2017年7月9日日曜日

吉野せいの色紙

 吉野せい(1899~1977年)が亡くなって、今年(2017年)で40年。秋にはいわき市立草野心平記念文学館で「没後40年 吉野せい」展が開かれる。平成11(1999)年に「生誕百年記念―私は百姓女」展が開かれて以来、18年ぶりの開催になる。
 70歳を過ぎて書いた“百姓バッパ”の作品集『洟をたらした神』が大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞したのは昭和50(1975)年。本の生命力は今も衰えていない。加えて、本が出版されたときと、受賞時に記事を書いたこともあって、今もときどき『洟をたらした神』を手にする。
 
 地元の記者であれば知っておきたい人間の一人――という思いで、現役のころから研究資料や関連文献には目を通している。
 
 本人に確かめたかったことがいろいろある。『洟をたらした神』の時代は、大正から昭和40年代にまで及ぶ。記憶だけで書けるものではない。わが子の死をテーマにした「梨花」は日記に基づいて書かれた。ほかの作品にも、基になったメモやノートがあるのではないか。
 
 生誕百年記念展では、平の玉手匡子(きょうこ)さんが聞き手になって、せいの四男誠之(せいし)さんと対談している。その大要が文学館の“月報”(平成12年3月末発行)に載る。「私ら子どもから見ても、書くことが好きそうでした。夜中に起き出して、ちょっとしたメモや日記の様なものを書いていました」。このへんが手がかりになるように思う。
 
 同じ対談で紹介されているせいの色紙「怒を放し恕を握ろう」=写真=の読みも、確かめたかったことのひとつだ。玉手さんは「怒」を「怒り」と読んだ。すると、対句的表現で「恕」は「恕(ゆる)し」になるのではないか。月報ではしかし、「し」が抜けたまま「怒りを放し恕を握ろう」となっている。
 
 剛直で明晰なせいの文体は、どちらかというと男性的・漢語的。「怒り」や「恕し」といった和語的表現よりは、音読みの「怒(ど)を放し恕(じょ)を握ろう」も“誤読”とは言い切れないのではないか。こちらの語呂やリズムの方が、むしろせい的だ。
 
 この“せい語録”は、他人のためにはいろいろ尽くしても生活能力には欠ける夫・吉野義也(三野混沌)との確執から生まれた。が、最後は確執を超え、自分のかたくな心をも超えて、愛憎複合の果てにやってきた青空を思わせる。玉手さんに会ったら、読みを聞いてみよう。

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