2016年8月17日水曜日

昭和46年の草野美術ホール

 台風7号がいわき市に接近している。昨16日夜更けからの雨量は小名浜で100ミリを超えた。午前3時に水戸市の南東約80キロにあって、時速30キロで北上している。もう福島県沖に来ているかもしれない(午前6時現在)。

 精霊送りの日(きのう)でなくてよかった。でも、きょう(8月17日)、わが地区は「容器プラ」「製品プラ」の日。このあと様子を見ながらごみネットを電柱にくくりつける。ネットをかぶせないと、風に吹かれてごみ袋が宙に舞う。
 さて、昭和45(1970)年から10年ほど、いわき市の美術界をリードした「草野美術ホール」(および松田松雄)について話してくれ、という依頼がきた。資料もあるといいというので、このところ、記憶を頼りに総合図書館へ通って、自分が書いたいわき民報の記事を主にコピーしている。

 ざっと45年前、同ホールは若者が新しい表現に挑む“実験場”だった。広い壁面をひとりで埋めるには覚悟がいる。同時に、事務室は絵描きや書家、詩人、新聞記者らが出入りし、おだをあげ、サントリーレッドをなめては火花を散らす“梁山泊”だった。

 松田松雄がいた。山野辺日出男がいた。田辺碩声がいた。阿部幸洋がいた。その他、若松光一郎、広沢栄太郎ら先行する世代、林和利ら次世代の高校生もいた。(同ホールを語ることは自分の青春を語ることでもある)

 きのうは夕方、図書館で昭和46年8月26日付=写真=ほかのいわき民報の記事をコピーした。いわき民報の駆け出し記者(取材を始めて3~4か月のころ)のくせに、いっぱしの美術記者のような文章を書いている。

「春夏のいわき美術展回顧/収穫は広沢初個展/めざましい若手と新鋭」が見出しだ。特に、広沢栄太郎と阿部幸洋にスペースを割いた。広沢栄太郎については、画用紙50枚にかかれた「シベリア抑留記」が展示されたこともあるが、なにより会場の奥の壁面右側に飾られた「幼女像」に目がくぎ付けになった。

 そのまま「幼女像」の前に直行した。なぜ引かれたのかはわからない。ことばによるコミュニケーション以前のバイブレーション。「共振」としかいいようがない。それで幼女像にも触れた。

「悲惨なもの、かよわいもの、ちいさいものに対する無言の怒りや愛情はこのシベリアの原体験から出てきたものにちがいない。ちゃんちゃんこを着た、寸たらずのおさげ髪のちいさな『幼女像』はそういった見る者の心を洗い清める名作である」。(この絵は巡り巡って、いま、私のところにある)

 この記事のほかに、1年後の47年12月6日付で「ことしのいわき画壇を顧みる/“東北のパリ”を目ざし/平の草野ホール拠点に」を書いている。これも生意気な文章だ。新米記者の文章というよりはべテランもどきの文章。でも、まあ45年たった今も、当時の空気を感じることはできる。(やはり、草野美術ホールには青春後期の思い出が詰まっている)

0 件のコメント: