2017年9月22日金曜日

「いばらき時間」

 北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館へ行くと、カミサンは館内の情報コーナーからほかの施設で開催・予定されているチラシ類を持ち帰る。
 なかに、「いばらき時間」というパンフレットがあった。展示会ではなく、茨城県の秋・冬の観光をPRするものだった。表紙と裏表紙が1枚の写真でつながっている=写真。山は一目で筑波山だとわかる。池は? キャプションの「築西市『母子島(はこじま)遊水地』」を手がかりに、ネットで検索した。
 
 築西市は茨城県の西部にある。南は下妻市、北は栃木県真岡市に接する。知らないマチへ行くと(ネットでもそうだが)、必ず「母なる川」を探す。築西市の川は利根川水系の小貝川だった。
 
 小貝川には記憶がある。昭和61(1986)年8月、台風が襲来し、同川流域が激甚被害に遭った。小貝川水害だ。母子島遊水地は、その後の「災害に強いまちづくり」のなかで、集団移転跡地につくられたという。
 
 近景に遊水地、後景に筑波山――。新しい茨城のビューポイント(視点場)ができた。それどころか、筑波山と遊水地と日の出を組み合わせた“山水写真”の定番になった。「いばらき時間」の表紙に使われた写真は、母子島遊水地から見た初日の出だそうだ。
 
 初日の出に限らない。春分の日・夏至・秋分の日・冬至などに、真正面から朝日が、あるいは夕日が差し込む設計になっている社寺がある。

 話は東南アジアに飛ぶが、7年前の2012年、秋分の日近くにカンボジアのアンコールワットを訪れた。秋・春分の日には、三つある尖塔の中央から朝日が昇る、ということだった。あいにく曇雨天続きのために太陽は拝めなかった。
 
 あした(9月23日)は、その秋分の日。そんな「いわき時間」にひたれる聖地がある。たとえば、閼伽井嶽薬師。レイライン(光の道)に立ってなにかを思うのもいいのでは?

2017年9月21日木曜日

塩ゆで落花生

 3%の塩水でゆでるといい、といわれた。晩酌のつまみに塩ゆで落花生が出てきた=写真。殻を取ったピーナッツの硬さしか知らない人間には、枝豆のようなやわらかさが衝撃だった。ほくほくして、ほのかな塩味が効いている。 
 9月10日にいわき市平・本町通りで「三町目ジャンボリー」が開かれた。イタリア料理のスタンツァと同じブースで生木葉ファームの野菜、加茂農産のナメコが売られていた。ナメコを買い、勧められるままに生の落花生を買った。
 
 乾燥して硬い落花生は子どものころから口にしている。ピーナッツは酒のつまみの定番だ。しかし、生をゆでて食べるという発想はなかった。身近に栽培している人がいなかったのが大きい。

昔、小名浜で栽培されていたのは知っていた。いわき市南部で栽培されていることは、「いわき昔野菜」発掘調査のレポートで知った。
 
 いわき市が2012年3月に刊行した『いわき昔野菜図譜 其の弐』の巻頭言に、次のようなことを書いた。文中の「45年前」は「50年前」と読み替えてもらえるとありがたい。
 
「今はどうかわからないが、45年近く前、小名浜の友人宅で自家栽培の『落花生』を食べたことがある。藤原川下流域の沖積地に家があり、家の前には田畑が広がっていた。千葉産ではなく小名浜産であることに大変驚いた。図譜から田人と山田で栽培されていることを知る」

 小名浜の落花生は、塩ゆでではなかったように思う。硬い落花生だったので、つい本場の千葉と比較したのではなかったか。

 いわきの塩ゆで落花生を食べながら、カミサンに胸を張る。「殻が硬くて割れない」というので、簡単な割り方を教えた。殻の先っちょ(とがっている方)を筋に沿って親指と人さし指でつぶすように押す。すると、きれいに殻が二つに割れる。割れなくてもひびが入って割れやすくなる。実は、私も昔、仲間のだれかかに教えられたのだが。

 冬、あるいは正月、よく殻を割って落花生を食べた。今度の正月はいわきの落花生をポリポリもいいかな、なんて思っている。

2017年9月20日水曜日

林道のフレコンバッグ

 いわき市小川町上小川字牛小川地内の夏井川渓谷と、山を越えた同市川前町下桶売字荻地内を結ぶ林道がある。通称・スーパー林道=広域基幹林道上高部線だ。幅員5メートル、延長14キロ。川前の隣・川内村に住む陶芸家を訪ねたり、田村市常葉町の実家へ帰ったりするときに利用する。
 敬老の日(9月18日)、実家からの帰りに都路―川内―川前(スーパー林道)ルートで、夏井川渓谷の隠居に立ち寄った。

 スーパー林道を利用するのは2年半ぶりだ。もう9月も後半。県道から折れて入り込むと、草が茂り、ススキが道の両側から「うらめしやー」をしていた。センターラインはない。が、普通車ならすれ違える1級林道だ。それが、ススキの穂やハギで1台がやっと、というくらいに狭まっているところもある。

 ところがどうだ、さらに奥へ進むと、急に道端からススキやハギが消えた。草が刈り払われてすっきりしている。対向車両がある。人もいる。車も止まっている。人や車を見たのは、荻地区の放射線量が高くて避難の話が出ていた震災直後以来だ。

 それ以上に驚いたのが、ところどころに黒いフレコンバッグが置かれていたことだ=写真。表面に字が書いてある。「H2999」「H29916」は年月日、「0.83」とか「0.86」は線量だろう。

 フレコンバッグの中身は分からない。が、草が刈り払われた道路の状況からして見当はつく。さらに行くと、道端に看板が立っていた。「森林内の整備をしています。」。ていねいに句点「。」が付いている。その下に「10月31日まで」「ふくしま森林再生(県営林)事業上高部地区」などとあった。

 あとで福島県のホームページなどにあたる。森林再生事業では、間伐などの森林整備と、放射性物質の動態に応じた表土流出防止柵などの対策を一体的に行う、とあった。それで、車が止まっていて人がいたのだろう。

 原発事故からおよそ3カ月後の2011年6月8日。実家へ帰るのに、スーパー林道を利用した。線量が高いことは分かっていたので、マスクをし、エアコンもかけず、ときどき車を止めて車内の線量を測った。

 牛小川に最も近い第一の峠で毎時0.722マイクロシーベルト、第二の峠では1.876、第三の峠は1.781、第四の峠は1.747、終点の荻に下ると1.945あった。

それから6年半。自然減衰と物理的減衰で数値が下がっていることは、これまでの全体の傾向からも想像できる。放射線量を忘れているわけではないが、今はめったに線量計は持ち歩かない。

2017年9月19日火曜日

母親の十三回忌

 台風を気にしながらの三連休だった。仕事・レジャー・法事と、毎日、車で出かけた。
 土曜日(9月16日)は、いわきアフターサンシャイン博実行委員会主催の講座を担当した。いわき市三和町で農林業を営みながら文筆活動を続けた草野比佐男さん(1927~2005年)の文学について話した。夕方は雨の予報。傘を用意したが、さいわい天気は持ちこたえた。

 日曜日は朝から雨。夏井川渓谷の隠居で土いじりをするのをあきらめ、北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館へ出かけた。
 
 予報だと、台風18号が福島県に最接近するのは月曜日(敬老の日)早朝で、大荒れの心配があった。確かに、未明まで風が吹き荒れた。が、朝を迎えると収まり、太陽が顔を出した。気温が上昇した。
 
 この日、田村市常葉町の実家で母親の十三回忌が行われた。身内だけで墓参り=写真=をし、実家で昼食会を開いたあと解散した。関東圏から骨になって帰り、両親のそばに眠る姉にも線香を手向けた。

 いわきから阿武隈の山の向こうへ、どのルートで行こうか。雨・風の影響で通行止めになっている道路はないか。時間がないので遠回りはしたくない。結局、夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線を利用した。ところどころ風に飛ばされた枝葉が路面を覆っているほかは、雨・風の被害は見られなかった。

 法事には、子ども3人、孫2人、子と孫の配偶者3人、ひ孫3人の計11人が参加した。ひ孫たち=姪っ子の子どもたちはすっかり大きくなっていた。長女は17歳だという。用があって来られなかった孫・ひ孫たちもいる。故人から数えると4世代。樹木が枝葉を伸ばすように、いのちは子となり親となって次の世代にリレーされる。

 母親は大正4(1915)年に生まれ、平成17(2005)年に満90歳で亡くなった。生きていれば今年102歳になる。命日は9月22日。今週の金曜日だ。たまたまだが、草野比佐男さんも同じ年の9月22日に満78歳で亡くなっている。

「かつかつに農を支へて老いにけりいかに死ぬとも憤死と思へ」。草野さんは高度経済成長とともに顕在化した農業・農村の荒廃を憂い、国に怒り、憲法九条を守るためにひとりムラで異議申し立てを続けた。詩集『村の女は眠れない』はロングセラーになっている。母親の命日が近づくと、決まって草野比佐男さんのことが思い浮かぶ。ミサイル・警報・頑丈な建物・地下……。草野さんはますます怒っているにちがいない。

2017年9月18日月曜日

雨の日曜日、北茨城へ

 天心記念美術館でルドン?――北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館で「ひとのかたち」展が開かれている(10月15日まで)=写真(チラシ)。フェイスブックに、同館による紹介レポートが載った。ルドンの作品もあると知って、心が動いた。
 日曜日は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。しかし、きのう(9月17日)の日曜日は台風18号の影響で雨になった。行っても土いじりはできない。

