夏井川渓谷の隠居の隣は電力会社の社宅跡だ。駐車場を兼ねた広場になっている。谷寄りの南東隅、隠居との境に大きなモミの木がそびえている=写真。木の下に行くと、決まって田村隆一の詩を思い出す。震災と前後するように河出書房新社から『田村隆一全集』(全6巻)が刊行された。総合図書館から借りて読んだ『全集2』のなかに「木」が入っていた。
木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか
見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空にむかって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない
若木
老樹
ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光りのなかで
目ざめている木はない
木
ぼくはきみのことが大好きだ
隠居の対岸に水力発電所がある。昔は何家族かが社宅に住んで、発電所の保守点検、維持補修などをしていたのだろう。V字谷のなかでもゆるやかな斜面を削り、石垣を組んでならし、社宅が建てられた。おそらく一番谷寄りの家の主がモミの苗木を植えたのだ。
石垣の下の道を通るたびに、空に沈むように伸びているモミの木を見上げる。森のなかの巨樹と違って、広場でひとり孤独を楽しんでいる。そう感じられるようになったのは、田村隆一の「木」を知ってからだ。木の愛と正義に関する詩人一流の「へ理屈」にうなってからだ。
思えば、原発事故では多くの家の庭木が伐採された。わが生活圏だけでも、街への往復のたびに目にした国道6号沿いの「塩の大ケヤキ」が消えた。近所のカキの木が消えた。街なかの知人の庭のケヤキも消えた。狂暴化した台風・低気圧の影響もあるが、原発事故が追い撃ちをかけた。見る人が見たら、森の木々も原発事故をうらみ、嘆き、のろっている。
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