2017年12月31日日曜日

新芸術祭「百五〇年の孤独」③除夜の鐘

「150年ぶりに、泉に除夜の鐘の音が響きます」。カオス*ラウンジ新芸術祭2017市街劇「百五〇年の孤独」と銘打った展覧会の主催者の一人、E君が前に言っていた。あまり唐突なので、最初は事態がよく飲み込めなかった。「住民への周知は?」「区長さんに話して了解をもらい、回覧チラシで知らせました」という。
 大みそか、つまりきょうの真夜中、いきなり鐘が鳴り出したら、「何事?」と110番をかける住民がいないともかぎらない。同展実行委員会はそんなことも想定して、周到にコトを進めている。地元の人たちに自分たちの考えを説明し、納得してもらったうえで「市街劇」を展開しているのだ。こうした現実的な手続き、積み重ねを知れば応援しないわけにはいかないではないか、という気持ちになる。

 どこで鐘を撞(つ)くのか――。第三会場の「子安観音」だという。JR泉駅の北側にあるzitti(ジッチ)が第一会場、駅南側住宅街にあるMさん宅の離れ・密嚴堂が第二会場だ。

 第三会場は駅の北方、高台の泉ケ丘とふもとの玉露地区を直結する斜面の中腹だ。廃仏毀釈で生蓮寺というお寺が破壊された。その境内にあった玉露観音堂(子安観音)は残されたが、これも土砂崩れで二度倒壊、再建されたものだという。

 第一会場でE君と顔を合わせ、偶然見に来た旧知のY君と第二会場へと駅舎をまたいで歩いたあと、また駅裏へ戻った。E君がそこで車を出してくれた。Y君はともかくほんとのジッチには、これ以上歩くのはきついと判断したのだろう。車に乗って住宅街を抜け、泉を含む農業用水、小名浜の飲料水・工業用水に利用されている鮫川堰用水路を渡って狭い坂道を上ると、墓地に出た。元の墓のほかに寺の跡も墓になったようだった。

 観音堂の境内に真新しい鐘撞き堂があった=写真。中に銀色っぽい鐘がつるされている。鐘の制作者がいた。アルミ缶1万5千個を拾い集め、それを溶かして鋳造したものだそうだ。1年前は制作者の住む茨城県取手市の住宅地で除夜の鐘撞きに利用されたとか。「このやぐらは?」「私がつくりました。どうぞ撞いてみてください」というので、軽く撞くとわりと高い音がした。

 観音堂内では、アルミ缶を溶かして鋳造するまでの動画が流されていた。それを見ながら、また質問する。アルミ缶を溶かす過程で不純物(缶表面の模様など)が表面に浮き上がってくる。それを除去しないと、鐘に小さな穴が開いたりするのだという。「鍋物のアクをとるのと同じだね」「そう、そうです」。アクを取らないといい鐘はできないのだ。
 
 市街劇は同時進行・未来進行形でもある。きのう書いた密嚴堂では、堂主が夕べ、修行を終えて高野山から帰宅したらしい。今夜は10時から元日0時半まで子安観音の「除夜の鐘撞き」が行われる。
 
 観音堂のそばには上の泉ケ丘の住民が泉駅方面と直行できるように手すり付きのコンクリート段が設けられている。上からも下からも鐘撞きに出かけることはできる。玉露は「150年の奇跡」のなかで新年を迎える。

2017年12月30日土曜日

新芸術祭「百五〇年の孤独」②密嚴堂

 カオス*ラウンジ新芸術祭2017市街劇「百五〇年の孤独」と銘打った展覧会は、JR泉駅の北側にあるzitti(ジッチ)が第一会場だ。そこから自由通行の駅舎2階を利用して駅前へ――。 
 住宅街に第二会場・密嚴堂がある=写真上。入り口は竹林を思わせるデザイン。間にしめ縄を飾った竹の鳥居、出入り口付きの土壁がつくられた。これらも作品だ。奥の密嚴堂は軒が竹の笹で飾られている。竹林もそうだが、建物もいい雰囲気だ。密嚴堂の内部は、居間が二つ。東側の部屋には「地獄」=写真下=が描かれ、西の部屋には床の間に大日如来の掛け軸、つまり「密嚴」(浄土)が表現されている。
 
 泉藩の廃仏毀釈について、1年間現地調査をした展覧会主催者側の1人、小名浜のE君の案内で見て回る。展覧会を企画・演出した美術批評家黒瀬陽平さんが、zittiから密嚴堂に移動していた。E君の話を聞き、黒瀬さんの文章を読んで感じたのは、「事実は小説より奇なり」ということだ。
 
 密嚴堂の持ち主は元警察官のMさん。Mさんは泉に寺をつくろうと、定年退職後、高野山で修行に入った。一時帰郷した今年(2017年)9月、E君らはMさんに会う。「一緒に寺をつくらせてください」。両者は意気投合し、お堂にするつもりの離れを会場に提供した。
 
 Mさんにいわれたのは二つ。本尊はMさんが所有している胎蔵界の大日如来の白描画にすること、寺の名前は密嚴堂とすること。あとはE君らにまかせた。
 
 この実話は、前にE君から聞いていた。すごい話だな――。そのときにも人間のドラマの妙を感じたものだが、実際に現場を見ると、想像していた何倍もの感動に包まれた。
 
 来年の戊辰戦争150年を前に、廃仏毀釈に「百五〇年の孤独」を見た若者たち。お堂を開くことにしたMさん。両者の思いが、調査~出会い~イベントに結実するなかで、お堂を“共創”するところまでいく。しかも、Mさんはこの日、修行最後の日。なんというシンクロ性だろう。密嚴堂の話だけでも「百五〇年の孤独」を企画した価値がある。
 
 帰宅していわき地域学會図書の『藤原川流域紀行』所収・水沢松次「泉の石仏」、『鮫川流域紀行』所収・佐藤孝徳「泉藩の廃仏毀釈」を読む。それぞれに「廃仏毀釈の今」を書いている。2人が生きていたら、どう反応したろうか。

2017年12月29日金曜日

新芸術祭「百五〇年の孤独」①泉を歩く

 カオス*ラウンジ新芸術祭2017市街劇「百五〇年の孤独」と銘打った展覧会がきのう(12月28日)、いわき市泉地区の民家などを会場に始まった(年明け1月からは金・土・日・祝日の開催で、1月28日が最終日)。
 この展覧会を企画・演出した美術家・美術批評家黒瀬陽平さんによると――。ざっと150年前、明治政府は最初にして最大の宗教改革、「神仏分離令」を出す。その結果、泉藩内ではおよそ60あった寺院が「廃仏毀釈」によって姿を消した。これまでに復活したのはわずか2寺だけ。「泉は廃仏毀釈からの復興に『失敗』した」

「ぼくたちは一年間、泉の街を歩いてみた。かつて寺院だった場所を全てめぐり、その街並みや風景を見た」。なんと! “悉皆(しっかい)調査”をしたのだ。

 で、「わかったことは、かつての『復興の失敗』は、現在の街並みや風景にも、確かに影を落としている、ということだ。生者と死者の関係が変われば、街も変わる。150年の孤独のなかで、ゆっくりと変わっていく」。展覧会名はこの認識を踏まえたものだった。

 悉皆調査という基盤の上に、“まち歩き”(コミュニティツーリズム)の手法を取り入れて、各所に配された作品を見て回る。3年前、平地区で実施したのが始まりだが、私としては今回初めて全体像を頭に描くことができた。というのも、主催者の一人が旧知のE君で、「ぜひ見に来てください」というので、初日午前10時に第一会場へ出かけた。

 泉地区はJR泉駅の両側が区画整理をされて、いわき市内でも一番の人口集中地区に変貌した。「いや、人口爆発地区です」とE君はいう。泉地区は車で通り過ぎるか、たまに画廊を訪ねるくらいで、土地勘はまったくない(若いとき、友人の叔父宅へ友人と何度も飲みに押しかけたが、夜の訪問だったために場所を覚えていない)。

 少し遅れて地元在住のY君が第一会場へやって来た。偶然の顔合わせだ。ここは一緒に巡るのが一番。E君の案内で歩き始めると、「ここはこう、あそこはこう」と、E君とY君が即興でささやいてくれる。おかげで泉の150年前の“断片”が少しだが見えてきた。
 
 第一会場は駅の北側にあるzitti(ジッチ)=写真。震災前、何度か訪ねたことがある。「家主は?」と聞けば、居合わせた黒瀬さんが「川内です」という。川内・獏原人村のK氏が主催するイベントによく参加しているから、すぐピンときた。K氏がらみのフェイスブックにときどき写っている。村の真ん中にある旧保育所=「町分オルタナギャラリー」にでも行ったのだろう。

2017年12月28日木曜日

曲がりネギを小野町で買う

 例年、師走になるとヨークベニマルのいわきの店にも、郡山市の阿久津曲がりネギが並ぶ。あれば2束ないし3束を買う。
 ところが、今年(2017年)はもう年末だというのに、まだ口にしていない。街へ出かけたついでに、ベニマルで買い物を――となったのが2回。2回とも空振りだった。

 先々週の日曜日(12月17日)、夏井川渓谷の隠居へ行ったついでに、田村郡小野町の直売所「おのげんき」へ漬物用の白菜を買いに行った。ガソリン代をかけてなぜ? 前にも書いたが、ひとつは山里ドライブ。阿武隈高地生まれの山猿には、それが性に合っている。もうひとつは平地より山里の白菜が甘いから。

 曲がりネギがあったので、白菜と併せて買った=写真。田村地方では曲がりネギの生産が多い。
 
 もう7年前になる。レジの女性と話した。「三春ネギか」「いや、須賀川のネギ」。須賀川といえば、千住ネギの合黒系らしい源吾ネギがある。同じ曲がりネギでも加賀ネギ系の阿久津曲がりネギとは系統が違う。どちらにしろ、小野町では普通に曲がりネギが生産されているわけだ。

