2015年6月30日火曜日

続・歯科医の「3・11」

 元いわき市歯科医師会長中里迪彦さんから、『2011年3月11日~5月5日 いわき市の被災状況と歯科医療活動記録』(2012年刊)のコピーをいただいた=写真。ほかに、抜き刷りやパワーポイントでつくった資料なども。
 5月27日夜、いわき市文化センターでミニミニリレー講演会が開かれた。
30年余り前からの歯の主治医でもある中里さんが、「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話した。

 ミニミニリレー講演会のときとダブるが、いわきの歯科医師会は震災直後の3月15日から4月3日まで、水道が復旧した市総合保健福祉センターで救急歯科診療を続けた。警察の要請で身元不明遺体の歯の状況を記録し、他県(富山・岐阜・和歌山・大阪)チームによる避難所での巡回診療にも協力した。

 歯科医師会が遺体の歯の調査にかかわったと知ったのは、中里さんと街でバッタリ会ったとき。3・11の話になって、歯科医師会の活動を教えられた。「メディアは報じてなかったですね」「そうなんです」。講演で見た資料のひとつに「新聞・TVで報道されてこなかった」ということばが付されていたが、それは世間に活動が知られていない悔しさの表れでもあったろう。
 
 石井光太著『遺体―震災、津波の果てに』(新潮社、2011年)は、「地震と津波で亡くなった人たちが体育館などの即製遺体安置所に次々に運び込まれていたときの、その作業にかかわった関係者の聞き書きドキュメント」(松岡正剛)で、のちに西田敏行主演で映画化された。
 
 ただひたすら遺体に注目し、医師や歯科医師らにインタビューを続けた「釜石の安置所をめぐる約3週間の出来事」を描く。次はそのひとコマ。
 
「遺体はどれも濡れていたり、湿っていたりしており、艶を失った髪がべっとりと白い皮膚に貼りついている。/しゃがんで顔をのぞき込んでみると、多くの遺体の口や鼻に黒い泥がつまっていた。目蓋の隙間に砂がこびりついていることもある」(釜石医師会長の話)

 無念・無残な死の現実に、いわきの歯科医も直面した。「中里レポート」は警察からの要請と数字だけを淡々と記す。3月18日。平にある市民プールの管理棟に設置された遺体安置所で遺体の身元確認作業に協力。身元不明の遺体29体。歯科医12人が参加した――。遺体確認に関する最初の記述だ。
 
 3月29日以降は、いわき東署からの依頼が続く。巡視船が海上で遺体を収容した、という記述もある。「追記」によると、7月12日まで断続的に身元確認のための歯の調査が続いた。
 
 被災地でなにが起きたのか、どんなことがあったのか――それをできるだけ多く若い人に伝えたい、という思いで、中里さんに資料提供をお願いした。まだまだ知らない、重い現実がある。

2015年6月29日月曜日

防災士養成講座

 いやー、やっと終わったー。土・日に弁当持参で計14時間、いわき市文化センターを会場に、朝から晩まで防災士養成講座を受講した。いわき市が主催し、東北福祉大学が担当した。市内全域から91人が参加した。
 行政区単位で自主防災会が組織されている。わが区では区の役員が自主防災会の役員を兼ねる。3月下旬、市危機管理課から防災士養成講座の案内が届いた。若い人を――と思ったが、該当者がいない。最後は知らない世界をのぞいてみるのもいいかと、頭を切り替えて応募した。自助・共助・公助のうち、自助・共助の「地域の防災力」を高めるのが狙いだという。
 
 1カ月ほど前に分厚い教本が届いた。開講前にその要約版・履修確認レポートを読んで「解答シート」を提出すること、というので、先週は一夜漬けレベルの勉強に明け暮れた。先々週の金曜日(6月19日)には3時間の普通救命講習も体験した。

 講座2日目、日曜日の最後の時限には30問3択のテストがある。3分の2強の21問正解なら合格だとか。時間内に問題・解答用紙、結果を知らせる封筒を提出して退出してもいいというので、制限60分の半分、6時過ぎには自由の身になった。
 
 いつもの日曜日なら、とっくにカツオの刺し身をつついている時間だ。テストが終わって、魚屋に直行しても7時すぎになる。店は閉まっているだろう。夕方、カミサンが電話をして頼んでおけば、シャッターが下りていても、カツ刺しは手に入る。そう“打ち合わせ”をして、家を出た。

 テストが始まる前の休み時間に、カミサンに電話をして確かめる。「注文をした。店を閉めたあとに届けてくれるって」「おお、そうか」。帰宅すればすぐ、カツ刺しをつつくことができる。がぜん、集中してテストに臨んだ。

 2日間にわたって、「近年の自然災害」「ハザードマップ」「災害情報と報道」「災害医療」「地震のしくみ」「津波のしくみ」などを学んだ。「避難所開設」の演習もした=写真。

「災害情報と報道」は、東北限定「被災地からの声」のキャスターでもあるNHK仙台放送局・津田喜章アナウンサーが担当した。東日本大震災のテレビ報道を、NHK放送文化研究所が調査・分析した。そのデータに基づいて、大手メディアは「被災地発全国へ」はできても「被災地発被災地へ」は苦手と語った。つまり、被災者の役には立たなかった。元・地域メディアの人間として共感できた。

 開講式で東北福祉大の教授があいさつした。「(学生時代の)難行苦行から離れて久しいのではないかと……」と受講者をおもんぱかった。ふだんは昼寝を欠かさない「年寄り半日仕事」の身だ。昼休みを除く一日7時限の座学は“ごうもん”そのもの。昼休みに“つっぷし寝”を試みたができなかった。それは体のやわらかい現役学生だけの特権なのだと知った。

 予定より早く帰宅したら、カツ刺しはまだ届いていなかった。すぐ魚屋へ駆けつけた。2枚あるシャッターの半分が降りていた。カツ刺しはすでに新聞紙にくるまれていた。今から届けるところだったという。“ごうもん”から解放された身には、いつにもましてカツ刺しがうまかった。

2015年6月28日日曜日

復興公営住宅

 近所の「みなし仮設住宅」(借家)に入居していたおばあさん(Kさん)が、福島県が建設した小名浜の復興公営住宅=写真=に引っ越した。
 双葉郡から会津若松へ原発避難をして半年後、つまり4年弱前の2011年秋。仮住まいのアパートの騒音と夏の暑さに耐えきれず、やがて来る冬の雪にも恐れをなして、ふるさとに近いいわき市へ引っ越してきた。80歳だった。
 
 カミサンが米屋をやっている。米のほかに塩や醤油その他の雑貨を売っている。店の一角に、移動図書館から借りた図書を住民に貸し出す地域文庫がある。奥さんたちが茶飲み話をする交流スペースにもなっている。というわけで、Kさんもやがて、毎日、わが家の文庫へ顔を出すようになった。

 ほかにときどき、楢葉町から避難して来た女性、今は広野町に帰還した女性なども立ち寄る。茶飲み話の内容が年を追って変わってきた。「夫が引きこもったまま」「戻った当初は誰もいなくて怖かったが、今は地元で除染の仕事をしている」。明暗・悲喜の両極化が進みつつある。
 
 Kさんの場合はどうか。胸の内をカミサンに明かすようになり、いろいろ考えた末の答えが小名浜にできた復興公営住宅への入居だったようだ。

 さきおととい(6月25日)の夕方、小名浜の鹿島街道沿いの大型店へ出かけた。カミサンが買いたいものがあるというので、いつものように運転手を務めた。同じ道はできるだけ通りたくない、帰り道は海岸の道路で――と決めていた。すると突然、Kさんの新居に寄って行こうと、カミサンが言いだした。

 場所はわかっている。発災直後、国内で初めて緊急救援活動に入り、今もいわきで被災者・避難者の支援活動を続けているNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」が、一時借り上げ住宅入居者などへの生活支援プロジェクト(調理器具セット配布)を実施した。そのとき、小名浜の雇用促進住宅まで手伝いに行ったことがある。そのそばに建設された。隣にスーパー「マルト」がある。

 何号棟の何号室、などという詳しいことは、カミサンも聞いていなかった。1階の表示を見て訪ねたら、Kさんがいた。4階の部屋から海が見える。海風も入ってくる。涼しすぎるので戸は閉めているという。

 同じ町の人が入居しているとはいえ、知り合いはいない。隣の棟にいとこがいる。毎日会っているのでさびしくはない、というので一安心する。お茶とさくらんぼをごちそうになってから、変容する永崎~江名~豊間~薄磯の沿岸部を通って帰宅した。
 
 ふるさとまですぐなのに、帰還はかなわない。ふるさとの土と友達と思い出と、土に眠る親たちと切り離されて、もう4年余。糸の切れた凧のように、知っている人の少ない土地でふわふわしている。「存在の耐えられない軽さ」を生きている――車を運転しながら、賠償金では満たされないKさんの内面を想像してみた。