 まだ曇天の朝6時、花火が鳴った。隣の草野地区で市民体育祭が行われた。その合図だったか。会場は草野小学校。雨になれば、校庭から体育館に移して実施する。晴れても降ってもやる。今年(2017年)は市長選、去年は市議選で開催日がずれこんだ。わが神谷(かべや)地区は前倒しをして、8月末の日曜日に実施した。まずまずの天気だった。9月はやはり台風の影響を受けやすい。

 朝食をすませたころ、雨が降り出した。草野の体育祭は体育館か――そんなことをチラリと思いながら、北茨城へ車を走らせた。
 
 わが家から北茨城へはわりと簡単に行ける。国道6号常磐バイパスの終点近くに住んでいる。バイパスに乗れば、いわき市の南端・勿来まで20分ちょっと。それから国道6号を南下し、北茨城市に入って何分もたたずに左折するとすぐ、海食崖の上の天心記念美術館に着く。

 勿来地区に入ると、いつも思うことがある。晴れていても雨が降っていても、なぜか空が明るく感じられる。「関東の空だ」。海岸部は県境の平潟隧道をはさんで関東平野に接続している。今度もJR常磐線勿来駅前を通過するとき、同じ思いがわいた。坂上田村麻呂に征服された蝦夷(えみし)の末裔の血がそうさせるのだろうか。

 さて、ルドンといえば、岩山の陰から一つ目の巨人がぬっと現れ、草地に横たわる裸の妖精を見おろしている「キュクロープス」が思い浮かぶ。怪奇的なのに色合いが多彩なために、どこかユーモアが漂う。

 展示されている作品はモノクロームだ。「『聖アントワーヌの誘惑』第3集より」の石版画(リトグラフ)6点で、闇と接続するように、人とも神ともつかぬ存在のいのちが幻想的に描かれる。フロベールの幻想的な小説『聖アントワーヌの誘惑』の“挿絵”と考えるとわかりやすい。
 
 企画展のポイントは「誰かの像」「視線の行方」「表現されるからだ」の三つ。ルドン作品は「誰かの像」、つまり内面までも表現された肖像を示すコーナーにあった。
 
 写真のチラシでいうと、横に3点並んだ右端のモノクロ作品がそのひとつ。口をぎゅっと結んでなにかをにらみつけている人間の顔、西欧人というより東洋人、なかでも現代日本にいそうな若者の顔――のように見えないこともない。これはこれでリアルな人物像だ。
 
 ルドンを見たあとはいわきに戻り、市立美術館で16日に始まった「現代アートの輝き―多様な人間像―ピカソからウォーホルまで」をのぞこうと思ったが、泉でうろうろしているうちに雨脚が強まった。“日曜美術館”はそれまでにして、家に帰って昼寝をした。

2017年9月17日日曜日

映画「洟をたらした神」

 10月14日に吉野せい(1899~1977年)原作「洟(はな)をたらした神」の上映会&トークショーが開かれる。吉野せい賞創設40周年記念の冠が付く。告知記事が9月5日、いわき民報に載った=写真。会場はいわきPIT。入場料は500円。記事では抜けていたが、定員は200人で、PITへの電話申し込みが好調らしい。
 いわきの「百姓バッパ」が書いた『洟をたらした神』が昭和49(1974)年、弥生書房から出版され、世間に衝撃を与えた。翌年春には大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。その1年後、劇化され、いわきでの2回目の公演益金を基に、同53年、吉野せい賞が創設された。同じ年、神山征二郎監督が映画(最初はテレビドラマ用)を製作している。
 
 吉野せい――といっても、人と作品をわからない市民が増えている。それはそうだ。『洟をたらした神』の出版からもう43年がたつ。映画を通じて昔のいわきの風景を、せいを、せい賞を知ってもらおうということだろう。

 生前のせいを取材したことがある。地元メディアの人間として、最低限の知識は仕入れておこうと、せいの文章を読んできた――それだけのことだが、トークショ―に加われ、ということになった。
 
 上映まで1カ月を切って、PR活動に拍車がかかっている。主催のいわきロケ映画祭実行委員長がFMいわきに出て告知することになった。いわき小劇場のMさんから依頼があったという。Mさんは映画「洟をたらした神」に出演した。どこでロケをしたかも知っている。映画しか知らない若い世代には、貴重な情報だ。
 
 わが家を経由して川内・獏原人村の卵を取り寄せているMさんがいる。やはりいわき小劇場の一員だ。きのう(9月16日)、卵を取りに来たので確かめた。「夫婦かといわれるけど、そうじゃない。お互い迷惑してる」と苦笑した。
 
 上映会には興味を持っていたという。「早く申し込んだ方がいい」というと了解した。申し込みの勢いからすると、抽選になって落選者が出るかもしれない。
 
 若い人たちにまじって動いていると、思わぬ発見がある。学校の後輩の甥っ子が実行委員会に属していた。2カ月に一度の飲み会の仲間でもある。老いては子に従え、若い人にも従え、だ。同級生や同世代の人間とは別のおもしろさがある。

2017年9月16日土曜日

朝ドラ、休むな!

 きのう(9月15日)も朝、突然、テレビの画面が変わり、防災ラジオにスイッチが入った。8月29日は朝6時過ぎ、きのうはそれより1時間遅れの7時過ぎだった。北朝鮮が前回と同じコースでミサイルを発射した。
 防災ラジオの文言が前回とは異なっていた。「ミサイル発射。ミサイル発射。北朝鮮からミサイルが発射された模様です。建物の中、または地下に避難してください」。最後の文章が、前は「頑丈な建物や地下に避難してください」だった。頑丈な建物はどこにある? 地下はどこにある?

 最初の放送から7分後。「ミサイル通過。ミサイル通過。先ほどのミサイルは、北海道地方から太平洋へ通過した模様です。……」。前回は、「先ほど」のあとの文章が「この地域の上空をミサイルが通過した模様です」だった。いわきの上空? 福島県の上空? 漠然としていてよくわからなかった。

 発射から通過まで数分。その間にどんな避難行動をとれ、というのか? 茶の間にいたら、そのままじっとしているしかないではないか? 今回はたまたま小・中学生らの通学時間と重なった。集団登校中なら、近くの家、たとえば「子ども110番の家」に避難する――そういう約束をしておくしかないのか?

 Jアラートに連動して、テレビは急きょ、通常番組から緊急放送(特番)に切り替わった。視聴者に一刻も早く知らせなくてはならない。電波メディアの役目のひとつだから、それはいい。が、通過してしまったあとは、通常番組に戻って、L字型画面の文字情報で対応すればいいのではないか?

 前回も今回も朝ドラの「ひよっこ」が休みになった=写真。すでに緊迫状態は去っていたはずだ。そこが釈然としない。
 
 それに、と思う。ミサイル、ミサイルというけれど、本物なのか? 模擬弾ではないのか? 模擬弾なら「発射」も「発射実験」ではないのか? 「ミサイル模擬弾の発射実験をした」ということであれば、視聴者の受け止め方もずいぶん違う。本物か模擬弾か、そのへんのことも含めて疑問に答えてくれるような伝え方をしてほしいものだ。

2017年9月15日金曜日

押入のふとん

 天日にふとんを干す。太陽の熱で湿気とかび臭さが取れ、熱がこもる。夜、ふんわりしてほのかな温もりのあるふとんに身を横たえたときの、なんともいえない気持ちよさ。このふわふわ・ほかほかは何歳になってもいいものだ。
 それはしかし、だれかが、たとえば母親が干したからだ。ふとんを干してもらったからこその喜びだ。今は? カミサンにいわれてふとん干しを手伝う。

 ふとんにも新旧がある。わが家のふとんは軽い。こちらはめったに干さない。夏井川渓谷の隠居にあるふとんは主に木綿綿。押入の上段にすきまなく入っている。重い。湿気を含むとさらに重くなる。

 9月4~5日に隠居でミニ同級会が開かれた。前の日、天日に干したふとんを居間にたたんで置いた。どうせ雑魚寝になることだし、押入に入れてもふくらんでいて入りきらないからだ。
 
 5日の朝は、目覚めると元のようにふとんがたたんであった。台所もきれいになっていた。単身赴任経験者が中心になって片付けたのだろう。回を重ねるごとに片付けが上手になっている。

 10日の日曜日、早朝。車で隠居に向かいながら、カミサンにいわれる。「台所もふとんも片付いてるんでしょうね」。「ああ……」といったあとはダンマリを決め込む。ふとんをちゃんと押入にしまったわけではない。

 隠居に着くと、すぐ土いじりを始めた。カミサンはまたふとんを天日に干した。この日はほかにも用事があって、午前11時には街に戻らないといけない。

 土いじりを終えて居間に戻ると、三つ折りにした敷きぶとんが座卓に置いてある。押入にふとんを押し込んだが、最後の1枚が入らない、背の高い人、よろしく、という合図だ。すき間に無理やり押し込んだ=写真。

 そういえば――。6年半前、ふとんはもちろん、普通の洗濯物も外に干せなかった。コインランドリーがにぎわった。今もにぎわっている。原発事故の心理的影響が固着したか、ただの時間節約か。
 
 事故の後遺症でいえば、車の燃料計の針が真ん中を指すと、すぐ満タンにする。ガソリンがなくて避難に二の足を踏んだ、あのときの不安・焦燥はもうこりごり――そんな事態が再び起きないことを祈りながらも、万一に備える自分がいる。

2017年9月14日木曜日

マメダンゴ観察記

 梅雨期に入ると毎年、夏井川渓谷の隠居の庭にマメダンゴ(キノコのツチグリ幼菌)が発生する。内部が白いうちは食べられる。
 6月中旬、チェックを始めると、球体が六裂し、中央にホオズキのような袋を付けたツチグリの残骸があった。もう発生した? いや、前年の残骸ではないのか。地面をなめるように見ると、幼菌発生の兆候はどこにもなかった。