 これも7年前に書いたことだが、小野町は中通りと浜通り南部との交通の要衝だ。郡山・三春だけでなく、須賀川との往来も容易だったのだろう。
 
 おととい(12月26日)の県紙に「阿久津曲がり/ねぎ窃盗被害/郡山」の小さな記事が載った。連休初日の23日昼ごろ、生産者が畑に行ったら何者かに約30本(1500円相当)を引っこ抜かれていた。4~5年前から被害が出ており、去年は約600本を盗まれたという。
 
 リンゴ、サクランボ、ブドウ。ニュースで知った盗難だが、身近な場所でもこんなことがあった。
 
 震災があった年の夏、わが家の近くの畑に札が立った。「キャベツ泥棒発生 8月13日夜」。手書きの段ボールが竹の棒にひもで結わえてあった。その3年前には別の場所の畑に、「告!! 農作物を取るな ドロボーした作物旨いか 警察に通報してある 地主」の札が立った。
 
 曲がりネギにするには暑いさかりの8月、一度掘り起こして斜めに植えなおす「やとい」という作業をしないといけない。普通のネギの倍の手間がかかる。生産者の労苦を思うと、犯人のさもしさにはらわたが煮えくり返る。同時に、加熱したあとの甘み・やわらかさ・とろみが脳内に広がる。無性に阿久津曲がりネギを食べたくなった。

2017年12月27日水曜日

中世の城下町

 カミサンの実家が平・久保町にある=写真。「久保町は中世の城下町」ということは聞いていた。が、それを物語る文章をまったく読んでいなかった。
 作家吉野せい(1899―1977年)を知るために、短編集『洟をたらした神』の“注釈”づくりをしている。どんどん横道にそれる。今はせいや夫・吉野義也(三野混沌)とその子どもたちが、自宅の好間から平の町へと行き来したはずの道と、その途中にある久保町について調べている。

 まず、『歴史の道 岩城街道 本宮―平』(福島県教育委員会、昭和60年)から――。久保町は中世(戦国時代)の岩城氏の居城・大館城の城下町。近世の磐城平藩時代にも、長橋・鎌田とともに城下の出口で、「三方出口番所」のあった要地だった。

 江戸時代、磐城平城の北西、三坂や好間からは久保町を経て八幡小路の坂を東進したあと、飯野八幡宮の前を直角に南下して「ねずみ坂」を下り、古鍛冶町、研町(とぎまち)、紺屋町と進んで、土橋(今の才槌小路)から一町目、二町目、三町目、四町目、五町目へと行くのが本道だったそうだ。

『いわき市史 第1巻 原始・古代・中世』(昭和61年)には、こんな記述がある。慶長7(1602)年作製と伝える「絵図は、久保町のあたりを『城下町』と表示している。三坂・郷戸(合戸)から好嶋西庄を東に進んだ道と、小川から今新田(いまにいだ)を経て南下した道と、さらに湯本・御厩(みんまや)を経て北上した海道が合流する久保町の辺は、城下町として繁栄する要件を備えていたとみてよい」

 いわき民報が平成7(1995)年に連載した「しんかわ流域誌」の第24回では、中山雅弘さんが「戦国大名岩城氏と城下町」と題して寄稿している。「岩城氏が戦国大名になると、拠点を白土から大館に移します。現在、大館はいわき市平の大館と好間町の大館と二カ所が隣接していますが、岩城氏一族が主に住んでいたのは平の大館で、好間町・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)です」

 なるほど。居城の高台、平・大舘からみると、久保町は北麓の城下町だ。居城の周囲には寺がはりついている。門前町でもあったか。平・大舘と好間・大館は、今は切り通しで分けられ、下を磐越東線・国道49号が通る。平・大舘も八幡小路との間に切り通しができた。

 いわき市観光協会ポシェットブックス3『いわき文学碑めぐり』(2002年)から――。
 
 平の松ケ岡公園の東麓を北へ向かい、踏切を渡ると、久保町へと続く道は徐々に勾配を増して切り通しになる。その道のかたわらに巌谷小波の句碑「馬も来ぬむかしをかたれ萩の花」がある。句碑は、昭和6年11月、山崎與三郎などの努力によって菅ノ沢の道路開削が完成。開通を記念し、かつての往来の苦しみを後世に伝え、また、人々の切り通し開通の喜びを表すために建立された。

 久保町を経由する中世・近世・近代の道がある。『洟をたらした神』の「水石山」には、せいの昭和30(1955)年の“プチ家出”の体験が記される。日が沈む前、マチでサンマを買い、バスには乗らずに帰る。乗らないバスのルート・時刻表を調べたり、せいがどの道を使って帰ったかを想像したりした。

 久保町の住人の記憶によれば、三坂・好間方面のバスは菅ノ沢の切り通しが完成し、平市街と久保町が直結されたあと、古鍛冶~久保町経由で運行が始まった。

2017年12月26日火曜日

浴槽にジネズミ?

「ネズミが死んでる~」。カミサンの声がふるえていた。片づけてほしい、といっている。夏井川渓谷にある隠居の風呂場――。ふたをはずしてカラにしてある浴槽に、小動物が1匹横たわっていた。
 ネズミっぽいが、ネズミではなさそうだ。モグラかもしれないが、よくわからない。ひとまず取り出して、顔=写真上、全身=写真下、腹の“記録写真”を撮る。鼻先が細く長い。耳はキクラゲ、尾はひものようだ。頭胴長は7センチほどだろうか。

ネットでモグラとその仲間のヒミズの写真をチェックする。耳はあるかないかわからない。前足もグローブのように大きい。尾はブラシのようになっている。一番しっくりくるのは、ネズミよりモグラに近いジネズミ、あるいはトガリネズミだ。

トガリネズミはいわきに生息しているかどうかはわからない。ジネズミは日本のどこにでもいるというから、これだろうか。

トガリネズミについては、こんなことが紹介されていた。体が小さく、エネルギーを蓄えられないので、えさがないと数時間で餓死する。似たような体形のジネズミも絶えずえさを食べていないと餓死してしまうのではないか。 
隠居には昔、夜にどこからかノネズミが現れた。昼、庭にいると、テーブルの下で動き回る小動物がいる。モグラの仲間とそのときは思ったが、今となってはよくわからない。

この小動物はどこからどう風呂場に現れたのだろう。窓際に蛇口をひねれば水が流れる石組みのスペースがある。その排水口から入りこみ、石のようなタイル壁をよじ登って、浴槽のへりに上がった? 下をのぞいているうちに誤って落っこちた? プラスチックの壁を登れなくなった? で、ほどなく餓死した?


まずは種の同定だ。どなたか写真からわかることがあればお教え願いたい。哀れな冒険家の生涯を想像し、線香の一本でもあげてやりたいから。

2017年12月25日月曜日

偲ぶ会

 10月下旬、スウェーデンの同級生が亡くなったことを拙ブログで書いて、こう締めくくった。
 8年前、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開き、スウェーデンに国際電話をかけたのが、“海外修学旅行”の始まりだった。それぞれが「今生の別れ」のつもりで会いに行った。喪失感とともに、痛みから解放されて安らぐ顔が思い浮かぶ。いつか隠居で「偲ぶ会」を開かねば――。

 隠居ではなく、わが家の近くの義伯父の家でおととい(12月23日)、偲ぶ会を開いた。スウェーデンへ病気見舞いに行った7人のうち5人が集まった。当時の写真などを飾り=写真、献杯した。先日亡くなったほかのクラスの仲間(女性)にも哀悼の意をささげた。

 写真にあるノーベルはチョコの包装金紙だ。ノーベル博物館から買って来た。この年になってもノーベルにあやかりたい、と思ったわけではないが、中身を口に入れたあと捨てずに残した。

 キノコの写真はアンズタケ。コペンハーゲン(デンマーク)の果物屋の店頭で売られていた。ノルウェーのボスでも、コンビニにアンズタケがあった。ストックホルム(スウェーデン)のレストランでは、魚とカンタレッラ(アンズタケ)のグラタンのようなものを食べた。

 実は偲ぶ会の前日、仲間が母校の先生と飲んでいて、キノコの話になった。私に電話をかけてきた。先生が出たが、周りがうるさくて話にならない。偲ぶ会でくわしく仲間から聴くことにした。先生はマツタケを採る。マツタケが採れるところには、トキイロラッパタケがいっぱい発生する。マツタケよりうまいという。そういう話だった。

 トキイロラッパタケはアンズタケの仲間だ。キノコ図鑑には、アンズタケは欧州では食味性ではハイクラスの食用キノコとして人気がある、生タケはもちろん缶詰、乾燥品も一般に市販されているが、日本ではいまひとつ人気がない――とある。私もせいぜい湯通しをして酢の物にする程度だが、今はあまり森に入らない。

 神妙にスタートした偲ぶ会も、ホウレンソウ鍋と刺し身をつつき、アルコールが入るにつれていつもの飲み会に変わった。5人のうち3人は今年(2017年)10月、3回目の台湾旅行を経験している。その報告会も兼ねた。小籠包の話には、味を思い出して舌がふるえた。

 最初はタイ旅行が計画された。が、国王が亡くなったために、台湾の東海岸巡りに変わった。ところが、帰国日にいわきでイベントが組まれ、浮世の義理で私も参加しなければならなくなった。泣く泣く旅行を断念した。
 
 酔えば大胆になる。来年(2018年)秋にはタイへ行くことが決まった。

2017年12月24日日曜日

ソメイヨシノは短命

 街からの帰り、夏井川の堤防を利用する。2週間前の土曜日は行くときもそうした。新川が合流するところにハクチョウが羽を休めている。それを堤防の上から眺めるためだった。
 途中にソメイヨシノの並木がある。樹齢は小学生の「昭和48年度卒業記念」とかで植樹されたようだから、およそ45年だろうか。人が大勢出て剪定作業をしていた。帰りも作業を続けていた=写真。