2015年6月27日土曜日

橋の補強工事

 いちいち数えなかったが、夏井川渓谷の県道小野四倉線に架かる橋の補強工事が何カ所かで行われる。渓谷に入る直前の夏井川の支流・加路川の橋でも同じ工事が行われる。最近、橋のたもとに渓谷に立ったのと同じ間伐材利用の標識が立った=写真。
 標識には「ご迷惑をおかけします/地震に強い橋にしています/平成27年12月15日まで 時間帯8:00~17:00/橋梁補強工事」とあって、発注者の県いわき建設事務所と施工者の企業の名前が書かれていた。

 大津波に襲われた豊間や薄磯では大々的な工事が進行中だ。「高台移転」のために元の集落の裏山が削られ、その切り土が目の前にある海岸の「防災緑地」の盛り土として利用される。行くたびに景観が変わっている。
 
 それに比べたら、山間部の橋の補強工事などはかわいいものだ。3・11のときにも、1カ月後の4・11、12と2日続いた巨大余震のときにも、渓谷の橋が通行禁止になるようなことはなかった。震災から5年目。ようやく細かいところまで補強の手が伸びるようになった、ということか。
 
 夏井川渓谷はV字が深い。落石が絶えない。岩盤が至る所で露出している。風化してもろくなっているところも多い。
 
 3・11では落石のためにしばらく通行止めになった。落石現場は、ロックシェッドから上流へ100メートルほど行ったところ。崖を覆っているワイヤネットが落石を受け止めて膨らんだ。落石が除去されたあとも通行止めが解除されなかったため、渓谷に点在する小集落の住民は自己責任で通行していた。
 
 ロックシェッドも崩落土砂と岩石を受け止めた。ここでも補修工事が行われるらしい。
 
 そういうきびしい地形のところだから、急傾斜を下ってきた支流は急流、あるいは滝となって本流に注ぐ。橋の長さは短くても水面からは高い。平地の橋のようなわけにはいかない。施工者は聞いたことのない企業だったので、検索したら、橋の補修・補強については特に長年の実績があることをPRしていた。
 
 JRの鉄橋も加えると、橋のかたちは断然、渓谷の方がおもしろい。吊り橋もある。橋ではないが、支流には鉄のはしごを渡したようなスリリングな通路もある。補強工事もスリリングなものになるのだろうか。

2015年6月26日金曜日

八重のドクダミ

 いわき市小川町の知人の家を訪ねたときのこと――。家の南側は落葉樹と山野草とで小さな林になっていた。西洋風のガーデンにすることもできたのだろうが、日本の里山をそっくり持ってきたような風情だ。「山野草が好きなので」。自宅のそばで介護施設を運営している知人がいう。
 キキョウが咲いている。ホタルブクロも庭のあちこちに咲いている。植えたのが繁殖したのだろう。山野草にはそういうたくましいものが結構ある。
 
 わが家の庭のホトトギス、ユキノシタ、ドクダミがそうだ。ミョウガも、野菜というよりは山菜、あるいはハーブの一種だろう。地下茎で増える。ほっといても毎年、春には芽を出し(食材のミョウガタケになる)、月遅れ盆の前後からミョウガの子(これも食材)が現れる。ドクダミも、陰干しをして煎じると「どくだみ茶」になる。
 
 ドクダミは、白い“十字花”だが、花弁のようなものは、ほんとうは総苞(そうほう)だ。小さな花が真ん中に密集している。ところが、知人の庭のドクダミは、十字どころか“八重咲き”だった=写真。「八重の桜」があるように「八重のドクダミ」があった。初めて見た。
 
 いつもの年なら、東北地方も梅雨に入っている(東北南部の梅雨入りは、ならすと6月12日ごろ。梅雨明けは7月25日ごろ)。いわき地方は北関東と同じ気象だから、実質的には梅雨入りをしたようなものだが、気象庁のお墨付きがない。どこの家の庭だったか、そしてどこの通りだったか、ネジバナもネムノキも咲きだしていた。ネムは、定点観測では7月初旬の花だ。
 
 それはそれとして、知人の庭に立ったとき、私の頭のなかが花でいっぱいになった。めでたく頭に花が咲いた。

2015年6月25日木曜日

ひざ頭が痛い

 いわき市消防本部と平消防署の同居する消防庁舎が、国道6号・正内町交差点の角にある。東日本大震災では市の本庁舎が被災したため、最初の月だけ消防本部に市の災害対策本部が置かれた。
 この消防庁舎の前をちょくちょく通る。先日たまたま、はしご車を出して点検しているところに出くわした=写真。ふだんはチラリと見るだけで、中に入るようなことはない。震災をはさんで行政区と自主防災会の役員になってから、少し縁ができた。
 
 去年(2014年)1月には同庁舎で自主防災会のリーダー研修会が開かれた。119番を受ける通信指令センターも初めて窓ガラス越しに見学した。
 
 その1年前、留学生の防災訓練と生活体験=ホームビジット(短時間訪問)が行われた。ネパールからの留学生を受け入れた。同庁舎で対面した。これは自主防災会とは関係がない。市国際交流協会からの協力要請があって出かけた。

 そして先週の金曜日(6月19日)午後、普通救命講習会が同庁舎で行われた。みっちり3時間、胸骨圧迫(心臓マッサージ)などを実習した。

 今度の土・日曜日、朝から晩まで防災士養成講座が開かれる。終わりに資格取得試験が実施される。分厚い教本が送られてきた。予習をしておけということだろうが、なかなかその時間がとれない。それでも、開講前には履修確認レポートを提出しないといけない。普通救命講習会も受ける必要がある。で、1週間前に3時間の実習を受けた、というわけだ。

「応急手当WEB講習」がある。“ネット座学”だ。ためしに自宅で動画を見た。それを実地に学ぶのが普通救命講習だが、これがけっこうきつかった。

 人形を相手に、胸骨圧迫を30回続けて2回人工呼吸をする、それを何セットか繰り返す。さらに、もう一人と一緒になって自動体外式除細動器(AED)を使って心肺を蘇生させる。胸骨圧迫を繰り返しているうちに息が切れ、圧迫する力も弱まった。これで倒れた人の心臓を“再起動”させられるのだろうか。

 翌日からしばらくひざ頭が痛かった。胸骨圧迫をする際、ひざ頭を床にくっつけて体重をのせる。それだけで痛みがたまったようだ。バイスタンダー(救急現場にいあわせた人)になるには体力が要る。「ペンしか持たない非力な人間」ではすまされない。それを実感しただけでもよしとしよう。

2015年6月24日水曜日

高田梅とフサスグリ

 6月22日は夏至だった。やがて真夏にはマニラ並みの暑さになる。同時に、昼の時間が日を追って短くなる。冬至が「一陽来復」なら、夏至は「一陰来復」だ。
 庭のプラムの木にあおい実がいっぱい生(な)った。今年も摘果を忘れた。10日ほど前、誕生日プレゼントを口実に孫を呼び寄せ、庭で少し遊んだとき、下の子が赤くなったプラムの実を見つけた。それで「生り年」だとわかった。東日本大震災の前だったら、喜んで赤い実を食べさせた。今はジイ・バアしか食べない。

 夏井川渓谷の隠居にも果樹がある。プラムの仲間のプルーンの木が3本。こちらはなぜかいっこうに実をつけない。高田梅の木は2本あったが、全面除染のときに、倒伏してかろうじて生き残っていた1本が除去された。カリカリの梅漬け、あるいは梅ジャムをつくるときには5月末~6月上旬にあおい実を摘む。3・11後はこれもおざなりになった。

 今年もタイミングを逃したら、黄色く熟しはじめた。夏至の前日、日曜日(6月21日)。三春ネギを定植する合間に梅もぎりをした。思ったより数が少なかった。その場でかじると、酸味のなかにほんのり甘みが感じられた。

 10年以上前のことだが、隠居の風呂場の前のカリンの木の根元にフサスグリの苗木を植えた。毎年、夏至のころ、赤く小さな実をつける=写真。こちらも手でこそげとって食べた。甘かった。

 先日、フェイスブックにフランス料理の萩春朋シェフがグーズベリー(グズベリー)の写真をアップしていた。阿武隈の山里で暮らしていた子どものころ、近所の店にそのあおい実が売られていた。それ、ではないか。「イッサ」といった。酸っぱかった。母親の実家の家の庭にもイッサがあった。木にはトゲがあったのを覚えている。
 
 イッサは、西洋ではグーズベリー(グズベリー)というのか。フサスグリに比べると粒が大きい。梅干しと同じで、イッサのあおい実を思い出すだけで、あごのあたりから唾液がしみだす。イッサは、ほんとうはなに? 夏至のころになると決まって浮上する疑問がやっと解けた。
 
