2017年7月21日金曜日

キュウリ尽くし

 庭の柿の木でおととい(7月19日)夜、耳鳴りかと思うほどか細い声でニイニイゼミが鳴いた。ずいぶん遅い初鳴きだ。きのうも午後になって鳴きだした。
 ニイニイゼミが鳴きだすころ、家庭菜園ではキュウリが収穫の最盛期を迎える。採ったり届いたりしたキュウリが台所に山になる。大根ならしばらく置いても糠漬けにできるが、キュウリはそれが効かない。水分が飛んで、中身が綿のようになったキュウリは、漬けてもまずいだけ。で、とりあえず採りたてを糠床に入れるか、キュウリもみにする。

 糠漬けは、基本的には浅漬けだ。夜に漬けたら朝には青みの残るキュウリが食べられる。気温が高い今は漬かりも早い。夫婦2人が一度に食べる量はせいぜい1本半だ。糠床で眠ったままのキュウリが出てくる。

 古漬けはあめ色になる。塩分と酸味が強い。食べるときには水に浸けて塩を抜き、ショウガをおろして醤油をかけて食べる。あめ色でもまだ漬けが浅いキュウリは、パックに入れて冷蔵する。程よい酸味と歯ごたえが、浅漬けとは違った食欲を誘う。

 肥大キュウリが2本も3本も採れたときには、違った調理と食べ方をする。ピーラーで皮をむき、透き通るくらいの小口切りにしてキュウリもみにしたのを、薄くパックに詰めて冷凍・保存する。

 キュウリは、そもそも“固形水”だ。成分の90%以上が水分でできている。それを薄切りにし、塩でもんで凍らせると、シャーベットになる。

 先日の朝、食卓にこの“シャーベットキュウリ”とあめ色の浅漬け、塩出しをした古漬けが出た=写真。シャーベットキュウリは熱いご飯にのせるとすぐ氷が融ける。もう少し塩を利かせたら、うまくご飯にからんだかもしれない。

 昔は、糠床とは別の甕でキュウリの古漬けをつくった。たっぷりの塩と激辛トウガラシを加え、落とし蓋に重しを載せる。しみ出た水分を時折煮沸して戻し、しおれたキュウリを雑菌から守る。1カ月もすれば、ぺちゃんこになったあめ色の保存漬けができた。

 夏井川渓谷の隠居には、今が最盛期のキュウリ1本のほか、夏キュウリの苗2本がある。これからが収穫の本番だ。3日に一回は摘みに行かないと、肥大キュウリだらけになってしまう。そのときにはキュウリもみにするが、梅肉もまぶすと変わったシャーベットキュウリになるかもしれない。今度、ためしてみよう。

2017年7月20日木曜日

霧の海水浴場

 いわき市平の薄磯海水浴場が7年ぶりに再開されたというので、きのう(7月19日)午後、平と鹿島の書店を訪ねた帰りに寄ってみた。 
 このところ、よく濃霧注意報が発表される。行ってみて納得した。塩屋埼灯台をはさんだ豊間と薄磯がうっすら霧に包まれていた。灯台も断崖も見えない。が、県道小名浜四倉線の通行にはまったく支障がなかった。
 
 県道に接続してできた市道南作青井線を利用して海岸部に下りる。昔からの“バス道”にぶつかり、左折して大改造された薄磯に入ると、防災緑地の“丘”が現れる。立て看に従って車を進める。と、その丘の陰にもう一つ道路があった。海側からいうと、砂浜・堤防・駐車場・道路・防災緑地・道路という配置だ。
 
 震災で地盤が沈下し、砂浜が狭くなった。そのうえ、原発事故が起きて、海水浴どころではなくなった。震災前、いわきには10の海水浴場があった。今は9海水浴場だという。照島のサンマリーナがはずれた形になっている。で、震災1年後に勿来、その翌年に四倉、それからさらに4年たって薄磯の海水浴場が再開した。
 
 もう梅雨が明けたのではないかと思わせるような酷暑が続いている。新しい薄磯の光景をこの目に焼きつけたい。海に入るほどの若さも元気もないが、潮風には当たりたい。鹿島ブックセンターからは目と鼻の先だ。急に思い立って、海岸道路へ出た。
 
 海水浴場は霧に視界を遮られていた=写真。平日のせいもあって、その時間(午後2時半ごろ)、海岸にいるのは10人ちょっとだった。海に入っている人はいない(霧のために自分で控えたか、遊泳禁止になったか)。晴れていれば波打ち際で足をぬらしたかったが、堤防から眺めただけで帰ってきた。

2017年7月19日水曜日

ケリがいた

 若いころは、子どもを連れて森や河原、海岸へバードウオッチングに出かけたものだが……。今は、庭にやって来る鳥や、堤防・田んぼのあぜ道・山道などを車で移動しているときに目に飛び込んでくる鳥を、瞬間的に見るだけだ。
 毎晩、野鳥図鑑をながめ、日曜日ごとに鳥を見に野外へ出かけた。その経験から、身近な鳥に関しては鳴き声・色彩・飛んでいる姿・止まっている形(シルエット)で、おおよそ見当がつくようになった。それでも、自信を持ってこれだといえる種類は少ない。まだ見聞きしていない鳥がいっぱいいる。そのひとつが、ケリという名の水辺の鳥。
 
 日曜日(7月16日)昼前、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、朝と同じく帰りに平下平窪の田んぼ道を利用した。青田のなかに一枚、湿って一部水が張られた休耕田がある。そこに脚の長いハトくらいの鳥が休んでいた=写真。通り過ぎようとしたとき、ちらっと視界に入ったので、5メートルほど車をバックして写真を撮った。

 家ですぐ図鑑に当たる。日本鳥類保護連盟の『鳥630図鑑』に似た鳥がいた。ケリの若鳥のようだった。ケリはチドリ目チドリ科、いわゆる「シギチ」(シギ科とチドリ科)の仲間で、留鳥だという。本州の東北~近畿地方の一部の水田や荒れ地で繁殖し、冬には広い水田や河原、干潟などで見られる、とあった。留鳥? 私は、自分の生活圏では見たことがない。

 念のために日本野鳥の会いわき支部の『いわき鳥類目録2015』に当たる。いわきでは留鳥ではなく漂鳥だ。「市内では春先と秋口に数回の確認記録があるだけです」。すると、どこかで巣立った若鳥が放浪中、平窪の休耕田で一休みしていた、ということになるか。
 
 そのどこかのひとつ、「棚倉町で繁殖中の個体に遭遇したことがありました。けたたましく『キリッ、キリッ、キリッ、キリッ』と鳴いて威嚇してきましたが、この鳴き声からケリと名付けられたとも言われています」。中通りから阿武隈の山を越えてやって来たのかもしれない。
 
「数回の確認記録があるだけ」なら、いわきでは希少種、写真的には特ダネではないか、なんて思ったのだが、データを拡大するとピンボケもはなはだしい。でも、今まで見たこともない鳥を見た、という喜びだけは大きかった。

2017年7月18日火曜日

いわきの花街

 平町(現いわき市平)にカフェーやバーが登場するのは、大正時代中期。好景気もあって、遊郭以外に新しい遊興を求める人間が周辺町村から平町に流入した、という。
 土曜日(7月15日)、いわき地域学會の第328回市民講座が市文化センターで開かれた。講師は小宅幸一幹事。「花街の盛衰(1)―明治・大正・昭和の夜を華やかに彩った女性たち」と題し、明治41(1908)年、平町に設置された「貸座敷」(遊郭)の歴史を中心に話した=写真。サブタイトルが珍しく「カストリ雑誌」風だ。

 カフェーやバーといった新商売の話に引かれた。昭和7(1932)年ごろ、欲望を抑えきれない農家の若者の話が新聞記事になった。あとで、小宅さんが紹介した同年8月30日付磐城時報に当たる。

 平町に隣接する平窪村(現いわき平・平窪)は農産物の生産・供給地。農家の青年がリヤカーに野菜を積んで町へ売りに出かけたのはいいが……。

 持ち帰る現金が、野菜の量に比べて少ない。青年は「不景気で売値がめっぽう安い」と言い訳をする。実際には「連夜カフェーで白粉(おしろい)臭いサービスにうつつをぬかし」ていた。「甚(はなはだ)しいのは飲み代(しろ)がはりに胡瓜(きゅうり)、茄子(なす)、南瓜(かぼちゃ)を、カフェーにあづけ、そのカフェーは翌日にその附近に販賣してゐるものさひ(え)あ」った。
 
 同時代のエピソードを思い出した。好間の菊竹山で妻とともに開拓小作農業を営んでいた詩人三野混沌(吉野義也)が、収穫した小麦を町に売りに行く。持ち帰ったカネはわずか40銭。6円40銭で売れたのだが、6円で本(カンディンスキーの芸術論)を買ってしまったのだ。妻のせいは、この一件で経済観念のない夫に愛想をつかす。
 
 小宅さんの話に戻る。新聞記事かどうかは不明だが、昭和8(1933)年、平警察署は風紀取り締まりのために特別警察隊「新撰組」を結成した。目に余る事態に業を煮やしたのだろうが、特別チームが「新撰組」とは――。
 
 ついでに、小名浜の話を。小名浜には公認の「貸座席」はなかった。カフェーは昭和3(1928)年5月、中島南裏通りにオープンした「カスケード」が第一号だったとか。場所はどこなのだろう、「○×ランド」があるあたりか。

2017年7月17日月曜日

ヤマユリ街道

 期待していた以上だった。平地から急坂を駆け上がり、夏井川渓谷に入ると、ガケの中腹にヤマユリの白い花が咲いていた。それからは点々と、谷側のガードレールのそば、山側のガケの中腹から、白く大きな花=写真=や蕾が目に飛び込んできた。
 きのう(7月16日)、日曜日朝のことだ。1週間前の日曜日には影も形もなかったのが、月曜日以降、次々と蕾を膨らませ、花を咲かせたのだろう。たまたま家を出るとき、カミサンにつぶやいた。「ヤマユリが咲いているかもしれない」。大当たりだった。「ヤマユリ街道だね」。車の助手席から感嘆の声がもれた。

