2017年11月18日土曜日

きょうは行事が三つ

 1カ月余り前、シャプラニール=市民による海外協力の会に、カミサンがシャプラニールいわき連絡会としていくらか寄付をした。その領収書が届いた=写真。バングラデシュ洪水とロヒンギャ難民の緊急救援募金呼びかけに応じた。シャプラのいいところは、寄付金の使い道が透明で、寄付者に報告があることだ。会設立時からこれは変わっていない。 
 そのシャプラの7回目のいわきツアー「みんなでいわき!2017」が、きょう(11月18日)とあす、開かれる。

 シャプラは東日本大震災後、いわきで5年間、被災者支援活動を展開した。その経験を踏まえて、今回は震災後、交流が生まれた津波被災者(平薄磯)と原発避難者(双葉町)からこれまでの思いを、さらに農の現場(小川)で生産者から生の声を聞く。また、食(平、四倉)を通じていわきを感じてもらうという。泊まるのは常磐の温泉旅館。夜、そこへ合流する。
 
 その前にやることがある。朝8時から正午までは、行政区の役員が参加して原子力防災実動訓練が行われる。防災ラジオなどによる屋内退避指示を受けての連絡・退避訓練、避難指示を受けての一時避難場所への移動とバスによる仮想避難所(南部アリーナ)への移動・スクリーニングなど、こちらはスケジュールが決まっている。
 
 それが終わったら、いわき地域学會の市民講座(午後2時から市文化センター)が待っている。講師は地域学會幹事で、いわき市立美術館長兼宇都宮美術館長の佐々木吉晴さん。「参加型市民文化と社会への寄与――アメリカの美術館が生まれた背景」と題して話す。原田マハの小説『デトロイト美術館の奇跡』(新潮社、2016年)を読んだばかりなので、個人的にはいいタイミング、いいテーマになった。

 終わって午後4時からは、そのまま地域学會の役員会が開かれる。次の行事のための段取りを確認しないといけない。
 
 というわけで、日中、二つの行事をこなしたあと、カミサンと一緒に午後6時からの「みんなでいわき!2017」懇親会に顔を出す。「普通のいわき市民の暮らし」を知ってもらうために、原子力防災実動訓練の話でもしようか。

2017年11月17日金曜日

コミュニティツーリズム

 自称「いわき特派員」だ。半世紀前、15歳で夏井川の水源・阿武隈高地から太平洋岸のまちに流れ着いた。まだ「いわき市」は誕生していなかった。いわきで記者になって以来45年余、今もいわきウオッチングを続けている。その過程で得た仮の結論は、いわきは「3極3層のまち」、あるいは「9つの窓を持ったまち」だ。
 いわきは広すぎて「実像」が見えない。「行政圏」ではなく「生活圏」の連合体としてとらえるなら、実像に近づけるのではないか。その際、水環境=川=流域を切り口にするとわかりやすい。
 
 いわきは、夏井川(人口の極=平)・藤原川(同=小名浜)・鮫川(同=勿来)の3流域でできている(大久川流域も加えることができるが、人口の極があるわけではないので、ここでは夏井川流域プラスαとして扱う)。それぞれの流域にはハマ(沿岸域)・マチ(平地)・ヤマ(山間地)がある。
 
 ゆえに、3極3層、いわきは3つの「合州市」。いわきという四角いジグソーパズルのピースは3×3=9。9つの窓から見える風景は、左右では同じだが上下では異なる。典型が食文化と植生だ。
 
 そんなことを思い浮かべながら話を聴いた。おととい(11月15日)夜、いわき駅前のラトブ6階・いわき産業創造館で「まち歩きがまちを変える――コミュニティツーリズムの可能性を探る」が開かれた=写真。講師は堺市や大阪市でコミュニティツーリズム(「まち歩き」)を事業化した観光家陸奥賢(むつ・さとし)さん(39)。
 
 略してコミツーは「地元の人による地元の人のための観光」だという。地元の人がガイドし、地元の店でものを買ったり食べたりする。つまりは、地元にカネが落ちる仕組みのツアーだ。ガイドには「ヒストリーだけでなくライフも語ってもらう」ともいう。土地の歴史だけでなく、ガイド自身の人生も盛り込むことで、ツアー客はその土地の歴史・暮らしを具体的に受け止めることができる。
 
「大阪あそ歩(ぼ)」では、300のコースがマップ化されている。基本は2~3キロ・徒歩で2~3時間のコースだという。

 私が属しているいわき地域学會では年に1~2回、歴史や考古、自然などに触れる「巡検」を実施する。11月23日には、来年(2018年)の戊辰戦争150年を前に、「笠間藩神谷陣屋と戊辰の役」と題して、神谷公民館発着で陣屋跡や周辺の慰霊碑などを見て回る。こちらは同じ「まち歩き」でも「まな歩」に近い。

「あそ歩」は「ライトに、ゆるやかに」が基本だという。「おなはま学歩(まなぼ)」は、それにならった「やわらかい巡検」だろう。ま、楽しみながら地域の価値を再発見するという意味では、「あそ歩」と「学歩」、地域学會の「巡検」に違いはない。硬くやるか、軟らかくやるか、手法が違うだけだ。

 地域学會の巡検は今回で58回目だ。いわきを知るための単行本や報告書も出している。街なか・郊外を問わず、地質・考古・歴史・民俗・文学・その他で「あそ歩」のコースをデザイン・再構成するくらいの蓄積はある。

いわきのハマの人間はいわきのマチやヤマを知らない、ヤマの人間はマチやハマを知らない、マチの人間はヤマもハマも知らない――というのが実態だろう。インバウンド(訪日外国人旅行)は、いわきではむしろ外国人の前に市民のためにある。そのために有効なのが域内観光=コミツー、とみることもできる

2017年11月16日木曜日

電動剪定

 わが家(米屋の支店)の生け垣は、昔は義父が自宅(本店)から通って手入れをしていた。義父が亡くなってからは、たまにしか剪定しなくなった。主に常緑のマサキが植えてある。剪定が甘かった一本は、2階の物干し場の柵と同じ高さまで枝葉が伸びた。
 自分でいうのもなんだが、私は庭の草むしりや生け垣の剪定といった“庭仕事”には向かないようだ。「花より野菜」の実利派で、菜園の草むしり、土いじりなら喜んでやる。

 いつになっても腰が重いままなので、結局はカミサンが生け垣を剪定するようになる。今年(2017年)は近所の知り合いから“電動高枝バリカン”を借りてきた。面白いように“散髪”できる。2~3日、ヒマを見つけては電動バリカンを動かし続けた=写真。

 自分で庭を造るほどの父親の血を引いたのか、カミサンは庭師的な仕事が嫌いではないらしい。生け垣剪定の仕上げに、自分では手が届かないから1階の窓枠に立って屋根にかかったビワの枝葉をのこぎりで切ってほしい、という。それだけを手伝った。

 のこぎりを使うとすぐ息が切れる。ビワの太い枝を切りながら、思い浮かんだ文章がある。吉野せいの『洟をたらした神』の<かなしいやつ>だ。せいの夫・吉野義也(三野混沌)の盟友・猪狩満直が、菊竹山の夫婦の小屋を訪ねる。上がり端にあったのこぎりを手に取るなり、満直は大笑いする。「何だい。これで何が切れる!」。「ああ、息だけが切れんな」と、混沌かせいかはわからないが、即妙の答えが返ってくる。

 先日見た映画「洟をたらした神」では、せいが返答したことになっている。原文の流れからは、そうはとれない。1歳年上の満直を「みつなおさん」ときちんと呼んでいたせいが、「ああ、息だけが切れんな」というだろうか。せいなら「はい、息だけが切れます」、あるいは「ええ、息だけが切れんのよ」だろう。混沌が「あ・うん」の呼吸で満直の言葉に応じたのだ。

 11月に入ると、ミノウスバ(蓑薄翅)という、胴体が黒とオレンジ色、翅が半透明の小さなガが、マサキの枝先に産卵する。越冬した卵は、春の終わりごろに孵化して新芽を食害する。すでに産卵期は過ぎた。剪定が効いたのか、ざっと見たかぎりでは枝先にミノウスバの卵は見当たらない。

2017年11月15日水曜日

「いわきの図書館」展

 図書館から受けた恩恵は計り知れない。新聞記者時代、週に3回、1面下のコラムを担当したことがある。持ちネタなどすぐ尽きる。今ならインターネットで簡単に「キーワード検索」ができるが、1980~90年代は直接、本を手に取って確認するしかなかった。締め切り後の図書館通いがほぼ日課になった。今もその習慣が続く。
 新聞コラムを書いていたときもそうだが、私は「テーマ」ではなく「キーワード」を決めてブログを書く。そこからいろいろ妄想する。どこに着地するかはわからない。
 
 きょうの場合は「『いわきの図書館』展」だ。11月6日にラトブ5階のいわき市立総合図書館企画展示コーナーで「いわき総合図書館 開館10周年記念企画展『いわきの図書館』」が始まった=写真(企画展の資料)。それに触発された。
 
 始まりはいつも単純だ。飲み屋で仲間や知らない人と話しているうちに、これはと思った言葉(キーワード)に出合うことがある。割りばしの袋にそれをメモする。そうしないと、翌日には忘れている。現役のころは、キーワードを記した紙切れがシャツの胸ポケットに10~20枚は入っていた。使えずにすり切れてしまった紙切れがある。新聞記事ももちろん切り抜いておく。夕日や雨、風、鳥、花、キノコ、野菜などからも刺激を受ける。

 さて、総合図書館の前身はいわき市文化センターにあった中央図書館だ。図書館展の資料によると、平の図書館は昭和23(1948)年8月開館の「平市公民館図書部」が始まり。やがて“間借り図書館”から「いわき市立平図書館」に成長し、中央図書館を経て総合図書館になる。
 
