのバーコードを別々に、しかし同時に読み取って処理をする。

ともかく新システムにはね返されることがなくてよかった。そのことにホッとしながら、帰宅して図書館のホームページを開く。

実は26日の早朝、日付が替わったのでホームページはもう再開しているだろうと思ったのだが、そこは開館の時間まで休み、のようだった。

 ホームページには「システム関連の機器更新に伴う変更点」が表示されていた=写真。

 検索機と自動貸出機の「一台化」(総合図書館の一部端末)をしたという。「本を探す」「本を借りる」の同画面表示がこれだった。では、次は「本を探す」を試してみるか。

いや、元からある端末を利用すればいい。現にそうして、図書館で借りたい本をチェックした。「予約中」、つまり本はある。それがわかっただけでもよしとしよう。

2025年2月26日水曜日

ごみ袋の要件を緩和

                     
 4月1日からごみ集積所に出せる袋の種類が増える――。いわき市は、「広報いわき」2月号に「ごみ袋の要件緩和」を掲載した。

 併せて2月20日付の回覧で、令和7年度の家庭ごみ収集カレンダーを全戸に配布した=写真。

いわき市のごみ袋は、縦70センチ×横50センチで無色・透明のポリエチレン製の長方形と決められている。

市民はスーパーなどでこの規格袋を購入してごみを出す。私はそれで、いわきのごみ収集は間接的ながら有料という認識を持っている。

 現在のごみ出しルールの原形ができたのはざっと45年前。当時、市役所担当の記者だったので、新ルールへ向けた市の動きをつぶさに見てきた。

「ごみ戦争」宣言に始まり、有識者らによる協議会の提言、モデル地区の選定、事前の住民説明会を経て、新ルールに切り替わった。

新ルールへの移行といっても、ことは簡単ではない。ごみを出す側の意識の改革が必要になる。実施までの準備が周到だったので、新ルールが大きな問題もなく市民の間に浸透した。

行政は上意下達だけではない、おのれの才覚とネットワークの中で創造的な仕事もできる、公務員も悪くないな――このとき、そう思ったのを覚えている。

 家の前にごみ集積所がある。それを管理する身になって初めて、コミュニティはゴミュニティであることを実感した。

カラスはともかく、ごみを出す人間の側にルール違反などがなければ、地域はまず安泰――経験的にそう感じるようになった。

 今回緩和される要件は、①容量=15~45リットルの範囲内ならサイズに制限なし②色=内容物が確認できれば半透明の袋も使用可③形=これまでの長方形袋だけでなく、取っ手付き袋も使用可――というものだ。

しかし同時に、色付きの袋と文字・マークなどが印刷された袋は使用不可とあった。「半透明の袋」と合わせて、市民は袋の色の問題で悩むかもしれない。

透明な袋で出すのは、中身が見えるから。燃やすごみの中に危険物が入っているケースがたまにある。それを防ぐ意味もある。

これまでの経験でいうと、レジ袋は白色しか見ていない。白色ではごみ袋に使えない。半透明のレジ袋でも文字入りだとダメ、となる。

文字入りのレジ袋が不可なら、市民総ぐるみ運動のときに市から提供される運動専用の文字入り規格袋はどうなのか。

総ぐるみ運動では毎回ごみ袋が余る。余ったからといって捨てるわけにはいかない。通常の燃やすごみ用に使用するときもある。

いずれにしても、市民はそれぞれに解釈する。4月からの「現場」の判断を積み重ねていくしかないのだろう。

2025年2月25日火曜日

しぶき氷

                      
 夏井川渓谷では「籠場の滝」が一番の名勝といってもよい。わが隠居の手前にある。

 2月16日はいつもより水量があった。水源地帯の阿武隈高地で降った雪が融けたせいかもしれない。滝の上流も流れが岩をかんで白く泡立っていた。春先には珍しい光景だ。

1週間後の23日は、いつもの穏やかな流れに戻っていた。籠場の滝に近づくと、対岸の岩場が白く粉を吹いたようになっている。しぶき氷だ=写真。

今はもう2月の下旬。春の足音が聞こえ始めたというのに、ここまで氷が成長するのは初めてだ。「最強・最長の寒波」が来たあとに、また寒波がやって来たからだろう。

気象台のデータを確かめたら、いわきの内陸・山田町では19日と21日の最低気温が今季最も低い氷点下5.7度だった。

近年の暖冬傾向からいえば、しぶき氷はまったく想定外の現象だ。この10年ほどはしぶき氷ができても、小さくて、面積も狭かった。

しぶき氷が分厚く、大きく張った年がある。拙ブログで確かめると、震災の年がそうだった。2011年1月15日にそのことを書いている。一部修正して再掲する。

――夏井川溪谷の隠居に小さな畑がある。リサイクルを兼ねて、週に1回、そこへ生ごみを埋めに行く。

1月は3日のあと、14日午後に出かけた。とっくに「週一」のサイクルを越えている。生ごみ埋めのついでに、隠居の水道管をチェックしなくてはならない。

隠居の手前、籠場の滝をちらりと見たら、しぶき氷がかなり成長していた。例年だと、岩盤はうっすら白くなる程度だ。

が、2011年は白いマントを着るのが早い。氷柱(つらら)があちこちに発達している。氷が厚く、広く覆っている。

あとでパソコンに取り込んだ写真を見たら、走査型電子顕微鏡で何かを見ているような印象を受けた。

籠場の滝のしぶき氷に不安が募る。前の年は2月上旬に不安が的中した。台所の温水器が水を噴いていて、床が水浸しになっていたのだ。そのシーンが頭をよぎる。

隠居に着くとすぐ、水道菅をチェックした。台所、OK。風呂場、OK。洗面台、ン? 足元が水で濡れている。「凍結・破損」が一発でわかった。

対処法は決まっている。春になるまで、井戸水をポンプアップするモーターの電源を切っておく。

前の年がそうだった。隠居へ通い始めて15年、数えれば4回は「凍結・破損」に見舞われ、そのつど春がくるまで水持参で隠居へ通った――。

 それからさらに14年がたった今年、2025年。隠居へ着くと、やはり同じように台所、洗面台、風呂場をチェックした。

 一昨年(2023年)秋、台所の温水器を交換するとき、給水管に凍結予防の電熱線を巻いた。それで温水器は無事、本体の水道管も無事だった。

 風呂場は厳冬でも問題はない。洗面台は水道の元栓を締めて使えないようにしてあるので、これも心配はない。とはいえ、いちおう変化がないことを確かめずにはいられなかった。