 同じ阿武隈高地でも標高の高い田村市の山里では、ヤマユリの開花がちょっと遅れる。夏休みの始まりとほぼ一緒だ。子どもにとっては、ヤマユリは「夏休みを告げるうれしい花」だ。青空と入道雲に雑木林の道端に咲くヤマユリの花と香りを重ねると、梅雨が明けて真夏がきた、というイメージが広がる。

 渓谷からひとつ山をはさんだ北側に「ヤマユリ分校」があった。小川小・中の戸渡(とわだ)分校で、昭和34(1959)年、同36年、分校生が皇居に地元のヤマユリの球根を寄贈すると、お礼に皇太子夫妻(現天皇・皇后)から『新美南吉童話全集』(全3巻)とメタセコイアの苗木が贈られた。

 分校はやがて廃校になり、建物は「戸渡リターンプロジェクト」の拠点として再利用された。プロジェクト活動の「前進と反発、逡巡と停滞が繰り返され」る(いわき地域学會発行『いわきの地誌』)なか、旧来住民世帯が減り、震災・原発事故が追い打ちをかける。戸渡は「追い出された集落」になった。

 ヤマユリの花が咲くと――。「夏休み」「ヤマユリ分校」を連想したが、これからは「ヤマユリ街道」を加えよう。

2017年7月16日日曜日

イノシシと新ジャガ

 夏井川渓谷の小集落・牛小川――。「K君の畑のジャガイモがやられた」。マチで会った牛小川の住人が言う。“犯人”はイノシシだ。わが隠居でも、下の庭のヨシ原がほじくり返されただけだったのが、7月に入ると上の庭でミミズを探すようになった。菜園の角に大きな穴ができていた=写真。
 Kさんの畑、といってもジャガイモを栽培しているのは、マチに住むKさんの姉さんだという。Kさんはマチの職場に通っていて、野菜の世話をする時間がない。お姉さんが来て残りのジャガイモを収穫した、ということだった。イノシシと人間とで収穫を分け合う結果になった。

 わが隠居の庭はさいわい、これまで“実害”はない。9年前の2008年6月下旬、イノシシが菜園わきの土手を激しくほじくり返した。草刈りがしなくても済むほどのトラ刈り状態になった。その荒々しさに驚いた。それが今までの最大の“被害”。そのとき、近所の様子を見に行ったら、山側のジャガイモ畑に新しくネットが張られてあった。数日前にイノシシが出た、ということだった。
 
 不思議でならない。イノシシの嗅覚が鋭いことは承知している。が、極端な話、「あした、ジャガイモを掘ろうかな」という段になって、イノシシに先を越される。9年前も、今年(2017年)もそうだった。イノシシは体内に、新ジャガがどこにあって、いつごろ行ったら食べられるか、がわかる“センサー”を備えているのだろうか。
 
 わが菜園にあるのは、枯れてさやをもった辛み大根、三春ネギ、トウガラシ、ナス、キュウリだけ。イノシシの好物ではないのか、今のところ順調に育っている。隣の集落にある友人宅ではいろいろ被害に遭っているらしい。「イノシシはヤマユリの根っこを食べんだよ」。昔、仲良くなった牛小川のオバサンに言われたことがある。それもやられたと前に言っていたような……。
 
 そのヤマユリが咲き始めているかもしれない。これから肥大キュウリを摘みに隠居へ行く。ついでに、ヤマユリの花が咲いていれば写真に撮る。

2017年7月15日土曜日

「ナミノハナください」

 夕方、店番をしていると――。近所の農家の奥さんが「ナミノハナ(波の花)を買いに」と言いながら入って来た。思わず反応する、「しばらくぶりに『ナミノハナ』の言葉を聞きましたよ」。「午後になったから」、奥さんが当然のことのように応じた。
 小さいころ、母や祖母が口を酸っぱくして言ったものだ。夕方、食塩=写真=を買いに行くとき、「『ナミノハナをください』って言うんだぞ」と。なぜ「ナミノハナ」なのかは、説明がない。ただ、言われたとおりに店の人に告げて、食塩を買って帰った。記憶に残る「はじめてのおつかい」のひとコマだ。
 
 奥さんは私と同年代かちょっと上くらいだろう。やはり、小さいころ、親から使いに出されるたびに「ナミノハナって言うんだぞ」と教えられたにちがいない。結婚して台所をまかされ、息子一家と同居する今も、午後は「シオ(塩)」ではなく「ナミノハナ」と言わないと落ち着かないらしい。
 
「ナミノハナ」、漢字で書けば「波の花」は宮中に仕える女房詞(ことば)のひとつだったとか。庶民の間では、「夜は塩を買いに行ってはいけない」といったタブーがあった。「塩ください」が「死をください」に通じるというわけで、不吉を避ける意味でも、午後は「ナミノハナ」と言い換えるようになったようだ。一日のなかに昼と夜、つまり生と死がある――そんな日本人の心意の反映だろうか。

 昭和30~40年代、日本は右肩上がりの高度経済成長時代が続いた。そこへ突入する直前まで、子どもたち(私ら団塊の世代)は毎日のように買い物に行かされた。大量生産・大量消費・大量廃棄に踊らされる前の、量り売り・切り売り中心の時代、一升瓶を持って父親が飲む焼酎を買いに酒屋へ、鍋を持って豆腐屋へ……。もしかしたら、私らが最後の「ナミノハナ」世代だったか。

 さて、きょう(7月15日)は、いわきの3海水浴場(勿来・薄磯・四倉)で海開きが行われる。薄磯は震災後初めて、7年ぶりの海水浴再開だ。なぎさにはカラフルな「波の花」が咲くことだろう。

2017年7月14日金曜日

クロアゲハがやって来た

 わが家は相変わらず“真夏日”続き。夜になっても窓や戸を開け放し、扇風機をかけている。戸締りをして寝るのはだいたい11時ごろ。それでも寝苦しくて、朝までに1、2回は目が覚める。
 6月末、タテハチョウの仲間のヒオドシチョウが茶の間の観葉植物の葉陰に一泊した話を書いた。やって来たのは宵の時間だった。今度は昼前、クロアゲハの雌が現れた=写真。しばらく行ったり来たりしていたので、デジカメを連写モードにして撮影した。

 夏は木々の葉が茂る庭と茶の間が一体化する。それで、いろんな虫が家に入り込む。庭木の中心は柿。「セミの鳴く木」でもある。6月末にニイニイゼミがささやきはじめ、次いでアブラゼミとミンミンゼミが歌い、8月中旬にはツクツクボウシが鳴きだす。ところが、今年はまだニイニイゼミの鳴き声を聞かない。
 
 きのう(7月13日)は朝9時半すぎに、仕事があって車で出かけた。道路に出るとすぐ、パトカーが後方からサイレンを鳴らして近づき、追い越して行った。事故か事件か――。一瞬、血が騒いでパトカーを追いかけたくなったが、やめた。時間に遅れる。
 
 昼過ぎに帰宅すると、銀行で強盗未遂事件があった、という。知人がカネを下ろしに行ったら中に入れなかった、という。わが家からは1キロ先の、隣の行政区にある東邦銀行神谷(かべや)支店だ。
 
 報道によると、同支店に75歳の男が現れ、居合わせた84歳の女性に果物ナイフを突きつけ、女性行員に現金を要求した。男はすぐ男性行員に取り押さえられた。男はアパート暮らし。そのアパートは支店から約500メートル先にある。銀行へは「サンダル履きで訪れ、顔もマスクなどで隠さず丸出しだった」(読売)。哀れを感じてしかたがなかった。
 
 わが家の夏の虫たちは「火」ならぬ「灯(ひ)」に飛び込んで来る。このジイサンは「カネが欲しかった」から歩いて?銀行にやって来た。貧困に苦しんでいたのかもしれない。暑さも手伝ってのことだったかもしれない。周りに相談する人はいなかったのだろうか。犯罪は犯罪として、地域のなかに潜在する問題の一端を垣間見た思いがした。

2017年7月13日木曜日

「小さな出版社」

 ときどきツイッターで本が紹介される。既存の出版社のほかに、「ミシマ社」、あるいは「ミシマガジン」といったものがあることを知る。最初は三島由紀夫に関係するメディアかと“誤読”したが、そうではなかった。
 朝日新聞社ジャーナリスト学校が発行している「ジャーナリズム」7月号は、特集が「地方からニッポンを変える」だった。そのなかで「『中央―地方』のしがらみを離れ自由な出版の実践を模索」というタイトルで、ミシマ社代表の三島邦弘さんが文章を書いていた。まだ40代前半、若い人だ。

「いくらなんでも一極集中過ぎる、東京だけ繁栄していれば日本はいい、というのではいけない。風穴を開けなければ」。最初、東京で出版社を興した。東日本大震災を機に、地方での出版活動を実践する。今は、東京のほかに京都にオフィスを構えている。

 三島さんの文章を読んだ直後だった。日曜日(7月9日)、平・本町通りの「三町目ジャンボリー」(展示即売市)をのぞくと、前回6月から参加しているという「移動本屋 リードブックス」が店を出していた。

 品ぞろえが変わっている。三浦豊『木のみかた 街を歩こう、森へ行こう』が目に留まった。発行所は「ミシマ社京都オフィス」だ。店主はこれまた若い人で、「ミシマガジン?」と聞くと「そうです」という答えだった。なにはともあれ、ミシマ社の気風を感じるために読んでみることにした。「買い切り」なので定価通りの値段だった。
 
 本は100ページ弱と薄い。「コーヒーと一冊」シリーズ(コーヒー一杯を飲みながら読み切れる分量)の本で、キリ(桐)からエノキ(榎)まで、街に生える木15種類が紹介されている。一般にはなじみの薄いアカメガシワ(赤芽槲)も取り上げている。目の付け所がいい。
 
 次の日、カミサンが移動図書館で借りた益田ミリのマンガ『ほしいものはなんですか?』を手にしながら、「アラカシって木があるんだね」という。「あるよ、照葉樹」。アラカシは手を加えなければ大木になる。それが、常緑の生け垣として剪定されてそこにある。アラカシは一種の“人生訓”となって登場人物の心に生える。で、マンガの発行所を見ると、東京の「ミシマ社」だった。
 