 資料にはほかに、地区図書館や移動図書館の歴史、戦前のいわきの図書館、終戦1年後に開館した民間の「お城山の図書館『海外協会佑賢図書館』」を紹介している。総合型図書館構想が生まれた経緯、東日本大震災のときの様子にも触れた。佑賢図書館は知らなかった。
 
 自宅にいながらよく利用するのは、図書館のホームページだ。なかにいわきの新聞や地図、絵はがきなどを収めた「郷土資料のページ」がある。キーワード検索はできないが、新聞は年月日がわかれば一発で読める。これまでにずいぶん世話になった。大正の関東大震災・昭和の日中戦争といわき、といった切り口で調べ物をするのに有効だ。
 
 詩人の田村隆一は「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」と書いた。30年どころか、100年前の新聞は立派な史料になる。誤字・脱字も含めて。
 
 カツオの刺し身、じゃんがら念仏踊り、市立図書館――。これは、私のなかの「いわき三大自慢」だ。ホームページの地域新聞をキーワードで検索できるようになると、自慢のレベルはさらに上がる。

2017年11月14日火曜日

落ち葉掃き機関車

 日曜日(11月12日)の昼前は、快晴ながら風が強かった。それでも、夏井川渓谷には紅葉目当てのマイカーが続々とやって来た。JR磐越東線江田~川前駅間にある錦展望台周辺がビューポイントだ。地名で言うと、いわき市小川町上小川字牛小川(正確には、線路と道路をはさんで谷側は字川上になる)。
 すでにカエデ以外の広葉樹は紅葉のピークを過ぎ、カエデが紅葉の見ごろを迎えていた。錦展望台の近く、県道沿いにアマチュアカメラマンが狙うカエデ群がある。路上駐車が絶えなかった。

 正午まであと30分――というころ、たまたま隠居の前の道路に出たら、対岸の紅葉を眺める人たちとは別に、カメラを江田駅寄りのトンネルの方に向けている“撮り鉄”が何人かいた。そばの牛小川踏切の警報機が点滅している。正午近くを走る普通列車はない。観光客を乗せた臨時列車か?

“撮り鉄”を入れて列車を撮ろう、そう決めてカメラを向けていたら、やがて踏切の遮断桿(かん)が降り、ゆっくりとディーゼル機関車が現れた=写真。単独だ。拍子抜けした。「DE 10 1124」の何が“撮り鉄”を引きつけるのか。

 ネットで調べてわかった。「落ち葉掃き」用の機関車だった。日曜日の福島民報に、「県内の鉄道は11日、強風や落ち葉による列車の車輪の空転でダイヤが乱れた」という短報が載っていた。磐東線は大丈夫だったようだが、この1週間で渓谷の広葉樹はだいぶ葉を落とした。それが、風で線路に降り積もらないともかぎらない。で、落ち葉掃き機関車の出動となったのだろう。

 なにかあると、県内外から“撮り鉄”が現れる。“撮り鉄”はどうやって臨時列車の情報を得るのだろう。情報を共有できる撮り鉄コミュニティというものがあるのか。それはそれとして、「落ち葉掃き機関車」はどうやって落ち葉を掃くのか。機関車から空気を噴射する? “知り鉄”がいたら教えてほしい。

2017年11月13日月曜日

「真実」と「しんじつ」

 吉野せい賞はいわきローカルの文学賞だ。今年(2017年)は40回の節目の年。おととい(11月11日)、市立草野心平記念文学館で表彰式が行われた。
 昼前に文学館へ行き、表彰式のリハーサル=写真=を見たあと、受賞者と会食した。表彰式では、5人の選考委員を代表して選考結果を述べた。

 表彰式のあと、福島県立博物館長赤坂憲雄さんが「吉野せいの世界」と題して記念講演をした。作品集『洟をたらした神』の<あとがき>に、「貧乏百姓たちの生活の真実」と「底辺に生き抜いた人間のしんじつ」が出てくる。漢字の「真実」と平仮名の「しんじつ」の使い分けに触れながら、赤坂さんは持論を展開した。
 
 勝手に解釈するなら、「貧乏百姓たちの生活の真実」の先にはプロレタリア文学がある。しかし、せいは農民文学でもプロレタリア文学でもない「底辺で生き抜いた人間のしんじつ」の世界を描きたかったのではないか、ということらしい。
 
 せいは赤坂さんのいうように、「真実」と「しんじつ」を使い分けていたのだろうか。実際に『洟をたらした神』の作品に当たってみる。
 
 まず、「真実」。<鉛の旅>=わが子にむしゃぶりついて母親が大泣きする「実に生々しい真実の出征風景を見た」、<夢>=「夢の中での真実の形」、山村暮鳥と三野混沌(せいの夫・吉野義也)との交流は「真実の出来事ではあった」、<信といえるなら>=「遠くから力を貸してくれた一人一人の真実の友情」、「人間同士の心の奥に流れ合う凄まじい信頼」を指す「真実の果実の味」。
 
 <老いて>には「それも真実、これも真実、その何れにも私は湖面のようなしずけさで過ぎたいと切に希(ねが)う」とある。
 
「しんじつ」はどうか。<麦と松のツリーと>=「国を挙げての存亡の糧作りと噛みつかれると、戦果のでたらめ放送にもしんじつに耳を傾けて信じ込み、出征した身近な男たちの血みどろな戦場を想い、戦死者の俤(おもかげ)を胸に浮かべる」。「真剣に」とか「本気になって」とかの意味で「しんじつに」を使っている。大本営発表のラジオ放送を無批判に受け入れる人々――の姿が思い浮かぶ。

 <あとがき>の世界では「真実」と「しんじつ」を使い分けても、<本文>の世界では「真実」をそのまま多用している。『洟をたらした神』の世界が面白いのは、こうして新たな視点を得て何度も調べ直しができることだ。

2017年11月12日日曜日

「火山一代」

 戦時下の昭和18(1043)年暮れから20年秋にかけて、北海道・洞爺湖近くの村で大地が盛り上がり、「昭和新山」ができた。その形成過程を追った記録図「ミマツダイヤグラム」で知られる三松正夫は、延岡藩内藤家御用人の血筋――という話を書いたら、すぐ若い仲間から反応があった。
 志賀伝吉著『元文義民傳―磐城百姓騒動』(元文義民顕彰会、1976年)に、磐城平藩御勝手御用人三松金左衛門の記述があるという。「元文三年戊年(1738)正月、国家老内藤治部左衛門とその弟内藤舎人(とねり)、同じく中根喜左衛門、御用人三松金左衛門等相謀り、藩財政危機打開策として不時の御用金徴収を計画した」。結果、百姓たちの反発に遭い、大一揆が発生した。

 一揆を指導した百姓は死罪になった。御用金徴収を画策した側のひとり、三松金左衛門は「隠居」「役儀召上げ」になった、という。内藤家はこのあと、延岡へ移封される。

 正夫の祖父は延岡藩内藤家の御用人を務め、明治維新後は宮崎県官吏になった。父親もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長になった=正夫の養子・三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1994年2刷)。

 まずは『火山一代』を再読しないと。どこにあるかな、ここかな――珍しく本の壁から一発でホコリまみれの『火山一代』=写真=を取り出すことができた。「祖父は三松林太郎百助(略)、内藤藩の侍で、御番頭、社寺奉行、町奉行、郡(こおり)奉行、御用人」などを務めた、とある。

『いわき史料集成4』(いわき史料集成刊行会、1987年)によれば、延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」に8人の三松姓がいる。家老は専務、組頭は常務、年寄は部長、用人は課長……と言えるなら、御用人は藩の幹部職員だろう。石高の上位3人は400石・三松仁衛門、300石・三松勝衛門、200石・三松幾衛門だ。その3人のいずれかが正夫の先祖かもしれない。
 
 正夫の祖父・百助は幕末・維新期、九州の幕領預かりという難題が起きたとき、郡奉行として同じ日向の隣藩と折衝する役目を担った。ネットでそんな論考に出合った。

とりあえず昭和新山と三松正夫、正夫の祖父と延岡藩、祖父の先祖と磐城平藩という流れでわかったことは、そんなところ。あとは、歴史が専門の先輩に聞こう。

2017年11月11日土曜日

夜間中学

 日没が早くなった。夕方、近所から帰ってきたカミサンがいう。「夕焼けがきれいだよ」。そのたびに2階から西の空を眺める。たまたま外出からの帰りが日没と重なるときがある。夏井川の堤防であれば、思わず車を止めて夕日に見入る=写真。
 若いときと違って、今は夕日に出合うとホッとする。きょうもなんとか無事に終わったか――。しかし、それから学校へ行く人たちがいる。

 11月初めのNHKクローズアップ現代+「ひらがなも書けない若者たち~見過ごされてきた“学びの貧困”」を見た。

 日本人なのに平仮名の書けない若者が増えている。「30%オフ」の意味がわからない。なぜ? いじめだけでなく、貧困、DV(ドメスティックバイオレンス)、病気の親の看護などで学校へ行か(け)なくなった人々がいるのだという。小・中学校の卒業証書はもらっても、実質的には教育を受けていないのと同じだ。

 私ら夫婦が少しかかわっている国際NGOにシャプラニール=市民による海外協力の会がある。バングラデシュやネパールなどの南アジアで「取り残された人々」の支援活動を展開している。東日本大震災では初めて国内緊急支援を手がけ、以後5年間、いわき市平で交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。

 シャプラがバングラで最初に手がけたのは、「取り残された人々」への青空識字学級と、ジュート(黄麻=こうま)を使った手工芸品づくりだった。文字が読めないことで人々はさまざまな不利益を被る。手に職を持ち、読み書きができるようになることで暮らしが向上し、希望が生まれ、可能性が広がる。

 クロ現+を見ながら、シャプラの識字学級活動を思い浮かべた。と同時に、文部科学省の前事務次官前川喜平さんが今年(2017年)1月、次官を辞める1週間前に福島市で講演した内容も。前川さんは8月にも福島市で講演している。

