平講義所は明治36(1903)年、今のいわき市平・紺屋町に開設された。2年後には新田町(しんたまち)に移転し、同39年2月の「平大火」で被災する。講義所のすぐ近くが火元だった。
暮鳥は赴任後、結婚する。講義所はあまりにも狭い。丘のふもとの平・才槌小路に家を借りて教会兼住まいにした。西隣は弁護士の新田目(あらため)善次郎宅。斜め向かい、坂道の角は清光堂書店才槌小路分店。この分店で生涯の友となる吉野義也(三野混沌)と出会う。暮鳥、混沌、清光堂書店、新田目家。いずれも興味の尽きない対象だ。
東日本大震災後の2013年1月、坂道を通ったら暮鳥の住んでいたところが更地になっていた。そこに最近、レストランがオープンした=写真。きのう(5月27日)、カミサンがいうのでランチを食べに行った。ここに暮鳥が住んでいた。彼はこうして隣の家を、坂道を眺めていたのか――そんな感慨がよぎった。
大正4年のあるとき。新田目家から煙が上がる。暮鳥は新聞(いはらき新聞?)の連載エッセーにこう書いた(文中に出てくる「玲子」は生まれて1年にも満たない長女。玲子は母親と一緒に水戸の祖父母の家へ「うまれて初めての旅」をした。娘にあてた手紙の形式をとる)。
「火事だ、火事だ。/びっくりして飛び出す。お隣りの弁護士の新田目さんの二階が、けむりをもかもか吐きだしてゐる。火事だあああ。火事だああ。/玲子。/(中略)昼日中、二時ごろのこととておもては見物のくろ山。そのなかでかはいさうに松子ちゃんも竹子ちゃんもとし子さんもそのとし子ちゃんをおんぶして傳(ねえや)さんも、泣いてゐる」
隣家の長女「松子ちゃん」はこのとき9歳。彼女たちはのちに、いずれも波乱に満ちた人生を送る。私家版『書簡集 人間にほふ――新田目家の1920~30年代』を編集した平田良氏はまえがきに、次のように書く。
「大正デモクラシーから昭和ファシズムのドン底へと向う不幸な時代の新田目家の人々」は、善次郎の義理の甥・鈴木安蔵(のちのマルクス法学・憲法学者、護憲運動のリーダー)、つまりいとこの強い影響を受けて「直寿、マツ、竹子、俊子の四兄妹が相次いで夫夫(それぞれ)の夫や妻ともども社会主義運動に参加し、否応なしに全家族が苦難を味わねばならなかった」
暮鳥の視点を加えると、暮鳥自身の、隣家の人々の“光跡”がさらに陰影を伴って見える。
2 件のコメント:
ということは、大正4年12月10日発行の詩集『聖三稜玻璃』に収められている詩、風景、いちめんの菜の花は、いわきで見たいちめんの菜の花だったのでしょうか……。
そのころの平は町はずれで菜の花が栽培されていたようです。暮鳥は、夏井川か好間川の近くでそれを見たのでしょうね。
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