 アカメガシワに戻る。この木は生命力が強い。アスファルトのすき間から芽生える。渓谷や河川敷、道端など、至る所に見られる。平の東部商店街の道端にあった若木は、そばに自販機を設けるときに切られたようだ。きのう(7月12日)確かめたら、根元しか残っていなかった。
 
 若い世代は本を読まないといわれる。いや、読んだり書いたりする若い人もいる。なんというか、30~40代の若い人たちが「中央―地方」という見方を超えて、「現に生活している場所が中央」ととらえるようになってきた、そういう人たちのなかに新しい読み手・書き手・編集者・出版事業者が生まれつつある、などと勝手に解釈して勝手にうれしくなった。

2017年7月12日水曜日

キュウリとナス

 このところの暑さも手伝って、キュウリやナスの生長が早い。夏井川渓谷の隠居にキュウリとナス苗各2つを植えた。キュウリは、1本だけが実をつけ始めた。別の1本は整枝中に誤って主枝を切ってしまったので、枯れた。ナスも実を付けるようになった。
 出かけるのは日曜日、つまり1週間に1回。これではキュウリもナスも肥大してしまう。7月9日に摘んだキュウリは、長さが40センチ近かった=写真。

 わざわざキュウリを肥大させる人がいる。インド料理の店「マユール」のオーナーはネパールの出身。ヘチマのように肥大させたキュウリを輪切りにして、塩を振って食べるのが好きなのだそうだ。肥大したキュウリは、わが家では薄切りにしてきゅうりもみにする。大根を輪切りにして塩を振り、水分がにじんできたところを食べる「大根の涙」がある。それと同じで、オーナーには「キュウリの涙」がたまらないのだろう。

 9日は、平・本町通りで「三町目ジャンボリー」が開かれた。野菜直売の生木葉ファームさんからいいことを聴いた。ナスは、朝採って夕方食べるときには柄を長くつけたまま摘む――。へたのところでもぎると水分が逃げやすく、鮮度が落ちるということなのだろう。その日の朝、隠居で摘んだナスには柄が付いていなかった。これではたちまち鮮度が落ちる。次からは、キュウリもナスも柄を付けたまま摘もう。

「野菜は要らないか」。きのう(7月11日)は知人から電話が相次いだ。家庭菜園といえども、キュウリやナスが一斉に生(な)る。夫婦2人だけでは食べきれない。1件はおすそ分けのおすそ分けだった。遠慮なくいただいて、近所におすそ分けをした。するとさっそく、夜には肉とキュウリの炒め物が届いた。

糠漬けも浅漬けだけでは芸がない。古漬けがある。塩漬けもいい。とにかく新鮮なうちに食べることだ。鮮度の落ちたキュウリは、中身が白くなっていて、漬けてもおいしくない。

2017年7月11日火曜日

キノコを彫る

 キノコに絞って木彫を続けている、いわきキノコ同好会の仲間がいる。いわき地域学會の副代表幹事でもある画家峰丘さんの絵画教室に通っている。
 7月6日から10日まで、いわき市好間町榊小屋のギャラリー木もれびで「峰丘 絵画教室展」が開かれた。峰さんと10人の生徒の作品が展示された。キノコ仲間の吉田健二さん(四倉)がわざわざ案内状を持ってきたので、日曜日(7月9日)に見に行った。

 木もれびへ出かけるのは震災後、つまりこの6年間で3回ほどだろうか。オーナー夫妻は、行政区は違うが同じ生活圏に住む。ふだんは経済人、その成果をギャラリー運営に還元している。

 ギャラリーの両隣に憩いの店ができる。手前の家はドッグランカフェになった。奥の家はちょっとした食事ができる店になる予定だという。好間川の河畔林に接した“別荘地”が、木もれびを核にした文化村的な空間になる。オーナーが夢見ていたことが一歩、現実に近づいた。

 で、肝心のキノコカービングだが――作品は3体。見たことも聞いたこともないキノコの名前が付されてあった。

 ウラアミアオタケ=傘は空色、柄は濃い青、傘裏には黒い網目が入っている。ウラグロクサイロハツ=傘は緑色、柄は白みがかった肌色、傘裏は黒っぽい。ウラギンアオノベニタケ=傘と柄はコバルトブルー、傘裏は黄土色=写真。ウラは傘裏のことで、ウラアミやウラグロは、それが網目状になっていたり、黒かったりすることを表している。ウラギンはよくわからない。

 吉田さんがキノコカービングを始めたのは原発事故後だ。野生キノコは、福島県内では会津の一部を除いていまだに摂取・出荷が制限されている。で、私の場合は「撮るしかない」、吉田さんは「彫るしかない」になった。色の表現が難しい、ということだった。

2017年7月10日月曜日

逃げ水

 久しぶりに「逃げ水」を見た。逃げ水は「ないものがある」ように見える光学的現象だ。
 梅雨とは名ばかりらしい。豪雨が続く西日本と違って、東北南部のいわき地方ではカラ梅雨気味に推移している。夏至に梅雨入りが重なった6月21日以後、小名浜の降水量は累計でもおよそ70ミリ。そのうえ、この週末は茶の間の温度計が3日連続で30度を超えた。すでに盛夏のような暑さだ。

 土曜日(7月8日)の午後遅く、平の街へ出かけた。家を出るとすぐ、部活帰りの中学男子3人組に遭遇した。一人がこうもり傘をさしていた。あまりにも暑いので雨傘を日傘に代用したのだ。近年は夏に1~2回、日傘の男性を見かけるようになった。

 いわき駅前を通ると、温度計が「35℃」を表示している。「猛暑日」ではないか。もちろん、今年の最高気温だろう。ラトブの図書館へ入ったら、驚いた。大半が半そでのなかで、女性が一人、コートを着ていすに座っていた。冷房は暑さを忘れさせるほどではない。“ひとりガマン比べ”をしていたのか。

 きのう(7月9日)はいろいろ行きたいところがあったので、いつもより1時間早く朝食をとった。夏井川渓谷(隠居で土いじり1時間)~三和町(ふれあい市場で買い物)~好間町(「木もれび」で絵画展を見る)~平(三町目ジャンボリーをのぞく)と巡ったら、お昼過ぎになった。

 ふれあい市場でおにぎりときのこご飯を買った。温室のようなわが家より風が渡る公園の木陰で食べたい――ということで、夏井川河口左岸にある「ざわみき公園」へ車を走らせる。堤防のアスファルト路面に“逃げ水”ができていた=写真。「光る水」があったあたりに行くと、それは消えて、さらに遠くに「光る水」ができている。その繰り返しだ。それだけ暑かったということだろう。

 さて、逃げ水より「逃げ道」だ。政治的私物化があったのか、なかったのか。きょうは国会で閉会中審査が行われる。「あったものをなかったことにはできない」と発言した前文科省事務次官が参考人として質疑にこたえる。大多数の国民は、今は参考人の人となりについて理解している。テレビ中継を見逃せない。

2017年7月9日日曜日

吉野せいの色紙

 吉野せい(1899~1977年)が亡くなって、今年(2017年)で40年。秋にはいわき市立草野心平記念文学館で「没後40年 吉野せい」展が開かれる。平成11(1999)年に「生誕百年記念―私は百姓女」展が開かれて以来、18年ぶりの開催になる。
 70歳を過ぎて書いた“百姓バッパ”の作品集『洟をたらした神』が大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞したのは昭和50(1975)年。本の生命力は今も衰えていない。加えて、本が出版されたときと、受賞時に記事を書いたこともあって、今もときどき『洟をたらした神』を手にする。
 
 地元の記者であれば知っておきたい人間の一人――という思いで、現役のころから研究資料や関連文献には目を通している。
 
 本人に確かめたかったことがいろいろある。『洟をたらした神』の時代は、大正から昭和40年代にまで及ぶ。記憶だけで書けるものではない。わが子の死をテーマにした「梨花」は日記に基づいて書かれた。ほかの作品にも、基になったメモやノートがあるのではないか。
 
 生誕百年記念展では、平の玉手匡子(きょうこ)さんが聞き手になって、せいの四男誠之(せいし)さんと対談している。その大要が文学館の“月報”(平成12年3月末発行)に載る。「私ら子どもから見ても、書くことが好きそうでした。夜中に起き出して、ちょっとしたメモや日記の様なものを書いていました」。このへんが手がかりになるように思う。
 
 同じ対談で紹介されているせいの色紙「怒を放し恕を握ろう」=写真=の読みも、確かめたかったことのひとつだ。玉手さんは「怒」を「怒り」と読んだ。すると、対句的表現で「恕」は「恕(ゆる)し」になるのではないか。月報ではしかし、「し」が抜けたまま「怒りを放し恕を握ろう」となっている。
 
 剛直で明晰なせいの文体は、どちらかというと男性的・漢語的。「怒り」や「恕し」といった和語的表現よりは、音読みの「怒(ど)を放し恕(じょ)を握ろう」も“誤読”とは言い切れないのではないか。こちらの語呂やリズムの方が、むしろせい的だ。
 
 この“せい語録”は、他人のためにはいろいろ尽くしても生活能力には欠ける夫・吉野義也(三野混沌)との確執から生まれた。が、最後は確執を超え、自分のかたくな心をも超えて、愛憎複合の果てにやってきた青空を思わせる。玉手さんに会ったら、読みを聞いてみよう。

2017年7月8日土曜日

わが家は真夏日

 きのう(7月7日)の夜10時前、グラッときた。「ん!? 震度4に近い3か」。福島地方気象台のホームページで確かめる。震源は福島県沖(相馬の方)、田村市都路町で震度4。いわき市は平その他で2だった。2? わが家は3.5(そんな震度階級はないが)くらいだったぞ――6年の経験からそう思った。
 ま、それはそれとして、きのうは夕方、知人の奥さんの通夜へ出かけるまで、家でTシャツ・半ズボンで過ごした。日中、出かける予定がなかったことと、朝から晴れて気温が上がったために、自然とそんな格好になった。
 
 クーラーのない昭和の家に住む古い人間なので、それだけで裸に近い状態だと思ってしまう。だから、近所のコンビニへ行くときには長ズボンにはき替える。街へ行くときには、半そでシャツを重ねる。