 通り過ぎながら思い出したことがある。前々日、飲み会で隣に座った地元の区長さんが言っていた。てんぐ巣病にやられて、枯れた枝がかなりあるらしい。前にも剪定作業をしていたから、症状はかなり重いようだ。

 ソメイヨシノは、葉より先に花が咲く。てんぐ巣病にかかった枝は花の前に葉を広げる。やがて枝が枯れる。それもあってか、ヤマザクラに比べるとはるかに寿命は短い。「寿命60年」説が言われている。それより早く樹勢が衰えた。 

 わが家から一番近いソメイヨシノの名所はいわき市北部浄化センターだ。夏井川のそばにある。敷地と堤防の境界に植えられたソメイヨシノはおよそ60本。それが200メートル以上にわたって植えられている。バッサリ剪定された街寄りのソメイヨシノよりは小ぶりなようだから、樹齢もそれよりは若いだろう。てんぐ巣病の被害は目立たないが、やがて大がかりな剪定ないし伐採・樹種転換を余儀なくされるにちがいない。

 理由は異なるが、近所の家の庭にあったソメイヨシノの大木が去年(2016年)の冬、伐採された。根っこが隣家に延びたためだとか。
 
 花そのものはパッと咲いてパッと散る。木が元気なうちは花がきれいだが、40年がたち、50年がたつと、急激に老化する。おそらく全国各地で同じ問題が起きている。
 
 ソメイヨシノは「勝てば官軍」側の「戦勝桜」だ。明治になると、ヤマザクラを切ってソメイヨシノを植える風潮が広まった。戦争反対――。ソメイヨシノから本来のヤマザクラ系に切りかえるときがきた、というべきか。

2017年12月23日土曜日

『歌う鳥のキモチ』

 図書館の新刊展示コーナーに鳥やキノコなど生物関係の本があると、だいたい手に取る。石塚徹『歌う鳥のキモチ』(山と渓谷社、2017年)=写真=も、そうして借りて読んだ。
 動物社会学・行動生態学が専門の著者が鳥の歌と行動を観察してきた。それからいえること――。鳥類の90%以上を占める「一夫一婦」制の種にも、“スキあらば”組がいる。「一腹(ひとばら)の卵」(一回の繁殖で産む卵)の中に別の父親の子が交じることは、珍しいことではないのだそうだ。いかにも仲のよさそうなツバメやモズの夫婦でも、5~6羽の子の中に、1羽いるかいないかの確率で父親の違う子がいる。

 ノビタキのオスについては、著者は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩形を借りる。

「東に産卵期のメスがいれば、行って積極的に浮気を誘い、西に卵を捕食されたばかりのメスがいれば、行って今度は俺とやり直そうと言う」。オスは「常に繁殖集団のメスたちの体の受精可能性を知っていなければ、大事な一シーズンを棒に振ってしまう」。

 いやはやけなげというか、ご苦労さんというか。鳥の愛のあり方も単純ではない。

 繁殖期のオスのキモチはさておき、本では鳥の歌の「聞きなし」にも触れている。鳥のさえずりを人間はどう聞きなしてきたか――。

時代によって異なることはなんとなくわかっていた。江戸時代の俳句。「うれしなきのこゑや鶯のきちよ吉兆」(釈任口)。ウグイスは「ホー、ホケキョ」のさえずりのほかに、ときどき「ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ……」の<谷渡り>を入れる。江戸時代の人間にはこの「ケキョ、ケキョ」が「吉兆(きっちょう)、吉兆」と聞こえた。

 著者は言う。平安時代にさかのぼると、人は「ホーホケキョ」ではなく「ウークヒ」と聞きなした。それで、ウグイスと呼ばれるようになった。法華経が日本に流布するのはいつごろだろう。日蓮以前は少なくとも「ウークヒ」ではなかったか。そんなことを連想させるエピソードではある。

 聞きなしにからんでもうひとつ。きのう(12月22日)宵、民放のニュース番組のなかでB・J・ノヴァク著/大友剛訳「えがないえほん」(早川書房)が紹介された。「え」はひとつも出てこない。オノマトペ(擬音・擬態語)の文字が視覚的に配されている。それを大人が読み聞かせる。就学前の子供たちがゲラゲラ笑う。
 
「ずらし」もある。♪かえるのうたがきこえてくるよ……の次の歌詞は、「クワクワクワ」ではなく、「にゃんにゃんちゅうちゅうめ~め~……」だった。カエルがニャーと鳴く? ここでも子どもたちは大笑いだ。先入観や偏見から自由な子どもの感性がうらやましい。
 
 歌は世につれ人につれ、という。平安人には「ウークヒ」、現代人には「ホーホケキョ」でも、未来人には「オーケー、ベンキョウ」と聞こえるかもしれない。歌う鳥に向かい合う人の目と耳は、キモチはいつも同じではない。

2017年12月22日金曜日

道路側溝土砂除去へ

 やっと“お触れ”が回ってきた。東日本大震災に伴う原発事故で道路側溝の土砂上げが中止になった。その堆積物(土砂など)をいわき市が撤去する。小名浜から始まって、今回は平の原高野、鎌田・塩・下神谷・泉崎・中神谷のJR常磐線南側の区域が対象だ。12月中旬~来年(2018年)3月下旬に実施される。
 毎年6月と10月の2回、「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」が展開される。2011年6月は、震災直後で中止になった。秋は実施されたものの、市の要請もあって側溝の土砂上げは行われなかった。以後、土砂上げは自粛が続いている。放射性物質を含んだ土砂の受け入れ先が確保できないのが理由だ。

 7年もたてば土砂がたまる一方なのは子どもでもわかる。大雨時に歩道が冠水しやすくなる、害虫の温床になる、といった心配が出てきた。で、市が国に要望した結果、1回だけ国の予算で市内全域の側溝堆積物を除去することが決まった。

 その順番がきた。12月20日付の回覧資料=写真=によると、堆積物を撤去するのは、震災前まで土砂上げを実施していた個所のうち、市が調査して排水不良などの実害またはその恐れがあるところ――と、範囲が絞り込まれている。事前に行政区から土砂上げ実施側溝のマップを市に提出した。それに基づいて現地を調べたわけだ。市道などのすべての側溝で実施するわけではない。
 
 除去土砂はどこへ行くのか。小名浜の場合、市有地で仕分けし、2000ベクレル以下の汚泥は溶融処理をして放射性物質を分離したあと、処分する方法を検討しているという報道があった。

 土砂がたまった側溝では草が生えている。灌木らしいものが葉を広げた集水マスもある。とにもかくにも側溝の“通じ”がよくなれば、地域の懸案はひとつ減る。

2017年12月21日木曜日

「凡事徹底」

 このところ1年に1回、目にする四字熟語がある。「凡事徹底」=写真。危険物を扱うプロの集団だからこそ、当たり前のことをきちんとやろう、それを意識づけして日常の習慣にしよう、ということなのだろう。
 企業のメセナ(社会貢献)活動の一環として、常磐共同ガスが本社で教養講座「ガスワンふるさと教室」を開いている。主にいわき地域学會の会員が講師を務める。私も最近は師走担当になった。

 地域学會の初代代表幹事里見庫男さんの提案に会社が応じた。月1回として、積み重ねること152回。もう12年以上続く。地域学會の市民講座は年10回、先日、333回目を開いたから、こちらは33年余だ。

 ふだんは通り過ぎるだけのガス会社の中に入る。と、作業スペースに「凡事徹底」が大書され、会議室に「凡事徹底」の額が飾られている。この四文字を見た瞬間(だけだが)、なぜか体がシャキッとする。

 凡事は、漢和辞典には「世のすべてのこと」、デジタル大辞泉には「ありきたりなこと、あたりまえのこと」とある。いろんな凡事がある。つまりはいろんな「凡事徹底」がある。あいさつを徹底する。片づけを徹底する。なんでもいい。手抜きをしない。新幹線「のぞみ」の台車亀裂は、安全確認のための「凡事不徹底」が招いたものだろう。

 もう何年も前に雑誌に載った不動産会社の広告がある。カミサンが切り抜いてトイレに張った。「ささやかさ」という題で作家の角田光代さんが短文を書いている。地下タビをはいて街頭の花壇を手入れしている職人の姿(撮影・平間至)がいい。

「差し出されたお茶とか。/てのひらとか。/毎朝用意されていたお弁当とか。うつくしい切手の貼られた葉書とか。/それから、歩道に咲くちいさな赤い花とか、あなたの笑顔とか。/私たちは日々、だれかから、/感謝の言葉も見返りも期待されない/何かを受け取って過ごしている。/あまりにもあたりまえすぎて、/そこにあることに、ときに/気づきもしないということの、/贅沢を思う。幸福を思う。」

「凡事徹底」は、つまりは相手を思いやることなのだろう。ガスを利用する人々を、乗客を、読者を、子どもを、患者を、ふるさとを追われた人々を……。「ガスワンふるさと教室」も続けること自体、みごとな「凡事徹底」ではある。

2017年12月20日水曜日

「一本の草のために」

 吉野せいの短編集『洟をたらした神』に収められている「水石山」を読み返しているうちに、これはせいと夫(三野混沌)との“文学談議”ではないかと思った。昭和30(1955)年11月秋のこと、と末尾にある。
「十一月の晴れた朝」というから、小春日だった。せい56歳、混沌61歳。朝、せいは水石山を眺めているうちに登ってみたくなる。夫が寝泊まりしている梨畑の小屋の前で声をかける。「かぜをひいたから、今日は駄目だ」

