いわき市小川町の国府田英二さんから、新聞連載エッセーをベースにした冊子『昔のおがわ 今のおがわ』をちょうだいした。
国府田さんは、いわき民報の長期連載企画「昔のいわき 今のいわき」の執筆者のひとりで、今年(2016年)3月に一区切りつけるまで、100回ほどを担当した。そのなかから小川町関係(といっても大半なのだが)82回分を一冊にまとめた。「いわき市市制施行50年を記念して」と冠が付いている。今年92歳の元市職員として、いわきの歩みを祝う気持ちがあふれている。
昨年は、誕生から結婚までの自分史を冊子『昭和の子ども』にまとめ、今年のいわき民報ふるさと出版文化賞特別賞を受賞した。老いてなお執筆・出版を続けるエネルギーには舌を巻く。
近著は、いわき市内でブームになりつつある、旧市町村単位の「好間学」「内郷学」「常磐学」などと同様、「小川学」のテキスト(新旧写真による小川の近代史)になりうるものだ。
ここでは、セメント原料の頁岩(けつがん)運搬ケーブル=写真=にしぼって書く。中心市街地の平から国道399号を北上して小川町下小川へ入ると、右手の山側から磐越東線小川郷駅へと、頭上を運搬ケーブルが横断していた。空中をモノが移動する――いわきではたぶん、小川のそこでしか見られない光景だった。
なぜ、小川に運搬ケーブルがあったのか。国府田さんのエッセーによると、セメントの原料になる頁岩が平・平窪~小川・下小川の地下に眠っていた。磐城セメントがこれを掘り出して駅へ運び、貨車で田村工場と四倉工場へ輸送した。駅のわきには、そのための巨大な構造物があった。
ついでだが、頁岩採掘の名残りか、上平窪地内の県道小野四倉沿いに産業遺産(ホッパー)がある。コンクリート造り、独特の箱型デザイン。写真家や絵描きが見たら放っておかないはずだが、まだそれらしい作品にお目にかかったことはない。
ざっと40年前、子どもが生まれたあと、日曜日になると故義父の建てた夏井川渓谷の隠居へよく出かけた。子どもたちも次第に運搬ケーブルに興味を抱くようになった。
運搬ケーブルが動き出したのは昭和38(1963)年。高度経済成長が続き、所得倍増政策が進行しつつあるときだ。ウィキペディアによれば、その年、磐城セメンントは「住友セメント」に社名を変更した。23年後の昭和61年には四倉工場が、さらにその14年後の平成12(2000)年には田村工場が閉鎖される。運搬方法も車に替わった。ケーブルは意外と短命だったようだ。
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