 高田梅は、ジャムにするほどの量はない。生食するにしても、ただガブリとやっただけでは酸味がきつい。すりおろし、あるいは細かく刻んでサラダに加え、ドレッシングとの相性をみた。同じように、スライスしたものをマヨネーズにつけたり、ヨーグルトにからめたりした。ヨーグルトが酸味をほどよく包んでくれるようだ。
 
 ほんとうはフサスグリも、高田梅も、プラムも孫に食べさせたい。甘い・酸っぱい、を体で感じさせたい。未来を生きる子どもの記憶を豊かなものにしたい――と念じているのだが……。もどかしい。

2015年6月23日火曜日

“ネギ定食”

 勤勉な人の家庭菜園では、もう夏野菜の収穫が始まったことだろう。二十日大根(ラディッシュ)やカブは二巡目に入ったかもしれない。キヌサヤエンドウは終わりのころ、キュウリ・ミニトマト・大葉(アオジソ)は走りから旬、といったところか。
 夏井川渓谷の隠居で“週末菜園”を始めてから20年弱になる。4年前には東日本大震災に伴う原発事故で大地が汚染された。隠居の庭が全面除染の対象になり、2013年師走、表土が5センチほどはぎとられた。4畳半2間くらいの菜園が、それで消えた。あとに山砂が敷き詰められた。

 翌年春、つまり去年、カブと二十日大根(ラディッシュ)の種まきから家庭菜園を再開した。三春ネギ以外は足踏み状態の4年だった。月遅れ盆のあとには辛み大根の種をまき、10月に入ると、冷蔵庫に眠っていた三春ネギの種をまいた。こちらは前年の残り種だから、発芽率は落ちると思ったが、苗床がまばらになるようなことはなかった。

 辛み大根は半分を越冬させ、1カ月前と日曜日のおととい(6月21日)の2回に分けて、種の眠るさやを収穫した。同時に、三春ネギの苗を掘り起こし、溝を切ってネギ苗約150本を定植した=写真。育ちが悪かったので、いつもの年よりはずいぶん遅い作業になった。手前にはこぼれ種から芽生えた赤ジソが葉を広げている。

 と書くと、簡単に定植ができたように聞こえるが、朝9時に隠居で食事をとり、午後1時に昼食をとって昼寝をしたあと、午後3時すぎまで黙々と庭で作業をした。正味5時間の土いじりだ。今年、いやこの4年間で初めての長丁場だ。溝切り・苗の選別・定植と体を丸めての作業が続いたために、立ち上がるたびに腰が悲鳴を上げた。

 若いころ、腰の曲がったじいさん・ばあさんを見て、<ああはなりたくないな>と思っていたものだが、この年になるとなぜそうなるのかがわかったような気がする。曲げていないと腰が痛い人もいるのだろう。痛みを抑えるために前かがみになって歩くと、「年寄りみたい」とカミサンが笑った。言い返せないのがつらい。
 
 きのう、あるところで「ネギを定植して腰が痛い」というと、若い女性が「ネギの定食?」と首をかしげた。そう、ネギの定食でもある。
 
 定植するためにネギ苗を選別したが、9割は未熟で畑の肥やしになった。そのなかからやや太めの“芽ネギ”を持ち帰った。みそ汁、たまご焼き、納豆の具に使う。しかし、楊枝から稲わらほどの太さだから、味は薄い。ほかに食べ方は? サラダにどうか、シソ入り油味噌をからめたらどうか――うまい食べ方を模索しての“ネギ定食”がしばらく続く。

2015年6月22日月曜日

父の日

 きのう(6月21日)は6月第3日曜日。「父の日」でもある。朝、期待しないこと――と自分に言い聞かせて、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。午後3時過ぎまで、昼寝をはさみながら土いじりをした。街へ下りて来て、交流スペース「ぶらっと」に顔を出したあと、いつもの魚屋さんへ直行してから帰宅した。 
 玄関前に、瓶専用の細長いレジ袋に入ったものが置いてあった。包装をとると焼酎の瓶が現れた。疑似孫と親と一家4人からの恒例の「父の日」プレゼントだった。
 
 そこへ息子から電話がかかってきた。「宅配便の『不在連絡票』があるはず、紙に書いてある番号に電話して」。おや、久しぶりに息子からも「父の日」のプレゼントが――と一瞬、思ったが……。なんのことはない。先日、息子に頼んで買ったデジカメの付属品だった。前も今度も代引きだ。合計で8万円ほどだろうか。
 
 日中の、カミサンとの会話。「『父の日』のプレゼントはないんだから、カメラを『父の日』のプレゼントと思えば……」。自分のカネで買ったものが、なんで「父の日」のプレゼントになるの?
 
 カツオの刺し身についても、同じような“すりかえ”がおきた。魚屋の若だんなと雑談しているうちに「父の日」の話になった。プレゼントは期待しないことにしていると言ったら、“カツ刺し”が「父の日」のプレゼントにみなされてしまった。「きょうのはうまいですよ」。日曜日にいつも買って食べているものが……。ま、いいか。
 
 カツ刺しのそばに贈られた「銀座のすずめ琥珀」を飾り=写真、「田苑ゴールド」をちびりちびりやる。「黒じょか」が空になると、なんとしても「銀座のすずめ琥珀」の味を確かめたくなった。さかずきで3杯を舌にころがした。焼酎なのに焼酎を超えた、しゃれた味だった。
 
 疑似孫の母親にお礼の電話を入れると、夕方、上の子と2人で、留守を承知で訪ねたという。カミサンとの話のなかで、一家がわが家へやって来てカレーを食べる日が決まった。うれしい「祖父(ぢぢ)の日」、いや「父の日」になった。

2015年6月21日日曜日

漏水止まる

 1週間前の6月14日朝、わが家の裏の義弟の家の前に水たまりができていた。漏水だ。「水道のホームドクター」に電話をすると、長崎にいた。経営する会社の慰安旅行中だった。ではと、水道局経由で管工事業協同組合に電話をかけ、業者を紹介されたが、日曜日でつながらない。「チョロチョロなら月曜日に連絡するしかない」と別の義弟がいうので、そうした。そのてんまつ記――。
 同級生でもある「水道のホームドクター」が、月曜日に来て現場を見た。量水器ボックスの手前で漏水しているから、これは水道局の責任で直すようになる。水道局に連絡するが、直しに来る業者はどこになるかわからない――ということだった。

 結果的には、同級生の会社が水道局の指名を受けて直しに来た。その間、一度、水道局に電話をした。「水たまりが少しずつ広がっている」「資材などの準備ができれば行くと思います」

 毎朝、5時前後に起きるとパジャマのまま表に出て漏水の状況を見る。東隣の家の迷惑になっていないか、気になるからだ。雨上がりの金曜日(6月19日)、早朝5時40分すぎ。未明の雨と漏水とで水たまりが広がった様子を写真に撮っていると、同級生が現れた。

 彼の会社は平の街なかにある。住宅兼事務所の生家で、自分の家は私の家より少し東に行った新興団地にある。つまり、毎朝晩、わが家の前を通る。朝の6時前後には会社に着いている、夜はだから9時には寝ると、前に聞いたことがある。実際に6時前に現れたのを見て、あらためて出社時間の早さに驚いた。冬だったら真っ暗ではないか。

 私の姿を見たので寄ったという。きょう、バックホーを持ってくるという。この日は朝から夕方まで、出ずっぱりだった。朝、出かける前に職人さんが2人やって来た。同級生も来た。すぐ工事が始まった=写真。夕方帰宅すると、漏水は止まっていた。

 量水器ボックスから3メートルほど手前の内寄りのところに、刈り草と土に埋もれて止水栓があった。止水栓と量水器をつなぐ管から水が漏れていた。その家ができたのはざっと50年前だろうか。前住者がいなくなったので、義父が買い取った。水道管も家とともに年をとったわけだ。

 道路から15メートルほどのびている細い“私道”は、吐き出された泥水と雨とで泥んこになった。車で出入りするたびに、タイヤにべったり泥がつく。道路に出ると数秒は泥をはねる音がする。路面に泥が残る。奥の家の車もタイヤに泥がついていた。ご寛恕(かんじょ)を!
 