 6月25日。全面除染で砂浜のように白くなった地面から、茶色い頭の一部(マッチ棒の軸先大~人間の小指大)がのぞいていた。右手人さし指でグイッとやると、転がり出た。周囲の地中にも同じ球体の感触がある。そちらもまさぐると、マメダンゴが現れた。最大2センチほどの幼菌が20個ほど採れた。二つに割ると、全部白い。炊き込みご飯にして食べた。

 一回食べたからもういいや。あとは成菌になって裂開し、胞子を放出するまでを写真で記録しよう――。珍しく食欲を封印した。時系列でマメダンゴの変化を簡単に記す。

【7月】2日=まんべんなく、ではなくて、スポット的にマメダンゴが頭を出す。その数ざっと50個。次の週は、変化なし。16日=白っぽい表面の色が茶黒くなる。23日=裂開を始めた個体がひとつ。

【8月】6日=表面が緑灰色に変化した個体があった。カビにやられたか。13日=全体を地上に現した個体がある。パチンコ玉大だ。24日=試しに大きいものを踏むと、「プシュッ」とかすかな音がして裂けた。

【9月】3日=表面にひびの入った個体がいくつか現れる。ひびは十字状、あるいはベンツのエンブレム似とさまざまだ。コロンと地上に現れた個体を二つに割ると、中がチョコレート色だった=写真。胞子の放出まで時間の問題だ。10日=裂開が近そうな個体が増える。

 隠居へ行くたびに写真を撮ってわかったのだが、ツチグリは、幼菌が地中で形成され始め、地上に出て裂開し、胞子を放出するまでに時間がかかる。収穫せずに放置しておくと、かなりの数の幼菌が地上に現れる。6月下旬~7月上旬の旬の時期に2~3回は試食しても大丈夫かもしれない。ただし、ヒトデにホオズキの実をくっつけたような新しい残骸にはまだお目にかかっていない。
               *
 11日に少し先走って告知した毎日新聞の連載「復興断絶・東日本大震災から6年半 つながりたい」ですが、きょう(9月14日)掲載になりました。

2017年9月13日水曜日

9秒98の余韻

 日本スポーツ史というより、日本史の画期をなす“事件”という思いが強い。今も勝手に余韻にひたっている。新聞記事=写真=を読み返し、テレビの番組を欠かさず見る。
 東洋大の桐生祥秀(よしひで)選手(21)が陸上男子100メートルで、日本人で初めて「10秒の壁」を破り、9秒98を出した。ニュースに接した瞬間、世の中が花畑になったように感じた。

 トップアスリートにとっては、100メートル「10秒の壁」はわずか数十センチでしかない。日本人にはこの数十センチの壁が厚かった。

 桐生選手は高校3年で10秒01を出し、一躍脚光を浴びた。大学入学後は、しかし低迷した。ライバルが次々に現れた。大学最後のレース(日本学生対校選手権=インカレ)で目標の大記録が生まれた。

 私事だが、開校して3年目の平(現・福島)高専に入った。バレーボール部から陸上部に転じ、主に走り幅跳びと400メートル、1600メートルリレーを練習した。100メートル10秒台が一流だとしたら、二流の11秒台にも届かない、三流のランナーだった。

 入学した年に東京オリンピックが開かれた。そのころ、日本の100メートルランナーといえば飯島秀雄。陸上部に入ってからは、同時代の飯島(10秒1)、歴史的には吉岡隆徳(10秒3)があこがれになった。飯島は「ロケットスタート」、吉岡は「暁の超特急」の異名をとった。当時はまだ手動計時だった。飯島の10秒1も、電気計時なら10秒10~19の間のどれか、ということになる。
 
 それから半世紀。福島県内の高校生も100メートルを10秒台で駆け抜けるようになった。
 
 元三流ランナーがひそかに期待していることがある。これも私事だが、小2の孫が、素質としては三流を越えているように思えるのだ。保育園でのかけっこのとき、陸上選手のように前傾して飛び出し、腕も前後によく振れていた。小学校に入った今は、学年で一番か二番だとか。
 
 桐生選手の9秒98は、きっと陸上短距離界のすそ野を広げるにちがいない。今は2歳上の兄と水泳・サッカーを楽しんでいる孫だが、じいバカとしてはいずれ陸上競技に進んでほしい――そう思っている。

2017年9月12日火曜日

ツルボとヒガンバナとアレチウリ

 夏井川の堤防を通るのは何日ぶりだろう。このところせわしく過ごしているので、街へ出かけても国道6号をまっすぐ帰る。きのう(9月11日)、図書館へ行った帰りに“寄り道”をした。遡上するサケを捕獲するヤナが川に架かっていた。堤防にはツルボ(スルボ)とヒガンバナの花=写真。もうそんな時期になったのだ。
 同じ川の堤防なのに、草がきれいに刈り払われたところと、茂ったところがある。河川管理者と契約している行政区は、堤防の野焼き(早春)、定期的な草刈りを実施する。草が茂ったままのところは遅れているだけか。

 この時期、堤防が“虎刈り”になると、草の茂ったところが一面アレチウリで覆われる。それに気づいたのは2008年秋だった。

 アレチウリは北米原産のつる性植物で、日本では1952年に静岡で発見されたのが最初だそうだ。特に河川敷で分布が広がっている。外来生物法で規制されている侵略的な植物だ。

 在来のつる性植物はクズやヤブガラシ。アレチウリはそれさえも覆ってしまう。覆われた植物は日光を遮断され、やがて枯死する。アレチウリの怖さがここにある。

 根っこを抜くのが一番とはいえ、侵略された面積がハンパではない。次善の策として、結実前に刈り払う。せめてこれを繰り返していれば、アレチウリが増えることはないだろう。堤防の草刈りを引き受けている行政区には頑張ってもらうしかない。

 草が刈り払われた堤防の土手には、点々とヒガンバナの赤い色。アレチウリが覆う土手には、赤い色はない。

 夏の天候不順からか、今年(2017年)は、8月下旬にはもうヒガンバナの花が見られるようになった。フェイスブックで知った。夏井川の堤防が真っ赤に染まるのも時間の問題だろう。すると、キンモクセイの花も咲く。いや、香り出したというので、きのう、写真がフェイスブックにアップされていた。あと1カ月もすると、ハクチョウが夏井川に渡って来る。

2017年9月11日月曜日

6年半がたった

 家の前の歩道のすき間からアサガオが芽を出した。カミサンが支柱を立てたらつるが絡まり、根元から花をつけるようになった=写真。月並みな言葉でいえば、「ど根性アサガオ」だ。
 アサガオの奥に写っている建物は、道路向かいの民家の物置。前は土蔵だった。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震で傾き、1カ月後の巨大余震でさらにダメージを受けた。

 真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。応急的に丸太3本で支えられていたが、間もなく解体され、跡に今風の物置が建てられた。

 きょう(9月11日)は東日本大震災の月命日。あれから6年半がたつ。日々の暮らしに追われている人間は、メディアの記事で“節目”を知る。8月になると、戦争と平和を考える記事が多くなる。カレンダー・ジャーナリズムと揶揄されるが、それもメディアの機能のひとつには違いない。6年半の節目の日――も、メディアの取材で意識し、防災への思いを新たにした。

 8月中旬、カミサンに毎日新聞福島支局の記者から電話が入った。6年半の節目に合わせた連載を企画している。ついては取材をしたい、ということだった。初めて国内支援に入ったシャプラニール=市民による海外協力の会などと連携して、家(米屋)が「まちの交流サロン・まざり~な」になった。その経緯と現在を書きたいということなのだろう。

 月遅れ盆明けにやって来たのは、入社2年目の女性記者。以来、デスクからいろいろ指摘され、福島から車で通うこと4~5回に及んだ。写真撮影にはわざわざ東京本社からカメラマンがやって来た。

 その連載「復興断絶・東日本大震災6年半 つながりたい」が先週金曜日(9月8日)、社会面で始まった。掲載予定日は12日と聞いた(注・14日に掲載されました)。

 震災から6年半のきょうは?新聞休刊日だ。きのう、いわき市長選の投開票が行われ、現職が圧勝した。それも紙媒体で詳しく知りたかったのだが……、じれったい。夕方のいわき民報を待つしかない。

 それはさておき、毎日新聞の「復興断絶」の狙いはどこにあるのか。連載初回の末尾に「喪失から再生に向かっている人々のこころに、刻まれる深い傷。大震災から11日で6年半。ともに歩むための手掛かりを探した」とある。赤ペンを持ったつもりで、新米記者の文章を採点してやろうと思っている。

2017年9月10日日曜日

吉野せいを朗読と邦楽器で

 いわきの「百姓バッパ」、吉野せい(1899~1977年)が書いた短編集『洟(はな)をたらした神』が昭和50(1975)年、大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。
 宝生あやこの劇団手織座がこの作品を劇にして平で初演したのが翌51年7月。さらに翌年11月、せいが亡くなった直後に、せいの生まれ故郷・小名浜で追善公演が行われる。このとき、主催者から益金が市に寄付され、市はこれを基に、文学の新しい才能を顕彰する「吉野せい賞」を創設した。今年(2017年)で40回を迎える。

 吉野せい賞40周年を記念して、きのう(9月9日)、いわき芸術文化交流館アリオス音楽小ホールで、朗読と邦楽器による「吉野せいの世界」が開かれた=写真(リーフレット)。第1部は磐城桜が丘高校放送局員による作品朗読、第2部ではいわき三曲連盟と邦楽ユニット「びかむ・トリオ」の演奏が行われた。

 子どもがヨーヨーを自作する「洟をたらした神」と、9カ月で亡くなった次女を鎮魂する「梨花」が朗読された。それに先立ち、「吉野せいの生涯について」と題する拙文が紹介された。原稿を提出したあと、2~3カ所直したいところが出たが、高校生の朗読を聴くとそうは気にならなかった。逆に、思ってもいなかったところで浮いた感じの言葉があった。ま、「内部」を「内側」にする程度のことだが。

