2018年8月12日日曜日

戊辰戦争150年追悼法会

 旧磐城平藩士の子孫の集まり、「平安会」主催の戊辰戦争150年記念追悼法会(ほうえ)がきのう(8月11日)午前、藩主安藤家ゆかりの良善寺(平)で行われた。
 同会は毎年8月11日に同寺で戊辰戦争の戦没者を追悼する法要を営んでいる。今年(2018年)は同戦争から150年の節目の年に当たることから、歴史研究団体などにも声がかかり、いわき地域学會を代表して参加した。

 いわき市内では昨年から、戊辰戦争150年の関連企画として講演会や戦跡巡りなどのイベントが繰り広げられている。ときどき聴講し、出版された冊子を読み、巡検にも参加した。が、それでいわきの戊辰戦争の全容が頭に入ったわけではない。

 良善寺は、寺そのものも戦争の舞台になった。山門にそのときの弾痕が残っている。戦死者の墓もある。追悼法会では読経・焼香・主催者および来賓あいさつ・記念撮影のあと、墓参をした=写真上1。

 安藤家の墓のうしろに、「戊辰戦死者追福改葬浄地」があって、戦死者の墓がずらりと並んでいた。

 東日本大震災がおきた年の11月中旬、海外修学旅行を中止し、代わりに「震災復興支援の集い」の名目で、会津若松市の奥座敷・東山温泉でミニ同級会を開いた。夜の宴会に先立ち、鶴ヶ城と白虎隊の少年兵士が眠る飯盛山を見学して、会津の戊辰戦争に触れた。

良善寺の「浄地」は白虎隊の19人の墓域ほど広くはない。が、こちらは54人と戦没者が3倍近い。戊辰戦争の死者が眠るところ、という意味では、手あかにまみれた「聖地」より「浄地」ということばがふさわしい。

 この「浄地」に立つだけで、戊辰戦争の、いや戦争一般の本質が見えてくるような気がする。生が死へと瞬時に暗転する。死者の数だけ人生の、家族の崩壊がおきる。法会の「追悼の言葉」のなかで、平安会会長が「理不尽な侵略……」と述べた。ドキリとさせられた直後だけに、なおいっそう墓が身近に感じられた。

あとでネットで知ったのだが、「浄地」の一角に歌人天田愚庵の父親、天田平遊(本名・平太夫、平遊は隠居名。戊辰戦争時、妻、娘とともに行方不明になった)の墓もあった。
墓参のあとは本堂前の庭で、泉崎青年会によるじゃんがら念仏踊りが奉納された=写真上2。同踊りは、青年会が月遅れ盆に新盆家庭を巡って披露するいわき地方独特の伝統芸能だ。お盆直前の奉納だったが、これには「勝ち組」も「負け組」もない、死者をあまねく追悼するのだというメッセージが込められているように感じた。

最後に、これは素朴なギモンなのだが。毎年8月11日に法要を営んでいるのは、その日が「平城落城の日」だからだという。元ブンヤの悪いクセで、平城が落城した戊辰の年=1868年の陰暦7月13日をグレゴリオ暦(新暦)で確かめたら……。私の計算の見方、あるいは情報の取り方が間違っているのかもしれない。どなたか根拠をご教示願いたい。

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