 友人が前に1月の講演録のコピーを持ってきた。講演は福島に公立夜間中学をつくる会が主催した。教育行政に取り組んできた前川さんの真摯さが伝わってくる内容だった。夜間中学の重要性について語っていた。

 去年12月、「教育機会確保法」が成立した。義務教育から「取り残された人々」がいる。そのなかに、クロ現+が取り上げたような若者たちも入る。これまでは、中学校の卒業証書をもらった人は夜間中学に入れなかった。それが、この法律によって夜間中学で学べるようになった。少なくとも各県に1校は夜間中学を設置するように、という流れができた。

「個人の尊厳とか幸福を追求する権利とか、自分の人権を本当に意味あらしめる、発揮することができるためには、学習することが必要。学習することができなければ、自らの人権を守ることができない。私はすべての人権の不可欠の基礎として、教育を受ける権利・学ぶ権利があると思っています」

 それこそが「エンパワーメント」=人々に夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っている素晴らしい、生きる力を湧きださせること(ウィキペディア)――の原点だろう。

 前川さんはこうもいっている。「教育を受ける権利には年齢制限はない」「教育を受ける権利を保障する義務にも年齢制限はない」「義務教育未修了者のために昼間授業をする義務教育学校があっても良い」。おおいに蒙(もう)がひらかれる講演録だった。

2017年11月10日金曜日

キノコ図鑑に誤記載、とか

 おととい(11月8日)のツチグリに続いて、またまたキノコの話で恐縮ですが――。
 夏井川渓谷の隠居の庭にキノコのなる木がある。樹種がわからない。半分立ち枯れているはずだ。生えるキノコはヒラタケ=写真=とアラゲキクラゲ。ヒラタケの傘の裏はきれいで、“虫こぶ”はなかった。

 9年前、いわきのヒラタケに「白こぶ病」がはやった。ウスヒラタケにも発生した。栽培ヒラタケもやられた。見た目が悪いから商品にはならない。

 キノコバエの一種・ナミトモナガキノコバエに運ばれて来た線虫がヒラタケのひだに付着する。すると、ヒラタケは虫こぶ(白こぶ)を形成し、毒素を出して、線虫を動けなくして食べてしまう――ということだった。九州・中国と西日本で発生していたのが、東進・北上した。
 
 キノコは成熟すると、胞子を空気中に飛ばす。街の公園に、住宅の庭に、木に、いつの間にかキノコが生えるのは、胞子が飛んで来て活着したからだろう。
 
 キノコの胞子は空を行き交う旅人。南からの台風が、西からの季節風が、東風が、北風が、海を、森を越えて胞子を運ぶ。今も目の前の空間に胞子が漂っている――そんなイメージを抱くのは、“キノコ病”にかかっているからだ。実際、スエヒロタケの胞子は鼻や気管支、肺などに入り込んでゼーゼーやたん・せきなどを引き起こす。呼吸器系の弱い人がやられやすいそうだ。
 
 小学館が発行したキノコ図鑑(『小学館のNEO きのこ』)に、食毒に関する致命的な間違いがあった。毒キノコのヒョウモンクロシメジを、監修者の指摘を受けながら担当編集者が見落とし、「食用」の誤記のまま印刷してしまった、とか。
 
 手元のキノコ図鑑に当たったが、ヒョウモンクロシメジはない。ネットで検索した。秋にブナ科の広葉樹林に発生する、少量でも嘔吐や下痢などの症状を引き起こす、ヨーロッパやアメリカでは有名な毒キノコ、とあった。日本では最近(1997年)発表されたばかりらしい。古い図鑑にないのは当然か。
 
 キノコは神出鬼没、ローカルなのにグローバル、美しいのに恐ろしい。森の奥で人知れず姿を現しては消える。未知のきのこがまだまだある。

ヒョウモンクロシメジは、いわきではどうか。すでに記録されたキノコか、未発見のキノコか。年末にいわきキノコ同好会の総会・懇親会が開かれるので、会長に聞いてみよう。いや、あいさつか勉強会のなかで話題にするかもしれない。

2017年11月9日木曜日

付き合いは浅かったが

 いわきの平地にも冬鳥のジョウビタキ=写真=が現れるようになった。おととい(11月7日)は立冬。ところが、日中、室温が25度近くまで上がった。暑い。はんてんを脱ぎ、茶の間のガラス戸を開けて座業を続けた。
 ほんの数日前、8人いる地区の区長(兼行政嘱託員)のうち、山の手のMさんが急逝した。連絡がきて7人で自宅を弔問し、翌・立冬の日、通夜に顔を出した。Mさんは今春、区長に就いたばかりだ。付き合いは浅かったが、なんとも重苦しい気分になった。

 現役のころ、私は“会社人間”だった。住んでいる地域へは食事と睡眠に帰るだけ。会社を辞めてからは、「会社」の字がひっくり返って“(地域)社会人間”になった。24時間コミュニティに属している。傍観者ではいられない。

 区の役員になり、地域で暮らす当事者になってみると、メディアが知り得るコミュニティの情報は表層も表層、「整理された情報」でしかないことがわかった。暮らしの現場ではいろいろなことが起きる。「ごみネットが破れた」「不法投棄がある」「道路に小さな穴があいた」……。“小事”のうちに動いておけば、“大事”には至らない、「小間使い」に徹するのだ――と自分に言い聞かせながら、日々を送るようになった。

 ほかの区長さんも思いは同じだろう。月に3回は行政嘱託員としての仕事がある。各戸配付あるいは回覧の行政資料を袋詰めにして、役員さんを介して隣組に届ける。ほかに、区対抗の球技大会や体育祭、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動、各種会議などがある。そのかなめになる人が突然、亡くなったのだ。行嘱の仕事は待ってくれない。代行をすぐ決める必要がある。とてもひとごととは思えなかった。

 同じころ、わが行政区でも区とつながりのある人が亡くなった。区の役員会は区内の県営住宅の集会所を借りて開く。近くに管理人さんが住んでいて、毎回、予約してカギを借りに行く。その管理人さんが急に彼岸へ渡った。近所に住む役員さんから電話をもらったときには、しばらく信じられなかった。

 管理人を引き継いで何年もたたない。こちらも付き合いは浅かったが、区の仕事を進めるうえでは欠かせない人だった。早急に後任を決めてもらわないと困る人が出てくる。

 Mさんも管理人さんもそれぞれ、コミュニティのなかで自分の役目を引き受けていた。多少の手当てはつくものの、基本はボランティアだ。一隅を照らす――そういう人たちがいるからこそ、コミュニティは、さざなみが立っても平穏でいられる。広い意味では、Mさんも管理人さんも連携してコミュニティを維持する仲間だった。ともに70代半ば。もっともっと生きていてほしかった。

2017年11月8日水曜日

ツチグリの涙

 ツチグリというキノコがある。阿武隈高地では、まだ地中に眠っている幼菌(方言でマメダンゴ)を採取して、たきこみご飯やみそ汁の具にする。
 その珍菌が、夏井川渓谷の隠居の庭に出る。手のひらを地面に押し当てる。一部硬いところがあれば、指で掘ってみる。小石でなければマメダンゴだ。地面からちょっと頭を出したばかりのマメダンゴと砂の区別がつけば、簡単にマメダンゴが採れる。ほかにも幼菌が眠っているはずだから、指で周りを掘ってみる。あっという間に20~30個は採れる。

 今年(2017年)は食べるだけでなく、地上に現れて星型に外皮が割れ、胞子を放出して役目を終えるまでを“観察”する、と決めた。9月10日までの経過は前に拙欄で書いた。それを再掲しながら、「その後」を付け加える。驚くことがあった。
                ☆
 6月25日。全面除染で砂浜のように白くなった地面から、茶色い頭の一部(マッチ棒の軸先大~人間の小指大)がのぞいていた。右手人さし指でグイッとやると、転がり出た。周囲の地中にも同じ球体の感触がある。そちらもまさぐると、マメダンゴが現れた。最大2センチほどの幼菌が20個ほど採れた。二つに割ると、全部白い。炊き込みご飯にして食べた。
               
【7月】2日=まんべんなく、ではなくて、スポット的にマメダンゴが頭を出す。その数ざっと50個。次の週は、変化なし。16日=白っぽい表面の色が茶黒くなる。23日=裂開を始めた個体がひとつ。

【8月】6日=表面が緑灰色に変化した個体があった。カビにやられたか。13日=全体を地上に現した個体がある。パチンコ玉大だ。24日=試しに大きいものを踏むと、「プシュッ」とかすかな音がして裂けた。

【9月】3日=表面にひびの入った個体がいくつか現れる。ひびは十字状、あるいはベンツのエンブレム似とさまざまだ。コロンと地上に現れた個体を二つに割ると、中がチョコレート色だった。胞子の放出まで時間の問題だ。10日=裂開が近そうな個体が増える。
                  
 隠居へ行くたびに写真を撮ってわかったのだが、ツチグリは、幼菌が地中で形成され始め、地上に出て裂開し、胞子を放出するまでに時間がかかる。収穫せずに放置しておくと、かなりの数の幼菌が地上に現れる。6月下旬~7月上旬の旬の時期に2~3回は試食しても大丈夫かもしれない。ただし、ヒトデにホオズキの実をくっつけたような新しい残骸にはまだお目にかかっていない。
              ☆
 それから2週間後の9月24日。キノコ図鑑に出てくる、ヒトデにホオズキの実をくっつけたような残骸=星型のツチグリになっていた。ツチグリの最終形だ。日曜日のたびに観察すること4カ月。いよいよ写真撮りも終わりと安堵しながら、胞子袋を指でチョンチョンやったら、穴の開いている頂端から、胞子ではなく透明な玉がひとつ飛び出した=写真。

 なんだ、なんだ、これは! 直径1ミリにも満たないくらいのガラス玉、いや水玉だ。前日は雨になった。頂端から雨が胞子袋の中にしみこみ、それが外から押されたはずみで玉(ぎょく)のごとくポロリと現れ、転げ落ちた。朝の光を浴びて輝いていた。これこそが甘露?