 夕方、通夜へ出かけるために喪服に着替えた。たちまち汗がにじんだ。テレビのそばの時計を見ると、午後5時前で室温は30.8度=写真。屋内が真夏日になっていた。小名浜はきのう、最高気温が24.6度、内陸の山田町は28.8度。わが家の茶の間は南が庭と接しているので、その輻射熱も入り込むのだろう。
 
 さて、亡くなった奥さんは67歳、私よりひとつ年下だ。いつもは冗談を言って人を笑わせる知人が、やつれて小さく見えた。子育てが終わって夫婦2人だけになり、孫の世話をするのが楽しみな日々。年を重ねると、こうして夫婦のどちらかが先に彼岸へ渡るのだ――夜は亡くなった奥さんの顔がちらついて酒の量が増えた。

きょうも暑くなりそうだ。朝からTシャツに半ズボンでいる。

2017年7月7日金曜日

空の監視レーダー

 山頂の城だけがぽっかりと霧の海に浮かぶ。天空の城・越前大野城。盆地のなかの小さな丘(標高249メートル)なのに、霧がふもとの市街を覆うと、はるか天空にそびえる城のようにみえる――。テレビで見た光景を思い出した。
 日曜日(7月2日)、朝。平・中塩地内の水田地帯を移動していると、北西に広がる水石山(標高735メートル)が、ふもとからわきあがる雲に隠れるところだった。

 水石山は、平市街の北から西に連なる阿武隈の山の代表格だ。平の人間にとってはこの時期、夕日が沈む山でもある。

 朝霧が雲になって見慣れた山を刻々と覆う。残っているスカイラインはほんの一部、国交省のいわき航空路監視レーダーが見えるだけだ。おかげで、いかにも天空に屹立(きつりつ)する城のようだった=写真。その場所に、その時刻にいたからこそ、カメラで切り取ることのできた、雲に浮かぶ“空の灯台”。撮影もまた一期一会だ。

 阿武隈高地ではこれとは別に、主峰・大滝根山(1193メートル)の頂上に航空自衛隊のレーダー基地がある。

 62年前の昭和30(1955)年、山頂に米軍のレーダー基地ができた。翌年には航空自衛隊の部隊が移動し、3年後の同34年、米軍から航空自衛隊に施設が移管された。「わが国に侵入する弾道ミサイルや航空機に対して、24時間態勢で警戒監視と戦闘機の要撃管制を実施している」と基地のホームページにある。北朝鮮のICBM(大陸間弾道ミサイル)も当然、監視警戒の対象になるということだろう。

 防衛省と国交省の違いはあるが、福島の阿武隈の山には空の監視レーダーが二つある、そのことを、ときどきは思い出した方がいい時代に入ったか。

2017年7月6日木曜日

昭和40年代の平駅前

 またまた朝ドラ「ひよっこ」にからんだ話で恐縮なのだが――。
 昭和41(1966)年6月29日~7月3日、ビートルズが来日し、公演した。私は高専3年生、数え18歳。武道館へ聴きに行った後輩の1年生は、朝ドラ・谷田部みね子の叔父の熱狂そのものだった。リンゴ・スターが好きだった。私もビートルズの音楽になじむうちに、ジョウジ・ハリスンに引かれていった。

 ビートルズは「画期的」どころか、「画期」だった。少年が「表現」に目覚めることは、当時の私の周囲では詩を書いたり、小説を書いたりすること、つまり「文学」に目覚めることだった。ところが、「団塊の世代」直下の後輩は違っていた。「音楽」が表現の中心になっていた。

 そのころ、常磐地方の14市町村が合併して「いわき市」が誕生する。いわき総合図書館で平成29年度の前期常設展「写真でみる いわき市誕生 その2――昭和40年代 平(現いわき)駅前の賑わい」が始まった。
 
 資料=写真(左側は「その1」、28年度後期の常設展)=をパラパラやっているうちに、当時、高専の学生が駅前のあちこちの喫茶店に入り浸っていたことを思い出した(実は先日、知人から平の喫茶店に関する資料がないかと聞かれた。1冊だけ記憶にあったので、図書館へ確かめに行ったのだった)。

 一番身近なところでは三田小路の「じゅん」、ビートルズ好きの後輩は駅前から少し遠い南町の東はずれの方にあった「アジト」、先輩たちは「フィレンツェ」。ときどき出かけたのは平和通りの「エスカイヤ」。ほかにも、足を運んだ喫茶店がいくつかある。今残っているのは「じゅん」(内郷に移転)だけだろうか。

 ジャズでもロックでもクラシックでもなく、今思えば甘ったるいフォークソングに引かれていた人間には、ビートルズは後輩から教えられた“劇薬”だった。同時に、喫茶店はコーヒーを飲む店である以上に、人生とかかわる場所だった。喫茶店を抜きにしてその人生を語れない人間を何人か知っている。

2017年7月5日水曜日

地上の安藤信正像

 朝ドラ「ひよっこ」と同じ時代の、平の街の資料があれば――。ゆうべ(7月4日)、故義伯父の家にある自分の本棚をあさっていたら、茶色くくすんだ封筒から松ケ岡公園の安藤信正像の写真が出てきた=写真。
 信正像の制作者は彫刻家本多朝忠(ともただ)さん(1895~1986年)。大正11(1922)年に建てられた信正像(これも本多さんが制作)が太平洋戦争で供出され、戦後、昭和37(1962)年になって2代目が再建された。2代目の建立・除幕式の写真のようだった。

 義父や別の義伯父が本多さんと交流していたこともあり、結婚して子どもが生まれてからは、ときどき家族で高台の洋館を訪ねた。プロレスや俳句を好む「飄逸(ひょういつ)の人」で、年齢を聞いてもずっと「69歳」で通した。

本多さんから“形見分け”としていただいたものがある。信正像の写真もそのひとつだったようだ。絵はがきを含めて7枚あった。
 
 台座に取り付けられる直前の信正像のそばに、ベレー帽・半そで姿の本多さんが立っている。その比較でいえば、銅像は人間の2倍の高さ、体積は4倍ある。大きい!

 2年前の秋、四倉で昭和11年に撮影された16ミリフィルムのデジタル版の試写会が開かれた。初代信正像が映っていた。その後、試写会を主催した知人から信正の初代銅像の写真と、新聞記事(昭和36年4月8日付いわき民報)のコピーが届いた。

「平城主安藤信正公の銅像再現は平市八幡小路、彫刻家本多朝忠氏の手で進められ、このほど高さ9・1メートルという大原形(粘土像)ができあがった。引き続き石膏取りに入り6月ごろに終え銅像を鋳造する予定だが、再現費300万円の寄付金の集まりが悪く、銅像完成の成否は拠金如何にかかっているといわれている」

 なんとかかんとか再現がなったのは、平市議会で補正予算が可決されたからだ(いわき市の公式フェイスブックによる)。昭和37年7月22日に除幕式が行われたことは、けさ、市立図書館のホームページで知った(いわき民報の記事による)。銅像が建立されるまでの紆余曲折、つまりは「人間ドラマ」が見えるようだった。

2017年7月4日火曜日

アトリウムの雨粒

 草野心平記念文学館へ行くと、決まって正面のアトリウムロビーから分厚いガラス壁面越しに二ツ箭山を眺める。
 土曜日(7月1日)、昼。少し雨が降りはじめたときだった。ガラス壁面に雨粒の“点描画”ができていた=写真(実際は透明に近い、フラッシュでこうなった)。垂直に長く短く、斜めに短く。なにかの絵で見た、地上に降り注ぐ大流星雨のような……。雨粒は芥子粒大、それより小さいものもある。大小の粒々がばらばらな間隔で直線をつくっている。つるつるの壁面をキャンバスにした雨と重力のアート――。

 昨年(2016年)秋、同じ壁面を利用して、人間がちぎれた曲線の作品を描いた。平・三町目の「もりたか屋」を主会場に、美術展「いわきまちなかアート玄玄天」が開かれた。芸術文化交流館アリオスや心平記念文学館にも作品が展示された。

 文学館のガラス壁面には、心平の詩「猛烈な天」3連11行が記されている。その下の、人間の背丈に合わせたところに、ちぎれた白い曲線が無数に描かれた。作者は浅井真理子さん、タイトルは「somewhere not here」(「ここではないどこか」)だった。

「建物のガラス窓の外に見える光や影、人々の動き、刻々と変化する事象の一瞬を追い、内と外の間の被膜をひっかくように描く架空の地図」だそうで、「光の動きや窓やドアの動きと共に変身するこの作品を、目をこらさなければ見過ごしてしまうことを、あなたの視線で見つけてください」とあった。

 なるほど。美術家と自然との共作だ。雨粒の点描画も同じように目を凝らさないと見過ごしていた。こちらは、見る人間と自然との共作。
 
 芸術は自然を模倣する。あるいはその逆に、自然は芸術を模倣する、と言われる。どちらにせよ、自然はアートの源泉だ。雲がそう(石川啄木は「雲は天才である」といった)、秋の紅葉がそう、クモの巣やハチの巣が、虹がそう。朝焼けも夕焼けもそうだろう。大事なのはセンス・オブ・ワンダー(自然の不思議に目を見張る感性)。けさ(7月4日)は前線の影響で雨のほかに風も吹いている。アトリウムの雨粒はどんな抽象画を描いていることだろう。

2017年7月3日月曜日

エディブルフラワー

 土曜日(7月1日)の午前、いわき市立草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれた。終わって、館内のカフェ&レストラン・スピカに移動して昼食をとった。出てきたのは「気まぐれランチ」というものらしかった。1枚の皿に雑穀ごはんやサラダ、グラタン、その他が載っている。中央に花が一輪添えられていた。
 詩人の長久保鐘多さん(勿来=元高校教諭)と同席した。長久保さんは昭和56(1981)年、福島県文学賞・詩の部正賞を受賞する。そのとき取材して以来のつきあいだ。今は事業懇談会で年に2回、ほかに文学者の講演会で顔を合わせる程度だが、現役のころは平の詩人や画家たちと一緒に飲むことが多かった。ランチが来るまで雑談した。共通の知人の「Aさんは?亡くなった」「Bさんは?亡くなった」、半分はそんな話になった。