 主催したのは同賞運営委員会といわき市。運営委員長は理科系の教授だが、弓道でも知られた存在だ。邦楽の世界にも通じている。奥さんは三味線を、本人は尺八を演奏する。あいさつを聞く限りでは、ピコ太郎がペンとパイナップルとアップルをくっつけて世界に衝撃を与えたように、委員長もそのネットワークを生かして文学と朗読・邦楽の相乗効果、俳句でいう「二物衝撃」を狙ったようだ。

 委員長と尺八でつながるユニット「びかむ・トリオ」が、この日のために創作した「固い木の実」を演奏した。『洟をたらした神』のあとがきで、せいが言っている。

「ここに収めた十六篇のものは、その時々の自分ら及び近隣の思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみです。口中に渋い後味だけしか残らないような固い木の実そっくりの魅力のないものでも、底辺に生き抜いた人間のしんじつの味、にじみ出ようとしているその微かな酸味の香りが仄かでいい、漂うていてくれたらと思います」

 この「固い木の実」からインスピレーションを得たのだろう。『洟をたらした神』は、向き合えば向き合うほどなにかを放射してくる。私も自分の“総合学習”の教材として、『洟をたらした神』を座右に置いている。そのときどきに発見がある。今度の邦楽との融合もそのひとつだった。

2017年9月9日土曜日

トウガラシはまずまず

 8月中旬からトウガラシが赤く色づきはじめ、9月に入って収穫のピークを迎えた=写真。今年(2017年)は2株を植えた。
 キュウリも2株ずつ、2回に分けて植えた。いい具合につるが伸びてきたとき、1株の整枝に失敗した(根元で茎を切断)。それを補うのに、「夏キュウリ」のポット苗をふたつ植えた。

 7月。先に植えたキュウリが次々に実をつけた。同じころ、あちこちからキュウリが届いた。食べきれないので、糠漬けのほかに塩漬けにした。これからは夏キュウリだ、という段になって、天候不順が続いた。ほとんど収穫がないまま、葉がしおれて枯れた。

 ゆうべ(9月8日)、初めて古漬けを細かく切り、水に浸けて塩抜きをした。糠漬けとは違った、パリパリした歯ごたえ。懐かしい味だ。
 
 不作だったキュウリに比べると、トウガラシはまずまずだ。花が咲いてわかったのだが、小さく上向きに実を付けるタイプではない。次々に細く長く垂れ下がる。赤く色づいたのを収穫し、陰干しにした。形状からして、前に栽培してへきえきした激辛では、と思ったが、カミサンが料理に使ったのを口にすると、脳天に突き抜けるような辛さではなかった。
 
 激辛は用途が限られる。キュウリの塩漬けに風味と抗菌を兼ねて入れたら、キュウリからしみ出した水で指がヒリヒリした。キュウリも辛かった。飲み仲間に話すと、「鷹の爪(タカノツメ)ではなくて龍の爪(リュウノツメ)」とうまいことを言う。
 
 トウガラシは冬の白菜漬けのために栽培している。キュウリの塩漬け同様、風味と抗菌用だ。この夏はキュウリの塩漬けにも青トウガラシを入れた。この冬は、トウガラシに関しては心配がない――と書いて、もう冬のことを考える時期になったのだ、という感慨に襲われた。

2017年9月8日金曜日

ああ台湾

 還暦を機に始まった同級生による“海外修学旅行”が、今年(2017年)も行われる。10月中旬、三回目の台湾へ――といいたいところだが、断れない用と重なって参加できなくなった。
 帰国する日は10月14日夜。同じ日、いわき市で作家吉野せい原作の「洟をたらした神」上映会&トークショーが開かれる。神山征二郎監督を囲むトークショーに呼ばれている。初夏の段階では、1週間のずれがある、大丈夫と踏んでいたのだが。時期的にイベントが集中し、監督のスケジュールも考慮して、その日に絞り込まれたのだろう。
 
 幹事が日程を一日前倒しして、13日帰国の線で旅行会社と交渉したが、修学旅行シーズン、変更が難しい。みやげ話をどっさり持ち帰るから――ということになった。
 
 今週の月~火(9月4~5日)、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会が開かれた。参加した7人のうち4人、ほかに3人が台湾旅行に参加する。
 
 初回(2010年9月)は台風の直撃を受けて台北近辺を巡って終わった。二度目(2015年2月)は新幹線を利用して高雄=写真=まで足を延ばした。三度目は台北から高雄へ一気に南下したあと、東海岸を北上する。「おまえが提案したのに」。ほんとに申し訳ないことだ。
 
 ゆうべ、一杯やりながら5月下旬に届いた「台湾周遊」表をながめる。3泊4日で、台東~花蓮~基隆と東海岸を列車で移動する。泊まるのは高雄・花蓮・台北。二度目の故宮博物院見学が入っている。表にはないが、基隆近くの九分(実際は人偏に分)も再訪する。
 
 BSを含むテレビで台湾が放送されると、たいていは見る。台湾は行けば行くほど好きになる。東海岸の列車の旅も前にBSで見て、ぜひ「台湾一周」の旅を完結したいと思っていたのだが……。ああ台湾。台湾の味と人情。急に小籠包をいわきで食べたくなった。

2017年9月7日木曜日

いわむらかずお絵本原画展

 日曜日(9月3日)の午後、夏井川渓谷の隠居からの帰り、いわき市立草野心平記念文学館へ足を運んだ。夏の企画「いわむらかずお絵本原画展」が9月24日まで開かれている。ところが、どう勘違いしたのか、カミサンが「きょうが最終日だから」と文学館行きを催促した。しかたない。予定を変更して立ち寄ることにした。
 午後3時半過ぎに着くと、駐車場がほぼ満パイだった。こんなことはめったにない。なにかイベントがあったのか。館内正面のアトリウムロビーで東京電機大学グリークラブのコンサートが、午後3時から1時間の予定で開かれていた=写真。アトリウムロビーが人で埋まっているのを見るのは久しぶりだ。迫力のある若者の歌声に聞きほれた。

 コンサートが終わって、絵本原画が飾られている企画展示室をのぞく。森で暮らす三世代の野ネズミの大家族を中心に、植物やキノコたちが地べたに近い視線で描かれている。ときどき隠居の庭や、対岸の森で地べたをなめるように観察する身には、親しく懐かしい世界だ。

 いわむらかずお(1939年~)の代表作は「14ひきのシリーズ」だという。「14ひき」は野ネズミの大家族(おとうさん、おかあさん、おじいさん、おばあさん、そして10匹の子どもたち)のことだろう。フランス、ドイツ、台湾などでも翻訳・出版されている国際的な絵本作家だとは知らなかった。
 
 それよりなにより、「14ひきのシリーズ」の『14ひきのあきまつり』にはキノコがたくさん登場する。カワラタケ、クリタケ、アイタケ、ベニテングタケ、シシタケ……。森では「キノコのまつり」が行われていた。キノコを担ぐキノコたち、それを見物するキノコたち、そのまつりに遭遇した野ネズミたち。どこにどんなキノコが描かれているのか、探す楽しみもある。つい絵本を買ってしまった。

 いわむらかずおの絵本は手に取ったかもしれないが、作者名も作品名も記憶には残っていなかった。カミサンの勘違いがなかったら、絵本原画展はたぶん見ないで終わった。
 
 文学館のホームページには、「家族みんなで取り囲む、ささやかでも温もりに満ちた食卓は、私たちに大切な何かを気づかせてくれる」とある。『14ひきのあきまつり』も、食卓を囲んで秋の森の恵みをいただくシーンで終わっている。
 
 作者は雑木林を歩くのを無上の喜びとしているようだ。栃木県益子町在住で畑を耕しながら創作活動を続けているというから、野ネズミもキノコも身近な存在なのだろう。そこから独自の絵本世界が生まれた。

2017年9月6日水曜日

ミニ同級会

 夏井川渓谷の隠居でおととい(9月4日)の夜、ミニ同級会を開いた=写真。7人が集まった。いつものようにカツオの刺し身を――ともくろんだが、台風の影響で漁船が出漁できず、マグロやタコの刺し身の盛り合わせにとどまった。タコ好きがいて助かった。
 今年(2017年)7月、千島列島最北端・シュムシュ(占守)島に慰霊の旅をした同級生が参加した。終戦時、父親が樺太のある村の村長をしていたという同級生も加わった。去年、その同級生と私、ほかに2人の計4人でサハリン(樺太)を旅した。「北の戦争」を知るいい機会になった。

 占守島では――。ポツダム宣言受諾後の昭和20(1945)年8月18日未明、カムチャツカ半島からソ連軍が侵攻した。同級生の父親は戦車兵として戦い、生還した。

 以来、72年。同級生は父親の遺志を継いで慰霊の旅に参加した。そのときの短歌。「砲塔は確かににらむ敵上陸地 七十二年何を思いつ」。砲塔とは、島に放置されている赤さびた戦車の砲塔のことだ。散文的な説明より、短歌の方が的確に同級生の思いを伝える。臨場感もある。

 間もなく古稀。集まれば決まって年金、健康、夫婦間の話になる。今年はさらにシュムシュ、サハリンの話で盛り上がった。酒が入るほどに会話はなめらかになる。なめらかすぎて、雑魚寝から一夜明けると、「メガネがない」「(入れ)歯がない」騒ぎになった。どうやって布団を敷いたのか記憶がない――何人かがそうだった。
 