それはこうだよ――と、この不思議の理由、ツチグリの涙のワケを説明してくれる人がいるかいないか。いれば、話を聞きたい。

2017年11月7日火曜日

「裸足の女 吉野せい」

 日曜日(11月5日)午後2時から、草野心平記念文学館で吉野せい没後40年記念講演会が開かれた。講師は『裸足の女 吉野せい』と『土に書いた言葉 吉野せいアンソロジー』の著・編書がある山下多恵子さん=写真。「裸足の女 吉野せい」と題して話した。
 この日、わが地元ではごみを拾いながら夏井川の河川敷と堤防を行く「市民歩こう会」が開かれた。終了予定時間は午後2時半だったので、受講はあきらめていた。ところが、思ったより早くコトが進み、2時半解散予定が1時過ぎには終了した。わが家から文学館までは車でおよそ30分。2時からの講演には間に合う。帰宅して、急いで出かけた。

 山下さんは、せいにとって「書く」とはなんだったのか、せいのかたわらにはいわきの自然があった――と切り出し、せいの文章が菊竹山の自然を通して完成された、という意味のことを語った。

 結婚前のせいを、文学の師匠でもある山村暮鳥がブレーキをかけずにそのまま書かせたら――。山下さんは、作家網野菊と師匠の志賀直哉の例を挙げ、ひとかどの作家にはなっていただろうと述べた。私も同感だ。
 
 が、そうなっていたら私たちは「洟をたらした神」を読むことはできなかった。詩人で開拓小作農民の吉野義也(三野混沌)と結婚したからこそ、文学への情熱を秘めつつ、土を相手に暮らし、混沌との「愛と苦闘」を生きた結果、「洟をたらした神」が生まれた。
 
 山下さんの語りは、NHKのラジオ深夜便のアナウンサーのように落ち着いていて、心地よかった。よどみがない。せいの話し方も無駄がない。そのまま文章になるような語りだったことを思い出した。
 
 講演が終わって、質問タイムに入った。司会を担当した文学館の旧知の学芸員氏がいきなり振ってきた。しかたない。A3判1枚のレジュメの中にある原稿のタイトル「菊竹山記①梨花」にからめて質問した。

「この原稿コピーは雑誌用だと思うが、同じ『菊竹山記』というタイトルで、せいは昭和45年11月から地元の新聞・いわき民報に断続的に随筆を書いている。『あんたは書かねばならない』と草野心平にいわれるのは混沌の三回忌の席上。せいは心平にいわれる前からすでに書き始めていた、自分の意志で。そのへんのことをどう思うか」

 ま、結論が出る問題ではないが、山下さんもせいのなかにみずからの意志をかぎ取っているようだったので、安心した。講演会は、12月24日まで開かれている「没後40年記念吉野せい展」の関連企画として開かれた。何人か知り合いが来ていた。年のせいか、こういう機会がないとなかなか会えない、そんな人が増えてきた。

2017年11月6日月曜日

ごみを拾いながら河川敷を歩く

 週末イベントが続く。気になるのは天気。土曜日(11月4日)は夕方、雨になった。曇っても雨は降らない、日曜日は晴れる――と思っていたのに、シトシト雨だ。
 予報の網の目は粗い。「二度あることは三度ある」で、3週連続雨の日曜日になったら目も当てられない。「秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」に続いて、「神谷市民歩こう会」が中止になってしまう。

 日曜日は朝4時過ぎに起きた。雨はやんでいる。予定通り歩こう会を実施できる。ほっとする。

 コースは神谷公民館から夏井川河口までの往復9.5キロだ。河川敷と堤防を、ごみを拾いながら歩き、河口の沢帯(ざわみき)公園で昼食・自由時間のあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開いて解散となる。いわき市青少年育成市民会議神谷支部の地域部会が主催する。

 この何年か、歩こう会と吉野せい賞表彰式がダブっていて、朝、歩こう会であいさつをすると、草野心平記念文学館へ車を走らせる、ということを繰り返してきた。せいの命日は11月4日。その直近の11月の日曜日に表彰式が行われる。ところが、今年(2017年)はどういうわけか、表彰式が11月11日、しかも土曜日にずれ込んだ。

 久しぶりに歩こう会の全行程に参加した。といっても歩いて、ではない。車でコースを巡りながら、写真を撮る。歩こう会の一行=写真=だけではなく、野鳥を、川を。ふるさとの大滝根山から発する夏井川とも久しぶりに“対話”した。

 国道6号バイパスの夏井川橋あたりが、旧神谷村・草野村の境になっている。朝9時すぎに出発し、車で先回りすると、偶然、旧神谷村側でコハクチョウが6羽、夏井川の上空を旋回していた。着水態勢だった。

 夏井川橋よりひとつ海側にある六十枚橋の先では、旧草野村の住民が出て堤防の草刈りをしていた。環境保全という点では同じ目的の行事だ。歩こう会の何人かは草刈り組から飲み物をもらったそうだ。結果的に河川愛護のコラボレーションができた。
 
 わが生活圏だけでも、夏井川はいろんな役目を引き受けている。ハクチョウ・カモの越冬地、サケのヤナ場、ミサゴやウの狩り場。川砂供給地。なによりかにより、水道水は夏井川~小川江筋から引いて浄水したものだ。
 
 一番の課題は、河口が砂ですぐ閉塞することだろう。先日の台風21号では大水が砂を流して太平洋と直結した。バックホーを使って、二つ目の河口もつくられた。それが今はふさがり、太平洋と直結していた河口も、薄い膜のような水が流れているだけ。
 
 大正11(1922)年に刊行された『石城郡誌』に、夏井川河口の様子が記されている。「時に奇と称すべきは旱天(かんてん)の水害なり(略)、川水漸(ようや)く涸(か)れ其(そ)の勢ひ海沙(かいさ)を排寡(はいか)する能(あた)はず。河口塞(ふさ)がつて通せず」。100年前も住民は河口閉塞問題に悩んでいた。
 
 身近な夏井川のちょっと厄介な個性だが、それも含めて歩こう会参加者が少しでも川を意識するようになればいい――そんなことを感じさせるイベントだった。

2017年11月5日日曜日

ブラタモリ/昭和新山

 ゆうべ(11月4日)のブラタモリは北海道・洞爺湖だった。洞爺湖のほかに、周辺の火山活動の痕跡を見た。昭和新山まで足を延ばすはず――そう踏んでいたら、ふもとから眺める=写真=だけでなく、所有者の案内で山にも登った。昭和新山の成長記録を残した初代の所有者は、先祖が延岡藩士だった。ということは、さらに前の先祖はいわきに住んでいたかもしれない。
 23年前の平成6(1994)年秋、昭和新山を訪ねた。小樽・洞爺湖・登別・白老・札幌を巡る2泊3日の団体旅行だった。当時、勤務するいわき民報に書いた昭和新山についての文章を再構成してみる。

 ――麦畑がムクムク盛り上がり、やがては標高407メートルの火山に成長したという昭和新山が、白い水蒸気を噴き上げてそびえ立つ。レストハウスで昼食後、自由時間になって赤茶色の溶岩の山を見続けた。
 
 昭和新山が形成されたのは、戦時下の昭和18(1043)年暮れから20年秋にかけての2年間。当時、ふもとの郵便局長だった三松正夫が、時間の経過とともに成長する山の姿を定点で記録した。世界的に評価の高い「ミマツダイヤグラム」で、レストハウス裏手の「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)で買った「めくり絵」をパラパラやると、山の成長過程がわかる。
 
 三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1990年)も記念館で買った。ブラタモリで山登りの案内をした人が著者だ。なかにこうある。「多くの鳴動につれ、無数の亀裂と断層を伴い、極めて緩やかとはいえ刻々進む大地の隆起、四カ月も続いた噴火、一カ年がかりで押し上がって来た溶岩塔の出現等々が続き」、のちに昭和新山と命名された。
 
 やがて正夫は、新山を守るために元麦畑を買い取った。三朗さんは大阪生まれだが、北海道で学び、就職したあと、正夫と出会い、火山への思いを知って三松家を継いだ。昭和新山も引き継いだ。
 
 正夫の祖父は延岡藩内藤家の御用人を務め、明治維新後は宮崎県官吏になった。父もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長となった。
 
 延岡、内藤家御用人とくれば、内藤の殿様が延岡へ転封される前の磐城平に先祖がいたはず。『いわき史料集成4』(いわき史料集成刊行会、1987年)に当たると、延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」に8人の三松姓がいた。ミマツダイヤグラムの先祖はいわきで産湯につかったにちがいない――。
 
 国土地理院の地図では、昭和新山は標高398メートルと、生まれたときより低くなっている。ウィキペディアにあるが、温度低下や浸蝕などで少しずつ縮んでいるそうだ。磐城平藩時代の三松姓の調べは、新山と対面したときから全く進んでいない。宿題のひとつだ。

2017年11月4日土曜日

肝心の曲がりネギが……

 きのう(11月3日)、午前10~11時の夏井川渓谷。10時に隠居に着いて、少し土いじりをして、11時に帰路に就いた。たった1時間の滞在だったが――。
 快晴、無風。紅葉目当てのマイカー客が次々にやって来る=写真。わが隠居の隣に「錦展望台」がある。車のドアを開け閉めする音、人の声が届く。
 
 震災前、土地の所有者が廃屋を解体し、谷側の杉林を伐採して、展望台にした。春はアカヤシオの花の、秋は紅葉のビューポイントになった。メディアの取材ポイントでもある。前日、NHKが紅葉の様子を伝えた。その影響もあるだろう。この秋一番のにぎわいになった。
 