 ランチに添えられた花は、私の場合は黄色、長久保さんのは朱色だった。秋のカツオの刺し身に生のキクの花が添えられることがある。口に入れる。それと同じで、私はためらいなく黄色い花を食べた。長久保さんは花を皿の端によけた。ただの飾りと思ったのだろう。

 そこからとんちんかんなやり取りが始まる。「花を食べるの?」「食べられるんじゃないの?」。料理を持ってきた女性に聞くと、これがまたあいまいな返事だった。で、女性が調理場へ聞きに行く。「食べられます」。長久保さんは驚き、かつ大いに興味を抱いたらしく、かみしめるように朱色の花を胃袋に収めた。
 
 テーブルに、食用花=エディブルフラワーの紹介文があった。それを長久保さんに示す。長久保さんはさっそく「エディブルフラワー」という言葉をメモした。詩的インスピレーションを受けたらしい。
 
 考えてみれば、フキノトウがそれに当たる。キュウリの花=写真=も食べられる。秋のミョウガの子も花ごと食べられる。菜の花はずばり、エディブルフラワーの代表ではないか。
 
 文学館では4月15日から6月18日まで、企画展「草野心平の詩 料理編」が開かれた。関連イベントとして、5月に「心平さんの胃袋探訪 創作料理の試食と解説」を開催、参加者はエディブルフラワーを載せたサンドイッチを試食したそうだ。心平は、花も南蛮味噌や醤油、蜂蜜、二倍酢につけて食べた。
 
 長久保さんは新聞のニュースやコラム、本、身近な人々の言葉や行為など、日常接したり見聞きしたりするものからインスピレーションを受け、哲学的な考察を加えて詩にする。「エディブルフラワー」もやがて詩になるのではないか。

2017年7月2日日曜日

とうとうサルが現れた

 とうとうサルが現れた。きのう(7月1日)、夕方。知り合いが家に来て、カミサンに言った。「サルが歩いてた」。聞けば、すぐ近くだ。カメラを手にしてそちらへ向かうと、2階建て住宅の屋根のてっぺんにいた。
 とうとう――というのにはわけがある。今年(2017年)の5月以降、いわき市南部を主に、サルの出没情報が相次いでいたからだ。

 南部に住む後輩の話や市のホームページによれば、5月16日は中岡町・植田町根小屋・東田町・佐糠町で、同17日は佐糠町・東田町、同18日は泉町滝尻・玉露でサルが目撃された。6月の後半になると、好間町下好間・平字北目町・幕ノ内、あるいは平・鎌田や南白土・下荒川・郷ケ丘などに現れ、26日は三和町合戸、29日は好間町大利・北好間・上好間で目撃されている。
 
 単独行動の若いはぐれザルが(たまたま複数いて別々に現れた可能性も否定できないが)、いわきの南部から中部へ、さらに北部へと移動していることが推測できる。6月10日早朝には散歩していた知人が、白水阿弥陀堂(内郷)へ向かう途中でサルに遭遇し、ふきらはぎをかまれた。幸いけがはなかった。
 
 撮影データをパソコンで拡大して見た限りでは、若いのにやせている感じ。見晴らしのいい高所で、ただ座っている。ときには“体育座り”になり、手を前で組む=写真。人間が下に集まっても動じない。動いたと思ったら西側の軒先へ移動し、右手で雨樋をつかみながら横になる。雨樋に手をかけているのは転落防止か。なんだか疲れている様子だった。
 
 サルはそれから間もなく隣家へ移り、さらに別の家の家庭菜園と休耕田に移動したあと、奥の住宅地へと姿を消した。
 
 内郷の知人が遭遇したのは「毛並みのいい、ハンサムなサル」だった。歩道を歩いている姿がフェイスブックにアップされていたが、確かに立派な体格をしている。それに比べたら……。人間にたとえると、“荒野”に分け入ったのはいいが、食べるものがない、カネもない、万策尽きる寸前の“はぐれ青年”のような印象を受けた。

2017年7月1日土曜日

1年の半分が終わった

 きょうから7月。あっという間に1年の半分が終わった。3月は年度末、4月は年度初めで忙しいのは毎年のことだが、今年(2017年)は5月の大型連休を過ぎ、6月に入ってもなかなかのんびりできない。日によっては午前・午後・夜と用事が続く。きょう(7月1日)も午前と夜、用事が待っている。
 しかし、忙中にも閑はある。特に、日曜日の土いじり。人に会って話を聞くだけの仕事(取材)をしていたときには、地に足がつかない「存在の耐えられない軽さ」を感じたものだが、家庭菜園を始めてからは二本の足で大地に立っているという実感がある。なかでも、昔野菜の三春ネギには学ぶことが多い。

 ネギは自分の子孫を残すために、春先、花茎を伸ばす。やがて、その先端にネギ坊主ができる。ネギ坊主は小さな花の集合体だ。花が咲けば実が生(な)り、種が形成される。ネギ坊主から黒い種がのぞくようになったら、ネギ坊主を摘み取り、乾かして殻やごみを取り除き、種だけを小瓶に入れて冷蔵庫で保管する。
 
 ネギ坊主をちょん切られたネギはそれで終わり、ではない。掘り起こして外皮をむくと、新しいネギが1本、根から分げつしている=写真(左の2本は花茎、先端にネギ坊主をいただいていた。右は分げつした新しいネギたち)。花茎は硬いので食べられない。土に返す。分げつ苗は溝に植えなおすと、普通に育って食べられる。市販のF1品種だと、そうはいかないのではないか。

 植物の不思議な生の営み――「忙中閑あり」どころか、「忙中“歓“あり」だ。とはいえ、これからネギには根切り虫が現れる。ナスには芯くい虫が寄って来る。虫との闘いが始まる。

2017年6月30日金曜日

チョウが泊まりに来た

「あらっ、チョウ! なんでいるの?」。カミサンの声に振り向くと、茶の間のガラス戸でチョウがバタバタやっていた=写真。ははん、あのチョウだ。わが家に一泊したのだ。朝がきたので、外へ出ようとしているのだ――。
 チョウがホームステイをしたいきさつをカミサンに話す。
 
 おととい(6月28日)は宵になっても玄関を開け放していた。6時になれば晩酌を始めるのだが、行政区がらみの事務に追われていた。そこへチョウが現れた。テレビの画面の中に入り込もうとしたり、電灯の笠の内側に沿ってバタバタやったりしたあと、テレビのわきのパキラ(観葉植物)の葉陰に消えた。
 
 ヒラヒラ飛んでいるときには、翅の表のオレンジ色が目立った。翅の裏はザラザラした樹皮のような感じ。翅のへりがリアス式海岸のようにギザギザしている。タテハチョウの仲間らしい。パキラの葉裏に逆さに止まったあとは、まったく動かない。そこで眠りに就くのだと了解した。
 
 その通りだったのだろう。朝ドラの「ひよっこ」が放送中に飛び立ち、明るい庭の方へと向かったのはいいが、ガラス戸が閉まっていた。ちょっと待て。戸を開けて、手で囲うようにしてチョウを外へ誘導した。

 昭和の家なので、夏場は家の戸と窓を全開する。扇風機が欠かせない。夕方には蚊取り線香を焚く。庭と家との境がなくなるためか、日中はハチやチョウなどが、夜はガやコオロギなどが出入りする。ヒヨドリやスズメが迷い込んだこともある。

 ある夜、晩酌中にアシナガバチがやって来た。焼酎の入った“黒じょか”の注ぎ口をしばらくなめていたあと、どこかへ飛んで行った。こういう“飲み仲間”は困るのだが、7月、8月と、暑くなるにつれて虫たちが目立つようになる。

 ノートパソコンに撮影データを取り込み、ネットの図鑑でタテハチョウ類の翅の模様を見比べる。わが家に一泊したのはヒオドシチョウのようだった。

2017年6月29日木曜日

自前の食材

 ある朝の食卓――。マメダンゴ(ツチグリ幼菌)の炊き込みご飯、キュウリの糠漬け、豆腐とネギの味噌汁=写真=のほかに、前夜のおかずの残りが出た。
 マメダンゴは、夏井川渓谷にある隠居の庭で採った。キュウリは、隠居の庭の菜園で生(な)り始めたのを収穫した。初物だ。
 
 同じ菜園の一角に、毎秋、三春ネギの苗床をつくる。今年(2017年)も少し前に定植したが、密生して未熟なままの苗が残っている。1本1本は「ポッキー」くらいの太さだ。
 
 放置しておくのはしのびない。隠居へ行くたびに一つかみほど収穫する。土を洗い落とし、枯れた葉を取り除いて、すぐ調理できるようにしておく。下ごしらえをしてカミサンに渡せば文句は言われない。刻めば納豆や卵焼き、味噌汁の具になる。
 
 漬物は、冬の白菜漬けも夏の糠漬けも私がつくる。毎年、ゴールデンウイークをはさんで切り替える。初夏は糠床の塩分や軟度、風味を調整する時期。サンショウの若葉や、整枝した際に出たトウガラシの葉を加えたり、塩ザケの皮を入れたりして、糠床に栄養を補給する。それが、その家独特の味に結びつく。
 
 キュウリは、今は半日で漬かる。夕方漬ければ朝には食べられる。いわゆる一夜漬けだ。朝に漬ければ夕方には――ということで、このごろは酒のつまみになる最適の時間を意識しながら漬ける。

 三春ネギはやわらかいのが特徴の一つ。子ネギだからやわらかいのは当たり前だが、それを引いても独特のやわらかさがある。キュウリの苗は初めて、地元の種苗店から買った。しっかりしている。マメダンゴは梅雨期にしか手に入らない。
 
 たまたま隠居の庭で採れた食材のマメダンゴ、キュウリ、ネギ苗が食卓にそろった。「地産地消」の前に「自産自消」が大事と思っている人間にも、めったにない組み合わせだ。食材もまた、一期一会。質素な食生活でも大きな喜びを感じるときがある。

2017年6月28日水曜日

三春ネギの種を冷蔵

「きょうは忙しいからあしたにしよう」。自分のことなら先送りできても、ネギには通用しない。ネギ坊主を刈り取る時期がある。干して種を採る時期がある。
 夏井川渓谷の隠居の庭で昔野菜の三春ネギを栽培している。先週の日曜日(6月18日)、ネギ坊主を見たら黒い種がのぞいていた。刈り取るサインだ。種がこぼれる前にネギ坊主を回収し、レジ袋に入れてわが家の軒下で陰干しをした。
 
