いわき地域学會の第318回市民講座が先週土曜日(8月20日)、いわき市文化センターで開かれた。夏井芳徳副代表幹事が「袋中上人著『琉球神道記』を読む」と題して話した=写真。
袋中(1552~1639年)は、今のいわき市で生まれ育った浄土宗の学僧。関ヶ原の戦い後、いわき地方を治めていた岩城氏が滅亡する。その激変のなかで袋中もふるさとを去り、中国で仏教を学ぼうとしたがならず、琉球へ渡って浄土宗を伝え、沖縄初の史書「琉球神道記」を著した(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)。沖縄の伝統芸能「エイサー」の始祖ともされる。
夏井副代表幹事は「琉球神道記」の概略を話し、末尾に付された袋中の七言絶句を紹介した。
袋中は知の巨人だった。その学僧が<那覇夜雨>という詩のなかで「古郷ヲ憶想スルコト、宵夕(しょうせき)、切ナリ/涙、細雨ヲ兼ネ、深更ニ至ル」と、ふるさと・いわきを思って一人涙を流している。袋中の内面がうかがい知れて興味深い。夏井副代表幹事ではないが、こういうときの袋中とは酒を酌み交わしたくなる。
さて、と――。袋中上人を触媒にしていわきの「じゃんがら念仏踊り」と沖縄の「エイサー」が関係している、といった話がこのごろ広まりつつある。そうか?
じゃんがら念仏踊りの研究者でもある夏井副代表幹事はそうした風潮に危惧を抱く。いわきでじゃんがら念仏踊りが始まるのは、袋中上人が沖縄へ渡ったあと、半世紀もたってからだ。袋中とじゃんがら念仏踊りは関係がない。こういう民俗芸能は一人の人間の創案(たとえば、祐天上人じゃんがら説)で始まるものだろうか、外からではなく土から湧き出るようなものではないのか、とこれは私の感想。
同じような俗説に、「平七夕まつり大正8年起源」説がある。仙台に本店のある七十七銀行が平支店を開設した年を、平七夕祭りが始まった年と混同したのが“定着”した。
『いわき市と七十七銀行――平支店開設70周年に当たって』(七十七銀行調査部、平成元年発行)に七夕飾りの写真が掲載されている。キャプションは「七十七銀行平支店の七夕飾り(昭和5年)」。昭和10(1935)年8月6日付磐城時報にはこうある。「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」。平七夕まつりは昭和5年以降、9年あたりを起源とするのが妥当ではないのか。
草野心平が“命名”したとされる「背戸峨廊(せどがろ)」(江田川)についても、あるときから「せとがろう」の読みが蔓延した。心平らが江田川を探検した当時の関係者の文章に当たると、読みは「せどがろ」、心平の創案ではなく地元の人間が呼びならわしていた「セドガロ」に、心平が「背戸蛾廊」の漢字を当てた。
地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんの言葉に「事業はまじめに、記録は正確に」がある。「われわれは、われわれが現に生活している『いわき』という郷土を愛する。しかし偏愛のあまり眼を曇らせてはいけないとも考える。それは科学的態度を放棄した地域ナショナリズムにほかならないからである」(地域学會図書刊行のことば)。正確なことばで語れ――に尽きる。
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