 日曜日(11月5日)には「神谷市民歩こう会」があって、渓谷へ出かけられない。で、きのう朝、二つ用事をつくって、隠居へ出かけた。一つは、小野町のNさんがJR磐越東線の江田駅前で直売所を開いていて、曲がりネギを売っているはず。それを買うこと。もう一つは、隠居の庭にある三春ネギの苗床に寒冷紗をかけること。

 山地系の三春ネギと、平地系のいわき一本太ネギはともに昔野菜だ。甘みがあってやわらかい。今年は三春ネギのほかに、いわき一本太ネギも栽培した。

 Nさんの直売所は確かにオープンしていた。母親と奥さんがいた。Nさんは会社を休めなかったという。「ネギは?」「ないんです、とろろ(長芋)だけです」。ネギがないって、どういうこと? 奥さんが説明してくれた。

 ネギ栽培の主力はNさんの両親だったのだろう。去年(2016年)は秋にお父さんが入院したとかで、直売所も1回か2回オープンしただけだった。今年(2017年)は母親が腰を痛めて、直売所に出すほどの量を栽培できなかったらしい。栽培者が年をとれば、いずれそうなる。Nさんも会社勤めでなかなか手が回らなかったのか。

 以前にNさんから聞いた話では、「阿久津曲がりネギ」として知られる郡山市阿久津町からネギ苗を調達する。小野町といっても西郊、阿久津町まで車で30分もかからないところに住む。曲がりネギの評判が広がり、小野町まで栽培圏が拡大した、ということなのだろう。今年は、N家の曲がりネギはあきらめるしかない。

2017年11月3日金曜日

まだ蚊がいる

 きのう(11月2日)の夕焼けはきれいだった。赤く染まった雲に飛行機雲が5本、夕日が沈んだ山から放射状に延びていた。よほど人を感動させたらしい。直後からツイッターやフェイスブックに続々と写真がアップされた。私も写真は撮ったが……。ブログに載せるのはやめた。
 11月も、はや3日。きょうは文化の日だ。3連休最後の日曜日には、地元のイベント「神谷市民歩こう会」がある。8人いる区長の充て職で主催する側になった。夏井川渓谷の隠居へは行けない。ということで、きょう、これから渓谷へ出かける。

 震災後、渓谷の行楽客が激減した。盛時には及ばないが、5年目あたりから紅葉目当ての客が戻りつつある、という実感は持てるようになった。
 
 JR磐越東線江田駅前には直売所ができる。そのひとつ、田村郡小野町の農業Nさんが長芋と曲がりネギを露地に並べて販売する。もしかしたら、きょう、今シーズン初めて店を出すかもしれない。店開きしていたら、ネギを一抱えほど買う。これも「三春ネギ」で、甘くてやわらかい。わが家の庭に土をかぶせて寝かせながら使う。
 
 渓谷へは火曜日(10月30日)にも行った。台風22号の影響はほとんどなかった。途中、小川・三島の夏井川にマガモが羽を休めていた=写真。雄が7羽(うち幼鳥2羽?)、メスが1羽。この秋の初ガモだった。
 
 カモ類はハクチョウと一緒に越冬することが多い。三島にもいずれハクチョウが渡ってくるだろう。

 下流の中神谷にハクチョウの第一陣が現れたのは10月12日。成鳥4羽、体が灰色っぽい幼鳥3羽の計7羽だったが、すぐ姿を消した。定着するまでには時間がかかる。11月に入っても、現れたり消えたりを繰り返すかもしれない。二度目はその1日夕方、新川との合流点で見た。そこが越冬地。

 温暖化の影響だろうか。11月に入っても蚊が飛び回っている。わが家で蚊に刺された最初と最後の日を記録している。これまでは平均して、最初が5月20日、最後が10月20日だった。去年(2016年)は10月27日に刺された。今年は10月28日にチクリとやられた。記録を更新中だ。
 
 まさか11月にやられることはないと思っていたのだが、蚊がいる以上は刺された最後の日が11月にずれ込む可能性も出てきた。あと4日たつと立冬だ。そんな時期に蚊の話をするようになるとは。

2017年11月2日木曜日

フォーク歌手遠藤賢司

 先日、新聞でフォーク歌手遠藤賢司さんが亡くなったことを知った。70歳だった。
 45年以上前になる。いわきの平市民会館でフォークコンサートが開かれたとき、遠藤さんがトリを務めた。「フォークの波 vol2 遠藤賢司と共に」で、「アンドレ・カンドレ」から本名に変わったばかりの井上陽水さん、忌野清志郎さんがリーダーのRCサクセション、女性ペアのジャネッツが出演した。遠藤さん24歳、陽水さん23歳、清志郎さん20歳、ジャネッツは19歳だった。

 記憶を頼りに、図書館のホームページで電子化されたいわき民報をチェックする。昭和46(1971)年9月下旬に始まった水曜日の「オー!ヤング」欄が目当てだ。翌47年2~3月にコンサート出演者を紹介する記事が連載されていた=写真。

「オー!ヤング」欄は、上司に誘われて酒を飲んでいるうちに、直訴して私がつくった。「老人新聞じゃないですか、若者が読めるコーナーをつくらせてください」「じゃあ、やれ」。小回りの利く地域紙の特性で、手を挙げた人間がやりたいことをやれる。入社半年で警察回りなどをしながら、「オー!ヤング」の“ひとり編集長”になった。

 高校生を中心に、イラストや詩、散文などが寄せられた。「オー!ヤング」と連動する企画も入った。フォークコンサートがそうだった。

「フォークの波 vol2 遠藤賢司と共に」の記事を読んで、記憶の輪郭が鮮明になった。出演者とは同年代だ。単なる新聞社の「名義後援」ではない。コンサートの手伝いもした。

 遠藤さんは♪君も猫もみんなみんな/好きだよカレーライスが……の「カレーライス」ですでに知られていた。知名度からして当然、メーンだ。でも、その後は一気に陽水さんが、清志郎さんが浮上した。

 主催者は小名浜出身の個人興行主だった。これからこんな歌で再デビューすると、待ち合わせ場所の草野美術ホールで陽水さんのアルバム「断絶」のデモテープを聴いたことがある。♪夜中にデイトした……(断絶)、♪父は今年二月で……(人生が二度あれば)、♪都会では自殺する……(傘がない)。同世代の若者の心情がストレートに表現されていた。

 遠藤さんの死に暗澹(あんたん)としながらも、低迷から浮上へと転じつつあった前座・陽水さんの透明なハイトーンが脳裏に響いた。

2017年11月1日水曜日

サンマの刺し身

 いつもの魚屋さんへ行く。顔を出すなり「カツオはありません」。「何があるの?」「サンマにタコ、マグロですね」。刺し身の話だ。カツオの代わりにサンマの刺し身を頼む、タコも少々=写真。
 カツオのシーズンが終わったわけではあるまい。台風や悪天候で出漁できないときがある。水揚げがないだけで、年内はあと少し刺し身を口にすることができるはずだ。

 サンマの刺し身を食べるまでにしばらく時間がかかった。海水温が高いので、まだ北海道のはるか沖にとどまっている。消費者の口に入るまで時間がかかるので、刺し身にはできない――そんな話を聞いたのは9月初め。

 同じころ、いわきでサンマの刺し身による食中毒事故が起きた。行きつけの魚屋さんが「まだ刺し身にできない」といったのは、寄生虫のアニサキスによる食中毒が懸念されるからだった。

 アニサキスは、サンマの鮮度が落ちれば内臓から筋肉の方に移動する。刺し身にして食べると、今度はサンマの筋肉に潜り込んでいたアニサキスが人間の胃壁・腸壁に入り込んで吐き気・嘔吐などの食中毒をおこす、ということらしい。

 サンマは3年続きの不漁だという。地球温暖化、公海への他国の漁船の進出もある。後輩(現役記者)がフェイスブックにアクアマリン館長の話をアップしていた。産卵場所の激減が根本的な原因、サンマは漂流する海藻などに産卵する、暖流と寒流のぶつかるところに海藻が集まる、その漂流藻が少なくなっている――。なるほど、これも押さえておかないといけない見解だ。

 アクアマリンは世界で初めて、サンマの人工繁殖に成功した経験を持つ。その知見を踏まえたコメントには重みがある。

 サンマの刺し身を食べたあとに、少し生臭さが残るときがある。刺し身にできるほど鮮度がよくても、時間がたてば味が落ちるということだろう。つくりたてのサンマの刺し身にはそれがない。ほのかな甘みさえある。日曜日(10月29日)の刺し身がそうだった。
 
 行きつけの魚屋さんが、サンマを刺し身にするのに慎重なのは、先代の教えが大きいこともあるのではないか。「サンマは、生だと中毒するから」。よく先代がいっていた。そういえば、焼きサンマをまだ食べていない。

2017年10月31日火曜日

「紅葉情報」には二つある

 10月に入って、テレビが「紅葉情報」を伝えるようになった。カエデのイラストが付いている。先日、夏井川渓谷は福島県内で最も遅く、「青葉」から「色づき始め」に変わった。
 この紅葉情報には“注釈”が要る。イラストが示すように、カエデ限定だ。紅葉するのはカエデだけではない。むしろ非カエデの紅葉の方が山を美しく彩る。色づくのも早い。

 きのう(10月30日)午前、台風22号の影響の有無を確かめに、渓谷の隠居へ行ってきた。1週間前に台風21号が通過したときには、庭のネギがほとんど倒伏していた。今回は、途中の道に杉林の落ち葉もなく、ネギも無事だった。

 隠居の対岸は紅・黄・茶・その他、暖色系の色で染まっていた=写真。ツツジ類やヤマザクラなどの非カエデの紅葉としては、今度の週末あたりがピークだろう。県道沿いのカエデも確かに色づき始めていた。隠居の隣にある「錦展望台」では、コンテナハウスの店が営業を始めた。

 渓谷の名勝「篭場の滝」のそばに、随筆家大町桂月の歌碑が立つ。「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」。この歌のように、カエデは、落葉樹の中では紅葉が最も遅い。それを見にいくころには、ほかの紅葉は散り果てて初冬の風景に変わっている。

