2017年7月18日火曜日

いわきの花街

 平町(現いわき市平)にカフェーやバーが登場するのは、大正時代中期。好景気もあって、遊郭以外に新しい遊興を求める人間が周辺町村から平町に流入した、という。
 土曜日(7月15日)、いわき地域学會の第328回市民講座が市文化センターで開かれた。講師は小宅幸一幹事。「花街の盛衰(1)―明治・大正・昭和の夜を華やかに彩った女性たち」と題し、明治41(1908)年、平町に設置された「貸座敷」(遊郭)の歴史を中心に話した=写真。サブタイトルが珍しく「カストリ雑誌」風だ。

 カフェーやバーといった新商売の話に引かれた。昭和7(1932)年ごろ、欲望を抑えきれない農家の若者の話が新聞記事になった。あとで、小宅さんが紹介した同年8月30日付磐城時報に当たる。

 平町に隣接する平窪村(現いわき平・平窪)は農産物の生産・供給地。農家の青年がリヤカーに野菜を積んで町へ売りに出かけたのはいいが……。

 持ち帰る現金が、野菜の量に比べて少ない。青年は「不景気で売値がめっぽう安い」と言い訳をする。実際には「連夜カフェーで白粉(おしろい)臭いサービスにうつつをぬかし」ていた。「甚(はなはだ)しいのは飲み代(しろ)がはりに胡瓜(きゅうり)、茄子(なす)、南瓜(かぼちゃ)を、カフェーにあづけ、そのカフェーは翌日にその附近に販賣してゐるものさひ(え)あ」った。
 
 同時代のエピソードを思い出した。好間の菊竹山で妻とともに開拓小作農業を営んでいた詩人三野混沌(吉野義也)が、収穫した小麦を町に売りに行く。持ち帰ったカネはわずか40銭。6円40銭で売れたのだが、6円で本(カンディンスキーの芸術論)を買ってしまったのだ。妻のせいは、この一件で経済観念のない夫に愛想をつかす。
 
 小宅さんの話に戻る。新聞記事かどうかは不明だが、昭和8(1933)年、平警察署は風紀取り締まりのために特別警察隊「新撰組」を結成した。目に余る事態に業を煮やしたのだろうが、特別チームが「新撰組」とは――。
 
 ついでに、小名浜の話を。小名浜には公認の「貸座席」はなかった。カフェーは昭和3(1928)年5月、中島南裏通りにオープンした「カスケード」が第一号だったとか。場所はどこなのだろう、「○×ランド」があるあたりか。

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