2025年2月22日土曜日

原発事故から14年

                      
   いわき市は日曜日(2月16日)の午後、市総合福祉センターで原子力防災講座を開いた。自主防災組織の代表や登録防災士が受講した。

東日本大震災と原発事故から間もなく14年。今も全国的に大規模災害が絶えない。災害に備えて自助・共助・公助の取り組みを強化しよう、というわけだ。

 講座の内容は①放射線に関する基礎知識②福島第一原発の現状③原子力災害発生時の対応――の3講座で、それぞれ専門家が解説した

平成23(2011)年3月11日午後2時46分、超巨大地震が発生する。沿岸部には大津波が押し寄せ、隣郡にある東電の福島第一原発では爆発事故が起きた。

地震の後片付けどころではない。見えない放射性物質への不安が広がり、家を離れる市民が相次いだ。

あとで市がアンケートを取ったところ(無作為抽出の市民を中心に1261人が回答)、避難をしたのは55%、避難した日は3月15日がピークの24%だった。

津波被災者が市内の内陸部へ避難したあと、一気に市外へと原発避難が行われた、そんなことがうかがえる結果だった。

長男一家とともに私ら夫婦ものべ9日間、国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家(西郷村)で避難生活を送った。

帰りは途中から燃料計のスタンドマーク(燃料残量警告灯)が点灯し、エンストの不安を抱えながら家に着いた。

講座では資料=写真=をめくり、「あのとき」のことを思い出しながら話を聞いた。放射線と放射性物質の違い、アルファ線やベータ線、ガンマ線といった放射線の種類、シーベルトの由来、半減期などは、当時、必死になって勉強したことだ。

前にも原子力災害に関する図上訓練(2016年)や実動訓練(2017年)が行われた。今回の講座はこれまで学んだことの「おさらい」といった意味合いもある。

拙ブログによれば、平成24(2012)年11月、福島県地域防災計画でいわき市が「UPZ(緊急時防護措置を準備する地域)」に指定された。

同地域は原発からおおむね30キロ圏内で、いわき市の場合は冷温停止状態の第二原発(廃炉が決定)がこれに該当する。

また、市原子力災害広域避難計画には、平地区の「避難・一時移転」市町村として、南は茨城県石岡・かすみがうら・土浦・牛久・つくば・つくばみらい・取手・守谷各市と阿見町、西は新潟県魚沼・南魚沼・見附・長岡・小千谷・十日町・柏崎各市と出雲崎・湯沢・津南各町が明記されている。

今度の講座では、「必ず市の指示が出てから指示された方面へ」「原則、自家用車で」ということを再確認した。むろん、自家用車による避難が困難な場合の手立て(バスを用意)も明記されている。

車のガソリンが半分になったら満タンにする――。まずは、あのときの教訓を忘れないことだと、自分に言い聞かせる。

2025年2月21日金曜日

そば猪口で一杯

                      
   去年(2024年)の5月末だったか、知人から「お伊勢参り」のおみやげをちょうだいした。紙の箱に「御神酒(おみき)」と書いてあった。

銘柄は兵庫県西宮市の日本酒「白鷹」、300ミリリットルで、伊勢神宮崇敬会が販売元だった。

箱から取り出すと、いかにも御神酒の入れ物らしい容器が現れた。真っ白い瓶子(へいし)で、長めの蓋(ふた)がしてあった。

そのころは糖質・プリン体ゼロの焼酎を飲んでいた。日本酒は「今はまだいい」と、神棚に供えてそのままにしておいた。

その後、心臓由来の血栓からくる脳梗塞と抗凝固薬の長期服用による出血のリスクを減らす目的で、「左心耳閉鎖術」を受けた。

担当医は「節酒を」というので、飲むのを自主的にやめた。以来、そのまま年を越して立春を迎えた。

この日は診察日でもあった。問診のついでにドクターとアルコールの話になる。7月の手術以来、断酒を続けているというと、ちょっと驚いた表情になった。

飲んでもいいことはわかっている。ただし、日本酒は1合、焼酎なら0.6合、ビールなら500ミリリットルまで。

近所のかかりつけ医院から渡されていたコピー資料が出てきた。「生活習慣病療養計画書」とあった。その中に書かれていた内容と同じであることを再確認する。

一日の基本は、断酒してもそう変わらない。が、晩酌がなくなっただけで生活のリズムはいちだんと単純になった。

これまで浴びるように飲んできた、一生分どころかあの世の分まで飲んでしまった、という思いがある。

一方で、なお気持ちは揺れ動く。日曜日の晩の、刺し身のときくらいは……、なんて。

立春の診察日の翌日から、アルコールを再開した。最初は神棚に供えた御神酒を。蓋が猪口(ちょこ)になっているので、それに一杯だけ。あとで水を入れて測ったら、1合換算で9分の1の20ミリリットルだった。

 次は、ちょっと小さめのそば猪口で、やはり御神酒と同じ銘柄の日本酒を=写真。この容器は水で測ると80ミリリットルほどだった。ということは、1回だけお代わりができる。

 容量が頭に入ると、今度は猪口の文様が気になった。しろうとには畑の蕪(かぶ)のように見えたが、実は定番の松竹梅だった。蕪に見えたのは松に笹(竹)、反対側に描かれているのはどうやら梅の花らしい。

 焼酎だとお湯割りになる。ビールだとすぐなくなる。ここは日本酒をチビリ、チビリとやる。

 去年夏の酷暑以来、水や牛乳の飲み方が変わった。ゴクゴクをやめて、少しずつ口に入れて、舌で押し込むようにして奥に流し込む。これだと後味がいい。

 日本酒も同じ要領でなめるようにしてのどの奥に流し込むと、うまみが口に広がった。

かつては晩酌の時間が一日で一番リラックスして、楽しかった。その記憶がよみがえる。そば猪口で2杯、なめるようにして日本酒を飲む。今はその心地よさに浸っている。

2025年2月20日木曜日

まだ「四寒」

                      
   朝、茶の間のカーテンを開けて庭を眺める。ジンチョウゲのつぼみはまだ小さい。でもスイセンは芽を出して、少しずつ丈が伸びているのがわかる=写真。

「三寒四温」という言葉がある。寒暖の波を繰り返しながら、全体としては気温が上昇して春に近づくことをいう。

もとは中国北部や朝鮮半島北部の冬の気候を表す言葉だったそうだが、日本では春先、低気圧と高気圧が交互にやってきて寒暖を繰り返すことを指すようになった。

「光の春」と「寒さの冬」が綱引きをするなかで、大地は春へと装いを変えつつある。その先駆けが、わが家の庭ではスイセンだろう。

日曜日(2月16日)には背中がポカポカするような陽気になった。が、また北から寒波が下りて来た。「三寒四温」どころか、まだ「四寒三温」が続いている。

たまたま日曜日の春の気配に引きずられて、翌日、寝床に湯たんぽを入れるのを休んでみた。

掛け布団の下にはタオルケットが2枚。寝る前に湯たんぽで腰のあたりを温めておく。寝床に入ってからはそれを足の方にずらす。

湯たんぽを休んだら、腰回りのぬくもりは消えたが、それでも眠りが妨げられることはなかった。

朝、目が覚めたときに、いつもよりは足がちょっと冷えているかな、そんな程度だった。

湯たんぽは、あった方がリラックスできる。なくてもかまわない。が、ここしばらくは続けよう、というわけで、翌日からまた寝床を温めている。

去年(2024年)のちょうど今ごろは、湯たんぽなしでも真夜中、布団の中に熱がこもって寝苦しくなり、それで目が覚めた。ブログにそんなことが書いてある。

冬鳥には、こんな寒さはわけもないのだろう。が、水辺のハクチョウはともかく、山野の冬鳥とは、今季はごぶさただ。私が家にこもっているせいにちがいない。

まずはツグミ。例年、わが家の庭にもやって来るのだが、今季はまだ見ていない。

 ジョウビタキは16日の朝、今季初めて夏井川渓谷の隠居で見た。SNS界隈では、雄は「ジョビ男」、雌は「ジョビ子」と呼ばれている。それにならって、思わず「ジョビ男だ」口の中で叫んでいた。

最近は週に2回、夕方5時前後に孫のアッシー君を務める。新川が夏井川に合流するあたり、ハクチョウが群れて羽を休めている。その手前、専称寺側の県道を街へ向かっていると、夕日が山並みに触れるか、沈むところに遭遇する。

「ダイヤモンド富士」にならっていえば、18日は「ダイヤモンド湯ノ岳」だった。早春のこの時期の、その場所と時間がつくる光学現象でもある。なにか得した気分になった。

2025年2月19日水曜日

緑色のマッチ

                     
   わが家で使っているマッチ棒は、頭が赤い。手のひらに載る小さなマッチ箱(並型)に入っている。

箱のデザインはレトロ調で、朝日をイメージした円から競走馬の顔と前脚がはみ出している。

右上隅にはアルファベットで「ASAHIUMA BRAND」(アサヒウマブランド)とつづられている。

 箱の反対側には「旭馬印マッチ」の文字と注意書き。そして、製造業者である日東社の名前が印刷されている。

 ネットで調べたら、日東社は姫路市に本社のある日本最大のマッチ製造業者だった。しかも、旭馬印は一部の地域でしか取り扱われていないために、希少価値があるという。

 別の場所に大きなマッチ箱(徳用型)を置いている。これも旭馬印だ。並型のマッチ箱に付いている「側薬」(そくやく=こすって火を起こす摩擦面)が有効なうちは、マッチ棒がなくなると徳用箱から補充する。

 石油ストーブは乾電池による自動点火だった。が、今はマッチで点火している。2月14日も同じようにマッチを取り出して点火しようとしたら……。マッチの頭が赤色ではなく緑色だった。

カミサンに聞くと、義弟の住まいだった隣家から小さなマッチ箱が出てきて、中に緑色のマッチが入っていた。それを、旭馬印の並型マッチ箱に詰め替えたのだという。

カミサンの実家は下の義弟が跡を継ぎ、最近まで米屋と雑貨・たばこ屋を兼ねていた。雑貨の中には徳用・並型のマッチ箱もあった。日本のたばこだけでなく、外国のたばこも扱っていた。

上の義弟は体調を崩す10年ほど前まで、たばこを吸っていた。もとは実家に住んで米の配達をしていた。おそらく実家から手に入れたマッチ箱に違いない。

喫茶店が全盛のころは、どこでもサービスとして小さなマッチ箱を提供した。カミサンも喫茶店だけでなく、てんぷら屋や温泉旅館その他のマッチ箱を集めていたことがある。

義弟は義弟で切手などを収集する趣味を持っていた。そのコレクションの一つとしてマッチ箱を残しておいたのだろう。

カミサンが緑色のマッチが入っている箱を持ってきた=写真。旭馬と違って、変わったデザインだ。

しばらく検索を続けていたら、全く同じデザインの外国のたばこがあった。アメリカの銘柄だった。

 そこからさらに絞り込むと、マッチ箱とデザインが同じ「クール・ナチュラル8・ボックス」というたばこに出合った。

 日本限定の商品らしく、2012年9月に発売が開始され、2018年2月に終了したという。

 ついでに、マッチ棒の頭の色も調べた。白・黒・青・茶……と、緑色や赤色のほかにもさまざまな色のマッチがある。

 だから、どうなの?といわれそうだが、延々と調べ続けて、やっと答えにたどりついた。ジイサンにとってはけっこうな暇つぶし、いやバレンタインプレゼントになった。

2025年2月18日火曜日

木の枝が散乱

                     
 日曜日(2月16日)は朝9時ごろから1時間余り、夏井川渓谷の隠居で過ごした。晴れて風が弱いためか、外にいても寒さは感じない。むしろ背中が春の光でポカポカしてくるようだった。

室温は4度。生ごみを埋めたらすぐ帰るので、石油ストーブはつけなかった。それでも寒さは気にならない。

庭に木製のテーブルが置いてある。丸太の脚に2カ所、角材を渡し、それを支えにして板が3枚置いてある。その1枚がひっくり返って、隣の板にのっかっていた。

 板といっても厚みがある。年寄り一人では持ちあげるのがやっと、という代物だ。それを簡単にひっくり返せるのは、と考えて思い当たった。木曜日(2月13日)の暴風にちがいない。

 木曜日は早朝から風が強まり、午後1時過ぎにはうなり声をあげて吹き荒れた。気象台の観測によれば、小名浜では午後1時40分に最大瞬間風速32.3メートルを記録した。この日、日本列島で一番強い風だったという。