 10日後。乾燥が進んだので、ネギ坊主の種の殻を軽くもみ、種と殻・ごみを選り分ける。種選りはしかし、それで終わらない。さらに中身のない種や細かいごみを除去しないといけない。
 
 まだ若いとき、平に住む篤農家の塩脩一さんからごみの除去法を学んだ。モノの本には“風選(ふうせん)”をするように書いてあるが、これが難しい。口でフーフーやると、殻やごみだけでなく種まで飛んでしまう。“水選(すいせん)”にしてからは、種選りが簡単になった。

 ボウルに金ザルを重ね、殻やごみ、土と一緒にネギの種をザルにあける。そこへ水をたっぷり張ると土はボウルの底に沈み、種はザルの底に残る。殻や中身のない種は軽いので浮く。浮いた種は発芽しないから、容赦なく殻やごみと一緒に捨てる。

 あとは新聞紙に種を広げ、一晩軒下に置く。翌朝にはサラサラに乾いているので、これを乾燥剤とともに小瓶に入れて、秋の種まき時期(三春ネギは秋まき)まで冷蔵庫で保管すればいい。ネギの種は高温と湿気に弱い。2、3年、それで保存に失敗した。たまたま冷蔵庫で眠らせたら、発芽に成功したのだった。
 
 今年(2017年)もひとまず三春ネギの種を確保できた=写真、昔野菜のいのちをつなぐことができた、という安心感が広がる。(ネギ以外では、“水選”禁物というものもあるらしいので注意を)

2017年6月27日火曜日

マメダンゴ狩り

 夏井川渓谷の隠居の庭は、幅が15メートル、長さが40メートルほどある。東西に細長い。隠居をはさんで、ササが生い茂っていた西側を開墾し、家庭菜園にした。東側は、庭木が敷地境界に立ち、日陰になる部分には苔が生えている。駐車場に利用している。そこだけで3、4台は止まれる。 
 原発震災の影響で、庭の平均線量が毎時0.23マイクロシーベルトを0.01上回った。で、3年半前の師走に庭が全面除染された。

 除染前、苔の庭では梅雨に入るとツチグリの幼菌(方言名マメダンゴ=食用)が採れた。除染に伴って菌糸も消えたと思ったが、ちゃんと残っていたようだ。梅雨になるとまたマメダンゴが採れるようになった。

 マメダンゴは、すべてが食べられるわけではない。内部に胞子が形成されていると、食用にはならない。その識別は簡単だ。マメダンゴを二つに割る。食べられるものは内部が“白あん”状態、食べられないのは胞子で“黒あん”のようになっている。

 おととい(6月25日)は、朝から隠居で土いじりをした。キュウリを整枝しているうちに、主枝を切る失敗もあったが、こちらは大成功だった。靴で、あるいは手のひらで地中の感触を探るまでもなかった。砂浜のように白い地面からマッチ棒~鉛筆大ほどの茶色い頭が出ている。人さし指でグイッとやると、最大2センチほどのマメダンゴが転がり出た。たちまち20個ほど採れた=写真。

 カミサンを呼んで、マメダンゴがどういうふうに現れるかを教える。と、ためらわずに指を熊手にして周囲をほじくり返す。それが正解だった。小さなマメダンゴが地中から現れた。地中のマメダンゴを指で探し当てたのは初めてだ。よく洗って二つに割ると、すべて“白あん”。これも初めてだった。

 炊き込みご飯にする。外側はコリコリ、中はグニュッの食感は、「阿武隈の珍味」と呼ぶのにふさわしい。今度も「書くだけで届いたことがない」とだれかにいわれそうだが……。大量に採れるものではないし、1週間後には胞子も形成されているだろうから、採取は、今年はもう終わり。

2017年6月26日月曜日

大失敗!

 大失敗だった。キュウリの整枝をしているうちに、側枝(子づる)と勘違いして主枝(親づる)を切ってしまった。そのときには気がつかなかった。
 きのう(6月25日)は朝から、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。雨の予報だったのが、薄日さえさしている。
 
 菜園の野菜、といっても苗はキュウリ、ナス、トウガラシ各2本のほかは、三春ネギと、採種時期を迎えた辛み大根があるだけ。トウガラシからナスへ、さらにキュウリへと整枝の作業を続けた。そのあと、それぞれに追肥をし、1カ月前に定植した三春ネギの溝の草むしりをした。
 
 そこでひと段落つき、立ち上がって振り返ったら、片方のキュウリの葉がしおれていた=写真。なんだ、なんだ! 見ると、親づるが根元から切断されている。
 
 きょうはやるぞ――整枝・追肥・草むしりの手順をいったん頭の中でシュミレーションしてから、苗と向き合った。その前に、ちょうど食べごろのキュウリ3本を収穫した。いよいよやる気になった。
 
 いつものように、「しようがない、やるか」だったら、わりと冷静に相手を見られるから間違いはなかったかもしれない。張り切りすぎた。以前に脇芽を摘み、ついでに切った側枝をきれいに取り除こうとしたのが裏目に出た。初物を収穫したばかりなのに……。

しおれてはいられない。夕方、魚屋へカツオの刺し身を買いに行く途中、種苗店に立ち寄った。夏キュウリのポット苗があった。一つでなく二つにしたら、とカミサンが言う。糠漬け(浅漬け)のほかに、塩漬け(古漬け)にするのもいいか。
 
 来週、切断キュウリの跡とわきに定植する。今年(2017年)は、少しは長くキュウリを収穫することができる、と頭を切り替えることにした。

2017年6月25日日曜日

澄子は元気か

 5年おきに中学校の同級会が開かれる。9年前の還暦同級会では、配偶者と離別、あるいは死別したと語る同級生がいた。でも、一様に「いろいろあったが、元気でやっている」と明るかった。こういうときに決まって思い浮かぶ句がある。「花すすき誰もかなしみもち笑顔」。作者はいわき市の俳人・故志摩みどりさんだ。
 きのう(6月24日)も朝ドラ「ひよっこ」を見ながら、「誰もかなしみもち笑顔」を舌頭でころがしていた。登場人物がそれぞれに心配や悩みを抱えて暮らしている。主人公の谷田部みね子自身、父親が行方不明のままだ。ラストでみね子が、どこにいるかわからぬ父親に向かって語りかける――お父さん、みんないろいろあっけど、笑って生きています。
 
 みね子は「奥茨城村」の出身。高校を卒業すると、東京・向島のトランジスタラジオ工場に就職したが、オリンピック景気の反動で会社が倒産する。一緒に働いていた乙女寮の仲間たちは帰郷、あるいは転職する。みね子の妹分、「小名浜中」卒の青天目澄子(なばためすみこ)は、両国のせっけん工場へ。

 みね子の新しい職場は、父親も客になったことがあるレストラン。そばのアパートから通う。このアパート「あかね荘」の管理人も住人も個性的だ。

 あしたからの第13週「ビートルズがやって来る」は、もちろん昭和41年6月29日~7月3日のビートルズ来日公演を下敷きにしている。私が数え18歳のときで、高専の学生寮でも後輩たちが大騒ぎしていた。1人はチケットを手に入れて武道館へ聴きに行った。今から51年前の、忘れがたい青春のひとコマ――。

 おっと、いつの間にか「あかね荘」ほかの新しい人間に引っぱられて、乙女たち、なかでも青天目澄子のことを忘れかけていた。澄子は元気か。

 もう半月余り前になる。いわき民報が6月8日付1面に、青天目澄子役の女優松本穂香さんのインタビュー記事を載せた=写真。本人は大阪出身。いわき弁でしゃべるのが難しかったという。「平らな調子で話すことを意識」した。好きな言葉は「ひゃっこい」(冷たい)。ますます青天目澄子が身近に感じられるようになったのだが、再登場はいつのことやら。

2017年6月24日土曜日

花のコースター

 飲み会に行ったら、座卓に花びらをあしらったコースター(コップ敷き)が用意されていた=写真。花の字のつく店だった。「人生花づくし」という題で、演歌調の“ポエム”が記されていた。
「親の教えは きくのはな/人の悪くち くちなしで/頭(こうべ)は垂れて ふじのはな/笑顔あかるく ひまわりで/愛をはぐくむ ばらのはな/心清らか しらゆりで/世は移ろいて あじさいの/月日は早く たちばなで/散りぎわさやか さくらばな/先は浄土の はすのはな」

 キクと「聞く」、クチナシと「口」、タチバナと「経ち」は掛けことばだ。イメージの固定しているものでは、シラユリ=清純、サクラ=潔い、バラ=愛、ヒマワリ=笑顔。現実はしかし、ポエムとは違う。親の言うことは聞かなかった。人の悪口も言った。バラは、とげが痛かった。世の移ろいやすさや月日のはやさはその通りだったが。

 別のポエムもある。作家林芙美子作で世に知られているのが、「花のいのちはみじかくて/苦しきことのみ多かりき」。ところが、別バージョンでは続きがある。「赤毛のアン」の訳者村岡花子に贈ったものは、「花のいのちはみじかくて/苦しきことのみ多かれど/風も吹くなり/雲も光るなり」。死んだらおしまい、生きていればいいこともある、そんな意味だろう。

 きのう(6月23日)から、マスメディアもネットのソーシャルメディアも小林麻央さんの死を大きく取り上げている。

 ご本人がこんなことを記していたという。「まだ34歳の若さで、可哀想に。小さな子供を残して、可哀想に。私はそんなふうに思われたくありません」。なぜなら、「病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです」。
 
 さわやかな風も吹き、白い雲も光った。短くて苦しいだけの人生ではなかった。病気がかえって愛を深めた。最後のことばが「愛してる」だったそうだ。夫へ、子どもたちへそう言って、彼岸へ旅立った。どのくらい長く生きるかではなく、短くても「色どり豊かな人生」を生きられた、という思いに、無念を越えた幸せと救いを感じてほろりとした。