 体力が落ちているせいか、早い時間にお開きになった。「みんなに迷惑をかけないように」。奥さんにくぎを刺されてきた同級生も、正体をなくすことはなかった。
 
 週明け月曜日の飲み会は初めてだ。世の中が生産活動を始めたのに、われわれは消費活動をしている。いささか罪深さを感じないではなかった。とはいえ、まだ現役の人間がいる。朝6時に起きると2人の姿が消えていた。私も旧交の余韻をエネルギーに、たまった用事をこなすとしよう。

2017年9月4日月曜日

台風とカツオ

 夏井川渓谷の隠居が年に一回、ミニ同級会の宿になる。隠居の名前にちなんで「無量庵の集い」と呼び習わしている。今年(2017年)はきょう(9月4日)開く。
 いわき市長選がきのう告示された。10日に投・開票される。そのため、「9月第一日曜開催」と決まっている地区の体育祭が前倒しされた。去年も市議選があって前倒しになった。

 9月3日開催の場合、雨で1週間順延になると、市長選の投票日と重なる。体育祭の会場は小学校の校庭、体育館は投票所――そんなことはできない。雨天順延も考えて、1週間早い8月27日の開催になった。

 そこへ、同級生から9月2~3日・無量庵の集い開催の打診があった。3日は雨天順延の体育祭の可能性あり、9月4~5日ならOK――ということで、今までにない月~火の開催になった。
 
 参加するのはいわき勢3人のほか、郡山、東京、神奈川の4人。曇雨天続きの夏だった。せめて乾いたふとんに寝てもらおう――快晴のきのう、隠居へ出かけてふとんその他の寝具を天日に干した=写真。
 
 今年は天日干しの寝具が最高の“ごちそう”だ。というのも、いわきのカツ刺し(カツオの刺し身)がきょうは手に入らないかもしれない。
 
 台風15号が太平洋を北上し、カツオ漁船が出漁を見合わせた。もしかしたら長崎県からカツオが入ってくるかも――と、行きつけの魚屋の若だんな。入荷しても、おろしてみないとわからない、という。「前に何度もカツ刺しを食べているメンバーでしょ、味が落ちたものを出しては……」。判断はプロに任せて、とりあえず刺し身の盛り合わせ大皿二つを頼んだ。
 
 これから細かい買い物をし、刺し身を受け取って、午後3時過ぎには隠居で仲間の到着を待つ。というわけで、あしたのブログは休みます。

2017年9月3日日曜日

リスが路上で死んでいた

 いわき市小川町高崎地内。平地の市街から夏井川渓谷へと駆け上がる手前、左手対岸に夏井川第三発電所が見えてくる。右側は崖。前方に磐越東線のトンネルともう一つ先の崖をつなぐ高崎桟道橋(空中鉄橋)が目に入る=写真。
 ここだけ道路(県道小野四倉線)が直線的なせいか、スピードを出す車が多い。で、輪禍に遭ったいきものが路上に横たわっていることがある。先日はリスが犠牲になった。イタチか、イタチにしては小さいな――いったん通り過ぎたあと、バックして確かめたら、体長と同じくらいに尾が長かった。

 7年前には同じ場所でタヌキの死骸を見た。早朝、カラスが3羽、死骸に群がっていたところを見ると、夜間、車にはねられたらしい。いきものがはねられやすいスポットがあるようだ。

 リスにはめったにお目にかかれない。渓谷のヤマベ沢で日中、里山の石森山で早朝、目撃したことがある。いずれもすばやく前方の道を横切って行った。何カ月か前の早朝、わが家と隣家の間からリスが歩道に現れたことがある。ここは街なかだぞ、一瞬目を疑ったが、イノシシやキツネが闊歩する地域になったのだ、リスが出てもおかしくないか――と納得した。

 高崎のリスは、未明に森から出てきて、道端でうろうろしているところをはねられたのかもしれない。以前は、対岸の発電所に直結する木橋があった。今は道路を横切っても行き場がない。眼下に川があるだけだ。車に無警戒の若いリスだったか。

 ハクビシン、タヌキ、ノウサギ、フクロウ、テン、イタチ、コジュケイ、ヤマカガシ、キジ雌、カルガモ……。これまで路上で見てきた野生動物の死骸だ。そのリストに、新たにリスが加わった。写真は撮ったのだが、頭部の損傷がひどい。ブログに載せるのはやめた。

2017年9月2日土曜日

まかぬ種から生えた

 夏井川渓谷にある隠居の庭で辛み大根を栽培している。月遅れ盆には種をまく、というのはおととし(2015年)までのこと。今年も種をまかずに発芽させることにした。結論からいうと、大成功。見事な双葉のじゅうたんができた=写真。
 辛み大根には自分で再生する力がある。手抜きをしたために辛み大根の野性に気づいた。おととし、去年、そして今年と、手抜きの度合いを高めてみたら、ちゃんと野性の力でこたえてくれた。

 越冬した辛み大根は、春に花が咲き、実(さや)がなる。さやには種が眠っている。おととしまではさやを収穫・保存し、月遅れ盆が来たらさやを割って赤い種を取り出し、ていねいにも畝を耕して点まきにした。すると、細くて長い大根ができた。辛み大根は食べてもまずい。辛さを生かして大根おろしに利用する。細長(ほそなが)では大根おろしにもならない。土を耕したのが裏目に出た。
 
 去年もさやを収穫した。が、取り落としたさやがあったのか、盆上がりに種をまこうとしたら、すでに10株ばかり双葉が出ていた。さやのままでも芽を出すのだ! 種をまくのをやめて、双葉の生長を見守った。11月に直径5センチ、長さ15センチほどの「ずんぐりむっくり」型を初収穫した。師走に入るとさらに肥大した。大根おろしにすると辛かった。これをつくりたかったのだ。
 
 で、今年はさらに手抜きをして、さやをそのままにしておいた。ほっとけば、そのスペース全体が辛み大根の双葉でいっぱいになるのではないか。お盆上がりに立ち枯れた茎を引っこ抜き、草を刈り払って日光が当たるようにした。それから半月。思惑どおりに双葉が続々とあらわれた。

 人間が手を加えるとすれば、草刈り、追肥・石灰散布、間引きくらい。今年は連作を避けるため、芽生えた双葉を10株ほど別の場所に移し替えてみようかと思っている。それがうまくいけば、いわゆる自然農法のひとつ、不耕起栽培が実現する。

 体力が落ちて、鍬より「畑おこすべ~」(スコップとスキを合体させたようなもので、握りその他はアルミ製、5本ある刃は鉄製で焼きが入っている。足で刃を突き刺し、グイッとやる)を使うことが多くなった人間には、手のかからない辛み大根は特にいとおしい。ポット苗にしてほしい人に分けようか、いやいや売ろうか――なんて考えたが、やめた。
 
 もとは会津産の辛み大根だ。震災翌年の2012年夏。豊間で津波被害に遭い、内陸部の借り上げ住宅で家庭菜園に精を出す知人から送られてきた。その後、隠居の庭が全面除染され、一時、栽培を休んだ。

 栽培を再開してからは、三春ネギ同様、辛み大根も「自産自消」でいこうと決めた。「自産」といっても、実際は辛み大根そのものの再生力を利用するだけ。山形県鶴岡市の「温海かぶ」は焼き畑農業で生産されている。山の斜面を焼いて、灰が熱いうちに種をまく。それだけだという。草こそ焼かないが、辛み大根の栽培もそれに近い。いよいよ辛み大根がおもしろくなってきた。

2017年9月1日金曜日

“記者”の訃報

 きょうから9月。予定がびっしり。次から次に咲く庭のフヨウ=写真=を見て気分転換をするしかない――。そんななかでの、8月終わりの訃報だった。
 おととい(8月30日)の晩、シャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフから電話が入った。いわき市出身のNHK解説委員早川信夫さんが29日午後、亡くなったという。ほどなく、元スタッフからもフェイスブックを介して連絡がきた。享年63。脳出血による突然の死だった。
 
 早川さんは、東日本大震災が発生するとすぐ、「3・11被災者支援研究会」を立ち上げた。福島県では地震・津波のほかに原発事故が起きた。原発のある双葉郡から住民が遠隔地に避難を余儀なくされた。なかでも、南隣のいわき市には避難者が集中した。ふるさと・いわきへ、避難先へ足を運び、避難者の取材を重ねた。
 
 3・11後、シャプラニールは初めて国内支援に入り、いわきで交流スペース「ぶらっと」を開設・運営する。さらに他団体と連携して、まちの交流サロン「まざり~な」事業を展開した。
 
 昔からシャプラニールとかかわっていたので、「ぶらっと」の手伝いをし、「まざり~な」も引き受けた(わが家は米屋、カミサンが店を仕切っている)。早川さんは応急仮設住宅のほかに、「ぶらっと」やわが家などを取材した。
 
 カミサンは高校時代、早川さんのお父上(数学教師)に習った。数学はさっぱりわからなかった――そんな思い出を語った。早川さんは苦笑するしかなかった。
 
 早川さんの担当は教育と文化。10年前には「ダイヤルこだま」という、いわきの子どもの相談を受ける元教師のボランティア団体で講演している。タイトルは「こどもたちの心を受け止めるために」。その講演録を読んだ。前置きの部分でこんなことを言っていた。

「週刊こどもニュース」は、池上彰さんが「育ての親」だとすると、早川さんが「生みの親」だったという。企画・創設者が早川さんだった。

 それと、もうひとつ。解説委員には「書斎派」と「現場派」がいる。早川さんは現場派。「私はできるだけ現場に足を運んでいろんな人たちの話を聞き、そうした中で、いろんな人たちの声を聞く中で、バランスよく人に情報を伝えたい」ということを心がけていた。
 
 解説委員になっても、一記者の気持ちで走り回っていた。それが、しかし早い死につながったか。人の話にじっくり耳を傾ける温顔が思い浮かぶ。きょう(9月1日)が通夜、あしたが告別式だという。ふるさと・いわきから、合掌。