 せいは家をとびだす。気持ちは水石山に引かれながらも、隣町へ向かっていた。内郷の新川沿いをうろうろしたらしい。そのあと、「町へ出て」とあるから、平のどこかの魚屋へ行ったのだろう。サンマを買って、バスにも乗らずに、日が沈む前に帰宅した。子どもたちは焼いたサンマを喜んで食べた。

 混沌は、せいがとびだしたことにただならぬものを感じた。「ひょっとすると二度とあの足音がきけねえんでねえかと思った」。せいを探しに行く。宵に混沌が戻ってきてからの、二人の対話のなかでせいがつぶやく。「ああ、『老人と海』が読みてえよ」

 それから15年後の昭和45年。混沌の新盆のあと、家族みんなで水石山へドライブする。山頂の芝生にナデシコが咲いていた。それを、観光に来たどこかの娘たちが屈託もなくむしり取っている。せいは昔読んだボルヒェルトの短編小説「たんぽぽ」を思い出す。

「毎日30分の運動にひき出される死刑囚人が、ある日通路の傍にみつけた一輪のたんぽぽの黄色、ああこれは生きている。自分よりもきっと長く生きつづけられるだろう。憎らしいほど羨ましいけれど、何で又こんな場所をえらんでいじらしく咲いたのだ。俺の前をつながれて歩いてゆくなかまたち、どうかよろけてあの花を踏まないでくれ」

 ボルヒェルトはドイツの作家で、第二次世界大戦直後のわずかの間に、詩と短編小説を書いて27歳で夭折した。小松太郎が日本語に翻訳して、早川書房から『ボルヒェルト全集』を出したのは、昭和28(1953)年。そのとき50代半ばにかかっていたせいは、同時代の若い作家の作品をだれかに借りたかして読んだのだろう。ヘミングウエイはともかく、ボルヒェルトはよく知らなかった。

 ボルヒェルトとは別に、地面に生えた一本の草のために決闘して死んだ若者の物語がある。ピランデッロの「使徒書簡朗誦係」。かつて、加藤周一が朝日新聞に「夕陽妄語」というタイトルで月に1回連載していた。そのなかで紹介していた。
 
 せいの文章に刺激されて総合図書館へ行って探したら、あった。『夕陽妄語3』と『月を見つけたチャウラ』=写真。「たんぽぽ」を収めたボルヒェルトの本は常磐図書館にある。いずれ、図書館ネットワークのなかで取り寄せてもらうか、直接常磐図書館へ行って借りるかしよう。

 一本の草のために、花のために、人はいのちをかける――。私はそこまでいかないが、似たような経験をしたことがある。あるところにノビルのむかごをまいたら芽が出た。毎朝、生長を楽しみにしていると、どこかの車が入ってきてノビルを踏みつぶした。悲しみと怒りで気持ちがよじれたものだった。

2017年12月19日火曜日

原子力防災実動訓練の成果

 11月中旬、いわき市平の草野・神谷(かべや)・夏井3地区23行政区を対象に、原子力防災実動訓練が行われた。情報伝達、屋内退避、一時集合場所開設・運営訓練のあと、仮想避難所(いわき市内の南部アリーナ)へバスで移動した。
 平地区の避難先は、南は茨城県石岡・牛久・かすみがうら・つくば・つくばみらい・土浦・取手・守谷各市と阿見町、西は新潟県長岡・柏崎・見附・小千谷・十日町・魚沼・南魚沼各市と出雲崎・湯沢・津南各町。神谷地区8行政区のうち4行政区は牛久市と南魚沼市だ。

 訓練参加者アンケートと訓練評価員による評価がまとまった=写真=ので、神谷地区の区長協議会の席上、市から報告があった。

 アンケート結果から二つほど。「どんな方法で市からの指示を入手したか」には、防災メール39%、広報車28%、ラジオ18%などだった。メール受信機器はほぼケータイ(スマホ)だろう。私は市から貸与されている防災ラジオ(自動的にオンになる)で知り、パソコンを開いてメールで確かめた。固定機器で情報を得るのは少数派か。

「訓練を経て実際の原子力災害時に迅速に避難できると思うか」は、十分にできると思う・できると思う計52%、あまりできると思わない・できると思わない計48%。評価がほぼ半々に分かれた。

 私のなかでも半々だ。避難できる人はすでにマイカーで避難している。どちらかといえば、“取り残された人々”に声をかけてバスで避難する、という訓練だった。プライバシー問題からどこに助けを必要とする人がいるか把握しきれていない。葛藤を抱きながらも経験を蓄積するしかない、といったところか。
 
 訓練評価員は、市から委託されて各訓練場所に配置された防災コンサルタント会社のスタッフが務めた。
 
 専門家が見た「よかった点」は、①区長からの連絡時、帽子・手袋の着用を指示するなど具体的な対応を検討した区があった②一次集合場所では区長らが中心となり、積極的に住民に声かけをしていた――など。改善点は①防災メールが一部で受信できなかった②広報車の音声が聞き取りづらかった――などだ。
 
 訓練結果報告会から1週間後、福島県作成の防災ガイドブック「そなえるふくしまノート」が隣組を通じて全戸に配布された。自然災害や火災のほかに原子力災害についても対応策を紹介している。
 
 車のガソリンが半分になったら満タンにする。原発震災後、身についた習慣だ。が、「のどもと過ぎれば」的なものも多くなっていないか。再会を心から喜び、ハグしあったあのころを、ときどき思い出すことが必要かもしれない。

2017年12月18日月曜日

「山沿いは雪に」

 きのう(12月17日)の浜通りの天気予報は「北西の風はじめやや強く、晴れで、時々曇り、山沿いでは昼過ぎ雪」だった。
 晴れて風が強いということは冬型の気圧配置になっているということだ。2週間前、スタッドレスタイヤにはきかえた。阿武隈高地の東側なら少々雪があっても問題はないだろう。そう踏んで出かけた。

 標高190メートル前後にある夏井川渓谷の隠居に着くと、山が少しかすんで見えた。雪がふっかけているようだった。時刻は隠居の真向かい、対岸の尾根から朝日が現れたばかり。午前9時半過ぎだ。
 
 すると間もなく、晴れているのに雪が横なぐりに吹きつけてきた=写真。風に吹かれて舞っているなと思ったら、いきなり雲が空を覆い、風がさらに強まって視界がさえぎられた。ただの「ふっかけ」ではなかった。予報より3時間ほど早く雪雲が現れた。
 
 菜園に生ごみを埋め、ネギを5~6本引っこ抜き、辛み大根も1本試しに引っこ抜いているうちに、雲は去り、雪はやんだ。あっという間に天気が回復した。手袋をしていても指先がかじかんでくる。鼻水がたれる。そういえば、隠居に着いたとき、室内の寒暖計は氷点下2度をさしていた。
 
 30分ほど外にいたあと、こたつにどっぷりつかって体を温める。昼になって、コンビニのむすびを食べてから、白菜を買いに田村郡小野町の直売所「おのげんき」へ足を延ばした。ガソリン代を考えれば高い買い物になる。それでも、阿武隈の山里の白菜を漬けたいのだ。
 
 直売所は磐越道の小野インターチェンジ近くにある。標高は400メートル超。何日か前に小野町でも雪が降った。道路に残っているかもしれないと思ったが、日陰の道端が少し白くなっているだけだった。帰りは磐越道を利用した。雪はなかった。
 
 冬、いわきの平地から山地へ車を走らせるとき、目安になるのは山の雪だ。北部の平地区だと、水石山(標高735メートル)。今年(2017年)はまだ山頂に雪は見られない。

2017年12月17日日曜日

特許の大根おろし

 きのう(12月16日)、おろしにしかならない辛み大根の話を書いた。その続き、というわけではないが――。大根おろしも特許になる、という記事を読んだ。
 福島(当時・平)高専陸上競技部の先輩で弁理士の佐藤辰彦さんが、福島民報に「知財ノート――知は財をつくる」を連載している。“事例紹介エッセー”で、金曜日(12月15日)は「『大根おろし』も特許に」だった=写真。

 ある企業が、コーヒーのミルクカップのような感覚で大根おろしを小分けにしてコンビニなどで売りたい、と考えた。そのためになにをヒントにしたか。細かい話は記事を読んでもらうしかないが、ポイントはこうだ。
 
 大根おろしを冷凍し、解凍すると、繊維と水分が分離する。大根おろしにならない。アイスクリームを食べているうちにひらめいた。アイスクリームは融けてもなかなか成分と水分に分離しない。調べると、カルボキシメチルセルロースが“糊(のり)”の役目を果たしていた。大根おろしに食品添加物として認められているそれを加えたら、解凍しても大根おろしのままだった。その結果、それが特許になった、という。
 
 佐藤さんは福島高専の1期生。私は昭和39(1964)年入学の3期生。学生のあらかたは寮に入った。入学式を終えた晩、寮の食堂で歓迎会があった。先輩を代表してあいさつしたのが佐藤さんだった。立て板に水のような弁舌。2歳しか違わないのに、大変な人がいると、びびった記憶がある。実際、弁の立つ先輩が少なくなかった。
 
 1期と2期の先輩には脱・高専(エンジニア)組がいっぱいいる。弁理士、弁護士、医師、大学教授、地方政治家、オペラ歌手……。3期以下の私らになると、新聞記者、週刊誌記者、雑誌編集者などというレベルで、世の中をはすに見る人間が増える。
 
 佐藤さんは工業化学科の出身だったと記憶している。カルボキシメチルセルロースは、増結剤・乳化安定剤として歯磨剤や水性インクその他に使用されている。大根おろし+増結剤というアイデア転用の価値を、たぶんすぐわかったはずだ。
 