 いわき市は、気候的には北関東と同じだ。実質的にはもう梅雨に入ったようなものだろう。雨のたびにタイヤが泥まみれ――という日がしばらく続く。
 
 きょう(6月21日)はこれから夏井川渓谷の隠居へ出かける。着いたら、タイヤの泥を洗い流そう。家に戻ればまた泥がつくとはいえ、泥タイヤのままで街なかを走ったり、駐車場に入れたりするのは恥ずかしいから。

2015年6月20日土曜日

いわきの最初の震災詠

 新聞に、定期的に読者の俳句や短歌が載る。朝日の場合は月曜日の「朝日俳壇」「朝日歌壇」だ。
 東日本大震災が起きた直後の2011年3月28日付「朝日歌壇」に、<二日目につながりて聞く母の声闇の一夜をしきりに語る><陸地へとあまたの船を押し上げし津波の上を海鳥惑う><原発という声きけば思わるる市井の科学者高木仁三郎>などの震災詠が載った。それはしかし、被災地から離れた土地に住む人たちの作品だった。

 被災者当人の作品が載るのはざっと1カ月後。それからさらに1カ月後の5月16日、いわき市在住読者の俳句<被災地に花人のなき愁いかな>と、短歌<ペットボトルの残り少なき水をもて位牌洗ひぬ瓦礫(がれき)の中に>が目に留まった。
 
 電話やテレビだけでなく、実際に見聞きし、体験したことが考えを深めるうえで大事になる。マスメディアが伝えきれない、一人ひとりの被災者の内面を知る手がかりとして俳句や短歌がある――そんなことを、毎年、若い人に話している。その一例として上掲の作品を紹介する。
 
 なぜ5年目に入った今、それを? 話は日曜日(6月14日)のアリオスパークフェス=写真=にさかのぼる。シャプラニール=市民による海外協力の会が扱っているフェアトレード商品のPRと販売を兼ねて、今年初めてカミサンがシャプラのいわき駐在員らの協力を得て出店した。
 
 来場した高校の同級生をカミサンが見つけた。30年ぶりの再会だった。その延長でゆうべ(6月19日)、家に電話がかかってきた。長い話になった。俳句や短歌のことも話題に上ったようだった。
 
 あとでカミサンがいうには、同級生は俳句を詠む。が、震災直後は短歌を詠んだ。今はまた俳句に戻っている。最初の短歌作品<ペットボトルの……>を「朝日歌壇」に投稿したら、複数の選者が選んだ。年間の優秀作品に贈られる「歌壇賞」にも選ばれた――というから、驚いた。
 
 それ、知ってるぞ、切り抜いておいたもの――。それから、冒頭のような話をし、私がつくった資料を見せた。すると、今度はカミサンが同級生に電話をして、当時の一人の読者の“反応”を伝えたようだった。
 
 この歌に対する選者の評。「小名浜の人、仏壇にあった位牌を瓦礫の中から拾い上げた。飲み水も乏しい中でペットボトルの水で洗う。絆への切実な思いが伝わる」(馬場あき子)
 
 自分自身の体験ではなく、大津波で壊滅的な被害を受けた豊間方面へ出かけたときの実景を詠んだそうだ。3・11の巨大地震は東北地方の沿岸部に甚大な被害をもたらした。その惨状は五七五では詠みきれない、どうしてもプラス七七がほしいと、無意識のうちにそう思ったから短歌になったのかどうか。一度お会いして話を聞いてみたくなった。

2015年6月19日金曜日

レンズが壊れた

 もう10日以上前のことだ。シャプラニール=市民による海外協力の会が主催した「被災地訪問ツアー みんなでいわき!」の初日、デジカメでパチパチやっているうちにレンズがおかしくなった。ズームが利かない。途中から手で焦点を合わせて撮るしかなくなった。
 後日、息子に見せたらレンズが壊れているという。レンズを振ると、中でカシャカシャ音がする。

 会社を辞めて“自由業”になったとき、息子にみつくろってもらって買ったのがニコンD300だった。その前はD70を使っていた。7年もパチパチやっているのだから、買い替え時期だともいう。それに、何度も落っことしたり、ぶつけたりしたので、傷だらけだ。

 また息子を介して新しいデジカメを買うことにした。そのカメラが来るまで、D70のレンズを使うしかない。手動に切り替えて焦点を合わせると、接写に近い写真が撮れる。これが、けっこうおもしろい。

 日曜日(6月14日)、夏井川渓谷の隠居で草むしりをした。地下ではアリの巣が縦横につながっている。土ごと草の根を引っこ抜くと、急に明るくなったためにアリたちがパニックを起こしたらしい。玄米に似た黄土色の繭(まゆ)をはさんで右往左往している。白い卵をはさんで動き回っているものもいる。急いでカメラを取りに行き、手でピントを合わせて撮影した=写真。

 別の場所では、長いアリの行列ができていた。こちらは寝っころがればピントを合わせやすいのだが、服が砂まみれになるのが嫌で、かがんでカメラだけを近づけた。すべてピンボケだった。
 
 街場のわが家のことだが、3年前のちょうど今ごろ、家のへりを一周するように長いアリの行列ができた。この時期(6月中旬)に決まってそうした行列ができるのだろうか。カメラが手の一部になったような感覚があるからこそ見える、小さないきものたちの世界、疑問・不思議だ。

 新しいデジカメが間もなく届く。晩酌中に値段をいうと、即座に「海外旅行はヤメね!」。カミサンの声が、左の耳から入って右の耳から抜けた

2015年6月18日木曜日

ガリ版刷り詩集『秋の通信』

「日本古書通信」で廣畑研二さんという人の連載<幻の詩誌 『南方詩人』目次細目>が始まった。たまたま日本古書通信社の編集者から5、6月号が送られてきて、興味深く読んだ。『南方詩人』は昭和初期、鹿児島で発行された詩誌で、廣畑さんが全10輯(しゅう)の目次細目を作成した。5月号から順を追って紹介している。
 第9輯は猪狩満直(1898~1938年)の詩集『移住民』記念号、第10輯は黄瀛(こうえい=1906~2005年)の詩集『景星』記念号だそうだ。満直はいわき市生まれ、黄瀛は日本人の血を引く中国人で、ともに草野心平とは無二の親友だった。

 満直の名前に出くわしたとき、先日、手にした詩集『秋の通信』が頭をよぎった。ネット古書店を営む若い仲間が、市内から出てきた、といって、満直36歳のときの詩集を持ってきた。

 山村暮鳥の詩「友らをおもふ」が載った、大正13(1924)年1月15日発行の磐城平の同人誌「みみづく」を発掘したのも彼だ。「みみづく」と同じように、震災のダンシャリで出てきたのだろうか。

『秋の通信』は『猪狩満直全集』(猪狩満直全集刊行委員会、1986年)に収録されている=写真。それによると、昭和9(1934)年2月1日、北緯五十度社から刊行された。大きさは縦16.8センチ、横12.5センチ。新書をやや横長にした感じ。表紙以外はガリ版印刷だ。発行者は日本の近代詩史に欠かせない更科源蔵、同じく印刷者は真壁仁で、ともに跋文(あとがき)も書いている。

 大正13年の「みみづく」は 群馬県立土屋文明記念文学館が昨年開催した、暮鳥生誕130年を記念する企画展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」に展示された。そのあと、しばらく私が預かっていたが、今は草野心平記念文学館に収蔵されているらしい。

「みみづく」のときと違って、『秋の通信』は見せただけで持ち帰った。81年前の、しかもガリ版刷り詩集である。稀覯(きこう))本である。後日、彼が来ていうには、古書市場ではけっこうな値段で取引される物件らしい。しかも、思っていたよりゼロが一つ多い。まさに掘り出し物だ。文学館もこれではなかなか手が出ないだろう。といって、市外流出だけは避けたい。

『秋の通信』を出したとき、満直は内郷の小島に住んでいた。以後、長野へ働きに出かけ、実家へ戻って義父と和解し、40歳で亡くなるまで、詩らしい詩は書いていない。「(行き先が)決まるまで神谷(かべや)に預けるかな」「おー、持って来い」。じっくり調べる楽しみができたものの、現物はまだ届かない。

2015年6月17日水曜日

「日本古書通信」が届く

「日本古書通信」=写真=2015年6月号に、いわき地域学會相談役で前いわき市文化財保護審議会長の小野一雄さんが「『平読書クラブ』と私――永山美明さんを偲んで」と題する追悼文を寄せた。その前の5月号には、同誌編集部の折付桂子さんが「ふたつの震災と古書業界」と題して、神戸と東北の古書店の様子を伝えている。そのルポにも「平読書クラブ」の“今”が載る。
 まずは、小野さんの追悼文から――。小野さんが初めて永山さんの経営する古本屋「平読書クラブ」の敷居をまたいだのは、小名浜の中学校を卒業して、平の磐城高校へ通うようになってすぐの昭和36(1961)年春だ。私が同じように店に顔を出すようになったのは同41年、阿武隈の山里から夏井川を下って平高専(現福島高専)に入ってから3年目、18歳のころだった。

 小野さんはだんだんと「地元磐城」にかかわる出版物や古い資料などに目を向けるようになる。オヤジさんがそれに気づいたあとの、2人の交流が記される。当時、文学にしか興味のなかった私と違って、オヤジさんは小野さんと“真剣勝負”のやりとりをしていた。