「紅葉情報」には二つある。一つはカエデ。もう一つは非カエデ。カエデ狙いのカメラマンはともかく、一般の行楽客にとっては今が見ごろだ。カエデ抜きでも全山燃えるような錦繍(きんしゅう)を楽しむことができる。

2017年10月30日月曜日

雨の日曜日

 総選挙の投票日は台風21号、今度は22号だ。2週連続で雨の日曜日になった。
 いわき市では毎年春と秋の2回、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動が実施される。金・土・日の3日間で、初日は「清潔な環境づくりの日」(学校・社会福祉施設・事業所・商店・飲食店街周辺の清掃)、2日目は「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」(海岸・河川の清掃、樹木の手入れ、公園・観光地・道路・公共施設の清掃)、最終日は「清掃デー」(家庭周辺の清掃)だ。
 
 今年(2017年)の秋の運動は10月20~22日だった。最終日の「清掃デー」に想定外の総選挙の投票が重なった。が、予定通り実施すると、市から封書で連絡がきた。雨では1週間延期するしかない。延期したら、また雨。いくらなんでも次の日曜日に――とはいかない。あとはそれぞれ自分で「清掃デー」をもうけてやってもらおう、ということで行政区の役員の了承を得た。

 晴れていれば、朝6時半から1時間、区民総出で家の周辺の清掃をする。そのあと、指定の集積所に出されたごみ袋を数える。それでお役御免になる。雨では夏井川渓谷の隠居へ行っても土いじりができない。
 
 このところ、市内では毎週末、いろんなイベントが繰り広げられている。新聞で「市場まつり」を知った。市中央卸売市場の開場40周年を記念して、青果、水産、花き各棟で即売会やショーなどが行われる。雨がくれた骨休めだ。出かけることにした。
 
 同市場は平と小名浜を結ぶ鹿島街道沿いにある。国道6号バイパスを利用して鹿島街道に出ると、車列ができていた=写真。ざっと1.5キロの大渋滞だ。少し進んでは止まり、しばらく止まっては少し進みしながら、市場への標識と、その先の信号が見えるところまで来たが……。台地の市場へと続く進入路まで車が数珠つなぎになっている。
 
 もう40分たった。まだ40分かかりそうだ。さすがにそこまで我慢強くはない。車列からはずれて街道沿いの本屋へ向かい、新刊本を眺めたあと台湾家庭料理の店へ行く。カミサンは2回目、私は初めてだ。小籠包と台湾にんにく湯麺(たんめん)を頼んだ。湯麺のスープは透き通っていて、あっさりしているのにコクがある。最後の一滴まで飲みほした。
 
 台湾が恋しくなったらここへ来よう、にんにく湯麺を食べよう――そんな思いを抱かせるような味だった。

2017年10月29日日曜日

その後の十一屋

 幕末の磐城平城下に「十一屋」という旅宿があった。さむらいの「士」を分解すると、「十一」になる。若い人から教えられて、なるほどと思った。武士が脱サラして商売を始めたので、そう名付けたのかもしれない。
 新島襄、21歳。乗船した帆船「快風丸」が江戸から函館へと太平洋側を北上する途中、中之作(いわき市)に寄港する。襄は閼伽井嶽登山を試みたが、「烈風雷雨」で断念し、磐城平城下の十一屋に泊まった。函館から密航してアメリカへ留学するのはそのあと。

 不破俊輔・福島宜慶共著の歴史小説『坊主持ちの旅――江(ごう)正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター)にも十一屋が出てくる。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」

 愚庵は正岡子規に影響を与えた明治の歌僧。正敏は愚庵の竹馬の友で、一時は北海道でサケ漁業経営者として成功した。ともに元磐城平藩士だ。愚庵に「江正敏君伝」がある。

 明治40(1907)年に、いわきで初めて発行された民間新聞「いはき」に「十一屋」の広告が載っている。「煙草元売捌/洋小間物商/清 平町三丁目/小島末蔵/十一屋号」とある。「清」は、実際には輪っかの丸に清だ。

 大正に入ると、詩人山村暮鳥が十一屋に出入りするようになる。十一屋の大番頭さんと昵懇(じっこん)の間柄だった。店の前の路上で種物売りをしていた好間・川中子(かわなご)の「猪狩ばあさん」をモチーフにした詩「穀物の種子」もある。

 以上は幕末~大正期の十一屋のおさらい。その後、十一屋の移った場所がわかる地図「大・平町職業要覧明細図」(昭和11年製作)を偶然見た。明細図には東西に延びるメーンストリートの本町通りを中心に、平町の店舗・住宅が名入りで描かれている。
 
 いわき地域学會主催の第3回いわき学検定1次試験が10月7日、2次試験がきのう(10月28日)、市生涯学習プラザで行われた。
 
 同プラザはティーワンビル4、5階に入居している。4階エレベーターホールと隣のロビーにかけて、壁面を利用して平・本町通りの拡大地図(大・平町職業要覧明細図)と写真パネルが飾られている。いわき市制施行50周年記念と銘打ってあるから、去年(2016年)展示されたのだろう。そこに、その後の十一屋があった。三町目から四町目に移っていた=写真。
 
 あとで明細図とグーグルアースで通りの今昔を比べる。通りの南側には丸市屋、宍戸屋、関内薬局、丸伊酒店といった店がそのまま残っている。北側は、マルトモ書店が消え、ホテルが建つなどだいぶ様変わりした。十一屋は丸伊酒店の向かい側にあった。
 
 同じように十一屋に注目している仲間が教えてくれた。四町目に移ってからは、うどんとそばで有名だった。要は食堂だ。「平へ行ったら、十一屋のそばを食べる」というくらいに知られていたらしい。だからどうなんだといわれそうだが、十一屋には歴史の落ち葉が積もっている。その後の十一屋の場所がわかっただけでも大収穫だった。

2017年10月28日土曜日

新聞コラム

 池上彰さんが「新聞ななめ読み」で、朝日・読売・毎日3紙の1面コラムを取り上げていた(きのう10月27日の朝日新聞)=写真。

 朝日は「天声人語」、読売は「編集手帳」、毎日は「余録」。総選挙の結果を1面コラムはどう料理し、伝えていたか――が主眼だが、読売の「編集手帳」執筆担当者竹内政明さんへの“惜別の辞”でもあったように思う。竹内さんはコラム界きっての名文家だ。
 10月3日の執筆担当者交代の社告によると、竹内さんは平成13(2001)年7月から今年(2017)10月2日まで、およそ16年間にわたって「編集手帳」を担当した。

 新聞の1面は「顔」、そこにあるコラムは「シワ」――それが竹内さんの持論だ。今年元日のコラムに書いている。「心躍る出来事の目尻には微笑のシワを畳み、悲しい事件のおでこには憂いの八の字を刻み、読者の胸の奥に並べていただく。目尻の1年になるといい」。微笑の1年を祈る年頭コラムだ。比喩が独特でわかりやすい。

 新聞社を辞めてざっと1年半後、「マスコミ論」(のちに「メディア社会論」)を学生に、という話がきた。7年目の今年が最後になった。始まりは東日本大震災が発生した年で、開講が1カ月遅れた。予定の内容をガラリと変えた。

 研究材料として全国紙2紙、県紙1紙、地域紙1紙、ほかに月刊の「新聞研究」(日本新聞協会)と「ジャーナリズム」(朝日新聞出版)などを購読した。

 震災からちょうど1年がたった平成24(2012)年3月11日の読売新聞を、今も忘れられない。1面の3分の2を仙台市若葉区の「慰霊の塔」の写真で埋め、ふだんは1面左下にある「編集手帳」を上部に据えた。分量はふだんの2倍。「時は流れない。雪のように降り積もる。人は優しくなったか。賢くなったか。」。ふだんはない見出しが付いていた。

 読売は「編集手帳」から読み始める。今もそれは変わらない。「天声人語」が洋館の書斎派だとすると、「編集手帳」は長屋のちゃぶ台派。天下国家を論じるにしても、庶民の喜怒哀楽から離れない、そこが魅力だった。

 執筆者交代は、今度の「新聞ななめ読み」で知った。社告を読み飛ばしていた。あわててネットでチェックし、総合図書館へ行って10月2日と3日の「編集手帳」を読み直した。

 これは偶然だが、読売は今月で購読期間が切れる。カミサンから経費節減をいわれている。学生に話す仕事も終わった。たまたま家で店番中に拡張員氏が来た。「ちょっと休みます」といったあと、なぜか文科省前事務次官氏に関する「出会い系バー」の記事と、社会部長の言い訳が頭に浮かんだ。

2017年10月27日金曜日

台風と杉の葉

 杉の枝葉は風に弱い。台風21号がいわき沖を通過した10月23日午後、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。途中に2カ所、杉のミニ林がある。路面が杉の枝葉で覆われていた。大風が吹くと必ずそうなる。
 隠居で昔野菜の「三春ネギ」を100本ほど、「いわき一本太ネギ」を30本ほど栽培している。どちらも風に弱い。
 
 23日午前、閉塞されている夏井川河口を見に行った。大水が砂の壁をぶち抜き、太平洋に注いでいた。河口までの両岸にネギ畑がある。品種改良がされた、風折れしにくいネギだが、土寄せが甘かったところはうねの両側に倒れ、白根がのぞいていた。
 
 それを見て、隠居のネギの無残な姿が思い浮かんだ。駆け付けると、ほとんどが北に向かって倒れていた=写真。嘆いているひまはない。すぐネギを起こし、土を寄せる。折れた葉は回収し、味噌汁や卵焼きなどの具にした。
 
 芽生えたばかりのネギ苗は――。なんと、一部の地面が盛り上がって割れている。直下にモグラの通り道ができた。ネギ苗の根が地中で浮いたら枯れてしまう。こぶしで土を押し戻したが、またトンネルができそうだ。難敵が現れたものだ。
 