 今度の「知財ノート」が面白かったのは、一般の消費生活の分野でも特許になるものがあるということだ。単純に振り分ければ、弁護士は文系、弁理士は理系。根っこに自然科学があると認識にゆらぎが少ないのではないか、というのが、この学校からドロップアウトした人間の実感だ。

2017年12月16日土曜日

半自生の辛み大根

 耕さない。種の入ったさやは採らずにそのままにしておく。自然に落下する。すると、初秋に発芽し、師走には根っこがずんぐりしてくる――。
 夏井川渓谷にある隠居の庭で辛み大根を栽培している。去年(2016年)、“こぼれさや”から発芽したのを見て、今年はさやを収穫せずに、辛み大根自身がいのちを再生産する様子を見ることにした。半分手抜き、半分自生の力を信じて。結論からいうと、辛み大根の生命力はすごい。カブラヤガの幼虫やアオムシにかなり食害されたが、菜園の一角を葉で覆っている=写真。

 おととしまでは収穫し、保存しておいたさやを割って種を取り出し、土を耕して普通の秋まき大根と同じように、点まきにした。そんな手の込んだやりかたは、辛み大根には不要だった。
 
 辛み大根は煮ても漬けても硬くてまずい。辛みを生かしておろしにする。耕したら、すらりとした大根ができた。これではおろしにもできない。で、耕すのをやめたら、見事なほど根がずんぐりむっくりに肥大した。ストレスを与えるのがいいらしい。
  
 今年、さやを放置して、一斉に芽生えたのを見たとき、山形県鶴岡市の「温海(あつみ)かぶ」が思い浮かんだ。この伝統野菜は焼き畑農法で生産されている。山の急斜面を焼いて、灰が熱いうちに種をまく。野性が強いという点では、辛み大根も負けない。

 ざっと3週間前になる。日曜日朝、たまたまNHKのテレビを見ていたら、「うまいッ!」の時間になった。「温海かぶ」を取り上げていた。ゲストはいわき昔野菜保存会とも縁の深い江頭宏昌山形大農学部教授だ。いわきでの講演を聴いて、承知はしていたものの、急斜面に“群生”する「温海かぶ」に、今度はわが菜園の辛み大根が思い浮かんだ。

 早春の雑木林にカタクリやニリンソウが群生する、そのにぎわいぶりと似ている。一面の「温海かぶ」、規模は小さいが一面の辛み大根。改良された野菜は“家菜”だが、辛み大根は山菜に近い野菜ではないだろうか。

 先日、根元をさわったら500円玉くらいに肥大していた。お茶の入ったペットボトルくらいになると採りごろだ。あした、1本を試しに引っこ抜いてみよう。

2017年12月15日金曜日

「明治維新150年」だと?

 来年(2018年)は戊辰戦争から150年の節目の年というのが、戦場になった土地の人間の感覚だ。が、福島県内のどこのマチだったか、「明治維新150年」で何かイベントをやるというニュースをテレビが伝えた。明治維新? おいおい――と、少し胸がざわついた。
 今年、いわき市では1年前のプレ事業として戊辰戦争を振り返るイベントが続いている。いわき地域学會も勤労感謝の日(11月23日)に、「笠間藩神谷(かべや)陣屋と戊辰の役」をテーマに巡検を実施した=写真(陣屋跡の小学校を見る)。2日後の「いわき学博士号授与式」でも戊辰戦争関連の記念講演を行った。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」のならいでいえば、戊辰戦争150年をいうのは負け組、明治維新150年は勝ち組か、戦いとは無縁のところだろう。県内の活字メディアもシリーズで戊辰戦争を振り返り、ニュースにはわざわざ「ワッペン」を付けている。

 慶応4(1868)=戊辰の年、新政府と佐幕諸藩の戦いが鳥羽伏見から江戸、奥羽へと拡大する。磐城平藩など奥羽越25藩が列藩同盟を結ぶと、新政府は大軍を北へさし向けた。笠間藩は新政府軍についた。神谷陣屋はたちまち四面楚歌に陥った。結果的には勝ち組に入ったとはいえ、隣の磐城平藩とは仲良くやっていたはずだから、陣屋の藩士たちは内心複雑だったにちがいない。

 わが家はたかだか神谷歴40年前後にすぎないが、土地の歴史を知るにつれ、明治維新150年より戊辰戦争150年を強く意識するようになった。

 おととい(12月13日)、若い人が訪ねてきた。意識は戊辰戦争150年の方だ。「明治維新150年は○○市でしょう」。あとで「明治維新150年」で検索すると、○○市のほかに水戸市、鹿児島市がヒットした。「戊辰戦争150年」はさすがに奥羽越に多い。なるほどねぇ――。
 
 戊辰戦争を経て維新後はさらに、「富国強兵」政策が待っていた。私の偏見だが、「富国」を担ったのは西日本の人間、「強兵」を強いられたのは東日本の人間。万葉の時代の「防人(さきもり)」以来、みちのくの人間が厳しい戦線に立つという構図は今も変わっていないのではないか。戊辰戦争150年では、みちのくの人間として不戦の誓いでも立てようか。

2017年12月14日木曜日

久之浜張子

 日曜日(12月10日)、いわき市暮らしの伝承郷にカミサンを送って行った。会議があるという。ついでに65歳以上無料の特典で、土曜日に始まったばかりの企画展「久之浜張子の世界」を見た=写真(リーフレット)。来年(2018年)1月28日まで。
 久之浜張子は郷土玩具だ。昭和46(1971)年4月、新聞記者になった。紙面を通して作品と製作者の草野源吉さん(1898~1976年)を知った。現物はしかし、見たことがあるようなないような……。草野さんには後継者がいなかった。亡くなると、久之浜張子の情報も途絶えた。ほぼ40年ぶりに記憶がよみがえった。
 
 カミサンを迎えに行ったとき、展示担当者が会議参加者に説明するというので、また見た。「久之浜張子」は、もともとは江戸時代、磐城平城下でつくられていたという。宝暦11(1761)年には張子づくりを生業とする家が6軒あった(「磐城枕友」)。草野さんの父親の代になって、平から久之浜へ移住した。「久之浜張子」は「平張子」だったのだ。
 
 達磨(だるま)、熊乗り金太郎、象乗り童子、亀乗り浦島、恵比寿・大黒天、虎、天狗面、その他。達磨は、眉毛が鶴、ひげが亀を表しているそうだ。亀や象は会津の赤べこと同じ首振り式で、乗っている童子たちはアンバランスなほど小さい。「へたうま」が久之浜張子の特徴らしい。
 
 子どものおもちゃだけではない。「山の神」でもある天狗の面は、特に漁業関係者が買い求めた。沿岸漁民は山の位置や生えている大木などを目印にして船の航行を決めた。海上安全を願って山の神を篤く信仰したという。
 
 リーフレットには、飯野八幡宮、平馬目の八幡神社、金刀比羅神社、温泉神社、江名の諏訪神社、四倉の初午(はつうま)、遠野の馬市、勿来の窪田や隣県の北茨城市大津、南相馬市の小高神社などの祭礼市、平駅(現いわき駅)前や郡山駅前の土産物屋でも販売された、とある。往時の盛業ぶりがうかがえる。

 この企画展にからんで、久之浜では草野さんのほかに、達磨をつくって神社の縁日などで売っていた家のあることがわかった。残念ながら、東日本大震災の津波で家も木型も流された。久之浜張子は草野さんの死をもって伝統が絶えたと思われていたが、達磨は残っていたのだ。
 
 聴き取り調査が終わったら、「もう一つの久之浜張子」として“速報”を会場に掲示してはどうか。企画展の内容に厚みが増すはずだ。

2017年12月13日水曜日

白菜を漬ける

 きのう(12月12日)、福島市からわが家へ訪ねてきた人がいる。中通りは雪だったという。浜通りのいわきは青空。宵のニュースで会津はドカ雪だったことを知る。
 福島県は地形と気象の違いから、「はま・なか・あいず」に分けられる。冬、湿り気を帯びた冷たい空気が日本海を渡って越後山脈にぶつかり、ついで奥羽山脈にぶつかって、越後と会津に大雪をもたらす。中通りにも雪を降らせる。東の阿武隈高地を超えるころには、冷たいカラッ風になっている。
 
 いわきも同じように「はま・まち・やま」に分けられる。「はま」と「やま」では植生が違う。冬野菜、たとえば白菜も、「はま」や「まち」より寒冷な「やま」の方が甘いに決まっている。

 夏井川渓谷は「やま」の底部に当たる。そこにある隠居で家庭菜園を始めたころ、白菜を栽培した。たかだか20玉ほどなのに菜園の3分の2を占めた。以来、白菜は買って漬けると決めた。

 白菜の種は月遅れの盆明けにまく。大根の種まきも同じ。スペースが限られているから、白菜も大根もとなると、菜園はこのふたつで占められる。1年交代という手もあるが、同じアブラナ科だ、連作障害が起きる――で、今は大根も買ってくる。

 師走最初の日曜日(12月3日)、「やま」の三和・ふれあい市場へ出かけて白菜を買った。次の日、八つ割り=写真=にして干し、夕方漬けた。

 前は白菜の重量をはかり、その3~5%の食塩を準備したが、今は葉を1枚1枚開けて塩をパラッパラッと振るだけ。塩梅(あんばい)を手が覚えたので、“化学実験”のようなまねはしなくてもよくなった。

 漬けた白菜は、翌日にはもう水が上がった。一日おいて試食する。まだ師走になったばかり。甘みはイマイチだったが、糠漬けから白菜漬けへと切り替える準備はできた。きょうにでも糠床に塩のふとんをかぶせ、4月の大型連休まで冬眠させるとするか。