2017年8月31日木曜日

十字架は「光の鳥」(下)

 元・平聖ミカエル会衆の外壁に、鳥型の十字架を配した小屋風の出っ張りがある。十字架は二重に区切られた色違いのステンドグラスでできている。長方形のほかに、少しいびつで小さな方形が18個。外側の黄色い長方形は、内側では黄金色に見えたのではないか。 
 40年近く前の子どもの卒園式の写真を見てわかったのだが、この出っ張りの十字架がそのまま内部の礼拝堂の十字架になっていた=写真(写っている男性は園長さん)。外光がステンドグラスを通じて「輝く十字架」になる仕掛けだ。ふだんは厨子(ずし)のように板の引き戸で仕切られているのでわからなかった。
 
 この建物を設計したのはフランク・ロイド・ライトの弟子のアントニン・レーモンド(1888~1976年)、十字架その他の装飾を手がけたのは奥さんのノエミ(1889~1980年)ではないか――そう直感したのは、この十字架のかたちによる。

 アントニンが設計した東京女子大礼拝堂の祭壇、カトリック新発田教会や札幌聖ミカエル教会のステンドグラス(和紙の切り絵が張られている)、聖アンセルモ教会(カトリック目黒教会)の壁画レリーフなどは、ノエミがデザインしたという。かたちが斬新で、独創的だ。

 平聖ミカエル会衆の鳥型の十字架、しかも多彩なステンドグラスでできた「光の鳥」は、新発田教会などのデザインと重ね合わせてみると、いかにもノエミっぽい自由さがある。で、この十字架から、装飾・ノエミ→建築・アントニン、という逆の連想がはたらいた。

 幼稚園はもともと少人数で運営された。卒園児は、長男のときは18人だった。少子化の影響なのか、10年くらい前に閉鎖された。日本聖公会東北教区によれば、礼拝堂は平成27(2015)年3月28日、54年の歴史を閉じた。こちらも信者が少なかったのだろう

 きのう(8月30日)のブログ=フェイスブックへのコメントで、説教台の十字架が同じデザインだということ、その説教台は小名浜聖テモテ教会に移されたこともわかった。説教台の装飾も同じ鳥型の十字架とくれば、いよいよ平聖ミカエル会衆の装飾はノエミによるもの、と確信した。

 ついでながら、日本家屋を熟知する建築家は太平洋戦争で帰米したあと、軍の要請で油脂焼夷弾の爆撃実験のため、砂漠に実物そっくりの日本の下町の家並みをつくらされたという。結果として東京などの空襲の遠因をつくったと、レーモンドの下で働いた日本人建築家は記す。
 
 ついでのついでに、このブログの参考資料(いわき市立図書館所蔵の図書)を列記する。ただし、総合図書館の本から平聖ミカエル会衆がレーモンドの作品である証拠は得られなかった。小名浜の本はまだ読んでいない。いずれも21世紀に入ってから出版された。夫妻の再評価が進んでいるのだろう。

【総合図書館】①『自伝 アントニン・レーモンド』(鹿島出版会、2007年)②アントニン・レーモンド著/三沢浩訳『私と日本建築』(同、2003年第11刷)③三沢浩著『A・レーモンドの建築詳細』(彰国社、2005年)④神奈川県立近代美術館編『建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド』日本展図録(2007年)
【小名浜図書館】三沢浩著『おしゃれな住まい方――レーモンド夫妻のシンプルライフ』(王国社、2012年)

2017年8月30日水曜日

十字架は「光の鳥」(上)

 その建物はフランク・ロイド・ライトの弟子が設計した、という情報に接したのはつい最近。教会兼幼稚園だった。今は個人宅になっている。
 いわき市平字六軒門の元・聖ミカエル幼稚園。およそ40年前、子どもが通ったところだ。運営母体は日本聖公会。礼拝堂を園舎に利用していた。

 小規模園なので、保護者が送迎した。朝は出勤時間に合わせて近所の子も乗せて送り届ける。帰りは近所の子の母親が迎えに行ってくれた。土曜日は休み。代わりに、日曜礼拝があった。朝、子どもを送り届ける。その足で近所に住む画家松田松雄宅に寄り、NHK教育テレビ(現Eテレ)の日曜美術館を見る。終わるころ迎えに行く。松田の子も同じ幼稚園に通っていた。

 園舎(教会)は住宅地の奥にあった。車では入れない。表の通りで車を止め、「さあ、行ってこい」と送り出す。園舎に入るのは運動会のときくらいだった。園庭をはさんで西から北へと、L字型に平屋の建物があった。「洋」なのに「和」のにおいがする――その程度の印象しかなかった。

 日本聖公会といえば、大正時代、磐城平で牧師として布教活動をした土田八九十(はくじゅう=詩人山村暮鳥)がいる。山村暮鳥については少し知っているが、土田八九十についてはほとんど知らない。その流れをくむ教会兼幼稚園だ。

 昭和54(1979)年に創刊された平聖ミカエル会衆の機関紙「ミカエルの園」に、簡単な沿革が記されている。それによると、常磐線開通後、水戸からキリスト教の伝道が行われ、明治36(1903)年に平に講義所が開設された。その後、湯本に礼拝堂兼幼稚園が建てられる。
 
 平の施設は「聖オーガスチン教会」「平聖ミカエル海岸教会」などと名を変えた。戦後の昭和24(1949)年、小名浜での伝道が開始されると、小名浜の教会(聖テモテ)に加わることになり、平の敷地が売却された。やがて、「平にも教会を」という声が強まり、同36(1961)年、現在地に礼拝堂兼幼稚園の建物がつくられた。
 
 この建物を設計したのがライトの弟子ということになる。「ライトの弟子」を手がかりに検索してたどりついたのは(確定ではない)、アントニン・レーモンドという建築家だった。奥さんのノエミも十字架その他、建物内外の装飾・デザインに協力している。
 
 レーモンドは「帝国ホテル」の設計のために師匠のライトと共に来日し、独立後も太平洋戦争期をのぞいて日本で仕事をした。各地に優れた作品を残している。多くの教会も設計した。
 
 カミサンが撮った平聖ミカエル会衆の外観写真を見て、初めて十字架が斬新なデザインだったことを知る=写真。教会関係者によると、鳥をイメージしたものだろう、という。それがヒントになった。
 
 この10日余り、レーモンド夫妻関係の本をパラパラやりながら“確信”したことがある。十字架は「光の鳥」。そんな斬新なデザインができるのはレーモンドの奥さんのノエミしかいない。ゆえに、建物の設計はアントニン、ということになる。物証はない。十字架はノエミ作――という“確信”については、あした。

2017年8月29日火曜日

虫の顔

 夜更けまで蚊取り線香を焚きながら、玄関と茶の間の戸を開けている。宵になると庭でコオロギが鳴きはじめる。飛び込んで来る虫もいる。
 先日は夜10時前、晩酌を終えてノートパソコンを開いていたら、ショウリョウバッタが飛んで来てふたの角に止まった。いつもそばにデジタルカメラを置いている。カメラを近づけても動かない。珍しく簡単に接写ができた。

 撮影データをパソコンに取り込んで拡大した。なんという馬面=写真。頭と顔を構成している触角・複眼・口・脚がよくわかる。肉眼ではわからない単眼(複眼のすぐ上にある小さな白い点)も。異様なかたちでもじっと見ていると、だんだんいとおしくなってくる。デジカメの強みがこれだろう。
 
 アマガエルもハエトリグモもそうだった。真正面の写真を拡大すると、愛敬がある。カナチョロ(カナヘビ)は、横顔だけ見ると蛇と変わらない。恐竜顔でもある。
 
 月遅れ盆を境に、8月前半は夜、カブトムシの雌が迷い込み、後半の昼にはキアゲハが現れた。
 
 きのう(8月28日)は昼前、アオスジアゲハが家と庭の間を行ったり来たりした。花らしい花はひとつ、フヨウが咲き出しただけ。タカサゴユリは半分開花したところを切り花にして茶の間に飾った。これに引き寄せられたか。いやいや、そうではあるまい。顔を向けたらすぐUターンした。カメラを手にする暇もなかった。黒い翅の中央にある、鮮やかな青緑色の帯(アオスジ)が今も目に残っている。

 ――6時2分。突然、防災ラジオにスイッチが入った。テレビ画面からは「ミサイル発射」の情報が。空襲警報ではないか。

2017年8月28日月曜日

市民体育祭

「曇りときどき晴れ男(女)」が多かったらしい。きのう(8月27日)の神谷(かべや)地区市民体育祭=写真(幼稚園児のスカイバルーン)=は、曇りときどき薄日か晴れ、終わって大抽選会は快晴――と、いいあんばいの天気になった。
 個人・団体合わせて17のプログラムが用意された。神谷地区(旧神谷村)は新旧国道を軸にした市街地と郊外の8つの行政区からなる。団体は8行政区の地区対抗戦だ。こちらは予選を含めて9プログラムが行われた。種目としては安全運転(一輪車にフットベースボール?を数個乗せて運ぶ)・綱引き・玉入れ・リレーの四つ。

 わが区は、実力としては総合3位か4位レベル。安全運転では4位、綱引きは最強チームが相手で初戦敗退、玉入れで3位、リレー予選で2位と、リレー決勝を残す時点では「参加することに意義がある」成績(総合3位)だった。ところが、最後のプログラム・リレー決勝で1位になり、思わぬ準優勝のトロフィーを手にした。近年になく反省会が盛り上がった。
 
 区の役員は出場選手をサポートするのが役目だが、予定していたメンバーが1人欠けたため、綱引きに駆り出された。相手は綱引き常勝のチーム。号砲が鳴った瞬間、ズルズル引っ張られた。力を出しきるどころではなかった。
 
