2025年4月4日金曜日

日本水素の時代

                      
 日本水素から日本化成、そして三菱ケミカルへ――。企業名は変わったが、昔の「日本水素」の方が私にはピンとくる。そこで時間が止まっているのだろう。

 小名浜は港と漁業のまち。やがてこれに臨海型の工場が加わる。その中核をなしていたのが昭和12(1937)年発足の日本水素だ。

創業からざっと90年の歴史を持つ工場が、令和9(2027)年3月末までに製品の生産を終了するという(いわき民報)=写真。

 ニュースに接して真っ先に思い浮かんだのが、叔父一家と社宅と昭和30(1955)年前後の小名浜の海だった。

 阿武隈の山里から小名浜の日本水素に就職した叔父が同郷の女性と結婚し、工場の西方の社宅に住んでいた。私と同年代の娘が3人いた。

 記憶している地名は弁別(べんべつ)、そして吹松(ふきまつ)。年に1回は祖母に連れられて、この社宅を訪ねた。

一家はのちに、平屋から海寄りの中層アパートに引っ越す。工場が林立する前のことで、白砂青松の海岸が東西に長く伸びていた。

ここで初めて海を見たときの驚きと恐れが、今も鮮やかによみがえる。夏のある日、従妹たちに連れられて海で水遊びをした。小学校に入るか、入ったころのことで、寄せては引く波にめまいを覚えて、つい砂浜に座り込んだ。

従妹たちはキャアキャアいいながら、波打ち際で遊んでいる。それを半分うらやましげにながめていた。

水素の工場には小名浜近辺の人ばかりか、遠く中通りからも次男、三男が勤め、社宅から工場へ通った。叔父の親友の一人は同じ阿武隈の山里の出身だった。

 阿武隈の山里からバスと磐越東線のSLで平駅(現いわき駅)に着き、駅前から大型バスに乗って、湯本経由で小名浜の「水素前」で下りる。これが小名浜を訪ねるときの定番コースだった。

水素前からちょうどいい時間のバスがないときには、社宅のある弁別まで歩いた。子どもの足にはこれがきつかった。

「水素前」にいたときだから、たぶんバスを待っていたのだろう。昼間から酔っ払ったおっさんがフラフラ歩いていて、ヘドロのたまった側溝に頭から突っ込んだ。

びっくりした。が、子どもでは手助けしようもない。バタバタもがく姿が今も鮮やかだ。おっさんは周りの人に引っぱり出されたはずだ。

これはたぶん、あとになっての夏休みの記憶。小名浜の本町通りに「国華堂」という名前の店があった(と記憶する)。そこで生まれて初めてソフトクリームを食べた。やわらかくて甘かった。

三菱ケミカル、すなわち日本水素がなくなる――。従妹たちにとっては、小名浜はふるさと。が、そのシンボルは臨海工場で埋め尽くされる前の白砂青松の海に違いない。

2025年4月3日木曜日

「ゲーテ曰く」

                             
 小説の『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版、2025年)=写真=を読んでいる。23歳の若さで芥川賞を受賞した大学院生鈴木結生(ゆうい)さん=福岡市=の作品だ。

 カミサンの知り合いが「読んだから」と言って持ってきた。カミサンが本を差し出したので、飛びついた。

 鈴木さんは福岡市で生まれたが、牧師である父の転任に伴い、1歳から小学5年生まで福島県郡山市で過ごした。小学3年のときに東日本大震災に遭遇し、避難生活も経験した。

 まだ前半を読んだだけだが、特に目に留まった二つのことを紹介する。一つはトーマス・マンのゲーテ評。これにはうなった。

「あらゆることを知ろうとし、あらゆることを知らせてもらって、他人が偶然に持っている知識をわがものにしようとした……もっとも包括的な、もっとも全面的なディレッタント……総合的アマチュア」

 アマチュアかどうかはともかく、総合的な人間だったことはまちがいない。それを紹介するくだりを要約すると――。

「ファースト」の詩人、「ゲッツ」の劇作家、「ウェルテル」の小説家にとどまらない。ニュートンに反論した自然科学者、モーツアルトの天才を見抜いた音楽家、ナポレオンから握手を求められた政治家でもあった。

 私は区内会の役員として、政治家ゲーテの4行詩「市民の義務」を座右の銘にしている。

「銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。」

 この4行詩は、彼の死の直前に書かれたという。彼はヴァイマル公国の宰相として、さまざまな社会施策を実施した。

自治体の首長が「市民と行政の協働作業」をいうときに、いつもこの4行詩が思い浮かぶ。

それから、もう一つ。パスカルの有名な言葉「人間は考える葦である」にからめて、今の学生の一部は「考える葦」を「考える足」と思っている、というエピソードが紹介される。

 私は新聞記者をしていたので、「記者は『足で稼ぐ』だけではだめだ、『考える足』になれ」と自分に言い聞かせ、後輩にもそうアドバイスしてきた。むろん、パスカルの言葉のもじりではある。

記者なら現場を取材するのは当たり前。しかし、同じような交通事故でも1件1件違う。なぜ起きたかを深く考えよ――。若いときの事故取材が「考える足」を生み出すきっかけになった。