「資料は死蔵していてはダメ。それを基に小文でもいいから書いて発表しておきなさい。そうしないと、苦労して集めても単なる収集家、骨董趣味と同じで、研究者とは言えないから」「君が書いた文章を読んで関心を持ち、あとに続く人たちが現れることも期待されるのだから」

 私はやがて3軒隣の地域新聞社に勤め、午後2時すぎの昼休みに、息抜きを兼ねて雑談に立ち寄るだけの関係にとどまった。(永山さんはやがて別の場所にビルを建てて店を移転した)

 折付さんは震災から1年後の平成24(2012)年3月、いわきの若い古本屋に伴われてわが家へやって来た。以来、震災ルポのたびに同誌の恵贈にあずかる。今回のルポでは宮城、福島の古書業界の現状を紹介している。浜通りの厳しい現実を肌で感じるため、仙台~名取~いわきとJR常磐線と代行バスを利用して国道6号を南下した。

 そのルポに、オヤジさんが亡くなったあと、ネット販売で「平読書クラブ」を継続している奥さんの談話が載る。

「引揚者同士、鍋釜も揃わない結婚で紙屑屋の女房と言われたこともありましたが、ずっと一緒に仕事をしていていろんな本をいっぱい見て、普通の女性では味わえない楽しみが沢山ありました。(略)主人のようには無理ですが、思いだけは継いでゆきたい」

 実は、折付さんから先週末に5、6月号が届き、小野さんからもきのう(6月16日)、6月号が届いた。同じ日、街へ用事があった帰りに車で平読書クラブの前を通ったら、奥の自宅から通りへと奥さんが出てくるところだった。お元気そうだった。

 ついでながら、新聞や雑誌の面白いところは、思わぬ“発見”があることだ。今度の「日本古書通信」では、5月号から連載の始まった「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」に目が止まった。いわきの猪狩満直や草野心平が出てくる。あしたは、その満直にからんだ話を――。

2015年6月16日火曜日

年金受給日

 6月15日、月曜日。新聞は休み。NHKが朝のニュースで、この日が2カ月に一度の年金受給日であることを告げた。忘れていた。
 偶数月の15日に年金が振り込まれる。その日に銀行へ行ったことはまずない。が、今回は「月曜日にカネを下ろして来て」とカミサンに言われていた。月曜日が、たまたま年金の振り込まれる日と重なった。

「年金の個人情報流出が発覚して初めての年金支給日を迎えた。厚労省などは、自分の口座を確認してほしい、年金が振り込まれなかったり、予定の金額と違ったりしていたら、専用ダイヤルなどに連絡を」とテレビが言う=写真。“取材”を兼ねて午前10すぎに銀行へ出かけた。

 いわき駅前に3つの銀行支店がある。南北の大通りと東西に延びる本町通りが交差する角に2店舗、ひとつ西側の道路と本町通りが交差する角に1店舗。パリのように街角にしゃれたカフェがあるマチを――と夢想するのだが、現実には経済優先の店が占める

 午前10時すぎの本町通りは、ふだんは車も人も少ない。ところが、銀行に近い駐車場の入り口付近でいつものように信号待ちの車が並び、そこへ駐車場に右折しようという対向車両の列ができて、流れが滞っていた。銀行そばにはタクシーがハザードランプを点滅させて待機している。客は口座の確認を兼ねて年金を受け取りに来たお年寄りにちがいない。
 
 わが“メーンバンク”もその時間帯、通常よりは人が多いように感じられた。地下駐車場もふだんはがら空きだが、けっこうふさがっていた。シルバーマークの車があった。おばあさんが助手席におじいさんを乗せて、方向転換をするのに苦戦していた。
 
 昨年度(2014年度)より受給額は減っている。先日、その通知がきた。当面の生活費を下ろし、通帳に記帳された年金額を確かめると、予定通りの金額だった。
 
 にしても、情けなくて、ばかばかしくて、腹立たしい。日本年金機構の職員にはがけっぷちに立って仕事をしているという意識がないのだろうか。
 
 第一、「年金支給」ということばが気にいらない。基本的には前に預けていたものを、リタイア後に受け取っているだけだから、主役は「支給する」年金機構ではなくて、「受給する」市民だろう。「年金支給日」ではなくて「年金受給日」だろう――などと、頭のなかをとげっぽい言葉が行き交った。

2015年6月15日月曜日

日曜日朝の漏水

 きのうの日曜日(6月14日)朝、出かけようとして外に出ると、奥の義弟の家の前がぬれている=写真。小雨が降りだしたとはいっても、地面はまだ乾いていて白い。その一角だけに水がたまっていた。止水栓を探したが、それらしいものはない。
 たまたま出かけるために表に出てきた東隣の家のご主人が、量水器ボックスのふたを開けてチェックしてくれた。新しいものはメーターのそばに止水栓が付いている。それがない。古いタイプのものだった

 となると、ここは同級生でもある「水道のホームドクター」に頼むしかない。ケータイで連絡するとすぐ出た。「今どこにいる?」「ナガサキだ」。いわき市の永崎が頭をよぎった。が、どうもそうではない。永崎ではなく、長崎へちゃんぽんを食べに行ったのだろう。

「後ろの義弟の家で漏水が起きた。だれか従業員に連絡して来てもらえないかい」「どうしようもねぇなー、みんなこっちに来てるもの」「ええー!」。会社の慰安旅行中か。

 では――と、カミサンが水道局に電話をかける。管工事業協同組合を紹介された。組合からは事業所を紹介された。同じ局番の事業所に電話をすると……。日曜日の朝である。出るわけがない。

 カミサンの実家にいる、もう一人の義弟に相談した。米屋を継ぐ前は建築士だった。独立した止水栓は、ふたが直径10センチほどだという。表の歩道にあった。しかし、それを閉めると、関係のない隣家と奥の家の2軒の水も止まりはしないか。

 ゴンゴンわくように漏水しているわけではない。「チョロチョロだったらそのままにしておいて、月曜日に業者を頼むしかない」。なるほど、その方が現実的だ。出かける時間も迫っている。

 雨は間もなくやんだ。曇天の、しのぎいい一日になった。夕方、恐るおそる帰宅した。表の道路まで水があふれていないか、家が近づくにつれて気になったが、ほんの少し水たまりが広がっているだけだった。

 晩酌中に思い出して「水道のホームドクター」に電話をする。「帰ってきたか」「帰りの途中だ」「あした(6月15日)の朝、見てくれ」というと「わかった」。そばでやりとりを聞いていたカミサンがわめいた。「そんな言い方はないでしょ。お願いする側なのに」。<ハイハイ、見に来ていただけますか>と言えばよかったのだな――と、これは火に油を注がないように、胸の中で。
 
 けさ見ると、水たまりの先端がきのうよりは2メートルほどわが家の方に延びていた。

2015年6月14日日曜日

カラスと源平ツツジと孫と

「燃やすごみの日」でもないのに、ましてや日中なのに、庭の柿の木に来てカラスがギャーギャー鳴く。このところ、ときどき現れては鳴く。日曜日(6月14日)のけさも、ちょうど6時に来て鳴いた。ごみ袋をめぐって、破る側と、守る側に分かれて攻防戦を繰り広げている間柄だ。なにかおかしいぞ――。
 木曜日(6月11日)の夕方、カミサンが「カラスが置いてったのかしら」と首をかしげた。わが家の隣はコインランドリーだ。家の境にネオン看板が立つ。高さ1・5メートルほどか。その上にしおれた白菜の葉っぱのようなものがある。
 
 看板の前の歩道は小学校の通学路になっている。ごみ集積所でもある。毎週月・木曜日、私が黄色いごみネットを出して、そばの電柱にロープをしばる。子どもが看板の上に“生ごみ”をつかんで置くはずがない。大人はなおさらだ。とすると、やはりカラスの仕業か? 翌日見ると、その“生ごみ”が移動していた。いよいよカラスだと確信する。なにか挑戦状をたたきつけられたみたい。
 
 金曜日(6月12日)の夕方、カミサンが「こんなものが咲いてた」と、“源平ツツジ”=写真=を持ってきた。近所の伯父(故人)の家の庭に白い花の咲くツツジが1本ある。あとで見ると、白にまじってうっすらピンクがかったものも咲いていた。ここまではっきり“キメラ”になっているのは珍しい。
 
 土曜日(6月13日)の午後3時ごろ、小2と年長組の孫がやって来た。下の子が誕生日を迎えるので、カミサンがプレゼントを買いに行こうと呼び寄せた。
 
 買い物へ行く前に、まずは木工遊びだ。わが家にある木っ端(こっぱ)を使い、トンカチと釘でなにか立体的なものをつくっている。水を流すのだという。「ダッシュ村じゃないか」「ダッシュ島でしょ」。それはそうだ。浪江町にあるダッシュ村には入れないから、ダッシュ島ができたのだった。
 
