ロシアの極東――サハリン(樺太)に3泊、シベリア大陸のウラジオストクに2泊。5泊6日の旅は「鎮魂と追憶の旅」になった。
樺太では北から順に、仲間の父親が村長だった元泊村を訪ねた。宮沢賢治が、亡くなった妹トシの魂を追うようにして汽車から降り立った栄浜駅のプラットホーム跡にも立った。内地との往還の地・大泊の港も見た(仲間の母親が、そして賢治が初めて樺太の地を踏んだところだ)。日本が一時、統治していた北緯50度以南の中部・南部地方に当たる。
シベリア大陸へ移動したあとは、アムール湾とウスリー湾にはさまれた半島の先端・ウラジオストクと、その東方にあるナホトカの港を巡った。
旅行仲間4人の共通の同級生がざっと45年前、船で横浜からナホトカへ渡り、さらにシベリア鉄道を利用して北欧のスウェーデンに向かい、そのまま住み着いた。青春の冒険かどうかは知らないが、とにかく彼はナホトカの港に降り立って以後、大陸の人間になった。
昭和20年の敗戦以後、ソ連に抑留された日本人兵士たちが何十万人もいる。その一人、いわきのアマチュア画家は、同23年に復員するとすぐ2カ月をかけて、2年半余の強制収容所生活を50枚の画文集にまとめた。収容所では鉛筆で小さなザラ紙に数百枚をかきためた。それを、帰国集結地ナホトカの手前で焼き捨てた。没収されるのがわかっていたからだ。
それから四半世紀たって、当時、いわきの先端的なギャラリーだった「草野美術ホール」で個展を開いた。シベリア抑留の画文集も展示した。記者になりたてだった私は、取材でかかわったのを機にホールのおやじさんらと諮って画集出版の裏方を務めた。広沢栄太郎著『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』はそうしてできた。それから43年後、画集に出てくるナホトカをこの目で確かめることができた。
ほかにも、日本人墓地(といっても、「追憶の碑」=写真(サハリン)=や「日本人死亡者慰霊碑」「日本人墓地」碑などだが)を訪ねた。これも一種のダークツーリズムだった、という思いが強い。
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