日本水素から日本化成、そして三菱ケミカルへ――。企業名は変わったが、昔の「日本水素」の方が私にはピンとくる。そこで時間が止まっているのだろう。
小名浜は港と漁業のまち。やがてこれに臨海型の工場が加わる。その中核をなしていたのが昭和12(1937)年発足の日本水素だ。
創業からざっと90年の歴史を持つ工場が、令和9(2027)年3月末までに製品の生産を終了するという(いわき民報)=写真。
ニュースに接して真っ先に思い浮かんだのが、叔父一家と社宅と昭和30(1955)年前後の小名浜の海だった。
阿武隈の山里から小名浜の日本水素に就職した叔父が同郷の女性と結婚し、工場の西方の社宅に住んでいた。私と同年代の娘が3人いた。
記憶している地名は弁別(べんべつ)、そして吹松(ふきまつ)。年に1回は祖母に連れられて、この社宅を訪ねた。
一家はのちに、平屋から海寄りの中層アパートに引っ越す。工場が林立する前のことで、白砂青松の海岸が東西に長く伸びていた。
ここで初めて海を見たときの驚きと恐れが、今も鮮やかによみがえる。夏のある日、従妹たちに連れられて海で水遊びをした。小学校に入るか、入ったころのことで、寄せては引く波にめまいを覚えて、つい砂浜に座り込んだ。
従妹たちはキャアキャアいいながら、波打ち際で遊んでいる。それを半分うらやましげにながめていた。
水素の工場には小名浜近辺の人ばかりか、遠く中通りからも次男、三男が勤め、社宅から工場へ通った。叔父の親友の一人は同じ阿武隈の山里の出身だった。
阿武隈の山里からバスと磐越東線のSLで平駅(現いわき駅)に着き、駅前から大型バスに乗って、湯本経由で小名浜の「水素前」で下りる。これが小名浜を訪ねるときの定番コースだった。
水素前からちょうどいい時間のバスがないときには、社宅のある弁別まで歩いた。子どもの足にはこれがきつかった。
「水素前」にいたときだから、たぶんバスを待っていたのだろう。昼間から酔っ払ったおっさんがフラフラ歩いていて、ヘドロのたまった側溝に頭から突っ込んだ。
びっくりした。が、子どもでは手助けしようもない。バタバタもがく姿が今も鮮やかだ。おっさんは周りの人に引っぱり出されたはずだ。
これはたぶん、あとになっての夏休みの記憶。小名浜の本町通りに「国華堂」という名前の店があった(と記憶する)。そこで生まれて初めてソフトクリームを食べた。やわらかくて甘かった。
三菱ケミカル、すなわち日本水素がなくなる――。従妹たちにとっては、小名浜はふるさと。が、そのシンボルは臨海工場で埋め尽くされる前の白砂青松の海に違いない。