「村の入り口で警察署長と村長の2人で白旗をかかげて迎える手はずになっていたのに、署長は『自宅で謹慎する』と言って来なかった」。で、同級生の父親(村長)だけが北緯50度の国境線を超えて侵攻して来たソ連軍を迎えた。
今から71年前の昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍が対日参戦をした。満州ばかりか、北緯50度で北はソ連領、南は日本領に分かれていた樺太でも、ソ連の侵攻作戦が展開された。同15日に日本がポツダム宣言を受諾しても、北海道占領をもくろむソ連の侵攻はやまない。
同級生の父親が村長を務めていた元泊村(ボストチヌイ)は、国境と接する敷香(しすか)支庁の管内にあった。南樺太を南部・中部・北部に分ければ、北部に近い中部の北といったところか。
ウィキペディアによると、南樺太の各地で空襲・地上戦が行われ、停戦・武装解除を経て8月25日には日本内地との海の玄関口・大泊(コルサコフ)占領をもって樺太の戦いが終わる。元泊村は22日に占拠された、とある。
元泊の駅のプラットホーム=写真=や漁港を見ながら同級生が話すのを聞いて分かったのだが、彼の旅の目的は父親、そしてそれ以上に母親の足跡を確かめることだった。
彼には異母きょうだいが3人いる。母親の姉の子だ。姉が亡くなって、子育てが難しくなった。妹である彼の母親が請われて後添いに入った。福島県から単身、汽車と船を乗り継ぎ、元泊へ嫁入りをした。その道行きに思いをはせ、さらに戦後、子供を連れて内地へ帰還する、その苦労をしのぶ旅になった。父親はソ連軍の下で引き続き元泊の行政にかかわり、しばらくたってから帰還した。
北海道日本ロシア協会が毎年、「平和の船」事業を実施している。去年(2015年)の報告集『ふれっぷす』第30号をネットで読んだ。当時中学生だった人が侵攻直後の脱出行、戦後の引き揚げの様子を振り返っている。
「(線路を歩いていくと)右側の線路際に赤子の泣き声が聞こえた、(中略)少し歩くと今度は左側にやはり赤子の声が聞こえた。この我が子を捨てなければ自分の身も持たないという、地獄の絵図としか思えない悲惨な現状に直面しても、私はひたすら線路の枕木を踏み外さないよう歩くしか術が無かった」
このあと中学生はほかの住民とともに、ソ連軍の命令で元の居住地へ戻る。日本へ帰還したのはほぼ1年後の昭和21年9月下旬だった。みずから自宅謹慎に入った警察署長はシベリアへ送られた。
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