 県道をはさんで隠居の向かい側にあるカエデの木も、あらかた枝が消えていた=写真。

 このカエデは、幹にサルノコシカケに似た木材腐朽菌が発生し、ほぼ立ち枯れ状態だった。

 そこへ強風が吹き続けたために、横に張り出していた太い枝ごと折れたのだろう。かたわらに、落ちた枝がまとめて置いてあった。

そういえば、渓谷の道路の端にはやたらと枯れ枝が散乱していた。途中から幹が折れている木もあった。

倒木による影響は? あとで検索を続けると、渓谷の県道が倒木で一時通行止めになった、という記事に出合った。

場所は、しかも隠居のある牛小川地内だ。隠居まではそれらしい跡はなかった。市川前支所が投稿した倒木の写真を手がかりに探ると――。

牛小川の集落を少し過ぎたあたり、谷側の県道沿いに遭難碑と六地蔵が立っている。

昭和10(1935)年秋、豪雨で山の岩石・土砂が崩れ落ち、線路が消えたところへ郡山からの列車が突っ込んだ。

機関車や客車など4両が脱線し、県道と下の河原に転落、12人が死亡、50人が負傷した。

その線路には、落石防止用のロックシェッドが設けられている。倒木が除去され、通行が可能になった県道の写真(やはり川前支所が撮影)の奥に、このロックシェッドが写っていた。

それで事故現場がわかった。谷側に生えていたモミらしい常緑樹が折れ、道をふさいだ。最初の写真は川前側から撮り、復旧後は逆に小川側から撮った。

それはそれとして、渓谷にあるナラ枯れの大木も要注意だ。牛小川からマチへ戻る途中に、幹にキノコが生えて立ち枯れたままの大木がある。

この大木も先端はかなり枝が吹き飛ばされたようだ。木々がまだ冬の眠りについている今、そこだけ少し空が広くなっていた。

2025年2月17日月曜日

白梅がちらほらと

                     
 図書館が休みなので、街へ行く用事がない。夏井川の堤防を利用したのは銀行へ行ったときだから、もう1週間以上も前だ。

 日曜日(2月16日)の午後、自主防災会の研修会が内郷で開かれた。帰りは午後3時半過ぎになった。久しぶりに堤防を利用した。

新川の合流部で、いつものようにハクチョウが羽を休めていた。そこへ20羽ほどがどこからか帰って来て、次々に着水した。車でハクチョウを見に来た人たちが何人かいた。

 ハクチョウはずっと下流の方まで散らばっている。4時半になると岸辺におばさんが現れてエサをやる。それを待っているのだろう。

 冬から早春の、夏井川のいつもの光景だ。その光景にぽつんと1カ所、清楚な華やぎが加わった。民家の庭の白梅が満開だった。

 では、わが家の南隣にある義弟の家はどうか。帰ってから庭を確かめた。あるじは亡くなったが、カミサンが家の内外の手入れをしている。見ると、ちらほら白梅が咲き出していた。

 この日は朝、3週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。もう2月中旬だ。「梅前線」は高崎(小川町)までたどり着いているに違いない。沿線の紅梅・白梅はどんな様子か、チェックしながら車を運転した。

平地の中神谷(平)の白梅は満開、空木(くうぎ=小川)では梅の花に気づかなかった。段丘上の高崎(小川)では紅梅のつぼみが赤くふくらみ、白梅が咲き出していた=写真上1。

過去の記録と照らし合わせるまでもない。今年(2025年)はどうも梅の開花が遅いようだ。

8年前(2017年)の拙ブログを見ると、2月19日にはすでに渓谷の椚平(小川)に梅前線が到着している。その上流の小集落、牛小川の隠居でも梅が1、2輪咲き出していた。

午後には研修会がある。それから逆算して、隠居へは30分ほど早く、朝8時半前には出かけた。

 すると、白梅が満開だったあたりの田んぼにハクチョウが4羽、舞い降りるところだった=写真上2。「神谷耕土」のハクチョウに遭遇するのは久しぶりだ。

 隠居からの帰りも、いつもより早くなった。朝来た道を戻り、神谷耕土を進むと、ハクチョウが舞い降りた田んぼで、びっしりとハクチョウが羽を休めていた。そこだけで何十羽、いや100羽近くはいたのではないか。

 三島(小川)の夏井川にもハクチョウがいる。朝は20羽ほどだったが、帰り(といっても、10時半過ぎ)には何倍にもなっていた。

 定時・定点もいいが、たまには違った時間、違ったルートで移動するのもいい。そんなことを実感した一日だった。

2025年2月15日土曜日

猫のベッド

                      
   車で住宅街の路地を巡り、回覧資料を配っていたときのこと――。どこかの飼い猫が腹ばいになって目の前の道路を横切った。

なぜ匍匐(ほふく)前進を? 停車して様子を見ていると、いきなり道端の家の庭にジャンプした。

庭には小さな帯状の菜園がある。そこにヒヨドリがいた。間一髪、ヒヨドリは猫に捕まることなく飛び去った。

 今はわが家の縁側をすみかのようにしている、トラの「さくら猫」(不妊・去勢手術が行われ、耳にV字の切れ込みがある猫)がいる。

ときどきネズミや鳥を捕まえたあと、なぜか玄関の前に持って来てそのまま放置する。カミサンが玄関を開けると「キャーッ」となるのでわかる。

 その猫の狩りも同じだろう。狩りに失敗した猫を見ながら、わが家のさくら猫のことを思い出していた。

ふだんはカミサンがエサをやっている。しかし、猫の野性は手術を受けても変わらない。

鳥が視野に入ると匍匐前進をして近づき、いきなり跳びかかる。そんな本能がはたらくに違いない。

縁側の先に物置を兼ねた小スペースがある。波形のポリカーボネートで囲い、庇(ひさし)も張り出してあるので、雨の心配はない。

 そこに不要になったスチール製の引き出しを置き、小物入れにしている。空きスペースにはスコップその他の園芸用具や竹ぼうきなどが雑多に置かれている。

 縁側にも店じまいでいらなくなったテーブル、そしてその上には段ボール箱や「えじこ」がのっかっている。

 えじこは、人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具だ。ウィキペディアによると、農作業で忙しいとき、屋内または作業場の近くにこれを置いて乳幼児を入れた。

 どこからかこの用具が出てきたのをカミサンが引き取り、猫を飼っていたときはそのベッドにしていた。

 カミサンが最近、縁側に積み上げたモノを整理し、またえじこを一番上に置いて猫のベッドにした

ある日――。NHKの「あさイチ」で絵本の特集があった。猫の絵本が次から次に紹介された。

それもあって、わが家に居ついたさくら猫のことを思い出した。茶の間からガラス戸越しにのぞく。と、さくら猫が丸まって朝寝をしていた=写真。

 カミサンはこのさくら猫を「ゴン」と呼んでいる。ゴンがわが家の庭に現れるようになってから、ざっと3年がたつだろうか。最初は野鳥のための残飯が目当てだったらしい。

 そのうち、ゴンにもエサをやり、縁側に段ボール箱を置いて、中に古いシーツを敷いたら、いつの間にかそこで一夜を明かすようになった。といっても、毎夜ではない。

朝はいないときがある。厳寒の今は日中、こたつではなく、風を遮る縁側のえじこで丸くなっている。

2025年2月14日金曜日

灯油の減り方が早い?