 できあがった“立体水路”を庭に運び、水を流して満足したあとは、お目当ての買い物だ。下の子はレゴ、上の子はプラモデルの戦艦と、4月に上の子の誕生日プレゼントを買ったときとまったく好みは変わらない。今回は下の子が主役。上の子は遠慮して下の子より安いものを選んだ。にしても、孫と遊ぶと福沢諭吉がすぐ消える。

 この1週間は、注文のあったいわき地域学會の書籍を本屋さんに届けたほかは、行政区の行事も、役所がらみの会合もなかった。自分の時間をもてたといっても、週に1回、若い人相手のおしゃべりがある。珍しく「やるのは今でしょ!」と馬力をかけて資料づくりをしたら、くたくたになった。このごろはそのせいかわりと眠りが深い。
 
 カラスと源平ツツジと孫と――めったにないモノ・コトと日替わりで向き合い、いい気分転換になった。

2015年6月13日土曜日

大滝根山の基地公開

 6月7日の日曜日に神谷(かべや)地区の球技大会が開かれた。わが行政区はソフトボール(男性)で準優勝した。昌平中・高の人工芝のグラウンドで試合が行われた。
 グラウンドから東方に新舞子の海が見える。晴れて朝から気温が上がったが、グラウンドで応援しているかぎりは海の方から吹き寄せる風で冷たいくらいだ。初戦に勝ち、2試合目(準決勝)はさらに相手を圧倒した。午前10時ごろ――安心して観戦していると、爆音がすぐ頭上から降ってきた。戦闘機が2機、北へ向かって行く=写真。少したってまた2機が同じ方向へ飛んで行く。

 後日、フェイスブックに田村市の自衛隊に関する情報が載った。大滝根山頂に航空自衛隊の分屯(ぶんとん)基地がある。ホームページを初めてのぞいた。なぜ戦闘機が日曜日に飛んだのかがわかった。

 分屯基地は、つまりはレーダー基地だ。毎年6月最初の日曜日、基地が一般に公開される。「飛行展示」という出し物があった。そのための戦闘機にちがいない。方角からみると、茨城県の百里基地~いわき~阿武隈高地といったコースで飛来したのだろうか。

 初めて分屯基地の沿革がわかった。今からちょうど60年前の昭和30(1955)年、1193メートルの山頂に米軍のレーダー基地ができた。翌年には航空自衛隊の部隊が移動してきた。その3年後の同34年、米軍から航空自衛隊に移管された、とある。

 大滝根山の北側の町で生まれ育った。実家が床屋をしている。昭和30年、小学1年生のときに米兵が大挙、散髪にやって来た。金髪の白人兵のほかに黒人兵がいた。店の前の道路(現国道288号)に止まったのは、タイヤが10本ある、通称「十輪車」の幌付き大型トラック。ジープもよく行き来していた。

 父親がはさみを入れるたびに金色の髪の毛が床に落ちる。「金は高価なもの」と刷り込まれていたから、そして金塊とはどんなものか知らなかったから、色だけで「高いんだろうな」と見入っていたのを覚えている。

 翌31年4月に町が大火事に遭うと、米軍からどっさり救援物資が届いた。食糧のほかにGパン(ジーンズ)が配給された。子どもにはぶかぶかだった。やがてGパンは日本人が普通にはくものになった。もしかしたら、私たちは日本で、いやいや福島県で最初にGパンをはいた子どもたちだったのかもしれない。

 山頂の基地は福島第一原発の西方約30キロに位置する。建屋が爆発で吹っ飛び、原子力災害現地対策本部が設置された際、本部長(経済産業副大臣)が市ヶ谷の防衛省からヘリで大滝根山のヘリポートに降りたち、基地の車で現地に入った。福島県内の自衛隊員も過酷事故の最初期、暴走する原発に立ち向かった。

 大滝根山はふるさとの山。日曜日、北へ向かう戦闘機と山頂にある自衛隊基地の一般公開がつながり、さらに60年前の奇妙な記憶まで浮上した。

 道路でばったり会えば、物欲しげに「ギブ・ミー・チョコレート」。丘の上で遊んでいるときに町なかをジープが通れば、「ヤンキー・ゴー・ホーム」。通りまで聞こえないのをいいことに、絶叫マシーンと化した。そんなことも思い出した。

2015年6月12日金曜日

被災地訪問ツアー・下

 シャプラニールの「被災地訪問ツアー みんなでいわき!」(6月6~7日)=写真=は、いわきに住む人との対話と現場の視察を通じて、被災地の今を知ってもらおうという試みだ。今回で6回目になる。
 東日本大震災から5年目。きのう(6月11日)は3・11から1554日、4年3カ月の節目の日だった。

 シャプラのツアーはこれまでも、参加者が耳を傾ける・目を凝らす・肌で感じる――といったようなプログラムを用意して実施された。今回も津波被災者や原発避難者の日常と内面に触れることで、考えを深めるきっかけになるような企画が立てられた。

 いわき市内だけでも死者は460人、建物被害は9万戸余に及ぶ。一時提供住宅の入居者はいまだに3600人弱、加えて主に双葉郡8町村から原発避難をしている人が2万4000人余いる。被災地ながら、原発避難者を受け入れているいわき市は、行政も市民も単なる自然災害とは異なる特異な状況におかれている。(数字は継続して開設中の市災害対策本部の調べによる)

 ツアーの一行は初日、常磐の市健康・福祉プラザ「いわきゆったり館」に宿をとった。日中は、シャプラが運営している交流スペース「ぶらっと」の利用者と一緒に昼食をとり、場所をオリーブ農園に移して苗木の根元の草むしりをした。2日目は住民が原発避難中の双葉郡富岡町を視察し、四倉の沿岸部を見て「ぶらっと」へ寄ったあと、帰京した。

 私ら夫婦は草むしりと夜の食事・懇親会に加わった。カミサンはさらに翌日、「ぶらっと」へ出向き、ツアーに参加した親友夫妻らとおしゃべりを楽しんだ。

 草むしりには、久之浜や豊間の津波被災者、双葉郡からの原発避難者も参加した。いずれも「ぶらっと」利用者だ。ツアーの一行とまじりあって草むしりをすることで、なにか通じあうものがあったのではないか。

 ツアー常連のYさんとはFB友になり、親類のような感覚で発信する情報に接している。今回も新しいFB友ができた。シャプラのツアーのおもしろいところは、いわき・双葉と被災地以外の人々の“つながり”が生まれ、継続することだ。
 
 そうだ、忘れていたが、オリーブ農園には原発避難者に開放している“市民農園”がある。農園の西方、小高い丘の向こうに大熊町の応急仮設住宅がある。そこから野菜栽培に通っているのだろう。
 
 津波被災者であれ原発避難者であれ、一種の生きがい・楽しみとして土いじり(家庭菜園)をしていた人が少なからずいる。街に住む人間でも年をとれば土いじりをしたくなる。
 
 土いじりのできる空間があることで、ひととき、いわき市民と原発避難者が結ばれ、ツアーの一行と現地の人間がつながる。そればかりか、オリーブの花とミツバチ、ハート形の葉、風、雲、川がそれぞれの心象風景を彩る。センス・オブ・ワンダー(不思議さに目を見張る感性)に包まれることで、人は少しいのちをながらえられるのではないか。そんな感じを抱いた。

2015年6月11日木曜日

被災地訪問ツアー・中

 シャプラニールの被災地訪問ツアー初日(6月6日)午後――。いわき市平の市街地に隣接するオリーブ農園でツアーの一行を迎えた。一行が到着するまで、農園主の木田源泰さんと話した。
 農園は夏井川に架かる磐城橋のたもと、私が新婚のころ、平窪の市営住宅から会社へ通った国道399号沿いにある。

 木田さんは1キロほど先の自宅(私ら夫婦が住んでいた近く)から橋を渡ってやって来る。昔からの農家だ。今はすっかり新興住宅街になったが、私らが住んでいたころは、周りは水田だった。「家の前にハス田があって、Sさんの家があって……」というと、「Sさんとは親戚(しんせき)」だという。私らがいたころは、木田さんは中学生、いや高校生だったか。

 道路の両側にオリーブの木が植えられている。農園は堤防の道のほかに、橋の下の“あぜ道”でつながっていた。下流側の畑には以前、コットンが植えられていたが、手間がかかるのでやめたそうだ。

 木田さんによると、いわきは耕作放棄地が日本で一番多い。その休耕地を借りてオリーブ栽培を始めた。「いわきオリーブプロジェクト」で、2009年に活動が始まった。
 
 橋の向こう側に、最近、ときどき利用する中華料理店「華正楼」がある。一行とともに木田さんの話を聴いたとき、つながりを尋ねたら、右手の親指を立てた。「いいね」か。「野菜を納めている」という。震災後、生産者とじかにつながって地産地消の仲立ちをしている若い料理長と知り合った。「いわき昔野菜保存会」の仲間でもある。
 