2017年6月23日金曜日

「こわくない入口」

「こわくない入口」=写真=とはおもしろい。いわき市暮らしの伝承郷を訪れるたびに「ふふっ」となる。学習管理棟に常設展示室がある。ほんとうの入り口からすると、出口の扉の張り紙だ。
 ほんとうの入り口は狭くて暗い。マモノの侵入をふせぐ意味もあるのだろう、村境に道祖神が並んでいる。暗いのは晩秋の夕暮れ、つまりは逢魔(おうま)が時、という設定だから。大人もほんとうの入り口から一歩中に入ると、少したじろぐ。

 入り口を過ぎると、「暮らしと行事」「暮らしの中の子供たち」といった世界が広がる。全体のつくりは、記憶にはないが10カ月ばかりいたことのある子宮のような感じだ。

 伝承郷へは小学3年生が社会科見学だか遠足だかで行くらしい。企画展示室への通路壁面に来館した小学生の集合写真が何枚も張ってある。「3年生が常設展示室に入るときに怖がるのか」と知り合いのスタッフに聞けば、もっと小さい子どもたちだという。なるほど、幼児には、夕暮れの村境は恐ろしい。

 これも「こわくない入口」から始まったのではないか。大正14(1925)年3月、国会で治安維持法が可決される。「無理やりに質問全部終了」(治安法案委員会)「世論の反対に背いて治安維持法可決さる」(衆院本会議)。当時の新聞の見出しと同じようなことが、今度の国会でおきた。

「治安維持法は伝家の宝刀に過ぎぬ/社会運動が同法案の為抑圧せられる事はない=警視庁は語る」はずが、昭和8年には「治安維持法の運用を拡大強化」といった見出しが躍るところまでいく。
 
「こわくない入口」をくぐったら、内心の自由まで監視される世界が待っていた、なんてことにならないか。多少なりとも「時代とメディア」の関係を調べている身としては、過去と現在の相似が気になる。

2017年6月22日木曜日

ネギ坊主を収穫

 きのう(6月21日)は夏至。冬至の「一陽来復」にならえば、「一陰来復」だ。あしたから冬至に向かって夜が長くなる――最も昼が長い日に夜の長さを思って憂鬱になる。冬至には、逆に昼の長さを思って爽快な気分になるのだから、心はいい加減なものだ。ま、私のなかではいい加減でないとバランスはとれないのだが。
 きのうはまた、東北南部の梅雨入りが重なった。平年より9日遅い。午後も遅くなって大雨になった。風も吹いた。いったん風雨がやんだかと思ったらぶり返し、夜9時前になってやっと静かになった。

 縁側の軒下で、レジ袋を開口してネギ坊主を干している。干し始めたら、天気がぐずつきだした。湿って、乾いて、また湿って……。ここはネギ坊主が乾ききり、種がこぼれるまでがまんするしかない。

 夏井川渓谷にある隠居の菜園に、採種用の三春ネギを数本残しておいた。春になってネギ坊主が形成された。行くたびにチェックしていたら、日曜日(6月18日)、黒い種がのぞいていた=写真。種がこぼれる前に収穫しないと、というわけで、ネギ坊主を刈り取り、わが家に持ち帰って陰干しを始めた。

 採れる種はたぶん、いつもの半分だろう。ネギ坊主の数が少ないのだから。でも、秋に苗床をつくり、種をまくときに少し間隔をあければいいことを、今年(2017年)のネギ苗で学習した。“点まき”に近い方が、太い苗ができる。密にまけば間引きが必要になる。間引きを怠った苗は線香のように細い。

 なによりもまず種の確保が大切――失敗を繰り返すたびに、そのことを思う。「持ちネタ」と同じで精進を怠れば、簡単に「種切れ」になるのだ。種は少なくてもいい。種を確保し、秋にまき(三春ネギは秋まき)、初夏に定植して、翌年またネギ坊主ができれば、種は継承できる。乾燥剤とともに種を小瓶に入れて冷蔵庫に保管すれば、ひと安心。それまでもう少しだ。

2017年6月21日水曜日

タカノリさんの夢を見た

 朝方、夢を見た。山里のいわき市三和町で私とタカノリさんがワラビ採りをしている。そこへ、元職場の後輩Hクンがやって来る。歴史研究家であるタカノリさんに“一日弟子入り”をしたようだ。<お前も来たのか>といった感じで、私が後輩を見ている。そばでは、地元のおばさんたちが袋を破って肥料を見せ、<これを畑にまくといいんだよ>と言っている。
 夢は何の脈絡もなく展開し、目が覚めると霧のように消える。ところが、この夢は目覚めても明瞭だった。タカノリさんは東日本大震災が発生する前年、平成22(2010)年5月30日、共通の知人の通夜へ行った深夜、帰宅直後に急死した。享年69。7年ぶりに“再会”した。

 タカノリさんとは、いわき市江名町で生まれ育った歴史研究家佐藤孝徳さんのことだ。いわき地域学會が旗揚げする前からの知り合いで、会設立後は彼の著書『昔あったんだっち』や『専称寺史』などの校正を引き受けた。

 ただの古文書(こもんじょ)読みではない。歴史や民俗にとどまらず、農林水産業にも精通していた。元船主のせがれで、漁業にはすこぶる詳しかった。持ち山に案内してもらい、キノコのアミタケをいっぱい採ったことがある。野菜も栽培した。

 おととい(6月19日)は桜桃忌、太宰治の命日だった。たまたま近所の知り合いからサクランボ=写真=をいただいた。『専称寺史』にかかわったせいか、サクランボを食べると、専称寺―貞伝―今別―津軽―太宰のラインが思い浮かぶ。

 平・山崎にある専称寺は、かつては浄土宗の奥州総本山だった。名越派檀林、つまりは大学でもあり、東北地方から学生がたくさんやって来た。『専称寺史』で、同寺で修学した名僧を何人も知った。その一人が、津軽は今別の名刹・本覚寺の5世、貞伝(1690~1731年)。海峡を越えて蝦夷(北海道・千島)へも布教に出かけている。
 
 貞伝は「栽培漁業」の元祖のような人でもある。だし昆布として有名な「今別昆布」は、貞伝が漁獲の不安定に苦しむ漁師たちの生活を案じ、読経とともに海に紙片をまいたところ、それが昆布になったという伝説がある(今別町ホームページ)。
 
 いい夢だった。初物のサクランボがタカノリさんに会わせてくれたのかもしれない、というのはこじつけだが、夢で少し幸せな気分になった。

2017年6月20日火曜日

堤防が坊主刈りに

 この何年か、近隣の行政区長さんと話す機会が増えた。今までわからなかった各区の行事を小耳にはさむことがある。たとえば、夏井川の堤防と河川敷の早春の野焼き、梅雨期の草刈り。
 きのう(6月19日)、用があって市役所へ行った帰り、堤防を利用した。草がきれいに刈り払われていた=写真。隣の区長さんが前に、6月18日(日曜日)に草刈りをする、と言っていた。何日か前、キャタピラー型の自走式草刈り機が止まっていたから、あらかたはそれでやり、手に負えないところは人海戦術で対応したのだろう。その隣の区の堤防もきれいに刈り払われていた。

 両側からおじぎをするほど草の生えているところがあった。やはり、堤防はあおあおとした坊主刈りの状態がいい。

 堤防を利用する前、いわき駅前のラトブへ寄って1階で買い物をした。1階駐車場に誘導された。ふだんは地下駐車場へ下りる。たまたま空きスペースができたのだ。東西に通り抜けられる“いわき横丁” は、いつもは人がたむろしているのに閑散としていた。4、5階に入居している総合図書館は6月12日から23日まで特別整理期間のために休館中だ。その影響だろうか。1階が急に広くなったように感じられた。

 いつもの風景が違っていたのは、それだけではない。夜、夕刊のいわき民報を開いて、「黒ワク」(死亡広告)のスタイルが変わっていたことに気づく。

 顔写真入りで故人の人生が簡潔に記されている。「○×大法学部を卒業し、定年まで○×県庁に勤め、近年は2人の子供や5人の孫、友人の方々との交流を楽しみに、○×市内の自宅でゆったりと過ごしておりました」。この世にこういう人間が存在していた、そういう“あかし”でもある。単なる告知ではない温かみが感じられた。
 
 遺族の名前に驚いた。母のほかに故人の2人の姉の名が連記されていた。2人とも知っている。1人は元職場の仲間だ。あらためて弟さんの顔写真に見入った。

2017年6月19日月曜日

添野の「野らフェス」へ

 いわき市を代表するキノコ研究家の一人が添野町に住んでいる。小川勇勝(たけかつ)さん、78歳。平成14(2002)年に『野生のきのこ 17年間の山歩きで探し当てたきのこ生息地と写真撮影の記録』を自費出版し、翌年2刷、3刷を出した。
 カミサンが添野の「野らフェス」に行きたいという。朝日新聞に折り込まれるいわきのフリーペーパー「朝日サリー」で6月18日の開催を知った。同紙によると、主催者の小川慶子さんは東農大を卒業、ハンバーガーショップやパン屋、イタリアンレストランなどに勤めたあと帰郷し、平成22年6月に焼き菓子やケーキの受注販売を始めた。

 小川さんは同じ年、実家の一角に「野らぼう」という店を開業、以後、6月と11月の年2回、実家の敷地内で「野らフェス」を開いている。
 
 添野町、小川さん――とくれば、もしかしてキノコの小川さんの娘さん?となる。「父と娘かも」という“仮説”を立てて出かけた。山すその旧道に駐車の列ができていた。しばらく歩いて会場の「野らぼう」に着く。アリオスパークフェスと同じようなフリーマーケットで、おしゃれな若い家族でごった返していた=写真。出店者に一人、知り合いがいた。
 
 キノコの小川さんが首からカメラをぶら下げて歩いている。小川さんとは、いわきキノコ同好会が旗揚げする前に会い、仲間とともに酒を酌み交わしたことがある。小川さんは同好会には加わらなかったが、冨田武子会長らとは交流が続いている。
 
 最近は、山へはあまり行かないという。年齢的なこともあるが、原発事故が愛菌家の意欲をそいだ。「私も写真を撮るだけですよ」。キノコの情報交換をしたあと、「野らフェス」の話になる。仮説が当たっていた。「三番目(の娘)がやってるんです。今度で9回目。宣伝もしないのに、人が来るようになって」とうれしそうだった。
 
 家の北には道をはさんで山が、南には青田が広がる純農村。ここに、ファッショナブルな服装の若いママ・パパが幼い子を連れてやって来る。その魅力は何? 手作りの食べ物や雑貨、アクセサリーを売っているから? それもあるだろうが、田んぼにカエルやザリガニがいるムラの、人間と自然の関係が調和したのどかな景観に身をおく安心感、非日常感に引き寄せられるのでは?なんて愚考した。

2017年6月18日日曜日

タカギさんが講演?