2017年12月12日火曜日

もち配り

 カミサンの実家(米屋)で日曜日(12月10日)、師走恒例のもちつきが行われた。
 ドラム缶を利用したカマドで糯米(もちごめ)を蒸し、機械でつく。私ら夫婦も加わって、4人でつくる。私は、カマドにたきぎを絶やさないようにする火の番、“釜ジイ”だ。今年(2017年)は、でも、手伝いがなくてもいいといわれた。つくる量が減ったのか。
 
 もちは1キロ単位でポリ袋に入れられる=写真。紙でいうと、B5サイズ。もちがやや固まって薄いかまぼこ型になったのを二つに切り、さらに、焼いて食べられるような薄さに切って冷蔵する。正月には、それが雑煮になって出てくる。

 顧客のほか、身内・友人に配る。一晩たったきのう(12月11日)、平(八幡小路、下平窪)~小川(福岡)と国道399号に沿って巡り、二ツ箭山中腹を貫く広域農道~石森山の里山ルートで帰って来た。

 広域農道はいったいどこからどこへ通じるのだろう。四倉の上岡地区から始まり、天空を突っ切って小川町福岡で終わっているが、「上岡トンネル」は通行禁止のままだ。それこそ宙に浮いている道路、という印象が強い。

 このルートを選んだのは、知人の女性が沿線にカフェを開くのにいい物件を見つけたといっていたからだが、その建物はどこにあるかわからなかった。

 さて、もちつき手伝い不要の背景には、新米価格高騰があったのかもしれない。今年は飼料米の作付面積拡大、8~9月中旬の天候不順で、新米が高値で推移した。そのうえ、浜通りの相双地区は原発事故のために米の作付面積がゼロに近く、いわき市の米の仕入れ価格は通常でも高くなる傾向にある、という。今年はありがたくもちをいただくことにしよう。

2017年12月11日月曜日

いわき公園のカモたち

 いわきニュータウン内に福島県立いわき公園がある。小丘の谷に池が細長く伸び、それを巡る遊歩道と起伏に富んだ丘からの遊歩道が連結している。県内では最大級の規模の“里山公園”だ。池を「神下(かのり)堤」という。
 きのう(12月10日)、カミサンが公園内のいわき市暮らしの伝承郷の会議に出席するというので、車で送り届けた。家に戻って2時間後に迎えに行くのもめんどうだ。そのまま公園の駐車場へ移動し、神下堤でカモたちを観察することにした。ほんとうは、カモではなく漂鳥のルリビタキに会いかったのだが。

 8年前、同じようにカミサンを伝承郷へ送り届けたあと、初めて公園内を一周した。すり鉢の底のような神下堤にはカモたち、丘の上の林縁にはルリビタキ=写真・上=や冬鳥のジョウビタキがいた。ルリビタキに会った場所は駐車場からかなり離れている。そこまで「幸せの青い鳥」を探しに行く体力はない。上下二つに分かれている神下堤の上の池だけを巡った。
 
 快晴、無風。なのに、堤の水面がゆらいでいる。留鳥のカルガモが岸辺から中央へと移動していた。その波紋が広がっていたのだ。立ち止まって池を見ている人間(私)が現れた。時折、猟銃のように首から提げた望遠レンズの付いたカメラをかまえる。危険を察知して安全な距離を保とうとしたのだろう。
 
遊歩道を歩いているのはすべてウオーキングを楽しむ人で、バードウオッチングをしているのは私だけ。ウオーカーは池のカモには見向きもしない。ただひたすら前へ前へと歩いていく。
 
 池の幅が狭いので肉眼でも種類がわかった。留鳥のカルガモ、漂鳥のオオバン。ほかに、冬鳥のキンクロハジロ、ハシビロガモのカップル=写真・下=など。岸辺の枯れ木にヒラタケが生えていた。採りごろだったが、柵を越える“勇気”はない。こちらもウオッチングするだけにした。
 はるか頭上には「森のわくわく橋」が架かる。橋の長さ約166メートル。世界で初めて採用された「外ケーブル併用吊り床橋」だそうだ。歩行者専用橋で、公園を取り巻くニュータウンの住人の生活橋にもなっている。
 
 夏井川のハクチョウ飛来地には、カモたちもやって来る。「寄らば大樹(ハクチョウ)の陰」だ。カルガモのほかに、オナガガモ、マガモ、コガモが集まる。キンクハジロやハシビロガモが混じっていたかもしれないが、今まで気づいたことはない。その意味では、神下堤はカモ類ウオッチングの穴場だ。

2017年12月10日日曜日

ガスワンふるさと教室

 1年に1回のお付き合い――といった感じで、常磐共同ガスが主催している「ガスワンふるさと教室」の講師を引き受ける。今年(2017年)はきのう(12月9日)午後、「太平洋戦争と大本営発表」=写真=という題で話した。前日がジョン・レノンの殺された日、いや太平洋戦争の始まった日、ということを意識してテーマに選んだ。
 東日本大震災に伴う原発事故がおきたとき、マスメディアは国・東電の発表を右から左に垂れ流すだけ、「大本営発表」ではないかと批判された。では、実際の大本営発表はどんなものだったのか。地域紙でメシを食ってきた人間として、研究書や当時の新聞を収録した本に当たって調べたのがテーマの半分の動機になった。

 もうひとつの「太平洋戦争」は――。10年前、故里見庫男さん(いわき地域学會初代代表幹事)にいわれて、開館したばかりの野口雨情記念湯本温泉童謡館で「文学教室」を担当した。毎月1回、童謡詩人について調べて話した。大正ロマン・昭和モダンを軸にした文化史、広くはいわきの近代史に興味がわいた。その延長で吉野せいの『洟をたらした神』と戦争の関係について調べている。
 
 私は戦後生まれだから、日中戦争やアジア太平洋戦争を体験しているわけではない。が、受講者の何人かは戦前・戦中生まれだった。
 
 話が終わって質問タイムに入り、さらにそのあとのお茶会で94歳のおじいさんと話した。今回が初めての受講だという。真珠湾攻撃が行われた日、炭鉱で働いていた。そのあと、戦場へ駆り出された。「軍隊は“運隊(うんたい)”です。運よく生きて帰って来ました」。いろいろ話しているうちに、おじいさんの目頭がぬれてきた。ああ、この人にとって戦争はまだ終わっていないのだな、と感じた。
 
 日中戦争で「おやじが南京に一番乗りをした」という人もいた。旧知のおばさんからは、今読んでいる小説の話を聴いた。あとで電話がかかってきた。盛田隆二という人の『焼け跡のハイヒール』という本だという。さっそく、図書館のホームページでチェックしたら、「貸出中」だった。いつか借りて読むことにする。戦争はやはり、体験者の話の方がグッとくる。

2017年12月9日土曜日

都内にサル?それがどうした

 おととい(12月7日)の「ニュースウオッチ9」と「報道ステーション」を見ていて、噴き出した。はぐれザルが首都圏に現れた――というので、リポーターがサルを走って追いかける。たまたま撮影できたからか、番組の中で延々とやっていた=写真。 
 サルの気持ちになってみる。若造、という前提の話だが。群れからはぐれるのは若造の宿命だ。それが、たまたま自然界から離れすぎて、人間中心の大都会まで足を延ばしてしまったのだ。サルは不安でいっぱいにちがいない。
 
 わが生活圏でも、今年(2017年)7月1日に現れた。それを記した拙ブログを再掲する。
                     *
 とうとうサルが現れた。きのう(7月1日)、夕方。知り合いが家に来て、カミサンに言った。「サルが歩いてた」。聞けば、すぐ近くだ。カメラを手にしてそちらへ向かうと、2階建て住宅の屋根のてっぺんにいた。

 とうとう――というのにはわけがある。今年(2017年)の5月以降、いわき市南部を主に、サルの出没情報が相次いでいたからだ。

 南部に住む後輩の話や市のホームページによれば、5月16日は中岡町・植田町根小屋・東田町・佐糠町で、同17日は佐糠町・東田町、同18日は泉町滝尻・玉露でサルが目撃された。6月の後半になると、好間町下好間・平字北目町・幕ノ内、あるいは平・鎌田や南白土・下荒川・郷ケ丘などに現れ、26日は三和町合戸、29日は好間町大利・北好間・上好間で目撃されている。
 
 単独行動の若いはぐれザルが(たまたま複数いて別々に現れた可能性も否定できないが)、いわきの南部から中部へ、さらに北部へと移動していることが推測できる。6月10日早朝には散歩していた知人が、白水阿弥陀堂(内郷)へ向かう途中でサルに遭遇し、ふくらはぎをかまれた。幸いけがはなかった。
 
 撮影データをパソコンで拡大して見た限りでは、若いのにやせている感じ。見晴らしのいい高所で、ただ座っている。ときには“体育座り”になり、手を前で組む。人間が下に集まっても動じない。動いたと思ったら西側の軒先へ移動し、右手で雨樋をつかみながら横になる。雨樋に手をかけているのは転落防止か。なんだか疲れている様子だった。
 
 サルはそれから間もなく隣家へ移り、さらに別の家の家庭菜園と休耕田に移動したあと、奥の住宅地へと姿を消した。
 
 内郷の知人が遭遇したのは「毛並みのいい、ハンサムなサル」だった。歩道を歩いている姿がフェイスブックにアップされていたが、確かに立派な体格をしている。それに比べたら……。人間にたとえると、“荒野”に分け入ったのはいいが、食べるものがない、カネもない、万策尽きる寸前の“はぐれ青年”のような印象を受けた。
                 *
「ニュースウオッチ9」はきのうも続報した。アホか。東京ローカルで十分。いわき、つまり東京以外から見たら「ちょっとした出来事」でしかない。サルはいずれどこかへ去る。