 かねがね疑問に思っていたことがある。日本はヨーロッパと違って酸性土壌だ。いわきの気象はともかく、アルカリ性土壌で育つオリーブの栽培には向かないのではないか。木田さんはあっさり言った。「アルカリ性の土壌にすればいいんです」。そのための研究・努力を続けているのだろう。
 
 オリーブは植えられて4~5年とかで、キンモクセイに似た小花をいっぱい付けていた。花にカメラを向けていると、小さなミツバチが目に入った。二ホンミツバチだ。木田さんがあとで、興奮気味に話した。「初めてミツバチが来た、オリーブの蜂蜜ができるかもしれない」
 
 ツアーの一行はオリーブの根元の草むしりに精を出した=写真。なぜ除草が必要か。木田さんの話を聞いて納得した。草が生えていると虫が寄ってくる。なかでもシンクイムシは苗木の根元近くに穴をあけ、内部に入り込んで苗木を枯らす。それを予防するための草引きだった。
 
 夏井川渓谷の隠居で「少量多品種」を目標に掲げて野菜を栽培していたとき、ナスやトウガラシがシンクイムシにやられてダメになったことがある。シンクイムシの予防策がわかった。

2015年6月10日水曜日

被災地訪問ツアー・上

 震災後、いわき市平に交流スペース「ぶらっと」を開設・運営しているシャプラニール=市民による海外協力の会が6月6~7日、6回目の「被災地訪問ツアー みんなでいわき!」を実施した。首都圏、静岡県(牧之原市)・宮城県(仙台市)などから十数人が参加した。ツアー常連のYさんのほか、東京や福島市で顔を合わせたシャプラの地域連絡会のメンバーとも再会した。
 カミサンの学生時代からの親友がご主人と一緒にツアーに参加した。ご主人は多摩動物公園の元チンパンジー飼育係吉原耕一郎さんだ。

 奥さんとは2011年12月、シャプラが中心になって東京で開いた「リッスン!いわき」の集まりで再会している。原発事故を起こした双葉郡に最も近い被災地(いわき)の人間として、津波被害に遭った豊間の友人(大工)とともに、夫婦で出かけておしゃべりをした。
 
 ご夫妻とは仙台で会ったことがある。それが30年前。吉原さんに頼んでいわきで講演をしてもらったこともある。そうだ、春休みだったかに下の子をホームステイさせたこともある。それ以来だとすると、二十数年ぶりの再会か。
 
 ざっと30年前の、吉原さんについての私の文章(新聞コラム集に収録)がある。1988年6月6日付のいわき民報に掲載した。タイトルは「馴致(じゅんち)と調教の違い」。吉原さんがNHK「日曜インタビュー」に出演したときの感想を記した。

「動物を飼育する以上、人間と仲良くするための最低のルールは教えねばならない。それを動物園では馴致という。たとえば、握力100キログラムのゴリラに握られたら、人間の手は粉々に砕けてしまう。人間の手を握ってはいけない、体当たりしてはいけない、ということを、小さい時からしつけていく必要があるのだ。」

「これに対して、芸として三輪車に乗せたり、竹馬に乗せたりするのを調教という。(略)調教ではうまく出来たらごほうび(バナナなど)をあげるが、馴致ではごほうびはやらない。その代わり、よく出来たらほめてやる。相手が子供であれば、『うまく出来たね』といいながら、頭をなでてやる。ほめることが最高のごちそうなのだ。」

 ツアー客を迎える側に「ぶらっと」元スタッフが幼い長男を連れて加わった。チビちゃんが少し眠たくなったころ、吉原さんが抱っこした=写真。ちいさいうちは人間もチンパンジーもそう変わらないという。その意味では、吉原さんは子育ての専門家だった。チビちゃんは、吉原さんの腕のなかで安心しきっておとなしくしていた。

2015年6月9日火曜日

老・壮・青がそろった?

 いわき市が事務局になる「いわき創生戦略会議」の初会合が先週の金曜日(6月5日)、いわき駅前のラトブ6階、いわき産業創造館で開かれた。連絡がきて参加した。
 市長を本部長とする庁内の「いわき創生推進本部」が先に発足した。創生戦略会議はその市民版(庁外組織)だ。両組織が車の両輪になって、目指すべきいわきの創生総合戦略を練る。
 
 根拠となる法律は「まち・ひと・しごと創生法」で、その目的は①少子高齢化の進展に対応し、人口減少に歯止めをかけ……②東京圏への人口の過度な集中を是正し、それぞれの地域で住みよい環境を確保して……③将来にわたって活力ある日本社会を維持していくため……――、“まち・ひと・しごと創生”に関する施策を総合的・計画的に実施する、というものだ。(市の資料から)
 
 法律は、人口減少対策に東京一極集中問題をからめた印象が強い。新幹線であれ高速道であれ、整備すればするほど東京に人口が集中する。その結果、東京でも高齢化が進んで老人福祉が大変になりつつある。東京だけでは老人の介護ができないので、老人を地方に分散しよう――先日の新聞報道に接して、FB友のコメント「姥(うば)捨てか」に同意した。
 
 いわき版・創生戦略会議では、東京や他自治体との比較などはせずに、いわきなりの目指すべき姿・方向性を、まちづくり・ひとづくり・しごとづくりの3つの作業部会を設けて議論する。私はまちづくり部会に振り分けられた。
 
 第1回会合に出席した顔ぶれをみて、こちらが年をとったことを実感した。私と、同年齢の商工会議所地域振興委員長のT氏が、もしかしたら最年長ではないか。<あいうえお順>で隣に座った同姓のザ・ピープル理事長も、私らよりは若いが、出席者のなかでは年配の方だ。
 
 隣同士で「年寄りになったんだな」などと話していた直後、市長があいさつした。「老・壮・青がそろい、つながり……」というくだりで、思わず吹きだした。
 
 20世紀の終わりに、市の総合計画づくりに関係した。審議会とは別に、いわき未来づくりセンターの委嘱による「いわき21世紀ビジョン市民会議」(市民20人前後)で議論し、庁内若手によるワーキンググループとの協働で基礎調査をした。その時のメンバーが何人か、創生戦略会議に入っている。30~40代だった人間も、20年近くたてば年をとる。当たり前のことだ。
 
 庁内のワーキンググループに加わった職員も、部課長クラスになった。創生戦略会議の中核を担っている。スケジュールはあってもシナリオはない。自由な議論ができる。それが楽しみといえば楽しみだ。

 いわきは、かつては日本一の広域都市だった。広いいわきを身近に感じる視点として、私は3つの流域とハマ・マチ・ヤマを組み合わせたマルチ画面を脳内スクリーンに映し出す。市文化センター1階、科学展示室に3Dの「いわきのパノラマ」がある=写真。鳥の目でいわきをイメージできる。3・11後は、事故を起こした原発のある北隣の双葉郡も視野に入れないといけなくなった。

 さて――。「老」には「老」の役割がある。「壮・青」のアイデアなり、意見なりを具現化するためには、地に足の着いた議論が必要になる。いわきの現状や課題を「見える化」できれば、より深い議論ができるだろう。理想論と現実論をうまくかみ合わせるのが「老」の務め、自称「19歳の老少年」である私の役目はそのへんにあると思い定めている。

2015年6月8日月曜日

準祝勝会

 きのう(6月7日)はいわき市の清掃デーと神谷(かべや)の8地区対抗球技大会が重なった。そのために、清掃開始時間を早朝6時半から30分繰り上げて6時にし、7時から公民館に集合して球技大会の準備をした。
 大人の球技大会である。昌平中・高のグラウンドと体育館を借りて、男性はソフトボール、女性はバレーボールに熱戦を繰り広げた。グラウンドはすべて人工芝になっていた。ラインを引く必要がない。それで準備のための集合時間を30分遅らせて7時にすることができた。

 わが区は、バレーは初戦敗退だったが、ソフトは決勝まで進んだ。結果的には8-9と惜敗した。準優勝のトロフィーを手にすることができたのは、エースが現役の20歳の女性だったことが大きい=写真。この種の大会では、まず三振はない。ところが、150センチあるかないかという小柄な体ながら、ウインドミル投法で繰り出す緩急自在の球に翻弄され、何人かが三振に倒れた。

 少し荒れ気味の速球で、最初にバットが空を切ると、敵陣からも「おおっ」という声があがった。あなどれないぞという空気が生まれて、試合が締まった。ここ何年かで初めて緊張感の漂うゲームになった。それが奏功してわがチームは初戦を突破し、2戦目は“ギブアップ勝ち”を収めた(コールドなしで大差がついたときの「参りました」=神谷ルール?)。

