2015年7月31日金曜日

「内郷学」講座

 2015年度の「内郷学」講座が先日(7月23日)、スタートした。福島県俳句連盟副会長でいわき市俳句連盟会長の結城良一さん(80)=内郷生まれ、常磐在住=が、「俳句から見える炭鉱における人々の暮らし」と題して話した=写真。
 サブタイトルは「昭和38年度福島県文学賞受賞 ヤマの歌人飯村仁さん(内郷御厩町)を偲んで」。ヤマ(炭鉱)の俳句と短歌を紹介しながら、今は知る人も少なくなったヤマの労働と暮らしを解説した。

 農山漁村の労働と違って、ヤマの労働は地底で行われる。その労働を基盤にしてヤマの暮らしが営まれる。一般の市民には、地底の労働も炭鉱長屋の暮らしもなかなか想像がつかない。森の中を歩くときに、自然と人間の仲介役(インタープリター)がいると理解が深まるように、「ヤマの文学」にもインタープリターが必要だ。

 結城さんは常磐炭砿が閉山したあとも西部砿業所に残留し、石炭を掘った。昭和47年、句集『発破音』で福島県文学賞正賞を受賞している。ヤマの仲間に16歳年上の飯村仁さんがいた。飯村さんも同38年、歌集『冬の嵐』で県文学賞正賞を受賞した。

 昭和48年5月29日午後2時半ごろ、常磐炭砿西部砿業所で坑内火災が発生し、4人が死亡した。そのなかの1人が飯村さんだった。事故が起きた日、飯村さんは一番方として入坑、二番方の結城さんらと交替し、帰る途中、煙に巻かれ、一酸化炭素中毒死した。
 
『聞き書き100人「常磐炭田エピソード100」』のなかで、結城さんが事故に遭遇したときのことを振り返っている。

「一番方より申し送りを受けて5分とたたない間の出来事だっただけに、火災の火元の判断に苦慮した。電車坑、炭ベルト坑、ずりベルト坑、と煙が充満、一時は死を覚悟したが幼い子供のことを考えると、なんとしても生き抜かねばと歯を食いしばった」

「電車坑には一番方作業終了者が昇坑をあせり煙の中で右往左往してパニック状態であった。しばらくして煙は立坑坑底からと分かった。煙を避けるには反対方向の泉立坑に逃れなければならないと大勢の仲間を説得して脱出した経緯がある」

 極限状況だったことはわかるが、地上で暮らす人間には坑内の構造、様子がいまいちわからない。どうしてもインタープリターが必要になる。

 飯村さんの作品についても解説がついて、やっと深い情感が理解できた。たとえば、「共稼ぐ妻と朝朝行き違う午前七時のわが夜勤明け」について、結城さんは「三番方は夜10時から朝6時まで」というコメントを入れた。ヤマから帰る夫と勤めに行く妻とが朝、道で出会う。妻は夫の無事を確認して足取りも軽くなる――そんなことまで想像できる。

 俳句であれ短歌であれ、ヤマの“基礎知識”がないと作品の理解が深まらない。ヤマの労働と暮らしを知るうえで、この「内郷学」は数少ないチャンス、いや「最終講座」ではないかと思った。「炭田カフェ」でヤマの作品解説講座をシリーズ化できないものか。

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