                     
   石油ファンヒーターのタンクに給油しながら思った=写真。この冬はどうも灯油の減り方が早いのではないか。

車のトランクにポリ缶を積んで、ちょっと先のガソリンスタンドへ灯油を買いに行く。4缶、72リットル。ときに3缶、54リットル。1回に確保するのはだいたいこんな量だ。

隣家の義弟が昨秋亡くなった。で、その分は減ったはずだが、灯油を買いに行く回数は減ってはいない。

以前と比較してうんぬん、という話ではない。が、師走、正月と家にこもっている日が続いた。当然、早朝から夜寝るまで、茶の間に座り続けている。

その間は石油ストーブを、ときにファンヒーターもつけて、2台で部屋を暖める。この暖房の時間がのびているのかもしれない。

ちょっと前まで「最強・最長寒波」が居座っていた。とはいえ、わが家では水道管が凍結・破損するようなことはなかった。

立春から4日目の2月6日早朝。浴槽を掃除するためにシャワーを使ったら、水量が急に細くなり、すぐまた元の勢いに戻った。このときだけ「あれっ」と思った。

雪国では積もった雪でハウスが倒壊し、雪かき中に下敷きになって死亡するといった事故が相次いでいる。

福島市南西の山あい、土湯温泉郷では同じ場所で2回、雪崩が発生して道路が埋まり、その先にある「秘湯」の宿泊客と従業員が一時、孤立状態になった。

どんな地形のところなのか、県紙に載った地図を参考に地理院地図とグーグルマップで現場を探った。

箕輪山(標高1728メートル)の頂上から北東方面が沢になっていて、標高1150メートルほどのヘアピンカーブ(橋)あたりから西鴉川が始まっている。どうもそこへ至る沢が雪崩の現場らしい。

冬は晴れて風が冷たい浜通りに住んでいると、会津地方の豪雪も、福島市(中通り)の雪崩も、いまひとつピンとこない。「仮想現実」に入り込んで初めて、その規模と苛酷さに思いが至る。

拙ブログで12月下旬にこんなことを書いた。それから1カ月半がたつ。その比較をしてみる。

「師走に入ってからは、さすがにいわきの平地でも寒さがこたえるようになった。山田町では23日までの間、最低気温が氷点を割ったのは13日」→1月はさらに、最低気温が氷点下になったのが23日、2月も12日までに10日あった。2月10日は氷点下5.3度と今冬最低を記録した。

「暖房は石油ストーブに、時折、ヒーターを加える。ストーブだけだと室温が20度を割ることがあり、ヒーターを付けると逆にすぐ30度近くになる」→1月どころか、2月に入った今もこれは変わらない。

朝か夜、ストーブの灯油を満タンにする。翌日、また満タンにする。この繰り返しから、灯油の消費が早いと体が感じるのかもしれない。

2025年2月13日木曜日

「小さな地球」をつくる

                 
 きのう(2月12日)の続き――。第12回いわき昔野菜フェスティバル(同野菜保存会主催)で行われたワークショップの一つ、「ペットボトルプランターで昔野菜を育ててみよう!」はユニークだった=写真。

 一般社団法人シーズオブライフのディレクター坂田奈菜子さんを講師に、参加者は持参した空きペットボトル(2リットル以下)の上部を切り取り、事務局が用意した鉢底石と培養土を利用して在来作物(昔野菜)の種をまき、細かく砕いた落ち葉をかぶせて「小さな地球」をつくった。

 日本人は地球2.8個分の資源を使って暮らしている、野菜の種の90%は外国でつくられている。

世界の66%の耕作地はわずか9種類のために使われている、世界の耕作地の20%は農薬や土壌汚染、温室効果ガスなどで農業に適さなくなっている……。

 座学で日本の、世界の農業の現実を学び、さらには「道端のタンポポはホウレンソウより栄養価が高い」といった話を聞いた。

このあと、地球の環境と多様性を学ぶには「自分で種をまくことが第一歩」ということで、プランターづくりに入った。

つくり方は簡単だ。ペットボトルの底が見えなくなる程度に鉢底石を敷き、培養土を加える。この際、トントンと土を詰めるようなことはしない。フワッとした状態の土に種をまく。

種は昔野菜2~3種類で、木の実が落下して発芽するイメージで種を置き、さらにその上に落ち葉のふとんをかけ、霧吹きで3回ほど水を吹きかけた。

あとは家に持ち帰り、植物の身になって置く場所を決めること――というアドバイスを受けてワークショップが終了した。

ペットボトルプランターは見えない土の中を可視化する。なかでも土壌中の微生物の働きが大きいという。

複数の種類を入れるのは、それぞれ育ちが違うためで、早く根を張る種は土をよくする。相性が悪いともう1種類を加える。

すると、土の中でコミュニケーションをとり、さらには根っこ同士が不足分を補い合うのだという。これには微生物、つまりは菌類も関係している。

引き続き行われた座談会では、①野菜を食べる②野菜を育てる③在来種野菜④食の豊かさ――について話し合った。

江頭宏昌山形大教授、坂田さん、料理教室を担当したいわきのイタリアンレストラン「テラッツァ」シェフ星真帆さん、そして昔野菜保存会から新妻ゆき子さんと私が加わった。

自己紹介の中で、坂田さんのいう「根っこ同士のつながり」は「菌根菌ネットワーク」と同じではないか、という話をすると、坂田さんはうなずいた。「小さな地球」は、つまりは「小さな森」のことである。ここがポイントなのだろう。

2025年2月12日水曜日

在来品種データベース

                              
 第12回いわき昔野菜フェスティバル(同野菜保存会主催)が2月9日、中央台公民館で開かれた。

午前10時から午後3時までイベントが続き、種の交換会と栽培相談会(午前と午後の2回)、種と写真の展示も盛況だった。

 午前は予約制による「ペットボトルプランターで昔野菜を育ててみよう!」(定員20組)と、昔野菜の「おいしい菜」や「白いんげん豆」などを使った「料理教室」(定員20人)で、参加者はそれぞれに分かれて実技に取り組んだ。