 相手チームは去年(2016年)、総合優勝をしている。少子・高齢化の典型のような農村部の区だが、急に底力が付いたような印象がある。今年も総合優勝を果たした。
 
 今年で43回目の体育祭だが、種目によっては先行き不透明なものがある。今年初めて、農村部の別の区がリレー出場を見送った。個人の100メートル走(小1~3年生)・150メートル走(小4~6年生)も、6回の予定が3回で終わった。少子化の影響は、こういうところに真っ先にあらわれる。種目の見直しが必要な時代になった。

2017年8月27日日曜日

雲のかたち

 きょう(8月27日)は晴れ、小名浜では最高気温28度の予報だ。朝6時、花火が2発打ち上げられた。地区体育祭が予定通り行われる。熱中症のことを考えれば、曇りくらいがちょうどいいのだが――。
 屋外でのイベントは、雨が大敵。天候不順が続く今年(2017年)の夏は、主催者は気がもめてしかたがなかったろう。

 例年なら太平洋高気圧が張り出して梅雨が明け、炎暑がやってくるのに、今年(2017年)はオホーツク海高気圧の勢力が強まり、北東の風が吹き込んで曇雨天続きの冷夏になった。

 いわきの大きなイベントは、それでも中止になることはなかった。平地区では七夕まつり、夏井川流灯花火大会が無事終わった。身近なところでは、月遅れ盆の精霊送りも。

 8月16日朝の精霊送りは、行政区が主催する。そのための準備が何日か前に始まる。斎場用に4本の竹と杉の葉、ホオズキを調達する。前日には集積所の草刈りをして、斎場をつくらないといけない。そして、当日早朝。区の役員が当番でお盆様を斎場に積み上げる。天気を気にしながらの準備だったが、タイミングよく雨がやんでくれた。
 
 ぐずついた天気が回復に向かうなか、きのうは朝に一時、強い雨が降った。午後には太陽が顔を出した。そのころ、各地区の役員さんらが出て、体育祭のテント組み立て、テーブル・いす出しをした。いっぱい汗をかいた。
 
 夕焼け雲がきれいだったらしい。フェイスブックに何枚も写真が投稿されていた。朝も不気味なくらいに空の雲のかたちが変わった。朝日が昇ったと思ったら、間もなく西から水銀色の雲に覆われた。にわか雨の予報に2階の窓を閉めに行ったら、驚いた。地上の人間が巨大な生きものの消化器の中にいるような感じを受けた=写真。消化器のひだひだが下から照らされて光っていた。
 
 きょうは雨の不安はないが、熱中症の心配がある。「雨男」「雨女」でも、「晴れ男」「晴れ女」でもない、「曇り男」「曇り女」がいないものか――とあらぬことを考えつつ、これから会場の小学校へ向かう。

2017年8月26日土曜日

ちたけうどん

 夏キノコのチチタケは、そのまま刻んで味噌汁に入れてもボソボソしてうまくない。ところが、栃木県ではチチタケがマツタケ以上に珍重される。「ちたけうどん」「ちたけそば」にして食べるのだという。なぜまずいキノコが、だれもが焦がれる味になるのか――。
 インターネットが普及する前、いわきキノコ同好会の仲間が栃木県へ出かけて、ちたけうどんを食べながら“秘密”を探った。秘密なんてなかった。まずは油で炒める。それだけだった。今はネット上に作り方があふれている。
 
 チチタケを細かく裂いて、刻んだナスと一緒に中華鍋で炒め、醤油で濃い目に味付けをする。そのあと、水を足して煮る。みりんや酒、砂糖を入れ、さらに醤油で味を調える。これで基本のスープができあがる。大根やニンジンが入れば、けんちん風味になる。
 
 油で炒めることでチチタケのうまみ成分が発揮される。チチタケ自身がいい出汁(だし)を出す。なぜそうなるのかは専門家に聞くしかない。が、炒める・炒めない、で味が激変する。同好会の仲間に、あっという間にちたけうどんの調理法が広まった。

 去年(2016年)夏、ロシアのサハリン(樺太)とシベリア大陸(ウラジオストク・ナホトカ)を旅した。あすは帰国という晩、ウラジオの街で夕食をとった。キノコスープが出てきた。マッシュルームが主体らしかったが、ちたけうどんのスープに似た味だった。
 
 それよりずっと前、“孫”の母親がカナダ人女性を連れて来たことがある。たまたまチチタケを採り、スープをつくっておいたので、ちたけうどんを振る舞った。「ジャパニーズヌードル」に舌鼓を打った。少なくとも、ちたけうどんは国境を超える味のようだ。

 ところが、原発事故以来、これを口にしたことがない。調理法を忘れてしまいそうだ。というわけで、先日、チチタケ2個でつくってみた。手元にあったナス1個を使っただけで、酒・みりん、大根・ニンジンなどは省略した。熱々のつけ麺にして、ミョウガを散らした=写真。十分にちたけうどんのスープの味だった。
 
 野生キノコは依然、摂取も出荷もできない。キノコの食文化を残すためにも、作り方だけはときどきおさらいしておかないと――。

2017年8月25日金曜日

トトロの木

 小・中学校はきょう(8月25日)から2学期。朝7時すぎには集団登校の子どもたちが家の前を通る。今年(2017年)は「日焼けした子ども」はいても少ないに違いない。曇雨天続きの夏休み――外で遊び回っても日に焼ける時間はなかっただろう。
 2週間前の「山の日」、草野小絹谷分校の前を通って石森山へ出かけた。年に1~2回は分校の「トトロの木」=写真=を見ながら通る。8年ぶりにトトロを撮影した。

 トトロの木を知ったのは、上の孫が2歳ちょっとのとき。父親が車に乗せてよく石森山へ連れて行ったらしい。その行き帰りにでも分校の前を通って教えられたのだろう。父子の会話に「トトロ」が出てくる。石森山にトトロがいる? 車に同乗して見に行ったら、分校の校庭にある針葉樹のことだった。

 幹の枝が払われ、上部だけが動物に似せて刈り込まれていた。ミミズクとネコを重ね合わせたような顔だが、耳が立っている。目・鼻・ひげが飾り付けられている。まさにトトロだった。
 
 その孫が、今は小4だ。トトロの木もそれだけ年輪を重ねた。8年前の写真と比べると、少しふっくらしたようだ。カメラの角度が真正面でなかったせいもあるが、目が引っ込んで見える。耳もぼさぼさ、赤い鼻は色が落ちた。

 いわき市内では、分校は今やこの絹谷しかない。しかも、平地の田園地帯にある。住宅街の本校までは直線距離で3~4キロの間か。地理的には珍しい分校ではないだろうか。
 
 2階建ての木造校舎がなんともかわいい。その校舎にピッタリのトトロの木だ。子どもたちはトトロに送迎されながら4年生までここで学び、5年生になると本校へ通うようになる。孫は本校の4年生。来年はもしかしたら分校出身の同級生ができるかもしれない。トトロの木が両者をつないでくれるといい。
 
 8年前のきょう、拙ブログでトトロの木を取り上げた。「今日(8月25日)から2学期。分校の『トトロ』はわくわくしながら子どもたちを迎えたことだろう」なんて書いていた。少し年をとったトトロは、きょうもわくわくして分校生を待っているにちがいない。

2017年8月24日木曜日

旅するタカサゴユリ

 いわきでは、月遅れ盆が終わるころから目立つようになる。場所によっては密集して咲く。台湾原産の帰化植物・タカサゴユリ、あるいはタカサゴユリとテッポウユリのハイブリッド(交雑種)、シンテッポウユリだ。
 山を削って道路ができる。と、8月中旬以降、切り通しに白い花が咲き出す。その数がハンパではない。わが生活圏では平・草野の農免道路、常磐道、国道6号常磐バイパス。最近では近所の道端、側溝、住宅の庭や生け垣でも見られるようになった。

 ある意味では侵略的な植物だ。見つけたら抜き取り・刈り取りをするのが基本だが、つい白花の清楚さに惑わされて見守ってしまう。すると、花が咲いたあとにものすごい数の種が風に飛ばされ、あちこちで根づき、花が咲いてまたものすごい数の種を散らす。そうして日本列島を北上しつつあるのだろう。福島を通り越して宮城県まで分布の範囲を広げている。

 タカサゴユリの白花に気づいたのはおよそ30年前。10年ほどたってから、旧知の植物研究者に確かめたら、いわき市の帰化植物について記した文章のコピーが届いた。やはり、30年前から急激に増え始めたという。

「タカサゴユリは8月の下旬頃から9月にかけて開花する。翼を持つ種が風にのって多数飛散し増え続け、飛んできた種子が根をおろして球根を形成し何年もその場所で咲き続ける。広範囲に一斉に開花し見事な景観を呈する」

 今は「何年もその場所で咲き続ける」意味が少しわかってきた。「何年かはそこで咲き続けるが、やがては姿を消す」ということでもある。平・草野の農免道路の切り通しでは、今はほんの少ししか見られない。“連作障害”が起きて、球根が枯死するらしい。そのころには木々や在来の草も茂るから、新しい種が飛んできても根づく環境ではなくなっているのだろう。「旅するユリ」といわれているそうだ。

 わが家でも、去年(2016年)、生け垣のたもとにタカサゴユリが芽生え、花を咲かせた。今年も同じところから芽を出した。間もなく開花する。ほかのタカサゴユリは地べたから30センチくらいのところで咲いているのもあるが、わが家のタカサゴユリは背が高い。九つあるてっぺんの蕾=写真=まで2メートル30センチはある。花が咲いたらすぐ切って部屋に飾り、しおれたらごみ袋に入れて始末する。