 風による倒伏、モグラによるネギ苗の枯死だけではない。雨が続いて湿気に弱いネギがとろけてしまった、なんて話も聞く。隠居では、根腐れ防止のために溝を浅くして土を高く寄せることにしたが、台風には無力だった。いや、それ以上に土寄せが甘かった。
 
 台風一過後の24日、福井県のJR北陸本線南今庄駅で列車がホームをオーバーランするトラブルが相次いだ。ホームだけの駅の南側に杉林がある。杉の枝葉が台風で線路敷地内まで吹き飛ばされた。で、線路にのっかった杉の葉で列車の車輪が滑り、ブレーキの利きが甘くなった、ということらしい。
 
 夏井川渓谷の磐越東線も、紅葉の時期になると落ち葉が線路敷地内に散乱する。11月にはたまに、雨による濡れ落ち葉が原因で車輪が空転し列車が遅れた、という記事が新聞に載る。昔、渓谷の古老から聞いた話だが、朝起きると線路に落ち葉が積もっていないかどうか見回ったものだという。あれば除去する。自発的な行為だ。山里ではときどき、街場では想像もできないような自然との葛藤がおきる。

2017年10月26日木曜日

「洟をたらした神」の世界

 東日本大震災後の平成24(2012)年11月、作家吉野せいの短編集『洟をたらした神』が文庫本(中央公論新社)になった=写真。同27年1月に再版されたものを手元に置いている。簡便でいい。
 ポケットに入れて『洟をたらした神』の“現場”(いわき市好間町の菊竹山など)へ行く。わきに置いてネットで調べ物をする。作品が生まれた背景=時代・地域・生業と暮らし・子どもの遊びなど=を探ることで、いわきをフィールドにした「『洟をたらした神』の世界」を知ることができる。自分用の“注釈”づくりでもある。
 
 せいの夫・義也(詩人・三野混沌)は中国ナシの「莱陽慈梨(ライヤンツーリー)」を栽培した(実際はせいと息子に丸投げしたようなものだが)。いわきのナシ栽培史や、莱陽慈梨が日本に導入された経緯を重ね合わせると、混沌の、中国ナシに寄せる情熱がハンパではないことがわかる。
 
 作品解釈の究極は、作家がなぜ、どんな思いでそれを書いたかにある、と私は思っている。作品に出てくる“キーワード”を調べることが、一見遠回りのようでその近道になることを、最近知った。文庫本のおかげかもしれない。
 
 たとえば、「莱陽慈梨」を日本に導入した国の園芸試験場の研究者と混沌の関係は? 混沌が静岡にあるその試験場へ出かけたことは? その混沌を妻のせいはどう見ていたか――夫婦の関係、あるいは夫・妻それぞれの内面を知るうえで新しい問いが次々にわいてくる。
 
 吉野せいの研究者でもなんでもない。が、昭和50(1975)年春、『洟をたらした神』が田村俊子賞を受賞したとき、本人を取材した。こちらは26歳の若造だった。本が出版されたときには書評めいた記事も書いた。そんな因縁があって、古希近い年まで間歇的に『洟をたらした神』を読み返している。
 
 さて、いわき市はせいの業績を記念して、文学賞(吉野せい賞)を創設した。今年(2017年)で40回目になる。おととい(10月24日)、5人の選考委員を代表して、市役所で行われた記者会見に同席し、選評と総評を述べた。節目の年にふさわしい作品がそろい、正賞と準賞のほかに、奨励賞と中学生以下の青少年特別賞各2編を選ぶことができた。

 11月11日には市立草野心平記念文学館で表彰式と記念講演会が開かれる。表彰式では選考結果を報告しないといけない。記念講演会の講師は福島県立博物館の赤坂憲雄館長で、「吉野せいの世界」と題して話す。テキスト代わりに文庫本をポケットにしのばせて行くか。

2017年10月25日水曜日

スウェーデンからの訃報

 8年前、還暦を記念して仲間で“海外修学旅行”をしよう、ということになった。最初に、スウェーデンに住む同級生の病気見舞いを兼ねて、北欧3国を旅した。6人プラス奥方1人で出かけた。
 昭和39(1964)年4月、平高専(現福島高専)に入学した。機械工学科40人の出身地は、福島、梁川、郡山、会津若松、田村郡、原町、相馬、平、磐城など福島県内一円に及ぶ。岩手県の人間もいた。地元いわき(合併したのは3年生のとき)の人間を除いて寮生活を共にした。

 15歳の出会いから半世紀余。きのう(10月24日)、仲間を経由してスウェーデンから同級生の訃報が届いた。8年前に自宅を訪ねたとき、薬の本作用で病気は治ったが、副作用が末梢神経に出た、ときどき痛みに襲われる、といっていた。死を知らせる家族からのメールも、痛みとの闘いが続いていたことをうかがわせた。

 同級生の住まいはストックホルムから少し北へ行ったところにある。集合住宅の4階で、南面する庭にはセイヨウトチノキが植わっていた=写真。大きな葉の茂りを窓から見下ろした。セイヨウトチノキは、流行歌の「カスバの女」にうたわれる♪花はマロニエ シャンゼリゼ……のマロニエのことだ。

 ノルウェーのベルゲンでは、日本人ガイドから「街路樹はマロニエが多い」という話を聞いた。ドイツ語では、マロニエは「カスタニエン」。フランクルの『夜と霧』に、強制収容所のバラック病舎の窓から見えるカスタニエンの木に永遠の命を見いだして死んだ若い女性の話が出てくる。

「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの」「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――私は――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……」(霜山徳爾訳、みすず書房)
 
 同級生は自宅の窓から年輪を八つ加えたマロニエを眺めながら、何を思ったか。最後に脳裏に浮かんだのはふるさと会津の山河か、「永遠のいのち」か。いやいや、奥方と3人の子どもに看取られて、「これまでありがとう」と言って旅立ったにちがいない。
 
 8年前、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開き、スウェーデンに国際電話をかけたのが、“海外修学旅行”の始まりだった。それぞれが「今生の別れ」のつもりで会いに行った。喪失感とともに、痛みから解放されて安らぐ顔が思い浮かぶ。いつか隠居で「偲ぶ会」を開かねば――。

2017年10月24日火曜日

台風21号通過

「超大型で非常に強い」台風というから心配だったが、いわきでは一部停電や通行止め程度ですんだようだ。
 小川町の山腹にある市立草野心平記念文学館付近ののり面が崩落した。けさの新聞に写真が載っている。周りの景色からして、小川のふもとから市道を駆け上がり、文学館が見えてくるあたりで土砂が市道を埋め尽くした。このへんののり面はときどき、イノシシにほじくり返されている。それが引き金になったか。(実際には前から緩んでいたらしい)

 台風21号がきのう(10月23日)朝、いわき沖を通過した。6時過ぎ、ごみネットを家の前の電柱にくくりつけた。生あったかい風が顔をなでる。雨はほぼやんでいる。隣のコインランドリー駐車場に大家さんがいた。店のひさしの看板が一部落下した。それを片づけているところだった。

 朝食後、近所に出かけたカミサンが帰って来て言う。「三夜(さんや)川が(地面と)すれすれまで増水している」。三夜川は三面舗装の農業排水路だが、生活排水も流れ込む。県支弁河川として工事が行われた結果、川名を「三夜川」とした(志賀伝吉著『夏井川』)。流路はおよそ5キロ。わが行政区と隣の行政区の境の川でもある。
 
 前日は総選挙があって、投票立会人を務めた。寝不足気味だったので、朝食後、こたつで横になった。そのあと、近所の三夜川を見に行った。カミサンが見たときから1時間以上たっている。水位は地面から50センチ以上も低くなっていた。
 
 三夜川は、最終的には夏井川と仁井田川をつなぐ横川に合流する。夏井川河口は、ふだんは波が押し上げた砂で閉塞している。
 
 台風のときくらいは大水で砂浜がブン抜けているはずだ。様子を見に行った。六十枚橋へは左岸の堤防を、橋からは右岸の堤防を利用した。河川敷は水没したが、橋脚はまだ見えている。河口は? 昔はほぼまっすぐ太平洋とつながっていたが、今は右岸寄りの砂を削って濁水を吐き出していた。
 
 それとは別の場所(昔の河口付近)で、バックホーが砂浜に水路をつくっていた=写真。薄紙のような水が太平洋へ流れていた。重機が出て吐き出し口をつくるのは、夏井川河口ではもうなじみの光景だ。
 
 川の両岸にあるネギ畑が風害に遭っていた。暴風に翻弄されてうねの両側にネギが倒れている。品種改良が進んで、見た目がよく、風にも強いネギが栽培されるようになった。そのネギが倒伏しているとは!
 