2017年12月8日金曜日

講師例会

 車ではなく電車で常磐・湯本温泉街へ行ったのはほぼ10カ月ぶりだ。2月下旬に温泉旅館の古滝屋でブッドレア会の総会・懇親会が開かれた。今度は講師例会・懇親会だった=写真。おととい(12月5日)の夜、久しぶりに湯本の仲間と酒を酌み交わした。
 平成21(2009)年春に、いわき地域学會初代代表幹事で古滝屋社長の里見庫男さんが亡くなるまで、同所で月例飲み会が開かれた。旅館内の店にちなんで「江戸十番会」と名づけられた。ほぼ休まずに電車で通った。

 ブッドレア会は「文化と福祉のボランティア団体」で、昭和57(1982)年に里見さんが中心になって発足した。こちらも定例で講師例会・懇親会を開いていた。文芸評論家でいわき市立草野心平記念文学館長の粟津則雄さんが講師を務めたこともある。
 
 江戸十番会は里見さんの死とともに“中断”した。ブッドレア会は東日本大震災の年にもがんばって総会を開いた。が、災禍の後遺症か、活動は続けても総会・懇親会を開くエネルギーがわかなかった。今年(2017年)、4年ぶりに総会が開かれたのは会長の死という危機感からだったろう。
 
「久しぶりの講師例会」という現会長のあいさつに、思い出した。<おれも40歳になる前、里見さんにいわれてしゃべったんだっけ>。30年前に書いた自分の文章にこうあった。「年6回ほどのペースで講師を招き、硬軟とりまぜた話を聴いたあと、アルコールをたしなみながらリラックスする、というのがしきたり」の会だ。それが、里見さんの死後、それこそ久しぶりに開かれたわけだ。
 
 30年以上のつきあいともなれば、年に一、二度しか会わなくても突っ込んだ話ができる。幕末の新島襄、明治の天田愚庵、大正の山村暮鳥と関係する平・三町目の店「十一(じゅういち)屋」の血を引く女性がいる。家に残っている資料を貸してくれることになった。自分のなかにある疑問が少しでも明確になれば。

2017年12月7日木曜日

午後3時すぎの白水阿弥陀堂

 日曜日(12月3日)は、車であちこち動き回った。いわき市三和町(ふれあい市場で買い物)~同差塩(さいそ)/川前町(山越え)~小川町(夏井川渓谷の隠居で土いじり)のあと、平・久保町(カミサンの実家)へ。
 あとは家に戻るだけ、という段になって、用事を思いだした。内郷の「ライオン岩」を見ておかなくては――。カミサンは「家へ帰ってよ」と口をとがらせる。「確かめたいものがあるんだよ」。午後3時すぎに白水(しらみず)町のライオン岩を眺め、白水阿弥陀堂を訪ねてから、魚屋へ直行した。

 ライオン岩は石城砂岩層からなる小丘群のひとつで、山岸を巻くように白水川(新川)が流れている。砂岩層の下に石炭層が眠っている。いや、炭鉱が閉山した今は「眠っていた」というほかないか。小丘の谷間に「みろく沢炭鉱資料館」がある。「常磐炭田の祖」片寄平蔵が石炭層の露頭を発見したのもこの辺だ。さらにもうひとつ隣の谷には、白水阿弥陀堂境域が広がる=写真。

 白水阿弥陀堂は平安時代の末期に建立された。福島県内唯一の国宝建築物だ。堂内に安置されている阿弥陀三尊は国重文で、周囲の丘の稜線と南方の白水川を境界とする境域が国史跡に指定されている。平泉の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」が世界文化遺産に認定されたように、白水のこの浄土式庭園も世界の、人類の財産だ、と私は思っている。

 浄土式庭園と俗界をつなぐ「心字の池」の赤い反り橋に立ったころ、3時半になって門が閉められた。その時間を過ぎても、阿弥陀堂を見に来るカップルなどが絶えなかった。さすがは“世界遺産”級の聖地だ。

「震災が起きたあと、ここへ来て祈ったよね」。カミサンにいわれて思い出した。東日本大震災から2カ月ほどあと、常磐へ行った帰りに白水阿弥陀堂を訪ねた。拝観料を払い、寺のガイドさんの案内で見て回りながら大震災の死者を弔い、原発事故の収束を念じた。あんなに心の底から手を合わせたことはなかった。

 あした(12月8日)、「新川バーチャルツアー」と題した小さなイベントがある。<新川流域散歩>と名づけて15分ほどしゃべる。水源の三大明神山からしみ出た水の一滴になったつもりで、平の街はずれ、夏井川との合流点まで流れ下り、流域の自然・歴史・文化を語る。流路は短いが、流域の時間の層は厚い。ライオン岩も木が茂ったために、プードルのようにかわいくなっていた。

2017年12月6日水曜日

背戸峨廊(せどがろ)のいわれ

 JR磐越東線江田駅の近くで江田川が夏井川に合流する。江田川は別名・背戸峨廊(せどがろ)。台風21号の大雨の影響で登山道の一部が損壊し、トッカケの滝から先が入山禁止になっていた。きのう(12月5日)、それが解禁された。
 同じ日、県紙に大学名誉教授の長文エッセーが載った=写真。背戸峨廊と草野心平をたたえるものだった。「背戸峨廊」に「せとがろう」とルビが振ってある。がっくりきた。また誤読・誤称が読者の間に広がる。

 近年、「せとがろう」から本来の「せどがろ」に正す動きが出ている。市役所や観光まちづくりビューローが発行する冊子、ネット発信情報には「せどがろ」とルビが入ることがある。NHKは3年前(2015年)の10月23日から「せどがろ」に変わった。いわきの地域紙も「せどがろ」だ。そのへんの動きには敏感な県紙のはずだが、悪しき前例踏襲がネックになっているのか。

 おやっと思ったのがもう一つ。エッセーに添えられた水彩画は夏井川渓谷の「籠場(かごば)の滝」である。わきを通る県道小野四倉線からの景色そのものだ。背戸峨廊なら「トッカケの滝」だが、トッカケは滝が高く、滝下の流れも透明で浅い。

「背戸峨廊」の読みが「せどがろ」である理由を、拙ブログで何度か言及した。今度もしつこく再掲する。
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 草野心平のいとこに、長らく中学校の校長を務めた草野悟郎さん(故人)がいる。「縁者の目」という随筆に「背戸峨廊」命名のエピソードを書き残した。

 敗戦後、心平が中国から帰郷する。すぐ村を明るくするための集まり「二箭(ふたつや)会」ができる。地元のシンボル・二ツ箭山にちなんだ名前だ。
 
 二箭会は、村に疎開していた知識人の講演会や、村民歌(「小川の歌」=作詞は心平)の制作、子供たちによる狂言、村の青年によるオリジナル劇の上演などの文化活動を展開した。夏井川の支流・江田川(背戸峨廊)を探索して世に紹介したのも「二箭会」の功績の一つだったと、悟郎先生は明かす。

「元々この川(引用者注・江田川のこと)は、片石田で夏井川に合流する加路川に、山をへだてて平行して流れている夏井川の一支流であるので、村人は俗に『セドガロ』と呼んでいた」

 加路川流域に住む人間には、裏山の谷間を流れる江田川は「背戸の加路(せ
どのがろ)=裏の加路川」だった。探検に加わった当事者の一人の、貴重な記録である。「この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

「私たちは、綱や鉈(なた)や鎌などをもって出かけて行った。総勢十数名であった。心平さんは大いに興を起こして、滝やら淵やら崖やら、ジャングルに一つ一つ心平さん一流の名を創作してつけて行った。蛇や蟇にも幾度も出会った。/その後、心平さんはこれを旅行誌『旅』に紹介して、やがて、今日の有名な背戸峨廊になった」

 つまり、「せどがろ」という呼び名がもともとあって、心平がそれに漢字を当てた、滝や淵の名前は確かに心平が命名した――命名までの経緯をみればそうなる。
 
 最初は「せどがろ」だったのが、いつからか「せとがろう」と間違って呼ばれるようになったのだろう。第一、「背戸」は広辞苑でも「せど」であって、「せと」ではない。

2017年12月5日火曜日

ふれあい市場・暖暖まつり

 師走最初の日曜日(12月3日)は、朝、いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」へ直行し、買い物をしてから夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。三和は好間川流域の山里。好間川は下流の市街地・平で夏井川と合流する。隠居のある本流の夏井川とは山を二つはさんで向かい合っている。
 平地の自宅から国道6号・49号バイパスを利用して49号を駆け上がること40分。ふれあい市場では、「暖暖まつり」という“もてなしイベント”が開かれていた。

 まつりとは関係なく、この直売所へ朝一番で白菜を買いに行くことにしていた。フェイスブックで「暖暖まつり」が行われる、けんちん汁(いわき地方では味噌仕立て、いわゆるトン汁)と家庭料理がふるまわれる=写真=と知って、ますますよろしいではないかと、開店時間の9時に合わせて朝ごはんを食べずに出かけた。

 着くとすぐ、おばさんにけんちん汁を勧められる。古代米のご飯もどうぞ、という。立って“朝食”をとっていると、煮しめをつくって持ってきたおばさんがいた。生産者が自慢の一品を持ち寄る、という趣向だった。煮しめは食べそこなった。

 たまたま“朝食”の場で一緒になったおばさんがいる。まちの人だ。種屋さんだった。私も最近、その種屋さんに種を買いに行くようになって知ったのだが、昔からいわき地方の農家とは深いつきあいがあるらしい。生産者とわかるおばさんが女性と顔を合わせるなり、「だんなさんは?」「車にいる」なんて会話をしていた。ふれあい市場には常連が多いらしい。
 
“朝食”を終えたころ、バスが着いた。いわきの「アフターサンシャイン博」ツアーの一行だった。あとでネットで確かめる。いわき観光まちづくりビューローを軸とした同博実行委員会の「いわきのお寺さん『薬師様・弁財天・観音堂』を訪ねる」事業だった。