2017年8月23日水曜日

いわきキッズミュージアム

 日曜日(8月20日)は昼前、半分カミサンのお供(運転手)でいわき市暮らしの伝承郷へ出かけた。「いわきキッズミュージアム」が開かれていた。前日は常磐の市考古資料館で同題のイベントが開かれた。両日とも滋賀県の滋賀絆アート支援プロジェクト実行委員会などが協力した。
 伝承郷では、民家ゾーンで「竹で遊ぼう」「消しゴム版画でエコバッグ作り」「プラ金魚すくい」などが行われた。これに「滋賀の夏まつり」が同時開催された。同実行委などが流しそうめん、新潟のカレーライス・かき氷、関西のチヂミ焼きを提供したほか、滋賀の小中学生による和太鼓、新潟の子どもと大人のハンドベル演奏が行われた。

 滋賀県は、東日本大震災後、さまざまな被災地支援事業を展開した。いわきの考古資料館・暮らしの伝承郷へも、同実行委が2011年から支援を続けている。伝承郷では今年(2017年)、2年ぶりに協力が復活した。

 3年前、孫2人と伝承郷で合流し、同ミュージアムのイベントを楽しんだ。孫は流しそうめんの列に加わり、母親と竹細工に興じた。親子、祖父母・孫交流のいい機会になった。

 スタッフやボランティアのTシャツ=写真=に見覚えがあった。手と手が親指でがっちり組み合い、親指が鳥の頭になって四つ葉のクローバーをくわえている。その下にはアルファベットで「いわき 滋賀/キッズミュージアム」の文字。希望を持ってはばたこう、ともに――といったところか。
 
 この夏はなにかと「滋賀」が目に入ってきた。今年の「みやぎ総文」(全国高校総合文化祭)では、滋賀の彦根東高校新聞部が10年連続最優秀賞を受賞した。震災後は福島県をエリアに毎年、取材を続けている。同校硬式野球部も甲子園に出場し、初戦を突破した。直接関係はないのだが、同級生が滋賀にある大手企業の子会社で社長をしていたことまで思い出した。
 
 滋賀絆アート支援プロジェクト実行委員会の粘り強い活動のおかげで滋賀が少し近くなった。

2017年8月22日火曜日

曲がったキュウリ

 ほんとうは、今が次々と実をつけるはずなのに、あらかた葉がとろけてしまった。これでは光合成など無理ではないか――夏井川渓谷の隠居の庭で栽培している「夏キュウリ」のことだ。
 最初、キュウリの苗2本を植えた。花が咲き出したころ、整枝をしているうちに間違って1本の茎を根元から切ってしまった。あとで夏キュウリの苗2本を補充した。7月は順調に育ち、最初に植えた苗がたくさん実をつけた。次は夏キュウリの番と期待したのだが……。

 8月2日に平年より遅く東北地方の梅雨が明けた。ところがそのあと、“第二の梅雨”が始まったような天候不順が続いている。終わりのキュウリは曲がる。夏キュウリは最初から曲がっている=写真。茎は細いまま。葉はすぐ黄ばむうえに、幽霊の「うらめしや」のようにしおれる。日照不足と雨と低温で“風邪”を引いてしまったか。これといった収穫もないうちに夏キュウリは命を終えるのか。

 地球温暖化という大きな現象のなかには、地域の異変ともいうべき小さな現象がいっぱい詰まっている。典型は滝の氷だ。隠居の対岸に「木守の滝」がある。今は厳寒期でも完全に凍結することがない。この何年かは天然氷を回収して冷凍庫に保存し、夏にオンザロックを楽しむこともなくなった。台風や低気圧が凶暴化して被害を大きくしているのもそうだろう。
 
「青空に入道雲」の8月はどこへ行ったのか。そろそろ青空が戻ってきてくれないと困る。今週末から秋の行事が始まる。まず体育祭が待っている(けさは一時的なようだが、太陽が顔を出した)。

 キュウリはたぶん、もう終わり。次は、秋~冬用の野菜の種まきだ。日曜日(8月20日)、隠居の庭で辛み大根の自然発芽を期待して草刈りをし、光が当たるようにした。カブの種をまくスペースも確保して石灰をまいた。

 けさは朝一番で甕に入っている古漬けのキュウリを取り出し、塩をまぶして漬けなおした。あとから入れたためにまだ水分の抜けきらないものがある。結構な量になっていた。もやもやした気分を引きずっても仕方がない、これでよしとしよう。

2017年8月21日月曜日

伝承郷のキノコたち

 きのう(8月20日)の夜は、平で夏井川流灯花火大会が開かれた。日曜日なので、カツオの刺し身をつつきながら「遠花火」で一杯――をもくろんだが、なぜか花火の音が聞こえなかった。耳が遠くなったらしい。代わりに晩酌のあと、フェイスブック友の動画と写真で現場の雰囲気を味わった。
 このごろ、日曜日が忙しい。午前中は私、午後はカミサンに合わせて動くことが増えた。

 きのうは、朝、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをした。2時間もすると、カミサンが「さあ行こう」という。前夜、いわき市暮らしの伝承郷へ行くか、隠居へ行くかで意見が分かれた。「伝承郷にはタマゴタケが出るよ」。朝、隠居で土いじりをしたらすぐ伝承郷へ行くことで話がついた。

 伝承郷へは午前11時半ごろ着いた。「いわきキッズミュージアム」というイベントが開催中で、無料のカレーライス、かき氷のテントには長い列ができていた。カミサンは伝承郷の事業懇談会委員をしている。なにか手伝うことがあればと、エプロンを持参したようだった。

 私は、イベントのことはすっかり忘れていた。前夜、晩酌のときにいわれたらしいが、民家ゾーンにある“里山”(雑木林)のキノコのことしか頭に残っていなかった。
 
 カレーライスを食べたあと、カメラを持って林の中に足を踏み入れた。日照不足・低温・雨のために、夏キノコがあちこちに顔を出していた。すでにとろけて黒くなったものがいっぱいある。
 
 チチタケ(食菌)が迎えてくれた。木の切り株からはナラタケモドキ(食菌)が生えていた=写真。テングタケ幼菌、ドクベニタケ、イグチ系の幼菌、ノウタケ幼菌、民家の山岸にはカワリハツ。100メートルちょっとの、ゆるやかな尾根道をひと巡りしたあとに、黒くバくされていたキノコを想像する。ナラタケモドキではなかったろうか。
 
 伝承郷の里山には、秋は入ったことがない。夏だけの印象でいうと、「タマゴタケが出る山」だ。タマゴタケはなかったが、毒々しい血の色をしたチシオハツがあった。
 
 振り返れば、流灯花火大会で人間の夏が終わり、ナラタケモドキがとろけてキノコの秋が始まった、というところか。そしてきょう、8月21日は「福島県民の日」。けさの新聞が星空の写真でラッピングされていたのでわかった。

2017年8月20日日曜日

文苑ひだ

 江戸時代、幕府の代官として名を残した人物に中井清太夫がいる。甲斐国(山梨県)の上飯田や甲府、石和・谷村の代官を務め、飢饉対策としてジャガイモを導入した。幕領・小名浜に転じてからも、ジャガイモの栽培を奨励した。当地でジャガイモのことを「セイダユウイモ」とか「セイダイモ」と呼ぶのは、この事績による。飛騨高山では「センダイイモ」と、少し音が変化する。
「文苑ひだ」第13号(1960年創刊、通巻96号)=写真。岐阜県高山市で年2回発行されている総合文芸誌だ。いわき市の例でいうと、今年(2017年)終刊した「うえいぶ」の先行誌「6号線」に似る。月刊「文藝春秋」がお手本らしい。

 高山出身でいわき在住の「文苑ひだ」同人、峠順治さんから恵贈にあずかった。峠さんの調査レポート「ジャガイモ考――いわきの方言にも『センダイイモ』があったよ――」が載る。12ページに及ぶ力作だ。

 高山周辺の年配者は今もジャガイモを「センダイイモ」と呼ぶ。江戸時代の代官(幸田善太夫説と中井清太夫説がある)が導入したとされる。峠さんの友人が生前、同誌第5号に「センダイイモ」という方言は中井清太夫に由来するものだと書いた。

「いわきにもセンダイイモという方言があるんじゃないの」。友人の電話を受けて峠さんの探策が始まった。原産地アンデスのインカ帝国~西欧~日本への伝播の流れを追い、中井清太夫の事績を調べ、ジャガイモの方言分布を可視化した。
 
 峠レポートから、日本へのジャガイモ伝播ルートは南方だけでなく、シベリア~樺太(サハリン)~北海道の北方説があることを知る。
 
 いわきの資料では、中井代官由来の「セエダエモ」だけで、「センダイイモ」は見当たらなかった。ところが、『日本植物方言集成』(八坂書店)に、「センダイイモ」に近い「センダイモ」がいわきの方言としてあった。「『センダイモ』という呼称は、石城(浜通り南部)即ち幕領小名浜地区で流布していたと思われる」と、峠さんは書く。
 
 峠さんがまとめたセンダイイモ系の方言分布のうち、福島浜通りが該当するものは三つ。①セイダ/セーダ/アカセイダ/アカセーダ=福島浜通り・東京・神奈川・山梨②セイダイモ/セイダエモ=福島浜通り・東京・神奈川・山梨③センダイイモ/センダイモ=福島浜通り・新潟・岐阜――。
 
 いわきの方言探索の結果、峠さんは、高山の「センダイイモ」は幸田善太夫ではなく中井清太夫に由来するとした亡き畏友の説に近づけた、と締めくくっている。
 
 そうそう、ついでながらいわきと高山ということでいえば、かつていわき市は日本一の広域都市だった。「平成の大合併」が行われた今は、高山市が日本一の広域都市だ。中井清太夫・ジャガイモ・日本一をキーワードにした市民交流があってもいいか。