午後は、昔野菜を使った郷土料理の試食会(昼食)のあと、「昔野菜のことを考えよう!」をテーマに、講演会と座談会が行われた。

 ペットボトルプランターづくりは、一般社団法人シーズオブライフのディレクター坂田奈菜子さんが担当した。

 料理教室はイタリアンレストラン「テラッツァ」(いわき)のシェフ星真帆さんが講師になった。

試食会では、郷土料理の「じゅうねん」(エゴマ)と「むすめきたか」(アズキ)を使った牡丹餅(ぼたもち)と「のっぺ汁」が提供された。

講演会は、東日本大震災直前の第1回フェスティバルから講師を務めている江頭宏昌山形大教授が担当した。

江頭さんは2年ぶりの登壇で、「在来野菜の全国の取り組みの現状」と題して、主に農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)が2024年3月に正式公開をした「在来品種データベース」の中身を紹介した。

公開された在来野菜は291種で、これはすべて江頭さんの調査研究をベースにしている。

あとで同機構のホームページを開き、在来品種のデータベースをのぞいた。「いわき」で検索すると14件(種)がヒットした=写真。

公開されているいわき市内の在来種は、作物名(品種名)でいうと、キュウリ(小白井きゅうり)・ゴボウ(おかごぼう)・ササゲ(十六ささげ)・エゴマ(じゅうねん)・インゲンマメ(親孝行豆=うずら豆)・アズキ(むすめきたか)・ユウガオ=カンピョウ(ゆうがお)・キュウリ(昔きゅうり)・ゴマ(黒ごま)・ネギ(いわき一本太ねぎ)・ラッカセイ(らっかせい)・ダイズ(さとまめ)・ダイズ(のりまめ)の13種。

残る1種は茨城県常陸太田市の「アズキ(娘きた)」で、これに関しては「福島県いわき市三和地区にも類似のアズキ在来種『むすめきたか』がある」と紹介していることによる。

データベースには、生産地や作物名、品種名のほかに、栽培方法や品種特性、由来・歴史、伝統的利用法、栽培・流通の現状、継承の現状、参考資料などが掲載されている。在来作物(昔野菜)を広く知るうえで大いに参考になる。

2025年2月10日月曜日

ジンメンカメムシ

                      
   『世界のふしぎな虫 おもしろい虫』(アリス館、2012年)=写真上1=は、著者が写真家の今森光彦さんだ。

出版社によれば、今井さんが写真のほかに文章を担当した。実物大の写真241点を、トンボ目・バッタ目・ナナフシ目など12目に分類して紹介している。図鑑としても貴重な1冊だという。

マレーシアやインドネシア、南米その他の国の、色や形、生態が不思議な虫や面白い虫を取り上げた。

前半では虫の「美術館」として70種の魅力を解説し、後半では虫の「宝箱」として実物大(一部縮小サイズ)の写真を掲載している。

今森さんは生まれて初めて、マレーシアで「擬態の名手たち」を見た。なかでも感動したのは、葉にそっくりのコノハムシだった。

翌年、またマレーシアへ行き、コノハムシとハナカマキリに出合う。するともう、止まらなくなった。

ということで、鮮やかな色合い、奇妙な形、予想外の行動をとる虫たちが次々に登場する。

そのなかで、表紙にも写っているジンメンカメムシに興味がわいた。夏井川渓谷にも、背中が人間の顔のような模様をしたカメムシ=写真上2=がいて、調べたことがあるからだ。そのときのブログ(2020年11月)を要約して再掲する。

――夏井川渓谷の隠居へ行くと、まずは雨戸を開ける。雨戸を戸袋にしまうころには、畳の上にカメムシがたくさん落ちている。

カメムシは雨戸の溝、座布団のすきま、衣紋掛けの服の内側、物置のゴザの内側と、至る所にもぐりこんで寒さをしのぐ。

 ある日曜日、ガラス戸の柱に1匹、細長い人面を思わせるカメムシの仲間が止まっていた。この虫は逆さに止まっているときの方が、より人面に近い。

上(虫からいうと尾)が黒い頭部、その下に黒い目がある。さらにその下、灰色に囲まれた黒い鼻、大きな黒い口。見た目の頭部と目の間が白いほかは、ふちがほんのり赤い。だまし絵を見ているようだ。

なにかで似たお面を見たような……。モジリアニがアフリカの原始的な芸術に引かれていたことを思い出す。パプアニューギニアの「戦死者のお面」などは、形状も色彩もよく似ている。

オオホシカメムシ、らしい。漢字では「大星亀虫」。普通に頭を上にして止まっていても、このカメムシは大きな口を持った人面に見える。

上から見ても、下から見ても、と、こちらは勝手にあれこれ解釈するが、そんな解釈を可能にするような「外装」はどこから、なにによって生まれたのだろう。生きものの「外装」と、人間がつくるお面の「意匠」が似通っているのは偶然か――。

 今森さんはインドネシアでジンメンカメムシと出合った。「集まっていたのは、トンジャンブブという赤い実のなる木で、逆さになって汁をすっている背中の模様が、人の顔に見えた」という。

人間の顔をまねた、というのはおこがましい。人間がまねた、とはもちろんいえない。とにかく引きつけられるデザインではある。

2025年2月8日土曜日

森の情報ネットワーク

                             
 朝日新聞に第1・第3日曜日の月2回、「グローブ」という横組みの紙面が加わる。2月2日は森の菌根菌ネットワークを取り上げていた=写真。

 先日、拙ブログでスザンヌ・シマード/三木直子訳『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』(ダイヤモンド社、2023年)を紹介した。

 シマードは菌根菌ネットワークを研究するカナダの森林生態学者で、「木々は互いに網の目のような相互依存関係のなかに存在し、地下に広がるシステムを通じてつながり合っている」ことを発見した。

「歳取った木々は若い木々を慈しみ、私たちが子どもにそうするのと同じように食べ物や水を与える。(略)古い木々は、子どもたちの母親なのだ」

母なる木=マザーツリーは「森で交わされるコミュニケーション、森の保護、森の知覚力の中心的存在」だという。

このマザーツリーは死ぬときに、「その叡智を親族に、世代から世代へ引き継ぎ、役に立つことと害になること、誰が味方で誰が敵か、つねに変化する自然の環境にどうすれば適応し、そこで生き残れるのか、といった知恵を伝えていく」。