少し気取っていえば、今を直視し、過去を踏まえて未来につながる思考を深めること、でもある。

さて、『ゲーテはすべてを言った』には、ゲーテを軸に古今の名言がたくさん登場する。「ゲーテ曰(いわ)く、『ベンツよりホンダ』」。そんな現代のジョークも飛び出す。

23歳にしてこの博識、郡山時代からの膨大な読書量には、ただただ舌を巻くばかり。

2025年4月2日水曜日

電波時計

ふだんは雨戸を閉めている家がある。明かりといえば、東の窓からうっすら差し込む自然光だけだ。たんすの上に置いた電波時計が止まっていた。

カミサンがマチの時計店に持ち込むと、電池交換が不要のソーラー時計だった。光に当てるといい――と言われたそうだ。

家のテレビやノートパソコンは蛍光灯(あるいはLEDの電球)と同様、コードでコンセントとつながっている。電気かみそりも同じだ。ときどき、コンセントにつないで充電する。

パソコンのマウスや自動で停止する灯油ポンプは、電源が乾電池だ。これらの不具合は目に見えるかたちでわかる。電池を交換すればいい。その延長で、置き時計も乾電池が切れたのだろう、と思い込んでいた。

電波時計はたまたま、わが家の茶の間にもあった。電波の発信地も承知している。田村市都路町と双葉郡川内村の境界にある大鷹鳥谷(おおたかどや)山(標高793メートル)の頂上付近だ。

同山が選ばれたのには、こんな理由があった。海上保安庁の電波送信施設があったこと(GPSの普及により平成5=1993年に廃止)、その維持管理のための道路・電線・電話回線が整備されていたことなどで、平成11(1999)年には送信所の運用が始まった

正式には「おおたかどや山標準電波送信所」というらしい。西日本にも同様の標準電波送信所がある。この電波を受信することで、日本の正確な時間が刻まれていく。

いわきの北方の、とある山から「日本標準時」の電波が発信されている、と思えば、阿武隈高地で生まれ育った人間としては、なにやら誇らしい気分になる。

ソーラー式の電波時計は光によって充電できる「電池」を搭載し、時刻合わせも不要だという。

カミサンが家に持ち帰って、すぐ光に当てると時刻が復活した=写真(左は前から茶の間にあったもの、右が止まっていた時計)。

どちらも時・分・秒、日時・曜日のほかに、温度と湿度が表示される。時刻はさすがに秒単位まで同じだ。気温と湿度が微妙に違っているのは、まあ目安に過ぎない、と思えば許容範囲か。

「ソーラー式永久時計」という言葉もあるようだ。しかし、ほんとうに永久時計かどうかは、私にはわからない。この搭載「電池」も寿命が無限ということはないと思うのだが、どうだろう。

電池、たとえば単三などをまとめて買っておく人間としては、手をかけずにすむ「ソーラー電波時計」は、デジタル社会の身近な見本のように思える。

「光を、もっと光を」。芥川賞の作品を読んでいるせいか、ゲーテの最期の言葉(とされている)名言がつい思い浮かぶ。 

2025年4月1日火曜日

新年度がスタート

          
 3月が終わった。年度末は毎年あわただしい。今年(2025年)も例外ではなかった。

 わが区内会は3月最終の日曜日に総会を開くのが慣例になっている。そのための資料づくりなどが2月から続いた。

 合間に行政が主催する講演会や研修会、会議が入る。なぜだかわからないが、年度末には行事が多い。新年を迎えて少したったころから、随時、案内が届く。

 思えば、コロナ禍の数年間は各種の行事が中止になり、総会などは書面審議になって、対面でのやりとりが減った。

その意味では、正式が略式に替わり、短縮・省略が許容された。それが、今は以前のようなやり方で行われる。

長年区の役員をやっているせいか、ついコロナ禍の「前」と「後」を比較してしまう。「さなか」の略式を経験したあとだけに、「前」の流れに戻すにはかなりのエネルギーが要る。

ほかの行政区では、役員の「2年交代」がほぼ慣例として定着している。ある意味「有期」で役員から開放される。

こちらは有期の反対「無期」で地域の仕事を続けることになる。役員を有期で卒業できるなら無理もきくだろうが、新年度にも力を残しておかないといけない。

いやいや、年間を通して行事はほぼ決まっている。加齢によって体力が衰えていることを、おのずと悟ることになる。余力などはもともとないのだ。

だからこそというべきか。地元の小学校で6年生の同窓会入会式が行われたときには、子どもたちの未来に心がいやされた。やがてこの子たちが地域を支える存在になるといいな――そんな思いにもなった。

同じ小学校の卒業生ではない。が、区の役員をしているので、「当て職」で同窓会の役員に名を連ねている。

この入会式も、コロナ禍が始まった令和元年度以来、中止が続いた。その意味では6年ぶりの再開である。

昨年5月、スポーツフェスタ(運動会)に招待された。秋には学習発表会にも招かれた。そしてこの春、同窓会入会式に続いて卒業式にも臨席した。

心がいやされるのは、やはり成長する子どもたちのエネルギーをじかに感じられるからだろう。

実は、同窓会入会式の案内状=写真=が届いたとき、ふっと気持ちが軽くなるように思ったことを覚えている。

気ぜわしい中での楽しみといってもいい。地元の住民でもある「常連講師」のジョークに、久しぶりに接した。「漫談」は6年生にも大うけだった。

さて、年度末を締めくくるわが行政区の総会も3月30日に無事終了した。新年度も役員の顔触れは変わらない。が、新しい年度のスタートに合わせて、気持ちだけは1年生のつもりで頑張るとしよう。