 決勝ではさすがに連投の疲れが出たのか、途中で降板したが、チームが後半、奮起して追い上げた。逆転できるのではないかと思ったが、監督は「1点差で負けるのも計算のうち」と負け惜しみをいう。みんな忙しい身、芸術的な負け方だったと納得した。

 準優勝のトロフィーを飾っての反省会は、いつにもまして和気あいあいと行われた。祝勝会は、次の大きな大会へのステップにもなる。が、“準祝勝会”は準Vを楽しむだけでいい。優勝チームからさっそく、助っ人(選手補強)の申し込みがあったそうだ。

 昨秋の地区市民体育祭では優勝し、大きなトロフィーを手にした。今度はソフトの準Vトロフィーだ。次の大会開会式では返還式がある。前にバレーが準優勝をしたとき、開会式直前になってトロフィーを忘れたことを思い出し、あわてて取りに戻ったことがある。トロフィーが2つもあれば、「開会式=トロフィール返還」の連想がはたらく。忘れることはもうないだろう。

2015年6月7日日曜日

一斉清掃と球技大会

 きのう(6月6日)は朝、起きると雨。ところが一時やんで、また小雨になった。雨天の場合、神谷(かべや)公民館の清掃活動は中止――小雨の中を予定の時間(8時半)前に行くと、すでに何人かがいた。決行か中止か判断が難しい。
 そのうち区長協議会長がやって来て、「このくらいの雨ならやっちゃいましょう、間もなくやむようだし」。決まれば早い。すぐ公民館敷地内の草刈り・清掃が始まった=写真。
 
 水たまりにできる雨の波紋を見ていると――。雨合羽のない人はずぶ濡れになる。風邪を引きかねない。住宅地の区長は尻込みする。ところが、水田の広がる農村部では、小雨などは雨のうちに入らない。農村部の区長さんのいうとおり、作業をしているうちに雨がやんだ。そんなに濡れないですんだ。

 春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動が金曜日(6月5日)にスタートした。初日は「清潔な環境づくりをする日」、2日目は「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」、そして最終日のきょう6月7日は「清掃デー」だ。小学生も初日、町へ繰り出してごみ拾いをした。

 きょうは朝6時から、地区民が総出で家の周りの草を刈ったり、ごみを拾ったりする。
 
 そのあとすぐ、神谷地区の球技大会(男性はソフト、女性はバレー)が開かれる。7時までに公民館へ出かけ、少し離れた会場(私立中・高校)へとテーブルやいす、テントなどを運ばないといけない。球技大会が終われば地元で反省会が待っている。
 
 きのうは公民館の清掃に引き続き、区長協議会の8人が平六小の裏山にある旧神谷村の「忠魂」碑と、公民館向かいの立鉾鹿島神社の境内にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福」碑の周りを清掃した。そのあと、シャプラニール主催「被災地訪問ツアー みんなでいわき!」6回目に合流し、夜の集まりにも顔を出した。
 
 きょうも朝から夕方までとぎれなく行事が続く。きょう1日を無事に終えれば、3月後半から断続的に続いてきた、年度替わりに伴う各種団体の総会その他の行事に区切りがつく。一息つける。気合を入れて、出かけるとするか。

2015年6月6日土曜日

「海のことを忘れかけている」

 いわきフォーラム’90のミニミニリレー特別講演会がおととい(6月4日)夜、いわき総合図書館のグループ閲覧室で開かれた=写真。いわき明星大復興事業センター震災アーカイブ室の客員研究員川副(かわぞえ)早央里さんが講師を務めた。
 総合図書館はいわき駅前のラトブ4・5階にある。5階の地域資料展示コーナーで、2014年12月5日から「東日本大震災浜通りの記録と記憶 アーカイブ写真展」が開かれている。同大復興事業センターと同図書館の共催で、5月末までの予定だったのが10日ほど延長された。
 
  震災アーカイブ室では、“未来へ伝える震災アーカイブはまどおりのきおく”として、震災後の浜通り各地の写真や資料を収集している。その仕事をしているのが、震災の年の12月、東京で知り合った若い社会学者川副さん(当時、早稲田の大学院生)だ。2012年9月に震災アーカイブ室の客員研究員になった。
 
 フォーラム‘90の会報「まざりな」で開催を知り、夫婦で川副さんの話を聴きに行った。川副さんの講話のあと、展示コーナーを見学し、部屋に戻ってフリートークをした。津波襲来の写真を提供した豊間の民宿「えびすや」鈴木利明さんの述懐が胸にしみた。
 
 津波襲来時のことではない。今は「豊間から8キロ離れた山の中に住んでいる。海が見えない。海のことがなにもわからない。海のことを忘れかけている」。鈴木さんは海の男だった。オカに上がって民宿を開いた。鉄筋コンクリートの建物だから、津波に襲われても耐えた。が、今は解体されてあとかたもない。
 
 ハマから離れた内陸部での仮住まいが長くなった。ハマに早く戻りたいのに、復興計画が遅れるという連絡が入った。海とつながっているからこその人生、それがいつ戻れるのかわからないもどかしさ、怒り。「海のことを忘れかけている」。津波被災者の内面にまでは想像力が届いていなかった。

 東京でいわきの話をしてもヒトゴト、いわきでもマチの人はハマのことがわからない――地域による認識の違いにも触れた。思わず手を挙げた。いわきはハマ・マチ・ヤマに分かれる。マチの人はハマのことにも、ヤマのことにも思いが至らない。広域都市ゆえの地域差・温度差がある。鈴木さんのいう通りだ。そんな話をした。

 あらためて思うのは、広いいわきをどう「見える化」するか。それを、どこに住んでいても共有できる工夫をしないと、いわきのハマ・マチ・ヤマは永遠につながらない。

2015年6月5日金曜日

定期購入サービス

 5月28日のNHKニュース9で「広がる毎月お届け」(定期購入サービス)を見たとき、越中富山の置き薬サービスが先行例として紹介されていた=写真。江戸時代に始まるこのネットワークに興味があって、仕組みを探ったことがある。

 富山インターネット市民塾推進協議会によると、富山には3大ネットワークがあった。①立山信仰(立山曼荼羅=まんだら=を使った全国出張レクチャー)②北前船(きたまえぶね=北海道から沖縄・東南アジアまで結ぶ交流貿易ネット)③売薬(全国に薬を配置する「売薬さん」のネットワーク)――で、今のことばでいえば、さしずめSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だろう。
 富山藩は、前田氏2代藩主正甫(まさとし)のもとで、反魂丹(はんごんたん=かくらん・解毒などの万能薬)を主とする調合薬の製剤・販売を組織化する。その結果、幕府や諸藩の領域にまで販路が拡大し、支配の枠を超えて全国規模で「越中富山の薬売り」が一般化したという。
 
 阿武隈の山のなかにも「越中富山の薬屋さん」がやって来た。今からざっと60年前の昭和30年代、小学生になるかならないころの私は、家にやって来た「薬屋さん」が、家の薬箱をチェックし、足りない薬を補充する姿を覚えている。子どもにくれる景品が楽しみで、薬屋さんのそばから離れなかった。景品の一つが紙風船だった。
 
 このSNSには、立山信仰も関係していた。修験者(御師=おし)が立山産の熊の胆(い)や黄蓮(おうれん)を、全国の檀那場(得意先)廻りの際、護符とともに配り歩いたという伝統を基盤として、“置き薬”方式を採用した。しかも、「先用後利」(先に薬を使用し、代金は後で払う)で信用を積み上げたのだそうだ。
 
 富山商工会議所会報「商工とやま」2008年6月号からは次のようなことを知った。江戸時代、売薬人教育が重視された。寺子屋では読み・書き・そろばんのほかに、行商地の地理・歴史・薬の知識を教え、一般教養や徳育にも力を入れた。
 
 代表的な寺子屋に、明和3(1766)年、小西鳴鶴が富山西三番町に開いた小西塾(臨池居=りんちきょ=ともいった)があった。日本三大寺子屋といわれたほど大規模で、明治の学制発布後も廃止されず、明治32(1899)年まで続いたとか。
 
 その売薬で力を蓄えた経済人が明治以後、製薬会社、金融機関(北陸銀行の前身)、水力発電会社(北陸電力の前身)、薬業専門学校(富山大学薬学部の前身)などの設立に重要な役割を果たす。

 ニュース9では、消費者の難しい要望にこたえる老舗酒店、ビールサーバーを家庭に貸し出し、高品質のビールを月2回宅配するビールメーカーなどの例が紹介されていた。ビールサーバーは「越中富山の薬屋さん」でいうと薬箱だろう。1人ひとりの心に届く宅配サービスは時代を超えて存在する。