 土寄せがしっかりしている畑は、しかし、目立った被害はない。昔野菜のいわき一本太ネギも三春ネギも風には弱い。急に気になって、昼食後、夏井川渓谷の隠居へ車を走らせた。ほぼ全部、ネギが倒伏していた。そのてんまつはまたあとで。

2017年10月23日月曜日

投票立会人

 朝6時過ぎに家を出て、帰って来たのは夜7時半だった。体育館の屋根を雨が一日中たたいていた。
 きのう(10月22日)、衆院総選挙の投開票が行われた(離島など台風21号の影響で開票が遅れているところもあるそうだ)。いわき市・双葉郡がエリアの福島5区のうち、いわき市平第11選挙区で当日投票(会場は小学校体育館)の立会人を務めた。投票立会人は2人いる。1人は地元の区長が選任される。順番が回ってきた。
 
 投票立会人には、投票の秘密保持のため「選挙で知り得た情報について守秘義務があるので、選挙後も漏らすことのないように」と文書でくぎを刺されている。どこのだれがどうの――といったことはもちろん、口にするつもりはない。が、これまで外から選挙を見る(取材する)だけだったのが、半分インサイドの立場で投票現場に身をおくことができた。いい経験になった。

 当日投票は午前7時から午後8時までだが、いわき市内の投票所は、主に山間部が2時間繰り上げて午後6時、ほかは午後7時で閉め切られる。

 投票が終わると、投票管理者と投票立会人の1人(今回は私)が、待たせておいたタクシーに三つの投票箱(小選挙区、比例代表、最高裁判所裁判官国民審査)を積んで、開票場の市総合体育館へ急ぐ。市内の投票所は計138カ所。夜雨のなか、138台のタクシーが一斉に総合体育館をめざす。想像するだけでも壮観だ。

 国道6号常磐バイパスを利用した。たまたまだが、赤信号で止まることなく総合体育館に着くことができた。先着のタクシーがいる。あとから次々にタクシーが到着する。時間が限られているので、みな殺気立っている。現役時代に一度、この光景を写真に撮って紙面化したかったな――そんな思いがよぎる。

 大体育館に入って開票スタッフに投票箱を引き渡したときにも、記者時代の記憶がよみがえった。もう35年以上前、なんの選挙だか忘れたが開票取材でこの体育館に張りついたことがある。
 
 さて、タクシーで投票箱を運び、同じタクシーでUターンして帰宅するまで30分。およそ1カ月前の市長選では、街なかルートで会場へ向かったという。どのルートを行くかと運転手が言うので、投票管理者と相談してバイパス経由にした。前回は数珠つなぎになったことからすると、信号の少ないバイパス利用が正解だったのではないか。
 
 家では晩酌をやりながらNHKの選挙特番=写真=を見た。が、間もなくまぶたが重くなった。寝坊するわけにはいかないと、未明の2時前に目が覚めてからは、そのまま起きていた。長い一日だった。

2017年10月22日日曜日

ラトブ10周年

 おととい(10月20日)、新聞にラトブ(平=複合ビル)とリスポ(小名浜=ショッピングセンター)の折り込み広告が入っていた=写真。
 ラトブはオープン10周年の“感謝セール”(割引や特別メニュー)とイベントの開催を告げるものだった。一方のリスポは 、“閉店セール”(割引)を20~23日に実施するという内容だった。こちらは来年(2018年)1月15日、50年の歴史に幕を閉じる。
 
 ラトブにしぼって書く。ラトブはいわき駅前再開発ビルとして、平成19(2007)年10月25日、オープンした。6階のいわき産業創造館に起業家を支援する「インキュベートルーム」がある。若い仲間がオープンと同時に、「ネット古書店」として入居した。
 
 たまたまその日が、会社をやめてフリーになった初日だった。若い仲間に誘われてインキュベートルームの同居人になった。前職のからみで回ってきた仕事があった。毎日、階下の総合図書館に通い、資料を探し、若い仲間に手伝ってもらって本を2冊つくった。取材・編集代行業のようなものだった。
 
 インキュベートルーム通いは1年で終わる。あとは在宅ワークに切り替えた。そのころ、縁があっていわきの雑誌「うえいぶ」の編集者になった。住んでいる行政区の役員に誘われ、吉野せい賞選考委員になった。震災の年(2011年)から今年までの7期、非常勤講師も経験した。

 ラトブができる数年前、私も参加して当時の市長に「いわき市総合型図書館整備に関する提言」をした。思い思いに過ごす「自分の椅子」のある図書館を――が柱だった。提言に基づいて総合図書館が計画され、ラトブの4、5階に入居した。
 
 オープン時から総合図書館に日参している人を知っている。話したことはない。どこの誰かも知らない。が、「自分の椅子」を持ち、「自分の書斎」として図書館を利用していることは確かだ。私もそうだ。ラトブの10年は、図書館利用の10年でもあった。
 
 オープン当初、別の若い仲間が私たちのことを「ラトブ族」と評したことがある。ラトブができるまでの本をつくり、図書館を自分の書庫のように利用している、という意味では、この10年、「ラトブ族」の一人だったことは間違いない。

2017年10月21日土曜日

キジバトと子イノシシ

 おどかしてごめん、ごめん、ごめん――。そう舌頭で謝りながら、車で“スーパー林道”を駆け上り駆け下った。
 ところどころでキジバトがえさをついばんでいた。キジバトにとっては、突然、うなり声をあげて疾走してくる暴れ牛のような鉄のかたまりだ。両側の木の間にそれればいいものを、前へ前へとまっすぐ飛んでいく。その繰り返し。肝を冷やしたにちがいない。

 夏井川渓谷のいわき市小川町上小川字牛小川と、左岸の神楽山(かぐらやま=標高808メートル)の裾をまくようにして、同市川前町下桶売字荻(おぎ)を結ぶ広域基幹林道上高部線を、地元の人は半分皮肉を込めて“スーパー林道”と呼ぶ。幅員は5メートル、延長は14キロ。おととい(10月19日)朝、いわき市から川内村・上川内へ行くのに最短コースとして利用した。

 1カ月前の敬老の日(9月18日)にも、田村市常葉町にある実家からの帰り、都路―川内経由で“スーパー林道”を利用した。珍しく対向車両があった。人もいた。山の手入れが行われていた。

 具体的には「ふくしま森林再生(県営林)事業上高部地区」で、期間は10月31日まで。間伐などの森林整備と、放射性物質の動態に応じた表土流出防止柵などの対策を一体的に行う、と福島県のホームページにあった。

 すでに事業は完了していた。道端の草がきれいに刈り払われ、表土流出防止の柵(間伐材を利用)が設けられていた=写真。

 しかし、整備事業エリアを過ぎると、道がいきなり草で狭くなる。牛小川寄り、川前・外門(ともん)の集落に近づいたとき、道をすばやく横切る小動物がいた。ずんぐりした体形。子どものイノシシだった。3匹か4匹か、ちょっとはっきりしなかったが、曇雨天のうえに杉林の中なので薄暗い、こんなところには出るかもしれない――予想していたとおりになった。
 
 人間界と自然界が混然一体となった山里ならではのできごとだ。そういえば、朝、川内へ向かっているとき、ケータイが鳴った。若い元同僚からだった。いわき市の「好間でイノシシを捕ります、作家吉野せいの住んでいた家はどの辺でしたっけ?」「好間中学校への道を上がって、ちょっと行って左折したどんづまり、(夫・義也=三野混沌の)詩碑があるところ」。彼は現役の記者だが、最近、わな猟の免許を取った。師匠格の人と一緒に菊竹山中にわなを仕掛けるのだろうか。
 
 曇雨天だと、イノシシは昼も動きまわる? いや、原発震災以降、イノシシ猟が激減した。人間が避難した双葉郡内はすっかり野生の王国と化した。日中から動き回る習性を取り戻しただけなのかもしれない。

2017年10月20日金曜日

川内の「心平記念館」へ

 きのう(10月19日)、用があって川内村へ行って来た。朝から雨。ジャンパーをはおり、マフラーを首に巻いて出かけた。外にいると寒かった。
 村に草野心平が夏・秋を過ごした「天山文庫」がある。天山文庫の下には阿武隈民芸館。平成22(2010)年、二つをまとめて管理する組織「かわうち草野心平記念館」ができた。その1年後、原発震災が起きる。記念館も全村避難の影響を受けた。今は再生・復興の途中だろう。

 天山文庫へは若いころ二、三度、阿武隈民芸館へはそのついでに一度入ったことがある。いわき地域学會が『川内村史』を請け負った際には、幕末の俳諧を中心にした「川内の文芸」と、現代の「川内と草野心平」を担当し、仕事が休みの日に仲間と川内通いを続けた。

 おととい(10月18日)の福島民報「ふくしまは負けない 明日へ」欄は川内特集だった。<被災地の声>のコーナーに、同村で陶芸工房を開いている友人夫妻の愛娘、志賀風夏さん(23)が載った=写真。なんと、この4月からかわうち草野心平記念館の管理人になっていた。
 
 彼女のことなら生まれたときから知っている。よちよち歩きの姿も、震災後に大学生になって陶芸を始めたことも。
 
 記事にこうあった。管理人としては――若者向けの企画展を開いたり、天山文庫を使ったイベントを開催したりしたい、復興支援のために川内村へ集まっている人たちと協力して村の素晴らしさを発信したい。個人的には――陶芸を父親に学んでいる。父親は簡単に食器を製作するが、自分は思うように作ることができない。未熟さを痛感している。将来は仲間と合同展を開催できれば。
 
 記念館を訪ね、風夏さんに会って新聞記事の話をする。「そうみたいですね」。コピーを持って行けばよかったか。風夏さんと別れてから自宅を訪ねてわかったのだが、家では別の新聞をとっていた。両親も記事を読んでいなかった。
 
『川内村史』や、かつていわきで開かれた心平展の話などをした。今は管理人として心平の本を集め、集中的に読み解いているところだという。木工も得意な父親に本棚をつくってもらった。自宅を訪ねたときに、父親が本棚を見せてくれた。まだまだスペースが余っている。これからどんどん心平関係本が収まるのだろう。
 
 ま、それはそれとして、若い人同士、協力して川内の素晴らしさを発信したい、という心意気には打たれた。新聞記事を読んですぐ、6月16日に始まった「かわうち草野心平記念館」のツイート400件余を全部チェックした。発信者「中の人」は若者らしい感性に満ちていた。
 
 いわきには市立草野心平記念文学館がある。ちょうど今、市内では心平の詩に出てくる「玄玄天」を冠にした「まちなかアートフェスティバル」が開かれている。こちらも若い人が中心になって活動している。
 
 心平つながりでいわきの若者たちとネットワークを結ぶことはできるのではないか。それこそ合同展を開く仲間に出会えるかもしれない。
 
 文学館のあるいわき市小川町と記念館のある川内村とは国道399号でつながっている。これを私は勝手に「かえるロード」と呼んでいる。やがて「十文字トンネル」ができると、いわきと川内の時間距離はかなり短縮される。山のあちらとこちらの若者をつなぐ声かけぐらいなら年寄りにもできそうだ。