 以上は『マザーツリー』の「はじめに」に出てくる文章だが、それだけでもシマードの研究のすごさが見えてくる。

 朝日グローブでは、記者がシマードに会い、シマードの研究成果を軸に、インドネシアや日本での造林の実例を紹介している。

 ベースになるのは「菌根共生」だろう。拙ブログでも何度か取り上げている。それをあらためて紹介する。

菌は土中のリン酸や窒素を、菌根を通して宿主である植物に供給する。宿主は光合成で得られた炭素化合物を、菌根を通じて菌に供給する。

土の中での、この「もちつもたれつの関係」は地球を覆う緑の8~9割に及ぶ。つまり、菌根が地球の緑を支えている――。

 朝日グローブの特集記事もそれを踏まえている。1ページ目の見出しは、「森は話す マザーツリーを探して」と、カナダのルポ「巨木とキノコが伝える 森を成長させる情報ネットワーク」だ。

 2~3ページでは、「熱帯の林でも再生に土中の菌類を生かす」(インドネシア)、「豊かなヒノキを生む土づくり」(日本)などの記事が続く。

 グローブは、国際化が進む中、通常紙面では伝えきれない情報を深く、詳しく伝える、という方針らしいが、地方の片隅に住む人間にはテーマが大きすぎるというか、暮らしから離れていて読み流すことが多かった。

 今回は誰にでもなじみのある森が主題で、しかも気象変動や地球温暖化と密接に関係している植物・菌類を、「つながり」をベースに紹介している。

 温暖化は、地方も中央も、国内も国外もない。人類共通の課題である。それを森のいのちの循環を介して伝えることに意義がある。資料として保存することにした。

2025年2月7日金曜日

朝の雪

                      
   2月6日未明に新聞を取り込んだときには、まだ薄暗くてわからなかった。明るくなって茶の間のカーテンを開けたら、庭と車と向かいの家の屋根がうっすら雪をかぶっていた。

今季最強の寒波が居座り、会津を中心に警報級の大雪になる可能性。6日午後6時までの24時間降雪量は、会津の山沿いで100センチ、平地で60センチ、中通りの平地で30センチ、浜通りの平地では10センチの見通し――。

現実に、家の周りには雪が積もっている。新聞が伝える大雪の情報を頭におきながら、ネットでいわきの天気予報を繰り返しチェックした。

積雪そのものは2センチほどか。庭はところどころ土が見えている。車の雪も庭ぼうきで簡単に掃けた。粉のようにさらさらしている。ということは、西から山を越えてのびてきた雪雲の仕業にちがいない。

道路の状況はどうか。小学生の集団登校が終わった7時半過ぎになると、家の影ができているところを除いて、雪は融け始めていた=写真。太陽が高くなれば道路からは雪が消えるだろう。

街へ出かけるとしても午後にしよう、勤め人ではないので。家にこもっていたら、午後に用事ができた。

 路面に雪はない。まずはよかった。同時に、いわき清苑(火葬場)がある国道6号(旧常磐バイパス)の平・菅波地内の標識が思い浮かんだ。

「凍結・積雪道路のノーマルタイヤ走行は道交法違反(福島県道路交通規則)」。冬場は毎年、ここに国土交通省平維持出張所と福島県いわき中央警察署連名の看板が立つ。

わが家で食べる卵は川内村産だ。「獏原人村」から届く。配達日は金曜日で、先週(1月31日)は朝、電話がかかってきた。「雪なので配達を休みます」

 浜通りといっても、川内村は阿武隈高地の山里だ。中通り並みに雪が降る。いわきも同じように山沿いでは雪になる。

が、大多数の市民が住んでいる平地は晴れ、ということが多い。「サンシャインいわき」と自称するゆえんだ。

阿武隈の山里で生まれ育った私には、いわきの平地の冬は雪がないだけでありがたい。

今は体力が衰えたせいか、雪がなくても冬はこたえる。が、若いころは「いわきは、春夏秋、ちょっと寒い秋」。「冬がないまち」と思っていたものだ。

平成26(2014)年2月に大雪に見舞われた。これが近年の最高記録だろう。そのときのブログが残っている。

 2月8日未明から9日早朝まで降り続いた雪は、いわきの常磐・湯本で最大28センチに達した。

「市内で記録に残る最深積雪28センチ(小名浜、大正5年1月)に匹敵し、98年ぶりの積雪となった」(いわき民報)。平地では「100年に一度」クラスの大雪だった。

さて、きょう(2月7日)は、卵が届くかどうか。届かないと困る。卵が切れたので、街で卵を買ったら、黄身がミカン色だった。好みの問題だが、私はそれにギョッとする。文字通り黄色い黄身の卵が食べたい。

2025年2月6日木曜日

休館はやはり痛い

                      
   つきあいのある書店から毎月、岩波書店のPR誌「図書」が届く。紹介されている本で読みたいものは、図書館のホームページを開いて蔵書の有無を確かめる。

貸出中、あるいは予約中でなければ、すぐ借りに行く。むろん、ときどきは書店に頼んで本を買う。

「図書」でとりわけユニークだった論考がある。地球科学が専門の「マグマ学者」、巽好幸さんが書いた「和食文化を育む世界一の変動帯、日本列島」だ(2022年2月号)。

 和食の本質に迫るには、特色ある食材がどのような自然によって育まれたのかをきちんと理解する必要がある。

それには地球上で最も震源地や火山が密集する「変動帯」日本列島で、和食を育む自然が誕生した地質学的な背景を知ることが大切だという。

巽さんは「美食地質学」の観点から、『和食はなぜ美味しい――日本列島の贈りもの』(岩波書店)という本を書いた。

図書館のホームページで検索すると、「民俗学」ではなく「地球科学」のコーナーにあった。これも新鮮な驚きだった。さっそく借りて読んだ。

師走には築地書館発行のPR誌「築地書館ニュース2025」が届いた=写真。自然科学系の本をかなり出している。

紹介されている本が図書館にあるかどうか、全部チェックした。あらかたは収蔵されている。

「動物、植物、微生物が支え合う世界を描く」本、たとえば『互恵で栄える生物界』や『森のきのこを食卓へ』『菌根の世界』『もっと菌根の世界』は既に読んでいた。『枯木ワンダーランド』は、図書館にあるのを確かめて、借りて読んだ。

築地書館ニュースがPRしている本だけでも、未読のものがかなりある。それはいずれ借りるとして、問題は図書館が2月25日まで臨時休館に入ったことだ。

いわき市内の6図書館と2台の移動図書館は情報システムでつながっている。その機器更新のために、2月3日から23日間、臨時休館に入った。ホームページでの資料検索もその間はできない。