 いわき地域学會の第327回市民講座がきのう(6月17日)、市文化センター視聴覚教室で開かれた。会員の大河原一浩さんが、「海軍軍人 高木武雄の人間観」と題して話した=写真。
 高木武雄(1892~1944年)はいわき市四倉町出身の海軍大将。太平洋戦争が始まって間もない昭和17(1942)年2月下旬、インドネシア・スラバヤ沖海戦で勝利し、海面を漂う敵兵を救助した。日本人提督としては唯一、この功績がアメリカのスミソニアン博物館で紹介されている。

 受講者は、いつもは20人前後だが、今回は50人近くが詰めかけ、視聴覚教室が埋まるほどだった。事前に文化センターや市役所に問い合わせがあったらしく、確認の電話が入った。文化センターからの電話では、結果的に向こうとこちらで大笑いになった。

 最初はこんな感じだった。「今回はタカギタケオさんという人が講演するんですか」「えっ、大河原さんですが。別の会のタカギさんは知ってるけど、その人だったら違うところで講演するんじゃないの」。そこでいったん電話は切れた。
 
 少しおいてまた同センターから電話がかかってきた。「講座の演題はなんですか」「あっ、そうだった。大河原さんが海軍大将の高木武雄について話すんだった。タカギさんが話すのではなくて、大河原さんが高木武雄について話すんです」。電話の向こうで爆笑がおきた。こちらもつられて大笑いした。会場の文化センターに問い合わせがあるほど興味をもつ市民がいたということだ。
 
 さて、敵兵救出を命じた高木だが、その根底にあったのはふるさとで培われた宗教的叡智、人間観だったろうと大河原さんはいう。庶民的で教養もあり、国際性豊かな海軍良識派だったともいう。高木は昭和19年2月、サイパン島で戦死する。大河原さんは、もっと語り継がれていい人物と締めくくった。

2017年6月17日土曜日

キャンパスのヒバリ

 その姿を見るたびに、「たれにもいわない」のではなく、だれかにそっと教えたくなる。ここにヒバリがいるよ――。
 木下夕爾の児童詩「ひばりのす」が頭をよぎる。<ひばりのす/みつけた/まだたれも知らない//あそこだ/水車小屋のわき/しんりょうしょの赤い屋根がみえる/あのむぎばたけだ//小さいたまごが/五つならんでる/まだたれにもいわない>

 週に一回、いわきニュータウンにある大学へ行く。駐車場から本館へと講堂のわきを通る。そばに、生け垣に囲まれた芝生がある。そこがヒバリの採餌場のひとつになっているようだ。新学期の授業が始まった4月中旬、初めて芝生の上を歩き回るヒバリを見た。以来、本館へ向かうたびにヒバリの姿を探す。

 おととい(6月15日)は、それまで1羽だったのが、3羽になっていた。ヒバリは産卵~ふ化~巣立ちまでおよそ3週間というから、増えたのは巣立って間もない幼鳥だろう。まだ警戒心が薄いのか、人間がぬっと現れても驚かない。カメラを向けたら、たまたまこちらを見た=写真。ぎょろっとした目、黄色っぽいくちばし、白いのど回り。いかにもこの世に生を受けたばかりの命、という印象だ。

 吉野せいの短編集『洟をたらした神』に「水石山」がある。ヒバリの話が出てくる。小麦畑の畝間にヒバリが営巣した。夫とせいはそこだけ小麦の刈り取りを遅らせる。キャンバスには麦畑はないから、生け垣のどこかに巣をつくったにちがいない。

 帰りにまた芝生を見ると、ちょうど1羽が青虫をくわえて飛び立つところだった。そばの桜の木の根元に降りたかと思うと、また飛んで車道に舞い降りる。“食事”にてこずっているのは幼鳥だからだろう。キャンパス生まれのヒバリなんて、そうない。

2017年6月16日金曜日

池の睡蓮

 いわき市暮らしの伝承郷にある池は、ちょっとしたビオトープ(生物の生息空間)だ。いつもは入園しても通り過ぎるだけで、池をのぞくようなことはしないのだが……。
 伝承郷で7月2日まで、福島県立博物館移動展「東北の仕事着コレクション」が開かれている。カミサンが見たいというので、運転手を務めた。

 ついでに、65歳以上は無料の特典を生かして園内を散策した。池の睡蓮が咲き始めていた=写真。コウホネ、アサザの黄色い花も咲いている。3センチほどのクロイトトンボ?が、子ガエルが水面の葉に止まる。メダカも葉の下を出たり入ったりしている。目を凝らせば、そこもワンダーランドだった。

 泥沼のほんの少しの上澄みの外で咲く花、中で泳ぐ小魚、外と中を行き来するカエル――池の生き物はまるで濁世(じょくせ)を照らす光の化身ではないか。
 
 そんな比喩が浮かぶのは、雨季にベトナムやカンボジアを旅したことが大きい。至る所に池があって、蓮が群生していた。仏教はアジアの蓮の文化圏から生まれた、とは乱暴ないい方かもしれないが、仏像が蓮の花の上に立ったり座ったりしている理由がわかったような気がした。

 バングラデシュの国花は睡蓮。いわきで震災の支援活動を続けた国際NGO「シャプラニール」は、ベンガル語で「睡蓮の家」を意味する。

 政治もまた、泥沼に蓮の花を咲かせるようなものだ、といったことを、作家の池波正太郎が随筆に書いていた。原文を思い出せないのだが、さまざまな困難を乗り越えて公共の福祉にかなう政策を実現する、そんなニュアンスだった。今は花が咲くどころか、蓮根が窒息しそうな状況ではあるが。

2017年6月15日木曜日

ツチグリはもう出た?

 マメダンゴはツチグリの赤ちゃん。コリコリした外皮と、やわらかい中身が特徴の食菌だ。梅雨期、まだ地中に眠っているところを掘り取る。阿武隈の山里では炊き込みご飯にしたり、同時期に採れる新ジャガ、キヌサヤエンドウとの味噌汁にしたりする。
 夏井川渓谷にある隠居の庭にツチグリが発生することを知ったのは、8年前の2009年7月。青葉が陽光を遮る苔むした一角にツチグリの残骸が点在していた。ふだんそこは駐車スペースにしているだけなので気づかなかった。以来、梅雨期になると、歩いて靴底に伝わる感触を確かめる。もっと精密にやるには、かがみこんで、ふわふわした苔を手で圧(お)す。苔の下の土中に幼菌が形成されていれば、そこだけ硬い感触が手のひらに伝わる。

 コケの間から先端をのぞかせているマメダンゴは、指を入れると簡単に採れる。しかし、ここまで生長すると胞子が形成されて、中身が黒っぽくなっていることが多い。これは食べられない。

 今年(2017年)は、6月の声を聞くとすぐ歩いて感触を確かめたが、まだ反応がない。ところが、庭の隅には成菌の残骸=写真=が散見される。もう発生した? いや、拙ブログで確かめると、隠居でマメダンゴが採れるのは決まって6月下旬以降だ。残骸は残骸として、これから地中で幼菌が形成されるのだろう。7月初旬までは、隠居へ出かけるたびに足踏みをする。
 
 郡山市の1年前の検査データでは、いわき市産、郡山市産ともベクレルがかなり低い。潮干狩りでは砂中の貝類を採るのに熊手を使う。地中のマメダンゴを採るのに有効かもしれない。今年はそうしてみるか。

2017年6月14日水曜日

ベストセラーランキング

 5月後半のことだが、いわき民報にヤマニ書房本店調べの「ベストセラーランキング」が載った。なんと、いわき地域学會発行の『いわきの地誌』が一番上にあるではないか=写真。5月7~13日の1週間にかぎっていえば、『NHK大河ドラマ・ストーリー「おんな城主 直虎」』(後編)や、又吉直樹の『劇場』、村上春樹の『騎士団長殺し』(第1・2部)より売れたことになる。
 同9日にいわき民報、11日に福島民報が『いわきの地誌』を記事にしてくれたのが大きい。直後に、同書店と鹿島ブックセンターから追加注文があった。活字メディアだけでなく、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のフェイスブックでも、拙ブログへのコメントとして「買います」「買いました」がいくつか寄せられた。直接、「買いました」と声をかけてくれる人もいた。

 ローカル紙に載った、ローカルな書物の、ローカルな「ベストセラーランキング」だとしても、これは“快(怪)現象”というほかない。いわきの自然地理・人文地理のほかに、都市機能的地域区分、災害地理などを論じ、震災前からのいわきの課題、震災後に生まれた課題などをおさえた本であることが、手に取ってもらえる理由だろうか。

 たとえば、いわき市の山里、小川町上小川の<限界集落「戸渡(とわだ)」の問題>という事例研究(156~157ページ)――。戸渡の地理的位置・自然環境・人文環境のほかに、地域づくり運動=戸渡リターンプロジェクトの活動と、原発事故による地理的事象(追い出された集落)の様子を紹介している。

 個人的には、空撮家酒井英治さんから提供してもらった空撮写真に引かれる。とりわけ「好間のV字谷(表生谷)」は、山とV字の谷の様子が一目でわかる貴重なものだ。「自然の彫刻を、鳥の目で一番美しくとらえた写真」からは、大地の営みの厳かささえたちのぼってくる。

 細部に「いわきの今」が宿っている。いわき市民だけでなく、双葉郡からいわきに避難している人たちにもぜひ読んでもらいたい本だ。
 
「大人には再度の郷土勉強、子どもたちなら新しい地域発見になろう」。ゆうべ(6月13日)は、いわき民報の1面コラム「片隅抄」に紹介された。最初から“赤字出版”ながら、買って読んでもらえることでその幅を縮めることはできる。もう少しで“出血”が止まる。