「16ミリフィルムが映す昭和11年のいわき」と題する上映会がきのう(7月3日)、いわき市平・三町目のもりたか屋で開かれた。NPO法人ワンダーグラウンド16ミリフィルム上映委員会が主催した。40人ほどが参加した。
撮影者は、旧相互銀行の前身・無尽会社の四倉支店長だった人で、半世紀ほどたって家を一部、改築したときにモノクロフィルム=写真=が出てきたそうだ。忘れられたままだったが、フィルムそのものはそう傷んでいなかった。
そのフィルムを最近、四倉の若い知人が所有者の許可を得てデジタル化した。さらに公開・活用の同意を得て、去年(2015年)11月19日、四倉商工会館でデジタル化完成試写会を開いた。映像そのものは無編集で、音声も字幕もない、知人の生ナレーションだけ。今回は映像をピックアップして字幕と音楽を加えた。「見る・読む・聞く」の三感で受け止めたが、音は少し絞ってもよかった。
7カ月半前の試写会で印象に残ったシーンがある。今回もやはり同じシーンが目に留まった。白・黒・白と黒いバンドエイドをした一本指のような塩屋埼灯台。植田の町並みの上にはためくこいのぼり。豊間の回春園(現いわき病院)。平・松ケ岡公園に立つ、供出前の安藤信正像。同公園からの町並み。鉄筋コンクリート造りの大浦小と磐城セメント。
個人的な興味・関心でいうと、それぞれの映像を切り口にして文学的な論考や歴史的な物語を組み立てることができる。10人いれば10人が同じ映像から違った情報を読み取ることができる。
例えば、塩屋埼灯台。山村暮鳥は大正時代の5年余を磐城平で過ごした。詩人はこの灯台を見て「岬に立てる一本の指」の比喩を得たとされる。この詩句から立ちのぼるのは純白のイメージだが、実際にはバンドエイドを巻いた「岬に立てる傷ついた一本の指」だ。暮鳥の内部で言葉の葛藤があったことだろう。
松ヶ岡公園から見える町並みのうち、最も手前の材木町や紺屋町は昭和20年の空襲で焼け野原になった。映像にあった初代信正像も戦争による金属供出で消えた。灯台も爆撃された――。
東日本大震災後、折に触れていわきの自然災害や戦争・銃後の暮らしを調べている。安全・安心をキーワードにすると、同じ映像なのに違った感情がわいてくる。自爆テロ、あるいは空爆下にある中近東の市民にも思いが至る。
上映後に質疑応答が行われた。最後に以上のような「感想」を述べるつもりでいたのだが、一部しか話せなかった。
「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」。田村隆一の詩句にならえば、「<昨日>のいわきの映像はすこしも面白くないが/80年前の映像なら見せ物になる」。ただ、いわきのマチやハマはあっても、ヤマがなかった。もともと映像がなかったのだろう。個人的にはそれが残念だった。
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