「薬師様」は閼伽井嶽にある。国道49号からだと、ふれあい市場のかなり手前で山の方へ右折する。少し足を延ばしてふれあい市場で買い物を、という流れだったのだろう。「弁財天」は沿岸部の沼ノ内、「観音堂」は内陸・石森山の石森観音。いわきのヤマ・ハマ・マチを巡るツアーだった。

 平地の6号バイパス入り口では、気温表示計が「5度」だった。三和に入ると「2度」。カミサンがおばさんたちにその話をすると、「気温が上がったんだわ、けさは氷点下3度だったよ」。マチとヤマの、日中のこの寒暖差が甘い白菜をつくる。

2017年12月4日月曜日

徳川家康の戦略

 日曜日は、午後5時すぎには買ってきた刺し身をさかなに、テレビをつけて晩酌を始める。5時半・「笑点」、6時・大河ドラマ「おんな城主直虎」。笑点は地デジ、大河ドラマはBSプレミアムで。あとは、カミサンにテレビのリモコンを渡す。 
「おんな城主直虎」はこのところ、徳川家康中心の展開だ。織田信長の圧力で家康は息子と奥方を殺し、首を信長にさしだす。それでも信長は家康をつぶそうとする。きのう(12月3日)は、その緊張状態がピークに達した。

 家康も亡き者にしようという信康の遠謀を知った直虎が家康に会う。二人のやりとりに、思わず感情移入をしてしまった。戦いが続くこの世が嫌いだ(家康)、家康のもとで平和の世を見たい(直虎)――戦国時代を終わらせなければ、という2人の思惑が一致する。

 実はおととい(12月2日)、「おんな城主直虎」の時代考証を担当した静岡大名誉教授小和田哲男さんが、いわきで講演した。演題は「徳川家康の戦略――関ケ原の戦いから大坂冬の陣・夏の陣まで」。上廣(うえひろ)倫理財団が主催し、いわき地域学會が共催した。

 同財団がいわきで歴史・文化フォーラムを開くのは今年で5回目。前半・講演のあと、後半は夏井芳徳地域学會副代表幹事が聞き手になって小和田さんとトークを展開した。伊達藩に備える北の砦としての磐城平藩に、家康は譜代大名を配した。主に磐城平城のつくりが話題になった。

 講演では、小和田さんは豊臣秀吉との関係から大坂冬・夏の陣までの展開を解説し、長い戦国時代に終止符を打った人物として家康を語った。夏の陣が終わると「慶長」から「元和(げんな)」に改元し、いわゆる「元和偃武(えんぶ)」を実施する。偃武は武器を倉に収めること、つまりは家康の究極の目標は「平和」にあった、そのための戦略だった、ということだろう。
 
 家康の事績を知り、内面を想像し得る講演を聴いたばっかりに、今年(2017年)の大河ドラマは単なる戦国ものではなく、「平和」を希求したものだったと、ようやく合点した。最終回まであと2回、そこが強調されるにちがいない。

2017年12月3日日曜日

ネギを積んだ軽トラ

 もう何回も言っているので恐縮だが――。車でいわき駅前の図書館や銀行へ行った帰りには、できるだけ別の道を通る。
 6国(ろっこく=国道6号)。それが、わが家からマチへ行く最短のルート。6国を行ったり来たりするだけではつまらない。帰りは違う風景を見たい。記者の「習性」がいつか「本性」になった。
 
 カミサンを乗せると摩擦が起きる。「家に直行して!」。それを無視する。「寄り道しても5分オーバーするくらいだぞ」。今の時期なら、夏井川にハクチョウがいる。ヤナ場でサケを捕っている人たちがいる。

 11月の末近く、街の銀行へカネを下ろしに行った。帰りは夏井川の堤防経由でガソリンスタンドへ直行した。まだ午前10時台だ。県道へ出ると、ネギを積んだ軽トラが走っていた=写真。ネギの出荷が始まったようだ。

 ネギに関しては好き・嫌いがはっきりしている。「三春ネギ」を栽培しながら調べを続けているうちにそうなった。見た目のきれいさではない。甘い・やわらかい・香りが高い――がポイントだ。
 
 60歳を機に、同級生と始めた“海外修学旅行”でも、畑があればネギの有無、形態を観察してきた。台湾には、幅の広い高うねにしてまとめて栽培し、稲わらで畝を覆って白根をつくる「三星ネギ」があった。
 
 軽トラのネギはたぶん流通ルートに乗るものだろう。私が好むのは、それではない。直売所あたりで売っているネギだ。
 
 おととい(12月1日)、梅干しと漬物を買いに道の駅よつくら港へ行った。ネギもあったので、自分で栽培している三春ネギやいわき一本太ネギのつなぎと、味の確認のために買った。甘くてやわらかかった。ラベルに「ヒコファーム」とあった。以前、別の農家のネギも買って食べたことがある。やはり甘かった。道の駅は案外、穴場かもしれない。
 
 好みでいえば最高の阿久津曲がりネギも、そろそろ郡山資本のスーパーに並ぶはずだ。

2017年12月2日土曜日

アート・地域学・水環境

 震災後に生まれた動きのひとつにはちがいない。いわきでは主に平と小名浜で、アートとまちづくりを結びつけた活動が続いている。中心は30~40代の若者だ。人的なネットワークができている。いわきの文化史的な視点でいえば、ざっと40年(正確には47~33年)ぶりのアートの波といえるかもしれない。
 最初の波とは――。昭和45(1970)年・草野美術ホールオープン~同50(1975)年・市文化センター開館~翌年・市民団体「市民ギャラリー」結成~同59(1984)年・市立美術館開館と続く、現代美術の受容と展開の歴史だ。
 
 アートだけではない。市立美術館の開館と同じ年に、学術系の市民団体・いわき地域学會が発足する。その後、ごみ処分場やゴルフ場建設問題、旧炭鉱坑道への廃油不法投棄事件などが起き、いわき市内の水環境に危機感をもった市民が立ち上がる。原動力になったのは、やはり30~40代だ。
 
 そうした状況のなかでいわき民報は年間企画として、昭和63(1988)年の夏井川を皮切りに、鮫川、藤原川の「流域紀行」を連載し、水源の「あぶくま紀行」、河口=沿岸部の「浜紀行」を手がけた。いずれも地域学會のメンバーが交代で執筆した。これらは単行本になった。
 
 本にはなっていないが、平成2(1990)年には好間川と大久川の「流域散歩」を半年ずつ手がけ、平成7(1995)年には1年間、「しんかわ流域誌」を連載した。
 
 新川の連載から22年。最近、「しんかわ流域誌」の切り抜きを読み返している。平成2年にまちづくり応援団「いわきフォーラム’90」が発足し、1年間の活動記録をまとめた『流域論からの出発――いわきのまちづくりに向けて』も=写真。水環境問題には、行政的な「地域」ではなく「流域」の視点をもたねば、というのが骨子の小冊子だ。
 
 9月に新川の水環境に関するワークショップが開かれた。三春町にある福島県環境創造センターが主催した。連絡がきて参加した。来週金曜日(12月8日)にはその延長でちょっとしたイベントがある。公開しているわけではないが、ワークショップ参加者の家族や友人2~3人は聴講可だという。

 イベントのタイトルは「歴史・文化・環境などの魅力を再発見!?新川バーチャルツアー」。私と、旧知の橋本孝一さん(夏井川流域ネットワーク代表=福島高専名誉教授)がそれぞれ15分くらいしゃべる。

 新川の水環境はよくなっているという印象があるが、河川一般に対する県民の認識はどうだろう。原発震災が川から人を遠ざけ、県民の水環境への関心の低下が懸念される、という危機感が行政にはあるようだ。再び、流域論の出番がきた?

2017年12月1日金曜日

庭のカエデ

 カエデの紅葉前線は、いわきでも山から平地へ――。わが家の庭のカエデが紅葉のピークを迎えた=写真。何日か前、気づいたら葉が赤くなっていた。葉の1枚1枚が化学変化を起こして、一気にそうなるらしい。
 庭のカエデの樹齢は15年ほどだろうか。カミサンが夏井川渓谷にある隠居の庭の実生(みしょう)を土ごとポットに移し、養生したのを定植した。大人の手の親指くらいの太さだったのが、今は径12センチほど、高さも4メートル近くになった。一度、近所の造園業者さんに頼んで庭木を“散髪”してもらった。それがまた大きくなった。

 カエデは、繁殖力が強い。渓谷の隠居の庭には、玄関前や隣地・道路の境にカエデが何本かある。私が渓谷へ通いはじめたのは、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起きた平成7(1995)年の初夏。22年前からカエデの実生をあきるほど見ている。庭のあちこちに芽を出すのだ。

 ほっとけば庭が、菜園がカエデの林になる。私は、気づいたら芽を摘む。ところが、カミサンは芽生えに“感動”してポットに土ごと移す。そうして養生したカエデの苗木を人にあげたり、自分の家の庭に植えたりする。

 30年後、40年後、植えた苗木がどうなっているか――。私は想像すると恐ろしくなるので、狭い庭には木を植えない。カミサンは目の前にある苗木がかわいくて、それだけで植えているふしがある。はかにも何本か植えた若木がある。

 庭のカエデはそばのカキの木とけんかするほどになった。いつかはカエデを切って、枝は小刀でこけしに、幹は円空のような仏像に、なんて考えたりもする(小学校の低学年のころ、里山から雑木の枝を切って来て、肥後守でよくこけしを作ったものだ)。

 きょう(12月1日)から師走。庭のカエデが葉を散らすと、年末年始へとまっしぐらだ。カミサンはこのところ、よく庭に出てほかの木の落ち葉かきをしている。カエデは、紅葉を見ている分にはきれいだが、暮らしの場にあると後始末が大変、という面もある。