 それを見越して、休館前に本を10冊借りたのはいいのだが……。読みたい本があって、図書館にあるかどうか確かめようとしたら、「あっ、そうだった」。休館中はホームページも利用できない。頭に入っていたはずだが、ついついふだんの癖が出た。

 新聞を読むためだけに図書館を利用する人がいる。休日、受検勉強をしに来る中・高校生がいる。

自宅にいながら、図書館のホームページ、とりわけいわきの新聞や地図、絵はがきなどを収めた「郷土資料のページ」で情報を得る人間がいる(私もそのひとり)。図書館の休館はやはり痛い。

2025年2月5日水曜日

田んぼのハクチョウ

                            
 日曜日には夏井川渓谷にある隠居へ出かける。途中、小川町・三島で夏井川と国道399号(県道小野四倉線)が接する。

そこはハクチョウの飛来地。朝の9時過ぎに通ると、多いときには200羽以上が羽を休めている。

ずっと下流、わが生活圏の夏井川(新川合流部)にもハクチョウが飛来する。もともとは平窪で越冬していたのが、上流の三島、下流の新川合流部にも分散して冬を越すようになった。

堤防を散歩していたころは、冬、ハクチョウ・ウオッチングを日課にしていた。ときどき岸辺にも立った。ドクターストップがかかった今は、車で通りすぎるときだけのウオッチャーでしかない。

新川合流部だけの「通りすがり観察」でいえば、ハクチョウは午前10時過ぎには、あらかた夏井川から姿を消す。

むろん、そうでない日もある。2月4日は昼前、新川合流部に100羽以上、下流のサケやな場(今季はすでに撤去)付近にも100羽以上が休んでいた。

先日は朝9時半ごろ、街へ行くのに堤防を通ったら、小群が飛び立ったばかりだった=写真。

別の日の昼前、夏井川河口の右岸堤防を通ると、屋敷の奥に広がる田んぼでハクチョウがえさをあさっていた。

枯れた二番穂もついばむのかどうか、気まぐれウオッチャーにはわからない。が、そこがえさ場になっていることを初めて知った。

田んぼのハクチョウは、これまで平窪や赤井、神谷のほかに、長友(四倉)方面で見ている。

沿岸部では、夏井川右岸の丘を越えた滑津川流域の田んぼでもえさをついばんでいた。そして今回は、マツ林をはさんで海岸道路と隣り合う下大越の田んぼだ。

ハクチョウたちは夏井川を往来の目安にしているのかもしれない。神谷地区では朝、ハクチョウが「コー、コー」と鳴きながら、それぞれ沿岸部と内陸部の方向に分かれて飛んでいく。

夕方はその逆で、沿岸部と内陸部から新川合流部に戻ってくる。4時半になると、堤防のそばに住むおばさんがえさをやる。その時間も頭に入っているにちがいない。

ありがたいことに、野鳥の会いわき支部から支部報が届く。今はいわきを離れた知人によると、ハクチョウは2005年1478羽、2006年1420羽と、15年ほど前は1400羽を超えていた。

ところが、最近は減少傾向にある。環境省主催の全国一斉ガン・カモ類調査が1月に行われる。

一昨年(2023年)の場合、夏井川ではコハクチョウが平窪35羽、三島255羽、塩・新川365羽の計653羽だった。

去年は、平窪85羽、三島111羽、塩・新川123羽の計319羽と、前年の半分以下だった。

考えられるのは平窪でのえさやり自粛(もうずいぶんたつ)と、暖冬で南下する個体数が減ったことかもしれない、と知人はいう。

令和元年東日本台風からの強じん化工事が続いている。それも関係していると思うのだがどうだろう。

2025年2月4日火曜日

飛行機雲が2本

                      
   1月下旬の日曜日、昼。東の空に旅客機のものらしい飛行機雲が2本、北へ進みながら長く尾を引いていた=写真。

下の飛行機雲がなぜか途中で屈曲している。そこだけ横からの気流が強いようだ。「天空の川」が可視化されたように感じて、パチリとやった。

飛行機雲が同じ方向に2本。航空路としては高度も違えば、距離も離れているのだろう。とはいえ、地上からはかなり接近しているように見えた。

空に何本も飛行機雲が残るときがある。しかし、青いキャンバスの白い線は、交差したり、離れていたりして、平行するようなことはまずない。平行もあり得るのかどうか。写真を撮ったあと、疑問がわいてきた。

平市街の西から北に阿武隈の山々が連なる。その中央、水石山の頂上に「空の灯台」がある。国交省の洋上航空路監視レーダーだ。

これとは別に、阿武隈高地の主峰・大滝根山(1192メートル)の頂上に航空自衛隊のレーダー基地がある。

昭和30(1955)年、大滝根山頂に米軍のレーダー基地ができる。翌年には航空自衛隊の部隊が移動し、3年後の同34年、米軍から航空自衛隊に施設が移管された。

「わが国に侵入する弾道ミサイルや航空機に対して、24時間態勢で警戒監視と戦闘機の要撃管制を実施している」と基地のホームページにある。

北朝鮮のICBM(大陸間弾道ミサイル)も当然、監視警戒の対象になっているということだろう。

防衛省と国交省の違いはあるが、福島の阿武隈の山には空の監視レーダーがふたつある、

東の空に伸びた2本の飛行機雲の本体は、いわき沖、つまり太平洋上を北へ向かっていた旅客機だろう、と想像したところで思考は止まり、そのまま忘れていた。

その後、アメリカで1月29日夜、首都ワシントン近郊の空港付近で旅客機と米軍ヘリが衝突した。

さらに同31日、ニューヨークとワシントンの間にあるフィラデルフィアの北東部で小型機が墜落した。

なんの関連性もないが、多数の死者が出た事故のニュースに触れて、2本の飛行機雲を思い出した。

ほかにも、大きな事故が続く。ロサンゼルスの山火事は3週間余り燃え続け、やっと鎮圧状態になった。日本では埼玉県で道路陥没事故が起きた。転落したトラックの運転手はいまだに救出されずにいる。

文明が発達すればするほど、災害や事故の規模は大きくなる。人間のミスが、それにかかわることもある――。

上空では問題がなくても、地上からは2本の飛行機雲に不安がよぎった。よけいな心配だったかもしれない。が、事故の要因はどこにでも転がっている。あらためてそのことを思った。